バサラ・ばさら・婆沙羅・伐折羅・伐闍羅・跋折羅・婆娑羅・・・・っと、この響きの良い言葉は、誰が発明したということもなく自然発生し、それ自体分派をしない独立した「風調・気風」を意味する抽象名詞のようです。当て字が多いのは、語源が梵語で、漢訳は「金剛(Diamond)」。これは、すべてに優る硬度を持った智彗、の意味でしょうか。これがどうしてバサラを意味する言葉に変化したのでしょうか?

薬師如来を守護する十二神将のうち、二番目(丑)の伐折羅(バサラ)大将は、天つく怒髪、激しい憤怒の異相である。これが語源かもしれない。このバサラは、奔放で腹が据わっており、異様な様子をあらわす言葉として、鎌倉中期から用いられた言葉で、鎌倉末期には、「世間の常道にとらわれず、奇をてらい、華美をつくして異風にふるまう」ことを言うようで、後の「数奇をこらして」などというのもこれに近い。また、傲慢、遊蕩、放埒、狼藉といった悪徳イメージも含むようになった。近世になると、いわゆる「伊達者」、「かぶき者」、「六法者」、「入れ墨奉行」、「やっこ」、末はチンドン屋などが近くなり、中世のバサラと比べるとだいぶ小じんまりとしてくる。

前記のバサラ大将は、興福寺、新薬師寺に立派な像があるが、近郊では、鎌倉の覚園寺の薬師堂に焔髪に牛の頭をつけた婆沙羅大将の木像を拝謁できる。
なぜバサラに関心があるのかと申しますと、実現不可能なことではありますが、私にはこのバサラに憧れる気持、ないしはバサラの出現を期待する心情があり、それと、とてもバサラ達に囲まれた生活などはできない、という相反するものが丁度半々ずつ占めています。マジメとバサラの相反した気持が同居しているようです。現代人が、特に抑制のかかった社会生活の中では、少なからず持っている心情ではないでしょうか。

不動明王慈救呪の「ノーマクサンマンダー・バーザラダンセンダー」の「バーザラ」、これも金剛のことでしょうか、しかし「バサラ髪」などとなりますと、金剛とは全く別物になってしまいます。バサラは「侘び・寂・幽玄」の世界とたびたび対比されますが、既製の権力やマンネリズムに強く反発して、その色彩が五感(視、聴、嗅、味、触)色が濃く、創意に富み、そして、絶えずエスカレートしていかないと、飽きがきてその価値が半減してしまう行動力に富んだバサラと、この五感色を徹底して淡くし、禁欲的で、その内に形而上美を求め、エスカレートせず、その視点を深く零に向けている後者とが対照されるもので、一つの「イズム」でしょうか。この両者は、「け」と「はれ」のようにその出没が逆関係にあることは確かで、混在したものは見られない。

また、バサラはたびたび政治的パーフォーマンスとしても出現した。かの足利直義、佐々木道誉、高師直・師泰兄弟、土岐頼遠、織田信長、松永久秀、豊臣秀吉伊達政宗などは時に応じてこのパーフォーマンスを行っている。これらには破れかぶれといった悲壮感がなく、演じる側にも見る側にも文化があり、余裕があって芯から明るい。そしてこの風潮を煙たがる少数と、喝采する多数の存在が必ずあり、そしてこのバサラのパーフォーマンスが、たびたび戦以上の功を奏した。

バサラの出没は権威の衰退期に見られます。これは、政治体制、生産体制、流通体制などの変化による単なる人々の気分の変換なのか、先が見える側の余裕の演出なのか、末世思想のため刹那に生きようという魂胆なのか。しかし表面的には悪徳のスタイルそのものであるが、その本音と言えばやはり現状えの反抗と挑戦、または対峙というスタイルである。いずれにしても理屈で考えても分からないことが多いので自然発生という言葉で逃げたわけです。

