初恋
上の階から軽やかな足音がしたと思うと、僕の脇をすり抜けた少女が、一瞬、振り返って不審げに僕を見ると、又足早に階段を降りていった。 そして、あっという間にドアを押し開くと、明るい通りに出ていった。
ほんの一瞬のことだった。 僕は、ゆっくり階段を降りながら、少女の名前とこのビルの名前が同じであることに気付いた。 そしてこの少女に一言の声をかける暇さえなかったことが心に残った。
僕は、このビルの二階にある歯医者の帰りだったのだが、このビルの階上に少女の住まいがあることを、初めて知ったのだった。その頃、僕たち仲間3人は、ブランコサーカスと称する遊びに熱中していた。それは、ブランコを大きく振って、その頂点に達する寸前にブランコから飛び降りるのだ。 すると体は、放物線を描いて、前にある7,80cmばかりの鉄柵を飛び越えて、向こう側に楽々と着地できるのだった。 誰が発見したのか覚えていないのだが、それが多少危険を伴った遊びだけに、僕たちは得意でもあった。
そんなある日、昼弁当もそこそこに、小学校の地続きにある公園のブランコに駆けつけてみると、下級生の少女2人にブランコは占領されていた。 彼女たちはブランコをこぐでもなく、ただ腰を下ろしてお喋りをしていた。
僕たちは、いらいらしながらしばらく見守っていたが、当然の事ながら口争いが始まった。 彼女たちは優先権を主張してブランコを明けようとはしなかった。 この争いがどんな経過をたどったか覚えていないのだが、それ以後、よくブランコで顔を合わせた。 そして、一台は彼女たちが、もう一台は僕たちが使うという協定ができあがったようだった。 H子は小柄で細面の少女だったし、E子は丸顔の活発な少女で、二人とも目立って美しかった。H子に偶然であってから2,3日して、学校で虫下しを飲むことになった。当時は、回虫駆除のために毎年、何度かこの虫下しと称する煎じ薬のようなものを、強制的に飲まされたものだ。 これが又、難物中の難物、匂いをかいだだけで吐き気を催すような薬であった。
僕は、一口飲むと、いかにも熱くて飲めないような振りをして、水飲み場で水を出しながら残りの薬を捨てていると、思いがけず、H子が近づいてきた。
「何しにうちに来たの?」
ちょっと咎めるような口調であった。
「歯医者に行ってるんだ」
「歯が悪いの?」
「虫歯があるんだ」
H子は納得したようだった。
彼女は目で笑いかけながら、蛇口をひねると、丁寧に茶碗の薬を捨てた。 僕はすばやく周囲を見回して、誰も気付いていないことを確かめた。
「いつもこれ捨てちゃう?」
「ああ、飲むこともあるさ」
僕たちは顔を見合わせて笑った。なんとなく仲直りしたような幸福な気分だった。僕たちは少なくとも当時の小学校では大罪を犯していた。 そして彼女が共犯者であった。そんなことがあって、誰にも気付かれずに親しくなった。 といっても、別にどうということもないのだ。ただ,であった時、お互いにまるっきり知らん顔して通り過ぎないだけなのだが。
秋になると、僕は受験勉強に忙しかった。当時、中学は義務教育ではなかったし、なんとなく、周囲からある有名中学に入るだろうと期待されてしまって、急に勉強を強制されたのだ。そんな時でも、僕は学校でH子を見掛けるだけで心楽しかった。
やがて僕は中学生になった。 学校は今と違って男子ばかりであった。 入学式の日「君が代」を歌った。 僕の声よりも2オクターブも下の方から響いてくる地鳴りのような声を聞いた時、ひどいショックを受けた。ここは優しさや、美しい歌声とは全く無縁の世界であることを思い知らされた。 3,4年ほどして本当の友達ができるまで、この学校になじめなかった。
そして、あの戦争・・・。
憂鬱な日々、僕は赤坂見附の近くの学校から、新橋の家まで、時々歩いて帰った。 途中に凝った造りのHビルがあった。僕は淡い期待を持ってHビルを見上げた。 しかし、偶然は2度とおこらなかった。
('92.7)
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