お静さん
「あの三つ並んでいる星がプラネタリュウムで言っていた三つ星なのかしら」、そういってお静さんが指差した空には確かに三つの星が斜めに並んでいた。 冬の夜、何かちょっとした買い物の帰り道の事であった。
僕には、それがオリオン座の三つ星であるかどうか全く分からなかった。小学校の3,4年頃の事であったろうか。
飛行機や鉄道の模型が好きで、自分で作ったり、部屋中にレールを敷いて機関車を走らせたり、鉱石ラジオを作ったりしていたから、こうした模型の「作り方」の本を随分読んでいたし、その中に天文の本もあって星座の話もあったのだが、それと現実の空の星を結び付けて考えた事はなかったのだ。 今考えてみると、街中で育った僕には、自然を観察するという発想は全く欠けていたように思う。
当時、有楽町の駅の近くに毎日新聞のビルが新築されて、その最上階にツアイスのプラネタリュウムができた。 母に連れられて一度見に行ったのだが、派手な付き合いの多い母には、プラネタリュウムを何度も付き合う暇はなかったのであろう、僕のお供の役はお手伝いのお静さんになってしまった。
それにしても、お静さんに三つ星を発見?されてしまったのは、ちょっとショックであった。 僕は、早速天文の本をしらべて、星座の星星を捜しはじめた。
一度、あの三つ並んでいるのがオリオンの三つ星ということが分かってしまえば、それを手掛かりに星図と空の星の並びをくらべながら、まわりの星座を覚えてゆくのは根気だけの問題だ。 僕は子供の頃から熱中癖があったようだ。 銀座のすぐ隣のようなところに我が家はあったのだが、それでも当時、冬はよく星が見えた。 僕は、懐中電灯と星図を持って物干し台に上り次々に星座を発見?していった。
随分寒い日もあったはずだが、僕は平気だった。 そして、お静さんは何時も頭から毛布をかぶって付き合ってくれていた。 だから、彼女も僕と同じだけ星座を知っていた事になる。 母から、僕をガードするように命じられていたのか、自分の興味で付き合ってくれたのか、今となっては知る由もないのだが。
お静さんは、当時16,7才ぐらいだったのだろうか、それから戦争がひどくなって、国に帰るまで、7,8年我が家にいた事になる。 父は手広く商売をしていたから、いつも何人かのお手伝いさんがいたのだが、彼女の役は、もっぱら、4人の子供達の世話をする事ことだったのであろう。
お静さんは、ちょっと頬の赤い、いかにも北国育ちという感じだが、今考えてみると好奇心の強い、恐ろしく頭のいい人だったにちがいない。
僕はいろいろな事に熱中した。 中学校1年の頃は反射鏡磨きであった。
あのオリオンの三つ星の発見以来、僕は天文に興味を持っていて、どうしても大きな望遠鏡が欲しかったのだが、当時、五藤光学のカタログを取り寄せてみると10cmの屈折赤道儀がなんと数千円であった。 いかに僕が世間知らずでも、これが買ってもらえるものかどうかの判断はできた。 それなら大きな反射望遠鏡を自分で作ってしまえ! ということになった。
当時は、ガラス材も、研磨剤も今のように容易に手に入らなかったから、こうした材料店をみつけて、お静さんをお供に買いに出かけた。 厚さ20mmとか25mmというようなガラス材は輸入品しかなかったし、大きなガラス店に行って、それを円く切って、周囲を縁取りして、研磨して仕上げる、というように注文するのだ。 子供の僕だけではなかなか相手にしてくれないのだが、お静さんをお供にして行くと 、よほど大家のぼんぼんと思うのか、応対が変わってくる。 だから、子供にしては、かなりうるさい注文をつけることができた。
支払いは、お静さんがしてくれるから、僕は値段は知らないのだが、今考えてみれば子供のお小遣いの域をはるかにこえていたのだろう。
ともあれ、木辺成麿先生(お坊さんで、反射鏡磨きの第一人者)の「反射望遠鏡の作り方」を唯一の教科書として、失敗を繰り返しながら、2年ごしで10cmの反射鏡を磨き上げる事に成功した。 反射鏡の研磨はかなり熟練が必要で、僕が磨いた鏡がどの程度の精度を持っていたかかなり疑問だが、この鏡を大工さんに作ってもらった1mほどの桧の四角い筒に取り付けて、月や、土星の環をはっきりと見る事ができた。