少し時代を遡ってみますと、八世紀のはじめに文武天皇の時代になり、大宝律令が完成し、この唐の官僚制度に基づいた中央集権国家が成立する。その後、藤原氏が天皇家との姻戚で手にした摂政と関白の地位を独占し、道長の時代にその権力の全盛時代を迎え、十一世紀に入り、摂関政治に代わり院政という公家政治となる。この頃から各地の農地開墾が進み、荘園が急速に拡大してくると、その土地を寺社や貴族に寄進し、名目上の領主となることで自分たちの財産を守るようになる。武士(地頭)団はこうした土地の私有意識の強い私墾系荘園の開発者によって構成された。この「私」というのは公家や寺社の私のことで、言い換えれば、農民の私でなく律令国家から見た公私の私です。そして、私墾地は開拓者の永代私有という策をとり、開墾欲を刺激した。この中から有力な農場主である武士が生まれた。

 くどいようですが、農場主といっても、その開墾した土地の所有者ではなく管理人で、農場は公家・寺社に献上して荘園に組み入れられるのである。そして、武士といっても近世のいわゆるオサムライとはまったく異なるもので、武装した農民と言った方が近い。この武士団のリーダーが天皇家から分かれた平氏と源氏の一族、そして保元・平治の乱でそれまでの院政を無力化し、対抗者の源氏を破って平氏が権力を握るが、やはり京においては徐々に公家化していき、その後清盛の執った公家政治が地方の武士にとっては利に反するため、武士の立場を代弁してくれるような強力な指導者を求めるエネルギーが、頼朝を頭にいただいて平氏を滅ぼしたのが源平合戦です。また、京出身の頼朝が鎌倉に開幕したのは、父義朝の所領地であり、伊豆の北条ほか東国の武士達の協力が可能であったためでしょうが、権力を握った側が公家化すなはち非武士化するのを防ぐ必要もあり、常に京に背を向けなければ実行不可能な頼朝の東西分離政策は、後の北条執権時代よりも強いものであった。こういう歴史は、土地私有権(所有権ではない)の争奪戦の要素がきわめて強く。遊牧民や狩猟民族には考えられない、土地と生活とが結びついた農耕民族特有の争いです。

地頭たちが貴種である頼朝をいただいて武士の政権を打ち立てたのも、農業生産が向上したことが一因にある。これは、文化を重視した公家政権、言い換えれば文人の政権を、力を重んずる武人政権に転換したのですが、この時にはまだバサラの出現は見られない。権力の転換はあったが、少なくとも鎌倉時代前半期は、「鉢の木」に見られるような、清く貧しく美しく、義に厚く、公平仁慈を旨とし、味噌を肴に酒を飲む、といった質素で真面目で禁欲的な反バブル的な安定した時代を持った。これは、京の血が入っている源氏の正統が三代で途絶えた後の北条執権政治のエートスでもあった。そして、頼朝の東西分離政策を弱めて、征夷大将軍には貴種が尊ばれたので、形式的に京より藤原摂関家や親王をいただき、京との対立を弱め、というよりも、当時の武士はとても正面切って京と対するどころかひれ伏しているところが多々あった。悪く言えば田舎者というコンプレックスがあったのか。そして頼朝以来の有力ご家人を次々と滅ぼしてきた北条の黒幕的な執権政治の性格は、すでに都市化が進む京に、六波羅探題を置いて西国の武士の統率と皇室の監視を、自らは東国の狭い鎌倉にいて行っているので、反感を持たれ、不信感を募らせてゆく。執権政治とは本来こういうものでしょうか。華やいだ執権政治などはあり得ないわけで、一言で言えば地味一色です。バサラの対極にあります。そして、次第に鎌倉は地方政権的な性格を帯び、全国的な様々な利害からは浮いてくる。祖先が平氏であるこの北条の執権は、征夷大将軍以外は頼朝と同じく公家化に柵を設けている。しかし、この裏には、当時武士の間では、源平交代説すなわち、「平氏世を乱る時は源家之を鎮め、源氏上を侵す日は平家是を治む」といった観念が広く流布していて、平家末裔である北条の滅亡後は、源氏(足利)が天下を取るという思いが強くあったようである。

