| ホーム | 遺跡レポート | 遺跡ランキング | 書評・旅本閻魔帳 | 旅の持ち物 | 情報募集 |


タンザニアの遺跡へ行くぞ!

アフリカの隠れた観光大国が、ここタンザニア。野生動物の数では、ケニアを凌ぎアフリカ・ナンバーワン。素人が登れる世界最高峰キリマンジャロもてっぺんはタンザニア。インド洋のビーチは珊瑚礁で、ダイブ・スポットも豊富。それに、古都ザンジバルと、巨大遺跡キルワがあるのだから、これだけ揃っている国も珍しい。

 

にもかかわらず、この国のイメージは明るくないし、観光客も必ずしも多くない。その理由を求めるのは簡単だ。かつての中国と同様、政府が「観光客を相手にしてこなかった」からである。そういえば、この国は、独立後、中国の支援を得ながら国造りをしてきている。

おかげで、タンザニアは、いまでもそれほどツーリスティックでない。治安もケニアに比べればマシだし、旅行するには手頃なタイミングになっている。とはいうものの、日本からの交通の不便さは想像を絶する。

航空便は、ヨーロッパ経由だと事実上、BA、KLM、SWに限られる。KLMのみ、同日乗り継ぎが往復可能だが、それにしても成田から片道25、6時間は覚悟しないといけない。運賃の安い南回りだと、バンコク、デリー、ムンバイ、ナイロビなどと、各駅停車の旅が待っている。いずれにせよ、往復で最低4日は移動に消えるのが、タンザニアへの旅なのだ。

国内移動も大変だ。バスは15年前の中国を想像していただければいい。それに、アフリカ特有の悪路がある。アジアの旅に慣れたバックパッカーでも、アフリカの旅は一筋縄ではいかない。そして何よりも、マラリアをはじめとする伝染病は怖すぎる。

それでも、アフリカの旅人に言わせれば「タンザニアはまだ快適」だそうだ。英語は通じるし、街も道もまだ「きれい」らしい。なせばなる。ブラックアフリカの入門地、タンザニアへ、ゴー!!

ラインナップ


 キルワ ★★★★ 
  最後の大遺跡



世界最後の大遺跡、なんて言い切ってしまうと、またどんな遺跡が新しく発掘されるかわかったものではないけれど、現時点では、やはりここは「世界最後の大遺跡」と言っていいだろう。なんでこんなにばかでかい遺跡が放っておかれているのだ、タンザニア政府は何やっているんだ、と思ってしまうのが、ここ、キルワである。

 7世紀から15世紀くらいにかけて、東アフリカの沿岸部にはアラブ系の海洋国家がいくつも隆盛した。北からモガジシオ、マリンディ、モンバサ、ペンパ、ザンジバルと続き、その南にキルワがあった。伝説によると、ペルシャのシラーズからの移民によって作られた国だそうだ。シラーズといえば、ペルセポリス。そう、ひょっとしたらペルセポリスの末裔が、この南海に大遺跡を残してくれたのかも知れないのだ。

 キルワにはいくつかの島があり、年代によって栄えた場所が多少異なるようだけれど、いちばん遺跡がよく残されているのが、キルワ・キシワニという島である。大陸からは2キロくらい沖合の、珊瑚礁の島だ。おそらくは防衛上の理由で、移民たちは島に都市を建設したのだろう。

 島に上陸して驚くのは、まずは巨大な砦「ゲレザ」である。いや、姿だけならば、どこにでもある程度の遺跡なのだけれど、それが全部珊瑚礁でできているのだ。遺跡といえば石でできているのが通り相場なのだから、これには面食らった。いや、ほとんどの遺跡が珊瑚でできているのだ。おいおいおいおい。聞けば、珊瑚の島だから、巨石がない。なるほどね。

 さらに驚くのが、宮殿やグレートモスクである。宮殿に関して言えば、パレンケ程度の大きさだろうか。保存度はかなり悪く、アユタヤ・レベルなのが難点だが、それでも、往時の繁栄を偲ぶには十分だ。王様が入っていたプール(ハマム?)の跡などは、はっきりとそれとわかる。もし、修復をきちんと行えば、かなりきれいになるに違いない。いったいぜんたい、こんな草むした珊瑚の小島に、なんでこんな巨大な遺跡があるのだ。なんでこんな巨大都市があったのだ? と唸ることは間違いない。

 キルワは、金や象牙など、大陸からの物産を島に集め、インドやアラブに運ぶための、貿易拠点として繁栄した。逆に東洋の文物も多く持ち込まれ、中国製の皿なども、遺跡から発掘されているという。繁栄の頂点は、14〜5世紀。14世紀にこの街を訪れた旅行家は「世界でもっとも美しい街のひとつ」などと書き残してもいる。日本が元寇だ南北朝だなどと小競り合いをしている時代に、アラブ人たちは、東南アフリカで商売をしていたのだ。いやはや、世界は広い。

