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書窓の隙間
雑録・折りにふれて (4)

 


★2002.4.17 矢内原忠雄について

 「悲哀の人・矢内原忠雄」という題名の文章を書きおえた。彼の講演・聖書講義のいくつかをまとめた選集の解説である。締切を半月以上もすぎている。難儀をした。
 以下、特に後半部分は、全体をシェイプアップして規定の枚数に収めるために割愛された部分。ひとつの経験の実感として、ここに載せることにした。
 
 
 東京都文京区本郷、東京大学赤門わきにある学士会館文館で、毎月一度ささやかな聖書研究会がもたれている。「東大聖書研究会」と称する、溯れば矢内原忠雄にゆかりのある集会である。この会の世話をするようになって十数年になるが、かつて私もまたそこで育まれた。当時、集まりは三四郎池のほとりの山上会議所で催されたが、そこでは、顧問の杉山好先生から敗戦後復興された当時の研究会の様子をうかがう機会を得た。戦後、矢内原先生は、大学の要職を歴任されたため欠席がちであったけれど、いつもこの「孤児(みなしご)集会」を心にかけておられ、折々に尋ねてこられたこと。そんなとき、思いがけず「御前講義」をする羽目になり、杉山先生の緊張と冷や汗は並一通りではなかったとのこと。優しさにあふれた杉山先生のご様子からは想像がつかないほどに、矢内原先生は怖い方であられたようだ。矢内原先生の祈祷中に入室した者が、祈りの最中に入ってくるとは何事であるかと叱りつけられた、云々。そうした挿話のひとつひとつは、日々がまさに闘いであった矢内原忠雄の生涯を彷彿させ、身の引き締まる思いをおぼえた。
 指導者の交代とともに前の集会は解散するという、かつて無教会の集会の多くが採ってきた選択とはことなり、東大聖書研究会は今日まで引き継がれている。ただそれは、集会という形態の維持を第一としたものではなく、むしろ、そのつどの指導者や参加者によって、ともに聖書を学ぶことが主体的に選び取られ、担われてきた。代々の顧問、前田護郎先生にしても杉山好先生にしても、お考えは同じであったろう。私もそのような意味においてこの会に関わってきた。矢内原忠雄が昇天したとき十歳ほどであった私には、その人物に接した直接の経験はない。ただ、聖書についてのラジオ番組だったろうか、たまたまそれを耳にした母が(母は当時信徒ではなかった)語っている人は矢内原忠雄という偉い方なのだと教えてくれた。それが唯一の思い出である。そのような立場からというだけではなく、東大聖書研究会の今日の存立や周囲の状況を顧みるとき、矢内原忠雄の時代とは隔世の感を否めない。たとえば、矢内原忠雄のこのような厳しさの側面を、自分も含めて今日の若者たちが正面から受けとめることができるか。時にそんな思いに捉えられる。ただ、この原稿を書くにあたって、彼の初期の文章を読み返したりしていると、矢内原忠雄もはじめから預言者であったわけではないという事実に、あらためて感慨を覚えた。学生時代の、誠実な青年の告白。また、ベルリン留学時代の日記に示される、弱さをもふくめての人間らしさ。若き矢内原は、青年エレミアと同様、ひとの喜びや悲しみにともに響く繊細な心の持ち主であった。(ある意味で、今日の若者と何ら変わらない。)しかし、そのような素地から切り出され、神のことばを語る状況に独り立たされるとき、そこには峻厳な預言の語り手が現れる。エレミアと同様に、細やかな心ゆえにいっそう負いがたい神の言を託された者の、独特の悲哀の相が醸し出される。今日、彼の言葉に接するときに、何よりもこの点を心にとめておくべきであろう。  



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