当時生まれた鎌倉仏教は、当時の外来文化では最高の、そして京の仏教とはかけ離れた禅宗を幕府側は取り入れ、渡来僧による円覚寺、南宋からの招待僧による建長寺をそれぞれ創建した。一方、民衆に根ざした日本独特の仏教である法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗(一向宗)、一遍の時宗、日蓮の法華宗、等の日本独自の仏教が盛んに花を咲かせた。鎌倉期に入り、貴族の宗教に、わかりやすく武士、庶民の宗教が新しく加わったのである。ある意味ではこれは文化の下克上の始まりと見ても良いのではないか。鎌倉期でのもっとも大きい文化的収穫はこの日本独自の幅広い仏教が熱く誕生したことと考えます。これは、永承七年(1052年)から「末法」の世に入る、と平安時代末期から信じられるようになり、源平合戦や僧兵の横暴などが社会不安をさらに増強して、何とかしなければ、という緊張感をはぐくんでいた時代でもあった。また土地所有権の獲得という大きなリアリズムの発生は当然文化の面でも大きく転換し、そのためか、当時の建造物、書、彫刻などの形は、写実性が加わり、太平楽の時代に比べて常に引き締まっていて美しい。

この鎌倉前期の仏教と共にある文化は、それ以前の平安文化の雅(みやび)に代わり質実剛健、道理を通し、常識をはぐくみ、派手を禁じて実直さを持ち、おおよそ後のバサラ大名たちとは反対の美意識を醸した。そして北条泰時の時代に、確固たる武士政権の基盤である貞永式目が制定され、法制上武家社会が公家社会から独立する。このあたりまではまだ武士達は京に対してオドオドしたところがあって、しきりに名だけの官位をほしがったりしている。これは北条という武士政権が、前記の様々な階層の人々の欲望を、道理や常識で押さえ込むためにも必要だったのでしょう。このようにコチコチの状況の中で押さえ込まれた時代になると、その保守性がマンネリズムと事なかれ主義に陥って、現実とはかけ離れてゆき、反発を呼んで、何処からともなくバサラ風の気風が芽生えてくる。

十四代執権北条高時の時代になると、これほどの高い文化を築いた北条政権が総崩れになるのはどうしてか。そして鎌倉魂に代わるバサラの出現である。質実剛健倹約の理念が正しいならばどうしてたかだか百四十年ほどで消滅したしまったのか。為政者が怠惰に墜ちた為か、人材の枯渇か、度重なる元寇のために国内の経済が疲れた為か、北条の遺伝的精神?が尽きたのか、そして前記の末法思想のためなのか、全国的な欲求不満の噴出なのか、私にはよく分からないけれども、ここで、抑制された何かが一斉に解放され、正邪善悪清濁とり混ぜて吹き出してきたのがこの時代(鎌倉末期)で、土地と武士が密着した一所懸命の理念(農本主義)だけでは日本全体がまとまるわけにはいかない時代に突入した。すなわち、土地と密着した欲だけでは解決しない社会が到来し、土地と関係の薄い商・工業が、貨幣経済を押し進める状況になった。そしてバサラのお出ましである。この武士達のバサラな振舞に対して喝采を送ったのは民衆であり、そういった意味からは中世のマジョリティーを反映したものといえる。この時代に盛んにはやった田楽も白拍子も民衆から興ったものであった。

農業生産の向上は、二次、三次産業を発展させ、文化を推進すると同時にさまざまな欲望も増幅する。「衣食足りて礼節を知る(管子)」ではなく、「衣食足りて野心(欲望)を知る」ようです。これは、現在も含めて、人間は性善説・性悪説のいづれにも当てはまらず、「人は生まれながらに欲張りである」という本音がむき出しになってきて、一所にしがみついて自給自足で事足りていた生活から脱皮すると同時に、余剰の農産物を他の物品と交換して生活を高めて行く、また物を動かして利を生むという商業活動が発達し、流通経済が進むと、権力もそちらを向く。利が浮上して精神が沈下する時代に、何びともそれを押さえ込むことは歴史上不可能であった。

足利尊氏が土地の代表である武士の棟梁という名目だけでは、足利の家訓である天下を取ることは出来ず、産業および輸出入を含めた流通経済の発展が著しい五畿内を掌握できないと考え、軌道修正をしながら、東国とは異なった新しいシステムが発達し、いわば都市化された京に幕府を移転したのも、この関東の、土地に結びついた武士政権という固定したシステムがもうこの頃には国全体の生活状況、または利害関係にそぐわなかったと判断したためではないか。そして尊氏自身はバサラとはほど遠い関東武士であるにもかかわらず、バサラ大名を多く麾下に置いているし、京に幕府を開いてからの尊氏の周辺は、畿内やその周囲の土地との密着性の無い新興領主、すなわち商業を中心とした新しい豪族達が集まりだした。また、尊氏には麾下のバサラ達の行動が意に反するにもかかわらず、目をつぶっているところが多々ある。余談ですが、尊氏の執事役であるバサラの高師直も東国武士の一人であるが、東国武士団と見切りをつけて畿内近郊の新興武士層の組織化に着目している。また、勇将ではあったが、後醍醐天皇なしでは存在し得ず、長くから関東にあってたち遅れていた新田義貞と、早くから北面の武士として都に出ていた尊氏とは、楠正成も見破っているように、この社会のバサラ気風に対する着眼点が違っている。関東武士に徹していた新田義貞と尊氏との違いがここにもありそうだ。そして、バサラは北朝だけのものではなく、後醍醐帝自身が最高の権威とカリスマ性を持ったたいへんなバサラであった。

