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イタリアの遺跡へ行くぞ!

古代ローマ以来の歴史を誇るイタリア。ローマ時代の遺跡はもとより、フィレンツェやベネチアなど、中世の街並みも魅力。ヨーロッパ大陸ナンバーワンの観光大国です。

ラインナップ


 ドゥカーレ宮殿 ★★★ 
  ヴェネチア最後の日を思う

外観はスペース・インべーダーのようである。なんだか、横歩きでどこかに立ち去ってしまいそうな感じがする。この不思議な形の建物が、ドゥカーレ宮殿。いわゆるヴェネチア元首宮である。 

ここは、ヴェネチア共和国の元首(ドーチェ)の住居であり、元老院や共和国議会の議場でもあり、裁判所でもあった。今日でいえば、首相官邸と国会議事堂と最高裁判所をひとつにまとめたような場所である。要はヴェネチア共和国の権力の中枢だったというわけで、宮殿という名前が付いているけれど、実態は政府そのものであった。

この建物は、サン・マルコ大聖堂に較べると、どうも地味な印象を与えるようだ。しかし、建築様式や内部を飾る彫刻、絵画を別にしても、ここはかなり興味深い建物ではないかと思う。権力のあった空間というのは、それだけでぞくぞくする。

たとえば、元首の私邸部分。その空間は意外に狭く、また質素である。それほど広くない部屋が、6室のみ。元首というのは、いわば終身制の大統領なのだけれど、合議制を善とするこの国では、権力はそれほど強くなかった。中を歩いていると、その元首の葛藤を感じるような気がする。

元首私邸は建物の2階にあるのだけれど、3階にあるのが元老院議会。これはいわば内閣のようなもので、60人の貴族で構成されていた。黒い木づくりの椅子が、壁際に2列になって並んでいるのは、まさしく「議会」、という感じがする。ただ、現代の議会と違うのは、部屋中央は広いまま何も置かれずに空いていることだ。かつて、演説をする元老たちは、この広いスペースを行ったり来たりしながら、自分の主張を繰り広げ、他の元老を説得したのだという。広い空間は、いわば演壇なのだ。

そして、隣室にあるのが、十人委員会室。ここは、いわばCIA。元首を含む17人の委員が、国政の重要機密を扱った。共和国中期以降は、単なる機密機関ではなく、実質的な行政機能を持つようになる。つまり、この委員会が権力の最中枢になった。外交をはじめとする重要案件は、元老院は十人委員会が決めたことを承認するだけ、というケースも多かったようだ。部屋は殺風景で、元老院議会のような重厚な雰囲気はない。本当の権力というのは、こういう何でもない部屋から生まれるものなのか、とも思う。

さて、2階に再び戻ると、共和国議会がある。いちおう、この議会が、国権の最高機関とされていたけれど、実質的には権威はあっても権力はなかったらしい。時代にもよるが2000人いたという議員は、全国民の1%程度だった貴族の代表だけで構成されていた。「共和国」と名乗ってはいたものの、実際はこの国は貴族政の体制を取っていたわけだ。

それでも、ヴェネチアは、中世から近世に至るまで、ヨーロッパでもっとも自由と人権のあった国であることは間違いない。フランス革命の「自由」も「博愛」も、この国には不要のものであった。しかし、この国を滅ぼしたのが、他でもない、フランス革命政府の将軍、ナポレオン・ボナパルトであったのは、歴史の皮肉というほかない。

1797年、すでに衰退著しいこの国を、ナポレオンは大軍を以て脅迫する。海軍ではまだ戦闘力のあったヴェネチアでは、市民が徹底抗戦を叫んで、元首宮前に集まった。海の上に浮かぶヴェネチアは、海軍がなければ陥落しないのだ! と。

