絵本は現代を描けるか 
(現代絵本を訪ねて 4)
 

「英語教育」(大修館書店)2001年7月号
 
絵本のポストモダン
 絵本には「幸福な読書」のイメージがある。しかし絵本をとりまく現代社会が確とした価値観を失って混乱している以上、「幸福な」絵本も変わらざるをえない。
 このところ、確とした価値観=大きな物語を喪失した世界に対応する絵本が目立っているが、そんなポストモダンの絵本作家に、イギリスのアンソニー・ブラウン(1946〜)がいる。昨年度の国際アンデルセン賞受賞者で、熱烈なファンもいるかわりに、嫌いという人も多く、わかりにくくてグロテスクだという批判もある。比較的とっつきやすい『こしぬけウィリー』を見てみよう。
 
背中を丸めた主人公
 ウィリーは心やさしいシティボーイだが、突きとばされても自分があやまってしまうほど弱気で、いつも背中を丸めて歩いている。これではいけないと「きみも強くなれる」プログラムを実践。ボディビルや食事療法にはげんで、マッチョな肉体に変身する。ところが得意になって歩いていたら、柱に正面衝突してしまった。柱に向かって「Iユm sorry」とあやまっている姿は・・・、あれっ、以前と同じよわっちいウィリーだ!?
 はて、ウィリーに何が起こったのだろう? これってナンセンス? それとも肉体は変わっても心は変わらなかったということ? またはウィリーがたくましくなったのはウィリーの目にそう見えただけ?
 たぶん明確な答えは存在しない。この曖昧さ不鮮明こそがポストモダンのポストモダンであるゆえんなのだが、読みとり方は読者にゆだねられているというしかない。
 
様々な反応
 では実際にこの絵本を読んだ人たちは、どう反応するだろうか。十人十色の反応があるのだが、この絵本を最も愛好した読者と、最も嫌った読者の代表例をあげてみよう。
 コギャル読者(17歳女子)「ウィリーって、メッチャかわいい。ほらー、この顔見てえ。ウィリーはがんばったけど、ほんとは変わんなかったんだよ。でもさー、へんな筋肉マンになんなくて、よかったよね。この本、すっごくやすらげる。大好き。ねえ、ちょうだい」
 おじさん読者(40代男性)「この本は、あまりいい本ではないと思う。強くなってもいい気になると、得意の鼻をへし折られるぞ、ということが言いたいのだろうけれど、うまく伝わってこない。絵もグロテスクだし、子どもには向かないのではないか」
 
わからないテーマは探さない
 読み方が読者にゆだねられている以上、どんな読み方をしようと、原則的には自由だ。しかし、おじさん読者のようにテーマを探そうとすると、「よくわからない」絵本になってしまう。
 こういうタイプの絵本を楽しむためのコツというものがあって、コギャル読者はそれをよく知っているようだ。ここはひとつ、コギャル読者から学ぶとしよう。コツその1は、テーマを無理に考えようとしないこと。なぜならポストモダンの作家は、自分でもまだよくわからないことを描こうとしているからだ。
 テーマを探すかわりに、細部をジロジロながめて、笑うに限る。これがコツその2。カラーでないのが残念だが、さあ、図をジロジロ見てください。ボディビルを始めたウィリーだが、内股で、存在しない力こぶを作ろうとしているのが、まず笑える(コギャル読者に言わせると「きゃいん、かわいい」)。両隣の筋肉マンのゴリラのナルシスティックな表情が、これまたおかしい(同じく「うふ、エッチいところが、かわいい」)。肉体という表層にこだわるのは現代人の特徴だが、それへの皮肉もある。
 アンソニー・ブラウンは、細部にこまごまとした遊びを持ちこんで、まず自分が笑おうとする。細部の濃密さ、そこにあるユーモアこそが、何よりも彼の特徴なのだ。おじさん読者のように、教訓を読みとったって別に悪くはないのだが、おかしいところで笑ったほうが、とりあえずお得。
 そして細部で笑っていると、「背筋をピンと伸ばして生きなくたって、ま、いっか」という、宮台真司の言葉を借りれば「まったり」した作者の気分が伝わってくる。コツその3は、「まったり」ながめること。そうすると頭や肩のコリがほぐれて、またまたお得。
 
グロテスクが快感
 もうひとつのクレーム、グロテスクについてはどうだろうか。
 確かにアンソニー・ブラウンの絵はグロテスクなところがある。たとえばゴリラの過剰な筋肉が、過剰なリアリズムで描かれているところなど、きもち悪いでしょ? この独特な描出方法をハイパーリアルなタッチというのだが、ハイパーリアリズムには、描くことそのものにのめりこむ熱狂が感じられる。
 これはもう感覚の問題だから、好きずきとしかいいようがないのだが、私はこの「のめりこんで」ついにグロテスクになってしまうアンソニー・ブラウンの感性に、ひどくひきつけられる。この作家はゴリラが大好きで、ねんじゅうゴリラを登場させるが、ゴリラの微細な表情や、毛の一本一本を過剰に描写すること、そこにはいささか不健全な「のめりこむ」感覚があると思う。
 のめりこんで描かれた細部、ゴリラの毛の一本一本は、意味の世界を逸脱して、ゾワゾワと自立する。その自立した細部が、微妙に私たちの日常を「ずらし」「ゆらす」のだ。これが、ある読者にはグロテスク、別の読者には快感となる原因だろう。
 ところで大きな物語なきあと、あるのは細部と断片ばかりというのは、ポストモダンの解説どおりなのだが、アンソニー・ブラウンには根本にポジティブなエネルギーがあると思う。そのエネルギーは自分のなかに埋没することを避け、他者との関わりを求める。おかげでアンソニー・ブラウンは、のめりこむことはあっても、けっして退廃することはない。彼が、わくわくと次の作品を期待させるすぐれた絵本作家である要因は、この健全と不健全の拮抗にあるようだ。