また、次第に力をつけてきた下層農民や散所民、そして如何なる渡世をしているのか分からないような者たちが次第に武装集団を作り、社寺の荘園に対する略奪、港湾、関所、市場などを攻撃するという権威側えの反抗的行動をとったために「悪党」と呼ばれる武装集団ができてくる。これもバサラ的下克上の始まりで、北条執権の保守的陰鬱さに対して反感を持っている人々にとってはこの悪党のふるまいに胸中拍手を送った。この武家のアウトローである成り上がり者たちが跋扈しはじめて、全国的に拡散してくる。これらと不満貴族たちを後醍醐天皇は倒幕に利用する。楠正成もこの悪党出身の有力な散所大名の一人である。帝政を進める後醍醐天皇という最高の権威と最低層が結びつかざるを得なかった状況で南北朝は出発した。この建武の新政では、元々が朱子学の理念がイデオロギーとなって、摂関政治でも…公家政治でもない、天皇による政治体系を目指しているわけであるから、当然ながら倒幕という名目に関しては尊氏も後醍醐天皇も同じであったが、幕府を倒した後の施政方針は全く逆だったわけである。倒幕に参加した人々の実利、恩賞が少なく、政務を担った大方の公家たちの官僚としての能力がきわめて低く、これに対する不満が再び再燃し、少なくとも土地と密着した武士達の利益を代表する鎌倉幕府とは異なった、新興武士たちの利益も代表した室町幕府を打ち建てた。

この鎌倉時代後期から南北朝時代までの期間が、バサラの出現の最盛期で、室町幕府が始まると、三代目の義満の時代にはバサラは「侘び、寂、幽玄」の風潮に急速に変わる。この時代以降はバサラ風な事は散見するが、何か次第にスケールが小さくなってゆき、織田信長の出番までは、応仁の乱を挟んでモヤモヤした時代が続く。南北朝時代が終わると、本当のバサラ道に値するものは見られなくなる。

 後醍醐天皇が、隠岐島から脱出して倒幕の令を発し、尊氏がその天皇の鎮圧の指揮を執るために、西に向かう時、佐々木道誉は、近江番場宿(米原)で、尊氏を接待し、鎌倉幕府討伐を決心させたと言われている。およそ尊氏とは逆の性格のバサラ大名である道誉は、裏切りの天才、権謀術家などと言われているが、尊氏より九才年上の近江のご家人で、東国武士の持っていない未来を見抜く冷徹な眼力を持っていた。彼は十四代執権北条高時の信任を得て、佐渡の守(検非遺使)となるが、高時が出家すると、どうゆう訳か自分も頭を丸めて高氏の名を改め、道誉と号して三十一才で出家してしまう。

そして尊氏は米原での道誉との密約を実行し、ただちに六波羅探題を攻める。この時、京を追われた探題北条仲時は、かつて後醍醐天皇を隠岐に配流する時に鎌倉のご家人として護送役を務めた道誉を味方と信じて保護を求めて逃げ込もうとするが、すかさず道誉は米原付近で野伏を集めて包囲し、殲滅してしまう。このあたりの連係プレーは、道誉とは対称的に煮え切らないところのある尊氏にしては手早い。この時に、鎌倉幕府は新田義貞によって滅亡している。