しかし、共和国議会の貴族たちは弱気であった。仮に海戦で勝ったとして、孤立したこの島を、どうやって維持していくのだ? 5月1日。元首を中心に据えての共和国議会が開かれた。元首席の後ろには、世界最大の油絵である、ティントレットの「天国」がかかり、天井にはヴェロネーゼの「ヴェネチアの大勝利」の絵が輝く。それ以外にも、ヴェネチアの栄光のルネッサンス時代を描いた荘厳な絵に囲まれつくしたこの部屋の雰囲気は、おそらく重々しく悲痛に満ちたものだったろう。

結論だけ書くと、5月12日、共和国議会は、圧倒的多数で、フランスへの降伏を決定。奇しくも、697年に初代元首を選出した1100年後に、ヴェネチア共和国は戦わずして崩壊することになる。

当たり前のことだが、200年あまり前の5月12日以来、この議場で議会が開かれたことはない。幅25メートル、奥行53メートルもある巨大な議場は、いまは観光客が出入りするだけだ。でも、天井の絵を見上げていると、滅びの混乱より、やっぱり栄光の時代を思い浮かべてしまう。ヴェロネーゼは、きっと滅亡の日など考えずに、この絵を描いていたんだろうな、と。

(99年訪問)

 聖マルコ大聖堂 ★★★ 
  謎の遺体の正体は?

「トルコ編」であれだけ褒めておきながらこんなこと書くのもなんだけど、ここに較べたら、カーリエ教会なんて屁みたいなものである。それほど、この教会のフレスコ画は美しい。もう、天井一面、金色ぴっかぴっか。ビザンツ時代にトリップしたいなら、ここしかないんじゃないか、と思えるほどの見事さなのだ。

この大聖堂ができたのは、1060年頃とされている。802年に完成した木造の聖堂が火事で焼けたため、作り直されたものだ。1060年頃といえば、ヴェネチアがアドリア海の制海権を獲得して、海洋通商国家として急成長していた時代である。

当時、ヴェネチアの通商相手先は、ほとんどが東地中海方面。わけてもビザンツ帝国のコンスタンチノープルは重要な通商拠点だった。ヴェネチア自体が、もともとビザンツの属国から歴史が始まったこともあり、文化的にも、ヴェネチアはビザンツの強い影響を受けている。その象徴ともいえるのが、この大聖堂とフレスコ画。なにしろ、ビザンツ様式そのもので、この聖堂にいると、なんだかイタリアにいる気がしなくなるのだ。ここだけは、いまも東ローマなのである。

さて、フレスコ画ばかりに気をとられてしまいがちのサン・マルコ大聖堂だが、本当の見所をもうひとつ。いうまでもない、聖マルコの遺体である。聖堂の内陣の奥、一段高いところにある白い棺が、それである。一面に真っ赤なバラで飾られていて、なんだかきれいすぎて実感がわかないのだけれど、いまから1900年以上前に死んだ「マルコ様の御遺骸」が、中に納められているのだ。

しかし、なぜこんなところに、聖マルコの遺体があるのだ?

年代記によれば、西暦828年のことである。二人のヴェネチア商人がエジプトのアレキサンドリアを訪れた。そこに、聖マルコの遺体を祭ってある僧院があり、二人はそこを巡礼した。ところがその日、当地を治めるカリフが、その僧院を壊すと予告してきた。そこで、二人の商人はこの遺体を買い取りヴェネチアに持ち帰った、というわけである。

もちろん、これが史実かどうかは、まったくの別問題だ。話半分として、アレキサンドリアから何かを持ち帰ったのが事実としても、それが本当に聖マルコの遺体かどうか、もちろん確認する術などない。少なくとも、キリスト教徒の支配するこの国では、それが真実であるかどうかを検討すること自体が、永らく問題外だったのは想像に難くない。いや、おそらく、現在でも、これがオークションにでも出されない限り、真贋など検討もされないのだろう。

私はかつてカトリックの学校に通っていたことがあり、そのときに神学の教師から「死してもしばらくの間、遺骸が腐らない人だけが聖人と認められる」と教わった。その教師がいうには、20世紀においても「死して遺骸が腐らなかった例」が現実にあったのだそうである。

