鳥越神社へようこそ


 鳥越の里は蔵前通りと国道6号線(旧街道江戸通り)の概ね交わる辺りに所在し、昔より交通の便の良いところとして、発展してまいりました。
第二次世界対戦以前は職人さんが軒を並べて居住した、東京下町の一角として栄え、戦後は各種製造・卸問屋・商店が並ぶ町なみに変化を遂げ
ました。
又、この近隣の食を預かる商店街は、おかず横丁として人々にしたしまれ、戦後の下町の食文化・風俗を支えております。その横丁付近には、
まだ玄関先に植木鉢を沢山ならべ、朝顔や盆栽を楽しみに緑を大切に育てる家々も見られます。
   近年、都会のビル化・夜間人口の減少の波が押し寄せてまいりまして、その町の風景・人の変貌は著しく、その都会の町中に、一際樹木繁ら
せ、一三五〇年余の昔より此の辺りの移変を御見定めになられ、御守護申されます鳥越神社が祀られております。
 遡れば、鳥越と言う名も平安時代後期頃までは、白鳥村と称しておりました。御社は、此の村の小高く見晴らしの良い、白鳥山の山頂(現在
地)に、白鳥明神として奉祀されました。これが白雉二年(六五一年)五月のことで、景行天皇(人皇十二代)の皇子、日本武尊が東夷を御征
伐のときに、此の里へ暫く御駐在遊ばされ、人々は、御威徳を慕い尊びまつり、此の里の福徳円満・恒久平和を念願し、まつられた当社のはじ
まりとなっております。
   それでは何時頃より鳥越神社となったのでしょう。社伝より見られますのは、永承年間(一〇四六〜一〇五三年)の事となりますが、奥州安
部氏の反乱が当時の朝廷を震撼させました。そこで、当時武名の高い源 頼義・義家親子にさっそく鎮定するようにとの勅命がくだりました。
源親子は東国に向かいましたが、武蔵の大川(旧宮戸川・隅田川)の河口を越えることに大変苦しみました。その時、一羽の白鳥が飛んできて、
親子の目の前で川の浅瀬に下り立ち、そこならば、対岸に渡れる事を悟してくれました。そのおかげで、軍勢を無事対岸に渡すことに成功しま
した。八幡太郎義家公はこれ、白鳥明神の御加護であるにちがいないと、山頂の本社に参拝し、鳥越大明神の御社号を奉ったということであり
ます。以後、鳥越神社と称されるようになりました。
   また、社地の辺りは、鳥越の里と呼ばれました。

 文献の上で、鳥越という名称が確認されますのは、今より五〇〇年ほど前の室町時代の頃からです。『北國紀行』の文明十八年十二月二十三日
の条には、「隅田川のほとり鳥越といへる海村に 善教といへる翁あり かの宅に笠やどりして閑林にあがめ置きたる金光寺に在宿しはべり」
とあり、鳥越の里のお寺に林があることがわかります。
 明治の教科書に、お寺の屋根と神社の森、と言う言葉が載っているそうですが、お寺に大きな屋根と林があれば、神社にはもっと樹木の生い
茂った森があると、考えられます。そして当時の鳥越神社も、樹木の生い茂る森のなかに、あったとうかがえます。
 次に、『廻國雑記』には、「とりこえの里といへる所に行きくれて 暮れにけりやどりいずくと いそぐ日に なれも寝に行く 鳥越の里」
と詠まれておりますが、鳥がねぐらを求めて、鎮守の森に群がり、閑静な懐かしい気分にさせてくれます。
 また、鳥越の山の東南の方は、海(今の東京湾)に面した街道筋の海村で、村人達ちは海苔や、魚の漁に明暮れ、海の安全を鎮守様に祈願致
した事でしょう。

 徳川家康公が江戸城へ入城のさい、旗本達が入府する為の土地が必要となり、当社御手洗池であった、姫ヶ池(三味線堀)・埋立てられる事
となりました。『天正日記』天正十八年九月二十三日「鳥越の者出づる 姫ヶ池埋立ての事 それぞれ書き付け取り殿様に上げる」とあります。
 かくして鳥越の丘は、とり崩され、池は埋立てられ、その景観は、一変されました。次に、秀忠の時代、元和六年、隅田川の水上交通をはじ
め、諸々の交通の便に都合の良い為、幕府経済の中心地として注目され、幕府御用の米蔵を、建てる事となり、鳥越の丘の土壌は、更にとり崩
され、埋立て地は御蔵前の地名となりました。
 更に、家光の時代、正保二年浜町矢の倉建設に、鳥越の丘はとり崩され、完全に消滅してしまいました。この時、山の上の鳥越三所明神に移
転が命じられました。熱田神社は、山谷(新鳥越町)へ、榊神社は、堀田原へ移され、この頃より御本社近くは、元鳥越町と呼ばれる様になり
ました。この時御本社も、他に遷されそうになりましたが、日本武尊御駐在の、由緒あっての御鎮座地である事より、二代神主が、幕府に様々
に請願し、元地に残る事となり、その三社は、後々まで、鳥越三所明神と称えられました。この様に、江戸時代の社地にあっては、全く変って
しまい、古来よりの面影は消えてしまいました。