望遠鏡が完成して初めての観測を First Light というようだが、この10cm反射鏡のファースト・ライトは僕と、お静さんであった。 視野の中にぽっかりと浮かんだ小さな土星の姿を今でも思い浮かべる事ができる。
次は、天気図を自分で書いて、天気予報をする事。
これに熱中するについては一冊の本がある。 たしか、東北大学の中村左衛門太郎という恐ろしく古風な名前の先生の「素人の天気予報術」という本でラジオの気象通報を聞いて、これから天気図を描き、予報をする方法について書かれていた。
今のようにテレビで気象衛星の雲の映像に天気図を重ねて見せられれば、一般の人でも天気の移り変わりが分かるのだが、当時の天気予報は「当たらない事天気予報の如し」であった。 なによりも自分で予報ができるかもしれない、というのは魅力であった。
そのためには、NHK第二放送の気象通報(たしかこれは漁業気象といっていた)をきいて、低気圧や、高気圧の位置と、全国20何ヶ所ほどの風向、風速、天気、気圧を書き取って、これを天気図用の白地図に書き込み、等圧線を書き込むのだが、これにはちょっとした経験が必要だ。 翌日の新聞にでる天気図と比較ししてチェックしながら次第に要領を覚えて行く。
ところで、僕は学校があるから、お昼の気象通報をとるのにはお静さんに頼むしかない。 これは、ラジオを聞きながら、略号をまじえて書き取るので多少の練習が必要なのだが、彼女は2、3日でたちまちマスターしてしまい、僕が学校から帰って来るとその日のデータが机の上にのっていた。
こうして、台風シーズンの天気図をまとめて学校に提出して、大変誉められた事を覚えている。
そのうちに、僕はピアノを習いはじめ、また熱烈なクラシック音楽ファンになっていた。
これも一冊の本、野村あらえびす著「楽聖物語」があった。 この本は、楽聖の物語であり、名演奏レコードの紹介でもあった。 この種の本は、今では沢山あるが、その頃は唯一のクラシック・レコードの案内書でもあった。
僕は、当時、流行のベートーヴェンよりもモーツァルト、ショパンの音楽が好きになった。
好きとなったら、熱中してしまうのが僕の性癖、時間があればモーツァルトやショパンを聴いていた。お静さんにはよくレコードを買いに行ってもらった。 彼女も「楽聖物語」を読んで、音楽ではショパンが好きになっていた。
しかし、この頃から第二次大戦も敗色濃厚になっていた。 東京が危険になって、父の仕事もほとんど開店休業の有様であったから、お手伝いさんたちも皆国元に帰っていった。 最後まで残っていたお静さんも敗戦の前年の秋に国に帰っていった。
疎開、そして敗戦、戦後の厳しい生活、父の死と続いて、我が家の境遇も一変してしまった。 お静さんは山奥の発電所の技術者と結婚したという話を人ずてに聞いたが、その後の消息は全く知らないままに数十年経ってしまった。
今でも、お静さんはお元気だろうか、星を眺める事があるのだろうか、もしかすると、自分の子供達に星座を教えた事があったのだろうか、ショパンやモーツァルトは彼女の記憶の中に残っているのだろうか、・・・・。
非常に利発な、好奇心旺盛なお静さんは、東京の豊かで派手な商家の4人の子供達の世話をしながら何を考え、感じていたのかな、と思う。 そして、田舎の生活とは全く異質な知識と生活体験がその後の彼女の人生に役に立ったのか、邪魔になったのか・・・考えさせられてしまう。
しかし、僕の天文趣味のルーツをさかのぼって行くと、ある晩、お静さんが発見した?オリオンの三つ星にゆきあたる。 もしあの時、彼女が三つ星を教えてくれなかったら、この歳になっても続いている星を眺める趣味はなかったかもしれない。
それにモーツァルトの「ト短調のシンホニー」も「ニ短調のコンチェルト」も、ショパンの「即興幻想曲」も「ノクターン」も「ワルツ」も、みんな知っていた。
お静さんは、 僕にとってよき話し相手であり、ある時は助手であり、またある時は先生でもあった。
('97.10)
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