京に凱旋した後醍醐天皇の新政は、前記のように、公家達を成り上がらせただけで、国中の武士達の不満は増強した。これを見逃さなかったのも尊氏と道誉である。中先代の乱で鎌倉が再び北条高時の遺児時行に攻め入られると、尊氏は後醍醐天皇に征東将軍に任ぜられ、鎌倉制圧に赴く。道誉にとってはかっての主君の高時の息子である時行による反乱であるが、それを鎮めるために、足利軍の先頭部隊を道誉は買って出たのである。その後尊氏は鎌倉に居座って後醍醐天皇に反旗を翻した。京からは帝の命に背いた謀反人尊氏を撃つために新田義貞が鎌倉に向かう。この時尊氏と義貞は尾張で対峙するが、尊氏軍の道誉は大敗して伊豆まで退き、ここで義貞に降伏し、今度は義貞軍の武将として箱根で尊氏と対峙する。
 これが実に妙で、道誉は直ちに新田軍の中でも有力な部署を得て、また寝返って新田軍を攻め、敗走する新田軍を尊氏と共に自分たちに討伐命令を出した本部のある京まで攻め上っている。そして京での市街戦のさなかに道誉はまたまた天皇方に降伏して近江の守護にしてもらったりしている。いかにも変幻自在、裏切りの連続であるように見えるが、結果から見るとこれが盟友尊氏との密約のシナリオであったらしい。義だの礼だのとはほど遠いバサラのバランス感覚で、常人ならば自己嫌悪に陥ってしまいそうな変節ぶりである。尊氏はこの変節がもっとも不得意な人であった。道誉から見れば、尊氏はしなくても良い反省をしたり、いらぬ意地を通したりする優柔不断な人間に見えたのではないか。尊氏に欠けた部分を道誉が補佐して、新しい時代を切り開く力となったのでしょう。いずれにしてもこの二人には強い絆があった。また道誉の領地近江は、後に信長が重視して安土城を建てたし、関ヶ原も含めて歴史上の要所である。

この道誉のバサラぶりは太平記を賑わしている。その一つに妙法院焼き討ちがある。北朝の光厳天皇の弟で、天台座主の亮性親王が門主の、すなわち、住職が皇族から出ている「門跡」と呼ばれる格調高い妙法院の門前を、道誉の一族の若い者が鷹狩りの帰りに女物の衣装をつけ、酒を飲みつつ通りかかり、内庭に入り込み紅葉を折り狼藉を働き、寺の僧兵達につまみ出されたことがあった。これを知った道誉は、怒って兵を差し向け、縁の下に逃げ込んだ門主の息子に乱暴して寺に放火しついでに隣の建仁寺まで類焼させるという事件を引き起こした。このことで京の諸寺、諸社はすべて門を閉じ、特に比叡山側では天台座主の御所を狼藉の上焼かれたのであるから、道誉とその息子を死罪にするよう幕府に訴えた。はじめ尊氏は道誉をかばって無視していたが、次第に事が重大化するにつれ、この年の夏征夷大将軍という公的に最高の地位に昇ったばかりの尊氏は、比叡山の要求を容れねばならず、道誉を出羽に領地没収の上、永代流罪と裁定した。道誉はこの処分に対して快諾したらしい。この流刑出発の日に道誉は、若者三百人を周囲に侍らせて、キンキラキンのバサラ衣装に、比叡山日吉神社の聖獣(神の使い)である猿の皮を剥いで腰当てにして尻に敷き、毛皮だけではダサイとでもいうのか、当時貴族の間で流行した鶯の鳥かごをおのおのに持たせ、奇声を上げさせて練り歩き、都の人々は大喝采で見送った。そして宿場ごとに酒宴と綺麗どころを用意させ、毎晩宿場ごとのどんちゃん騒ぎのはしごをして、しまいにはどこかで物見遊山でもしてきたのか、流刑地には行かず京に戻っている。まったく無規制無反省の行動で、気配りなんぞは皆無である。そして道誉を流刑にした尊氏はこれについて何も咎めてはいないし、領地も安堵されている。

