兄の思い出(2)
私は、8月15日から名古屋の飛行機工場に勤労動員されていて、そのため14日に東京に出てきて友人宅に泊まった。 ここで敗戦を知ったのだが帰りの切符が手に入らず数日後やっと関谷に戻った。兄は話し相手を待ち構えていたように、その日の事を話はじめた。
校庭に集まって終戦の放送を聞いたこと。 校長が号泣したこと。 生徒も泣いたこと。
「生徒が泣く理由なんて何もありゃしない」
「まさか笑うわけにもいかないだろう。 泣いた方がよいか、笑った方がよいか微妙な時期だものな」
私はそんな呑気なことを言っていたが、兄は話を続けた。学校から帰って、その日も農作業をやっている父に知らせようと、
「戦争が終わった! 戦争が終わった!」
と心の中で叫びながら興奮状態で田舎道を歩いていた。
「財布を落としただが、どこかで見なかったかね」
はっと気づくと、一人の老婆がうろうろと財布を探していた。
一瞬にして興奮から覚めた。 そこには、何も変わらない田舎の生活があった。
その夜から三日間、村ではお祭り騒ぎがあったそうだ。
学生の頃から軍国主義の中で教育を受け、それに反撥しながら生きてきた兄には、この急変が空々しく思えた。
長男で、三歳の頃から百人一首を覚えていたという神童的なところがあって、過保護に、また期待されて育った兄は、真正直で、敏感な心をもっていた。 戦争のあいだ中、友人の幾人かは応召し、何人かは赤の容疑で特高に拘引され、それがもとで亡くなった方もあった。 たくさんの友人達の出入りする汐留駅前の家では、何時特高の手入れがあるかもしれないという不安もあって、時々左翼関係の本をまとめて隠していたのを思い出す。
また徴兵されるかどうかは、信念の問題だと、繰り返し自分に言い聞かせ、私にもよく話していた。 たしか、二度ほど教育召集を受けたが、二度ともその日のうちに帰ってきた。
「お前のような奴は役に立たん!」と、一喝されたそうだ。 戦争が終わり、肩で風を切って闊歩する軍人どもがいなくなることを願っていた。
今、敗戦というある意味で理想的な条件ができあがった。
「先生の言っていたとうりになったね」
兄のお気に入りの生徒が言った。
「俺は何も言わんぞ」
「でも分っていた」
戦争中の日々、この暗黙の心のふれあいが兄を喜ばせた。
学校が始まると、先生方は困っていた。 なにを教えるべきか・・・
兄は、学校で必要な人物になっていた。
しかし、秋がやってきた。 例年になく長雨の陰鬱な日が続いた。
相変わらず、兄は出掛けて行って、炉辺で話し込んでいた。 だが、何か少し変わったように思えた。 強いて言えば春先の軽い興奮状態が消えてしまったようであった。
箒川のほとり
草は枯れ
川原の石は色を失い
空は時雨れてうすら寒い
深い碧を湛えながら
水は山際を繞っていった
向こう岸に 釣師がひとり
竿をふった
細い糸が 虚空を切って水に落ちる
釣師は いっしんに浮標を見つめている
ぼくも 見つめている
深い 静寂を流れる水に
見きわめがたい ものの相(すがた)を父は戦争が終わった以上、長く田舎に留まる気はなかった。 母や姉達も、東京の様子が分らぬままに、東京の生活に憧れていた。 だが、兄には、この数ヶ月全情熱を傾けた教え子達がいた。 私は高校の授業がはじまるので、父と二人で一足早く東京に戻っていたが、兄が東京に戻るかどうか五分五分だなと思っていた。
しかし、結局、敗戦の年の11月末一家はまた汐留駅前に戻ってきた。
翌年、兄は友人に誘われて出版社に勤めることになった。 雑誌「思索」の編集がその仕事であった。 戦後の知識に飢えていた人々に「思索」は好評のようであった。 真正直で、博学であった兄は、著者達からも信頼されていた。
この頃、疎開中の強烈な印象が次々と詩になった。 当時、詩を発表する場もなく、また気軽さもあって、私が友人達とはじめた回覧雑誌「早春」に毎号詩を寄稿してくれた。 私達は、これらの詩の愛読者であった。
兄はまた、小説を書きたがっていた。 最初の計画では「春から秋へ」という題で、疎開中に炉辺で仕入れた話を盛った体験記のようなものになる筈であった。(後に、石坂洋次郎の疎開中の話をユーモラスにまとめた「石中先生行状記」がでたとき、黙って僕はこの本を渡された。 一読して「春から秋へ」を思い浮かべた)
何時から「黒い秋」になってしまったのだろう。 兄にはこちらのほうが緊急に書かなければならない問題であったようだ。
「俺は小説は書けないな」
と言いながら、書いては破りを繰り返していた。
詩の「黒い秋」が先にできた。 そして、こんな作法を無視した詩はないんだが、と弁解しながら興奮気味に私達の仲間に朗読した。
黒い秋
君は知っているか? 時に
「時間」が激湍のように流れ去るのを
追憶を押し流し 希望をうばい