ならば、聖マルコの遺体が、腐っているわけがない。

そう思う私は、白い棺を開けてみたい衝動に駆られてしょうがないのだけれど、もちろん、そんなことは無理である。ただ、その真っ白な棺を見れば見るほど、それは非現実的な代物に思えてくる。理由なんかないけれど、非常に高い確率で、中は空っぽのような気がする。

(99年訪問)

 マルコ・ポーロの家  
  ここから世界史が始まった

 ヴェネチアの中心部、リアルト橋から3分ほど大通りを歩き、裏路地に入る。小さな広場の面した何の変哲もない建物が、マルコポーロの家だ。目印といえば「5845」という地番だけ。看板もなければ、モニュメントもない。もちろんガイドブックにも載っていない。これが、世界史に名だたるマルコ・ポーロの家と言われても、少し戸惑う。

 いうまでもなく、マルコ・ポーロは「東方見聞録」を書いた男である。ただ、この男を「旅行家」「探検家」と書くのには、少し躊躇する。彼の職業を書くとすれば、「商人」以外にあり得ない。彼は玄奘のように宗教を究めにいったのでもなければ、ピサロのように征服欲に駆られていたわけでもない。純粋に、商売のために北京を訪れただけである。

 しかも、彼は父の2回目の中国行に付き従う形で、北京に滞在していたにすぎない。

 当時、中国は元のフビライの時代である。アジア各国に遠征を繰り広げていたのは、ご存じの通りだ。マルコ・ポーロは、西欧人としてはじめて中国の官吏となり、パガン征服などに従軍した。日本では元寇の時代であり、それに関連してマルコ・ポーロは「黄金の国・ジパング」の噂を聞いたわけである。

 話が横道にそれたけど、当時のヴェネチア人にとって、インドや中国への商用旅行というのは、それほど珍しいものでもなかったようだ。現に、マルコ・ポーロの後には、何人ものヴェネチア人が中国を訪れている。では、なぜ彼だけが有名になったのか。彼の父でもなく、後継者でもなく彼なのか。

 それは、マルコ・ポーロが帰国後、ジェノヴァとの戦争に巻き込まれ捕まったからである。

 その牢屋で、彼はヒマでヒマでしょうがなかった。たまたま、同じ収容所にピサの物語作家がいたので、彼に中国の話をしていたら、その男が珍しがり、話をまとめて出版した、というわけだ。

 もし、マルコ・ポーロが捕虜にならなければ、「東方見聞録」は出版されなかった。となると、「東方見聞録」に触発されて西をめざしたコロンブスは、出発しなかったかもしれない。となれば、歴史は大きく変わっていたのではないか?

 もちろん、コロンブスが旅立たなくても、誰かが新大陸に到達はしたことだろう。しかし、歴史は意外な所から開かれた。

 ヴェネチアの茶色い、崩れそうな建物。中にも入れないし、モニュメントもないから、★なしの「マニア向け遺跡」にはしておく。しかし、この小さな建物から、世界史は始まったのだ。

(99年訪問) 

 

 サンタ・マリア・アッスンタ聖堂 (投稿) 
  ヴェネチア最古の聖堂

ヴェネチアの離島(最も初期に人が住み始めた島の一つで、現在は人が住んでいない)であるトルチェッロ島という島にサンタ・マリア・アッスンタ聖堂はあります。

これはヴェネチア最古の教会で、築年はサンマルコ寺院よりも2世紀早い、7世紀頃だそうです。ビザンチン様式の、金色のモザイクで作られた、12〜3世紀頃のどちらかというと素朴なマリア像(聖母子像)や、審判図がありました。

マリア像が祭壇を飾り、審判図はその反対側。雰囲気としては、同じくビザンチン様式のサンマルコ寺院と同じ感じなのですが、もっと古くて素朴。礼拝堂の白壁やちょっと朽ちている感じの木製の調度(というか、柱や十字架、梁のように上方に渡してある枠に付けられた、木彫の12聖人の像など)と調和しています。また堂内は広くて明るく、金色のタイルで彩られていながら簡素で素朴な感じでした。