道誉のバサラパーフォーマンスの圧巻は例の大原野の花見でしょう。尊氏が五十二才で没して嫡子の義詮の時代になると、どうゆう訳か義詮自身、大のバサラ嫌いで、平安風の優雅な風潮を好むようになる。この義詮の将軍御所での花見の招待が道誉にも来るが、道誉は行かない。そして、当日将軍御所の花見に訪れた人はわずかで、洛中の人々はおおぜい着飾って大原の方角に向かっている。大原野では隠れた山の中に山桜が満開で、そこの勝持寺の欄干は金で巻かれ、庭には輸入の錦を敷き詰め、大きな龍の香炉からは、あたり一面高貴な香がただよい、本堂前の四本の桜の大木は、金ピカの真鍮の鋳物の大花瓶で囲まれ、香がまるで巨大な花瓶に生けられた桜を散らしているかの如き演出をした。そして、幔幕の中には、洛中の内でも最高級の料理、銘菓、銘酒、茶を置いて白拍子を呼んで踊り狂じ、着物の投げ合いをし、夜になれば松明で夜桜を演出し、まるで極楽浄土を大原の山中に出現させたような光景であったろう。これが桜の散るまで三週間続けられる。現代から見れば、いかにも芝居がかって見えるが、台本は無い。この演出者のバサラの王者道誉は、この後急にバサラから遠のいてゆく。

他人から見れば、浄土に見えたかもしれないこの道誉の演出も、道誉自身からは逆に、たかが人間の作る浄土などというものはこればかりのものでしかないのか、という醒めた無常観があったのではないか。そうでなければバサラも単なるならず者に終わってしまう。茶、花、香、田楽ほか諸芸に精通し、日本最初の連歌選集である「莵玖波集」に詠まれた道誉の七十以上の作品から伺われる高い教養と無常観は、これがあのバサラ者かと信じられないほどのコントラストを見せる。やはり両面があった。そしてこの道誉の子孫は、京極佐々木氏と六角佐々木氏とに分かれ江北、江南を領したが、新バサラ織田信長によって滅ぼされ、近代の幕が開かれる。

そして、尊氏は晩年にはこの吹き出た新しい力学を鎮めて、鎌倉前期の精神に戻した。これはやはり尊氏の持つ両面性の為で、前記の優柔不断といった尊氏のキャラクターもそこから来ているのかもしれない。そして孫の義満の代になると、文化の面では、貴族文化、武家文化、禅文化の融合すなはち一元化が行われ、日明国交も始まり、幕府の外交顧問である五山の禅僧が中国文化の導入の仲立ちをして、高い文化を築き、義満自身も公家としての教養を身につけることに熱中する。その後、室町幕府は急速に頼朝がかって恐れていたように、武家としての精神と志を失ってゆき、将軍という武断的政治が薄れて広汎な社会的矛盾が湧き出て、荘園制度が急速に消え去り、応仁の乱に入り、近代を待つ準備に入る。その後江戸時代は農本主義的官僚統制によって乱の無い(平和)時代を持ったが、その代償として鎖国をせざるをえず国際性をまったく失うという室町時代とは反対の性格を持った。そして、現在我々の生活感覚ないしは根性はすべてと言っていいくらいこの江戸時代の引き継ぎである。明治維新もこれだけは替えられなかった。たとえば異常なほどの海外旅行ブームも、やっと今になって吹き出した鎖国への反動である。もし室町時代の高度な政治感覚、外交感覚、経済文化をそのまま引き継いでいたら現在の我々は良きにつけ悪しきにつけかなり変わった形になっていたでしょう。

最後にこんな事は言いたくないが、現代の茶髪(ブロンドもどき)や暴走族などは、バサラ風に見えなくはないが、財産、命をかけたものではないし、内容が無いのに、反抗心だけは旺盛というマザコンみたいなもので、そこに美意識、教養、文化、は見当たらない。このように理屈っぽく言わなくても、良いものは良い(その反対は、良くないものは良くない)というふうに割り切ってみると、現在ブラウン管を占拠している何か弱々しく薄汚い、ただの目立ちたがり屋の、時間つぶし的パーフォーマンスは、八百五十年前の我々の先祖のそれとはとても比較にならないくらい良くないし、品落ちする。とても歴史に登場するに値するものではない。また、バサラ達はあでやかな女衣装をまとったが、男が女の衣装をまとっただけで当時はたいへんなコントラストであったろうが、社会的性差(ジェンダー)の無い現在では、コントラストはゼロ。バサラは文化の無いところでは咲けないようである。すると、視点を変えれば、バサラは風流の気と反逆心を持った、華やかな文化様式の競演とも言えるのではないでしょうか?。それとも、バサラの出現には必ずバックグラウンドがある。乱世における下克上の気を帯びた文化性の高い反乱と言った方がよいのでしょうか?(1996.8.13.


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