そして ひとを孤独に置く純粋な「時間」を
そのとき ひとは世の中のあらゆる連関を失い
愛するものとともに泯び去る
忍びよる 黒い秋の そのなかにそれからしばらくして、「もうこれ以上は書けないから、終わりにした。 小説じゃないな、これは」といいながら、小説「黒い秋」を「早春」に寄稿した。
村で出会った、あの美しい少女の話だった。 怜悧ではあるが、幼い少女と先生とのあいだに、小説を発展させるような材料がある筈はなかった。 小説は不評判であった。
私には詩人の心のうちまで理解できないけれど、軍国主義に精一杯反抗し、本気で次世代を担う子供達を教育していた戦争の最後の数ヶ月、兄は自分が生きている意義を感じていたにちがいない。 しかし、今や、すべてが終わってしまった。
戦争の後にきたものは民主主義という喧騒な世の中であった。 兄にとって「愛するものとともに泯びさる」以外になかったのであろう。
昭和23年夏、父が脳出血のため急死した。 父は平生、商売は一代限り、子供達は好きなことをやれと、言っていたが、戦後のことで何の準備もなく、当時大学一年ななったばかりの私が、仕方なく後を継いだ。
姉が結婚し、兄も結婚した。
しかし、兄の出版社の方も、私の継いだ商売の方も長くは続かなかった。 戦後の混乱期に詩人と、モーツアルトやショパンの好きな一学生に商売ができるわけもなかった。 兄は何度か職を変え、その知識の少しばかりを生かして、生活の糧にしていた。
桜
町角に
ビルが建ち
桜の木がきられてしまった
たった一本の桜の樹だったが
毎年
貧しい花をつけて
ぼくの眼のなかにはいってきた
それも いまはもう見られない
そのことを友人に話すと
彼は こともなげに言った
−−おれは ついぞ
そんな樹なんぞ見たことがない、と
そして 彼は
憐れむように ぼくを見た多分、私達兄弟は生活のために働くということを教えられたことがなかったのであろう。 晩年兄は、母をひどく恨んでいた。 自分をこんなに現実不適応に育てたのは、母の教育が悪かったからだ、ということであった。
その母が亡くなったとき、兄は親しい友人達に電話で知らせた。
兄の詩集のことで編集者の坂口さんにお会いしたとき、その話がでて、坂口さんが
「ある意味でよかったのでは・・・・・」
と言う意味のことをいうと、珍しく兄が憤然として、「人の不幸に対して、そんなことを言うな」と、言ったそうである。
その母も兄も亡くなって30年ほどになる。 母がどんな理想や、夢をもって子供達を育てていたのか知る由もないのだが、普通の家庭の常識とはかけはなれた価値観を子供達に植え付けたのは確かだろう。
詩を書くことだけは、兄が自分で選んだ道であった。 そして生涯、詩を書きつづけた。 全く不思議なことだが、敗戦前後の一般にはもっとも生活しがたい時期に、兄は現実的にも、精神的にも一番詩的な世界に住んでいたように思う。
もしかすると、戦争が終わって、自分が活躍できる場ができたと思っていたのかもしれない。 しかし、現実には何も起こりはしなかった。
そういえば、以前兄の本箱に、かなり汚れた岩波文庫の「ソーニャ・コバレフスカヤ」(ロシアの第一流の女性数学者ーー数学の業績も一流ですが、それにもまして情熱的な、そして孤独な生涯が感動的です)があった。 その本のなかにでてくる、彼女が書きたかった未完の小説の題名が、兄のお気に入りであった。
「あったこと、あるべきであったこと」
墓碑銘
ひとりのこころをたもち たれびとも来ることなき 北海のほとり
雪光る平原のなか 仄暗き 針葉樹の樹の蔭に
時来りなば 埋められてむ・・・・・
冬去り春いたれば 墓のほとりに 紅き花咲かむ
ただひとつ花咲かむ 雪のさなかに
−−地のさだめ儚ければ 生きの緒の證しせむ
ひとりのこころをたもち 知られざりし世をふりしながため兄が20のときに書いたこの詩が詩集「水の炎」の最後におかれている。
詩にかけた青年らしいロマンを感じるのだが。
・・・ひとりのこころをたもち・・・・そして生涯、その心は変わることはなかった。
あとがき
この「思い出」は、第二次大戦末期に栃木県の箒根村に疎開していた頃のことを資料として書いたものです。
兄と私は8歳も歳が違っていたこともあり私が子供の頃は全く没交渉に過ごしていました。 そして戦争中のある日、心の友としての兄に出会ったのでした。 理工系に進んでいた私は、文学や、芸術について、また人生について多くのことを教えられました。 箒根村で過ごした数ヶ月は私に大きな影響を及ぼしています。 勿論、私には、ある人物の全体像を書くような才能はないのですが、それを承知の上で何か書き記しておきたかったのです。
(2000.02)
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