 キルワ・キシワニだけではない。そこからさらに南に行ったソンゴ・ムナラという島にも、大宮殿が残されている。これもかなりの規模で、アンコール・トムの王宮部分くらいの大きさはあるのではないだろうか。

 さて、これだけの大遺跡なのだけれど、なんで無名かというと、とにかく不便なのである。観光開発がさっぱりされていない。2000年に訪れた外国人観光客は、わずか300名弱。タンザニアの首都ダルエス・サラームからバスで15時間〜2日、それも乾期の話で、少雨期は着けるかわからない、大雨期は交通途絶、と聞けば、誰でも尻込みする。15時間はまだしも、あとの「〜2日」ってのはなんだ、と思うでしょ? 途中で越える河の「水かさ次第」なのだそうだ。いやはやまったく。

 しかし、2001年には、10数年ぶりに定期航空便が復活。週2便ながら、ダルエスと1時間で結ばれたのは画期的なことだ。B29みたいな恐ろしいプロペラ機で、数珠でも持ってないと乗りたくない代物だけど、バスに比べれば極楽みたいにラク。行くなら、今しかない。なぜなら、再開したものの、17人分しか席がないのにほとんど空席ばかりで、いつ運休するかわかったものではないからだ。

 それから、キシワニに行くには「ダウ船」という帆かけ船を使う。たかだか2キロの海峡を風向きによっては1時間もかかる。遺跡はひたすら暑い。ソンゴ・ムナラへは、ダウ船で3時間以上。このダウ船、風ないと動かないし、波が荒いと40度くらい傾く(マジ)という、困りものだから、ソンゴ・ムナラへは村に一艘はあるモーターボートを借りましょう。

 あと、宿もひどい。南京虫付きベッドの安宿しかないので、殺虫剤は忘れずに。食堂も、卵があるかどうかわからない、という程度なのでよろしく。

ということで、採点は「日本からわざわざ行くにはつらすぎる」ので4つ星にしときます。
(2001年12月訪問)

 ザンジバル ★★★ 
  東アフリカのアラブ



ザンジバルは、キルワと同様、中世以来、アラブ人の交易拠点として栄えた島だ。キルワと異なるのは、キルワがポルトガルによって滅ぼされると、そのまま放棄されたのに対し、ザンジバルは、その後も都市が消滅しなかったということだ。そればかりではない、ザンジバルは、周辺諸国を制圧し、「海洋帝国」と呼ばれるまでの存在になった。ここは、インド洋の大国家の首都だったのだ。

ザンジバルが最も栄えたのは、18世紀から19世紀にかけて。ポルトガルを駆逐したオマーンが、ザンジバルを統治していた時代だ。とくに、19世紀のサイイド・サイード朝の時代には、スルタンが、事実上首都をオマーンからザンジバルに移したため、ザンジバルは東アフリカからアラビア半島東部に至る海洋国家の都となった。この当時のザンジバルは、いっときのベネチアを思わせる。地中海の拠点都市を押さえることで制海権持っていたベネチア同様、オマーンはインド洋西岸諸都市を押さえていたのだ。

このザンジバル帝国は、サイードの死後ザンジバルとオマーン本土に分割され、ザンジバルは1890年に、イギリスの保護国とされてしまう。それでも、何百年も海洋都市として繁栄し、帝国の首都となったザンジバルには、数多くの文化遺産が残された。最近は、かなりツーリスティックになってはきたが、まだまだ落ち着いて観光ができる島、といえる。

いま、ザンジバルの一番の見所は、ストーン・タウンといわれる、旧市街そのものだ。スークを思わせる複雑な街並み、細い街路は、アラブの街に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚える。ここは本当にアフリカなのか? そもそもアフリカとは何か? そいう混乱すら感じてしまうだろう。

また、スルタンの王宮も、現在は開放されて博物館となっている。内部の装飾や奢侈品は、さすがに帝国の主にふさわしく豪華。洋風の家具は、イスタンブールのドルマパフチェ宮殿を思い出させてくれる。東西が融合した19世紀の中東の王族は、こうしたインテリアが好みだったんだな、と苦笑してしまった。

最後に、「ジャパニーズ・バー」にも触れておく。19世紀末に、日本人の娼婦がシンガポールやボンベイなどで娼館を開いていたのはよく知られているが、なんと、そのうちの数名は、このザンジバルでも「営業」していたという。その店の跡が「ジャパニーズ・バー」として、現在も残されている。といっても、人が普通に住んでいる家なので、中は覗けないけれど。

こんなインド洋の果てにまでやってきていたとは。商社マンよりも外交官よりも、日本人で一番フロンティア精神にあふれていたのは、娼婦だったということなのだろうか。


(2001年12月訪問)





▲PAGE TOP