(00年7月記 ひおき)

 サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ教会 (投稿) 
  ティツィアーノの名作を見る

ヴェネチア本島の大体中央部にあります。

築年は14世紀で、ゴシック様式、つまり柱は少なく、建物は大きく、窓も大きい様式です。パリのノートルダム寺院もゴシックだと思いますが、こちらも明るく、大きな教会で、祭壇画の、ヴェネツィア派と呼ばれる画家の一派の一人、ティツィアーノの聖母被昇天図で有名です。他にも同じ画家の、カ・ペーザロのマドンナという作品があります。

聖母被昇天図は、縦長の大きな祭壇画です。どちらかというと暗い色調ですが、聖母が、濃紺色と緋色の衣を翻し、下部に描かれた地上から、半円形になった上部に描かれた天国(父なる神が描かれている)に昇天して行きます。ダイナミックで、何故か惹きつけられる絵です。

聖母の昇天図を祭壇(では無かったかもしれませんが、教会の主部)に飾るというのは、珍しいのではないでしょうか。名前からして、聖母に捧げた教会だからかもしれませんが。

(00年7月記 ひおき)

 スクロヴェーニ礼拝堂 (投稿) 
  あまりに贅沢なジオットの傑作群

パドヴァには、ここを見る為に行ったので、他の見所(町の主要な教会とか)には訪ねなかったものもありますが、ここと、下に書く洗礼堂と呼ばれる建物の2つは、抜群でした。

どちらも、13〜14世紀頃のもので、建物はロマネスク(スクロヴェーニ礼拝堂はロマネスク・ゴシック)という、壁の厚い素朴な様式です。内部は、その時代の様式を反映して、全ての壁がフレスコ画で覆われていました。建物の大きさは、この様式はそうなのですが、比較的小さめでした。建築技術が発達していなかった為、建物は比較的小さく、屋根を支える為壁が厚いのです。

スクロヴェーニ礼拝堂は、市立博物館の敷地内にあります。午後1時ちょっと過ぎに行ったら、”4時からしか入れない”と言われ、待ち時間に博物館や街を見ていました。時間通り行ってみると、建物の外側には4〜5人の列。人数を制限し、しかも15分しか入らせてもらえないのです。多分、内部のフレスコ画の保護の為でしょう。

薄暗い、縦長の長方形の堂内に入ると、壁は全てキリストと聖家族(マリアの母アンナの話から始まる)の一連のフレスコ画(ジオット作)で覆われており、上を見上げると、宇宙がありました。かまぼこ状に丸く盛り上がった天井は、濃い目の紺色で一面に塗られ、所々に金色の月と星、そして小さ目のマリアと聖人が描かれていました。

ジオットというのは、ルネサンスの最初期のフレスコ画家で、その作品に登場する聖書の登場人物達には、中世と同じように威厳を保ちながらも、人間的な表情が現れて来ます。また、人物像が画面の大部分を占め、とても大きな存在感を持っています。

聖母マリアや、イエス・キリストは、未だ、威厳の方が重視されて描かれていますが、聖母マリアの母アンナや、イエスを裏切るユダなどは、表情豊かに描かれています。マリアを授かったと天使に告げられたアンナの喜びに満ちた表情や、磔刑図の上方で、キリストの死を嘆く小天使たちの嘆きの表情は、とても生き生きとしています。

アッシジの作品に比べ、このパドヴァのものは、ジオットの円熟期の作品でもあるようです。でも、一つ一つの作品よりも、ジオットの傑作で、一つの堂を全て飾るという、とてつもない贅沢と見事さの方に、より惹かれました。本当に、フレスコ画に囲まれて居ることが出来るのです。

素晴らしいです。見学が、15分しか許されていないことは、残念ではありましたが、この素晴らしい人類の財産を、後の世代に残していくためには、仕方が無いことだな、とも思いました。

(00年7月記 ひおき)