 鳥越神社のお祭りは、現在の町名では無く、旧町名・旧区画にて行われます。
その町名は、宮元・西三筋・三筋南・小島二東・小島二西・小島一・鳥一・二長町・柳北・浅四・柳二・浅三・東三筋・三桂・三筋北・阿部川
・栄久・菊屋橋・北松山・南松山・永住・七軒町・志ん猿の二十三町会です。
 当鳥越神社の例祭は、毎年六月九日に齋行され、現在では、九日に近い日曜日を渡御と定めております。
そして、そのお祭りを支えてまいりました、氏子の方々に、鳥越神社氏子十八ケ町睦会が、ございます。大正三年に、組織され、途中戦争の為、
散会されましたが、昭和二十四年に、復興され、今日までしきたりを守り、鳥越神社に御力を尽くされ、夜まつりを、もりたててまいりました。
   例祭は、鳥越神社氏子敬神会が主となり、委員会を組織し、渡御に関する委員は、十八ケ町睦会が受け持ちます。また、戦後すぐの渡御にお
いては、防空壕および残土山積のため、順路を各町内一方交通とし、可能条件は、三間以上の道路とし、順路図を作成したと、当時の委員のご
苦労が記録に残っております。
 関東大震災により、焼失した御本社御神輿は、昭和三年原形通り謹製されました。これが、鳥越の千貫神輿であります。

 近年では、各地方のお祭りも次第に盛んになって参りましたが、鳥越神社の夜まつり千貫御神輿の渡御も、その他ではありません。朝六時三
十分、発輿式を齋行、同五十分睦会員により、表鳥居三尺前にて、宮元に渡す。そして渡御順路にしたがって、各町次々に受け渡し、十一時半
ごろ駐輿、十八時半ごろ宮入道中のための整備に入ります。整備は、御神輿の点検や、弓張細提灯の取り付け、各町の高張提灯の準備等を行い、
宮入道中、定時になると、大祭渡御委員長の合図で、提灯に火入れを致します。ここからが、蔵前橋通りへ向っての、お待兼ねの、睦会による、
宮入出発となるわけであります。木遣の声を先頭に、手古舞いが勢揃い、御霊を御守りする神職も残りの道程の、九十九里より気持ちを引き締
め、無事の還御を祈念致します。
 神社前の大通りに入ると、いよいよクライマックスとなります。この闇夜に、ゆらゆらと揺れる提灯の明かり、氏子・崇敬者・観客の歓声の
中、少しづつその明かりも大きさを増して、神社へと近付いてまいります。この宮入の感動は、体で見て体験してみなければ、言い表わし様の
ない光景です。そして、一度体験すると何故かまた経験してみたくなる、不思議な気持ちにさえなります。これは万民和楽・恒久平和を願う人々
への、神様の御威徳の致すところでありましょう。
 省みますれば、江戸時代にあっては、社地縮小の時代でありましたし、明治には、現在の鳥越神社夜まつりより凡そ立派な行列が御神幸され
ていました。
 また、大正には、震災にて御神輿が焼失致しました。そして、昭和の時代が始まった訳ですが、千貫御神輿の復活(三年)や第二次世界大戦
の戦火より、御神輿が逃れたことや、睦会の復興があったり、鳥越神社夜まつりはその、伝統を絶やすことのないように、との下町の人々の心
意気に支えられながら一からのスタートとなり、激動の昭和時代と共存しつつ歩んでまいりました。
 次第に行列も整備され、昭和後期には、ドーナツ化現象などという、都市人口の減少問題のあるなか、この祭の日ばかりは、鳥越あたりの夜
間人口は、増加する傾向にあります。氏子の方々、またお祭を一度でも体験された方々が、御神徳をたよりに集まるのであります。日本の高度
成長の時代に、先輩がたの作り上げて来た、しきたりをまもりながら、伝統を継承し、社会と共に復興育成されてまいりました。
 この祭りは、昭和の東京下町の祭であると広言しましても、過言ではないと、申し上げます。また、昭和から平成の新しき御代に突入致しま
したが、益々に御神威あらたかにて、平和国家日本、そして鳥越の里の弥栄であらんことを、御祈念申し上げます。


ー鳥越祭ー写真集より掲載




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