アンデス文化史(2)

1998.11       ドンキー松本

第2話 最初のアンデス人
今回の講演はアンデス人はどこから来たかと云うアンデス人のルーツです。
アンデス人が最初に定住したのは約11000年位前になります。身体的特性はアジア大陸の人々と近く、多分アジア大陸から渡って来たものと思われます。太平洋を渡って来たと考える場合、1人や2人なら渡ってくることも可能とは思いますが、集団を作って定住するにはある程度の集団での移動が不可欠でそれには地伝いに来たと考えるのが正しいでしょう。

地伝いと云えばアジアとアメリカが最も近いベーリング海峡を伝って来たと考えるのが自然です。多分、シベリア→アラスカ→北アメリカ→中米を経て南アメリカのルートでしょう。この移動が行われたのは2−3万年前であり、この頃は氷河期で海面は今より100m位は低かったと想定されます。そのためベーリング海峡は大陸の一部になっていて、ヘラジカ等も生息していて人の住める環境であったため知らずにアラスカに入り込んで来たものと思われます。

このアラスカに移ってきた人たちがある日南へ下るわけですが、それには氷河の壁がありました。少し暖かくなった時、これに偶然氷の無い無氷回廊(アイス・クリーン・コリドー)が出来たと考えられていて、この回廊を南下してみると暖かく動物もいる土地があり、ここに住むようになりました。これが約14000年位前です。
これら北アメリカ原住民の狩猟生活を主に矢尻と発掘された動物の骨からクロービス伝統(矢尻の両側に底から上に向けて切り込みの入ったポイント:有樋ポイントを使う)とオールド・コルデイエラ伝統(木の葉型のポイントを使う)にわかれ、前者はロッキー山脈東側に多く後者は西側に多く分布しています。中米になるとこの2つの伝統の他に魚尾型の伝統が加わります。これらの伝統の流れが南アメリカ各地で見られます。

今から10000年前前後に氷河期が終わり、マンモスは死滅しアンデス人は新しい生活を強いられることとなり、地域に則してアンデスには3つの伝統が生まれます。1つは海抜4000m前後で洞穴に住み、アルパカ、ラマ、鹿などを獲って食べ飼育し、ローマスの植物(カンナの球根、ジャガイモ、草の実や根など)を食べて生活するアンデス狩猟採集伝統、もう1つは海岸に目をつけ魚介類を獲って食べ、川辺でインゲン豆、ひょうたん、かぼちゃ、おそらくやがてはユカも裁培する太平洋海岸伝統、そしてもう1つは海抜2400m以下のユンガに住みクイ(ネズミの一種)などを飼うユンガ伝統(ここも植物が良く育つので植物を栽培)です。

これらの伝統の大きな変化が神殿の発生でした。神殿は個人の住宅とは異なる文化の発生を意味します。1960年前半迄の学説では土器を用い、農業が確立したときにはじめて神殿が作られると考えていましたが日本の東大の調査隊がコトシュの神殿を発掘し、土器以前のユンガ伝統に神殿があることが証明されました。次回はこの神殿の話です。
[第2回完]

第3話 神殿の発達
今回は主に神殿のスライドを見せてもらった。私の知らない南米の地にかくも雄大な遺跡が存在することに驚きを隠せない。
神殿についての学説はチャビン・デ・ワンタルの神殿が最初でこの影響で各神殿に発展と考えられていたが、順次発掘が進むにつれ、海岸神殿の方が古く、このチャビン・デ・ワンタルはむしろ後期に属することが次第に明らかになってきた。
クントウル・ワシはチャビン・デ・ワンタルの子との説はこの海岸神殿の系列の兄弟ではと考えられるに至っている。遺跡の地図を添付しこの項終了します。
[第3回完]