 パドヴァの洗礼堂 (投稿) 
  聖人たちに見守られる場所

全く予想していなかったので、嬉しい驚きだったのが、パドヴァの市の中心部にある、洗礼堂と呼ばれる建物でした。

これも、ジオットより少し後の時期に建てられたもので、市の教会に隣接した、四角い建物に丸屋根(いわゆるキューポラ)を持つ小さ目の堂です。ジオットに影響を受けたフレスコ画家によって描かれ、最近、修復されて絵の鮮やかさが蘇ったのだそうです。

堂に入り、上を見上げると、丸天井から、無数の、頭に光背(金色の丸いもの、神聖さや後光などを表すのだと思います)を背負った聖人達が、こちらを見下ろしていました。天井の真ん中に、大きなキリスト像が描かれ、その周りに、色とりどりの衣をまとった、数え切れない聖人達がキリスト像を丸く囲んでこちらを見下ろしています。聖人達は、頭を上方に、正立の格好で描かれています。

洗礼と言うのは、キリスト教徒にとって人生の非常に大事な節目であると思います。その大事な節目を、上方から、キリストと沢山の聖人の美しい画に見守られて行うというのは、とても厳粛な気分にさせられる、幸せなことだったのではないでしょうか。

そして、この比較的小さな正四角形のお堂も、天井以外の面も全て、鮮やかな色彩のフレスコ画で覆われています。色みは、どちらかというとパステル調とでも言ったような感じの押さえた色調ですが、色彩は豊かです。4つの壁面にある扉の上には、それぞれ、受胎告知図(フィレンツェの、フラ・アンジェリコのもののような静謐で穏やかな感じの)、聖母子像などが描かれていたり、他の部分には、カナの婚礼の図などもあったような気がします。

2方向にある短い側廊には、一方には木製の衝立状の祭壇画があり、聖母子像、聖人図などが、建物といくつものアーチを象った衝立のアーチの中に描かれています。側廊の上も丸屋根になっていて、こちらは金色の地に12聖人やマリア像が描かれていたりしました。

このときのイタリア旅行では、他にも、いくつか自分なりの「遺跡」に出会いました。たとえば、ヴェネチアでは海運にまつわる場所を訪れ、海洋史博物館では、ベネチア共和国の祭事、”海との結婚”の際に使われた、絢爛豪華な元首の御座船の模型を見ることができました。

ヴェネチアが最盛期であった頃に経済の中心であった、リアルト橋近くで訪れたサン・ジャコモ・デ・リアルト教会の外側の回廊は、かつて机一つをお店にして、銀行屋がひしめいていたそうで、近代的な意味での銀行の発祥地でした。また、同じくヴェネチアでは、共和国時代に元首を輩出した大貴族の館を使っている高級ホテル、ダニエリに泊まり、往時の様子を想像したりもしました。ですが、やはり、一番印象に残ったのは、今回紹介した四つの教会(サンタ・マリア・アッスンタ聖堂、サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ教会、スクロヴェーニ礼拝堂、パドヴァの洗礼堂)でした。

(00年7月記 ひおき)

★ヴェネチアの2編とパドヴァの2編が、今回のひおきさんの投稿です。一つの文章だったものを管理人が編集しました。ヴェネチアにしろ、パドヴァにしろ、有名な観光地ですが、まだまだ自分なりの新しい発見とか楽しみとかが見つかりますよね。イタリアの文化の奥深さ、というのは本当にものすごいものだと思います。イタリアは何度行ってもいいですね。(管理人)

 メディチ宮 ★★ 
  メディチ家殺人事件の現場

メディチ家、というと、いうまでもなくフィレンツェを支配した名族である。その宮殿となれば、さぞ立派なのだろう、なんて想像していくと、少し肩すかしを食うかも知れない。外見も、また中身も、それほどの豪華さを感じさせてくれない建物である。

