心情派


昼休み、Yさんの机の脇を通り過ぎると、彼は書類を整理しながら、低い声で歌っていました。 とても懐かしいメロディーなのですが、一瞬思い出せなくて・・・・・。
「ああ、“海辺にて”・・・シューベルトね、あんまり久しぶりなので思い出せなかった。」
と、思わず言ってしまって。 本当に何年にも、いや恐らく3,40年もこの歌を聞いていないはずです。
「そういえば、近頃こんな歌はやりませんね。」
Yさんは苦笑しながら言っていました。
僕は、この歌を聞いた時、すっかり忘れていた沢山のことを思い出したのです。 多分、15,6から20頃のある期間、あらゆる思い出がシューベルトのいくつかの歌と絡み合っているように思うのです。 「菩提樹」、「春の夢」、「老楽手」、「鱒」、「海辺にて」等々・・・でもこれについては別の機会に書くことにしましょう。

それからまた、ある朝Yさんと顔を合わせると、
「今朝、車の中でFMを聞いていたら“乙女の祈り”をやっていました、・・・なんというかな・・・」
Yさんはひどく感じ入った様子でした。
「ああ、市川市のごみ集めの車のテーマソングね」(もうだいぶ昔のことですが、私の勤めていた会社のある市川市のゴミ収集車がオルゴールでこの曲を使っていました。)
僕は、またYさんのセンチメンタリズムと思って、皮肉っぽく言ってみたのですが・・・。
「でも、よかたですよ。 なんというかな・・・」
Yさんは、自分の感動を適切に表現する言葉を捜している様子でした。朝の慌ただしい時間の中で、話はそこまでだったのですが、実は、僕もこの曲の魔術を知っているのです。

ある日、もうずっと以前の話なのですが、子供のレコードの中に発表会用のポピュラーなピアノ曲ばかり集めたものがあって、何気なく聞いている内にこの曲が出てきたのです。 その演奏は本当に息が詰まるほどに生真面目で、そこから胸を締め付けられるような一途な願いが聞き取れるのです。
「おや・・・」
全く予期しない時に、こんな裸の純情を突きつけられては、僕も戸惑ってしまうのです。
「畜生め! こんな一途な娘がいるのかよ、馬鹿馬鹿しい。 くだらねえ!」
とわめいたものの、耳の奥で低音で再現するテーマが聞こえてきます。
「冗談じゃーねぇ、こんな弾き方をする奴は、ドアホウか!」
と言ってみても、思い出したように、高音のトリルが響いてくるのです。
「乙女の祈り」は、こんな曲ではなかったはずです。 子供たちのピアノの発表会で可愛らしいお嬢さんが、とても上手に弾いてくれる曲のはずなのですから。
例えばJ.シュトラウスの「美しく青きドナウ」を聞いて、とても美しいし僕も大好きな曲ですが、心の奥底に入り込んでくることはありません。

「絶対安全! 人畜無害の名曲」

ところが、このピアニストは何を間違えたか祭壇の前に跪いて、一心に祈りをささげる乙女の心を表現しようとしているのでしょうか。 戦争に連れて行かれた恋人の、あるいは、父親の、兄弟の無事を祈って・・・。
日が落ちて薄暗くなった部屋の中で、考えたこともなかったような、清純にして無私な祈りを聴いてしまったように思えたのです。
実は、僕は、Yさんにこんな話はしなかったのです。 僕としてはごみ集めの車のテーマソングの方が安全に思えたからです。

何時か、僕がポーランドに行って、作曲者の若い女性にあったら、こう言ってやろうと思っています。
「なあ、姐さんの作った曲がよう、俺の街のゴミ集めの車のテーマソングになっていてよ、あの歌が聞こえてくると、近所のおかみさん達が、くせぇゴミを抱えて集まってくるのさ」と。
きっと彼女は目に涙を浮かべて悲しそうな顔をするでしょう。
そこで僕は少々ヤクザっぽい口調で、こう言ってやりましょう。
「なあ、姐さん、遠いオリエントの俺の街にアホな男がいてよ、姐さんの作ったあのどうしようもない歌を聞いて、すんでのところで自動車をぶっつけちまうところだったのさ 。」

ちなみに、「乙女の祈り」の作曲者バダジェフスカは、1838年にポーランドに生まれ、1861年23才でなくなっています。 この曲は18才の時の作品だそうです。 1856年にパリで音楽雑誌の付録として出版され、たちまち世界中に広まったとのことです。 これが楽譜の解説に書いてあったすべてです。
1850年前後といえば、ショパン、シューマン、リスト、ブラームスの時代です。 彼女もこの時代の雰囲気を胸いっぱいに吸い込んでいたことでしょう。
彼女の境遇や人柄について知る由もないのですが、18の時に作曲したこの一曲だけが130年もたった今でも多くの人に知られているというのはやはり何か意味があるのでしょうか。

以後、僕は、あのレコードも、曲も聞いていません。 もう一度あの曲を聴いても、あんな一途な祈りを感じ取れるかどうか自分でも分からないのです。


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