ペルー北部‐中部

第4話 神殿の発掘
今回の講義は神殿の発掘にまつわる話題です。
アンデス文化には定説も古文書も無く、歴史を検証するには掘って確認してゆくしかないのです。このため、今年の定説は決して来年の定説とは云えないのであり、大きな定説の変更の可能性を秘めており、それがまたアンデスの虜になる要因の1つなのです。ある遺跡を掘っていて、この遺跡には○○は無いと考えたことが、少し掘る範囲を広げたら無いと考えた○○が出てきたと云ったことが度々おこっています。

神殿は元あった神殿の上に更により大きい神殿を作ることが知られています。これを神殿の更新と云います。従って、更新のあった神殿では第1次で発掘された下にはそれより年代が古く少し小型の神殿が存在するのです。前に話したコトシュの神殿でも更新があったと信じるに至った元は、今日ビデオをお見せするワカロマ神殿の発掘にあったのです。ワカロマ神殿はペルー北部山地にある代表的な遺跡で発掘の状況をコンピューター・グラフイックで示しました。(略)
更にNHKスペシャルで放映されたアンデスの黄金・騒動記でクントウール・ワシの遺跡についてお話します。
クントウール・ワシの遺跡は標高2300mの所にある小さな村“ラコンガ村”付近にあります。クントウール・ワシは紀元前800年頃の神殿が有名です。(勿論インカ帝国より古い)そのアンデスの黄金・騒動記とはクントウールワシから四人の貴人の遺骨と副葬品が発掘され、その副葬品の中に金製品が出たのが発端です。
アンデスの神殿には盗掘の歴史が付き物でした。一攫千金を夢見る盗掘者が後を絶たず、神殿跡と思われるところは盗掘の穴がボコボコと開いている状況ですが、運良くこのクントウールワシは盗掘が無く、東大調査隊がこの金製品を発掘したところから騒動が始まったのです。

つまりその発掘された財宝は誰の物かと云うことです。村は保管に不安があり、町は欲もからみ、国は国宝としての保存を云々し、そうは云っても発見された村を無視するわけにもゆかず、隊長の大貫先生は日本で財宝の展示会を開き、寄付を募り村に資料館を建設する提案をし受け入れられました。
日本に持ち出すについても各種の妨害が入り、文化庁のお墨付きで何とか日本に持ち出しました。今までだまされて財宝を横取りされた村人は財宝が帰ってくることについて半信半疑だったようです。日本に持ち帰った金製品は金工の専門家によって寸分違わぬレプリカが作られました。何故レプリカかと云うと、前に述べたように村の保管に問題があるので展示はレプリカでとの考え方です。村人はレプリカの展示には反対の立場だったのですが、レプリカの出来栄えと同じ金と云うことで納得し本物は文化庁と妥当な決着となり、めでたしめでたし!!この約束を守ったと云う点で日本人がこの地では大変尊敬されているそうです。今でも各種の副葬品と共にレプリカがこの資料館に展示されています。

このように神殿の更新により神殿の規模が大きくなるにつれ、人手が必要となり、その人たちが生活するためには食料が必要で、このことが農業技術を発展させて行く事になります。文化的変化・進歩をこの神殿更新が促進させたのではないかとも云われております。これは1つの、社会的動機付けから経済が発展していった1例と云えるでしょう。

神殿の発達が海岸でパッタリ途切れた一方、山の方では今まで在ったものの更新が続いています。今、何故岸でパッタリ途切れたかについての研究が始まっています。その研究の1つにエルニーニョによる洪水で神官の権威が落ちたとの説があります。神官は神様と民衆の仲介者で神様の意を伝え神様中心に民衆を束ねていたわけですが、洪水から人を救うことが出来ず神通力が地に落ちたと云ったところでしょう。山地では洪水の被害が無かったためその神通力が長持ちしたのではないでしょうか。
この洪水の有無は兎に角、人の数が増えるにつれ神官で束ねるのには限界が来ていたのは確かです。この頃になると異民族との交流も発生し武力を持った統治が必要となってきます。これが次回の地方王国のプロローグとなって行きます。
[第4回完]


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