それには、少し理由がある。まず、ここが建設されたのは1444年だが、メディチ家の自宅だったのは、1540年までのこと。それから近代に至るまで、メディチ家の自宅はヴェッキオ宮殿やピッティ宮に移り、この「メディチ宮」は人手に渡ってしまうからだ。それから、「宮」という表現も、必ずしも日本語の「宮殿」とは合致しないということにも注意しておいたほうがいい。イタリア語の「宮」とは、「豪華な屋敷」という程度の意味しかないのだ。

それはさておき、このメディチ宮は、残念ながら大部分が非公開である。というのも、いまも現役のオフィスとして使われているからだ。そのなかでほとんど唯一の見所、とされているのが礼拝堂。豪華な絵画で飾られた、メディチ専用の礼拝室だ。たしかに豪華だけど、でも、それだけ見てここを立ち去るのは忍びない。ここはひとつ、メディチ激動の歴史を感じようではないか。

16世紀はじめ、フィレンツェの君主だったメディチ家のアレッサンドロ公爵は、とにかく無能の暴君だった。ただ、彼はスペイン王にして神聖ローマ皇帝であったカルロス5世の娘婿で、早い話皇帝の傀儡。つまり、反対勢力もうっかり手を出せない状況だった。

そのアレッサンドロの側近中の側近、と評されたのが、ロレンツィーノ。彼もメディチ家の一員で、メディチ宮の隣の邸宅に住んでいた。この邸宅とメディチ宮の寝室とは、塀の中を通る隠し廊下で結ばれていたという。ところが、ある夜、彼はアレッサンドロをこの隠し廊下の中で殺し、遺体をメディチの寝室に置き去りにしてしまう。その動機は、現在に至るまで明らかではない。ただ、ロレンツィーノは、殺人の後、一人ヴェネチアに逃げ亡命してしまった。

大騒ぎになったのが、メディチ宮である。犯人はロレンツィーノということはすぐわかったが、なにしろ、メディチ家では、アレッサンドロの次の「公爵継承者」といえば、当のロレンツィーノと見られていたからだ。ところが、当主は殺され、その後継者たる人物が逃亡した。メディチ家には、公爵位を継ぐ者といえば、まだ17歳のコジモしかいなかった。

こういうのを、「タナボタ公爵」とでもいうのだろうか。このような経緯で君主の地位に就いた者は、大抵、たいした活躍をしないものだが、彼は違った。並み居る反対勢力を片っ端から殺し、近隣の諸都市を征服し、ついにはローマ法王から「大公」の名までもらってしまった。250年は続くトスカーナ大公国の、創始者になってしまったのである。

歴史とは本当に面白いと思う。もし、ロレンツィーノがアレッサンドロを殺さなければ、トスカーナ大公国は出来なかったわけだし、そうなると近世イタリア史はまったく違ったものになったはずだ。

当のロレンツィーノは、事件から11年後、コジモの放った刺客によって暗殺される。彼は死の前に、「弁明」という名の回顧録を著すが、そのなかでも、殺人の明確な理由は、結局書かなかった。

ロレンツィーノが住んでいた邸宅は、コジモが公位に就いた後、土台から取り壊されたという。壁の中の抜け道も、埋められたり、壁自体が壊された。したがって、いまメディチ宮を見ても、当時の様子を偲ぶのは困難だ。いま、メディチ家の隣は、棟続きの家が建っているけれど、これは後世に建てられたものだ。

それでも、ラルガ通りに立ってみて、殺人事件の夜を想像してみるといい。ちょっとした狭い舞台で、歴史の歯車というのは大回転するのだなあ、ということが実感できるのではないか。

(99年訪問) 

 ヴェッキオ宮殿 ★★ 
  マキャヴェリが笑っている

ここはフィレンツェ共和国やトスカーナ大公国時代の政庁舎であり、いまでも一部は市役所として使われている建物だ。だが、外観はいかめしく、役所というより要塞の雰囲気だ。ヴェネチアのドゥカーレ宮殿の優雅な外観と較べると、いっそうその違いが際だつ。

実際、ここはそもそも、フィレンツェが外部の攻撃を受けたときの、最後の砦として造られた。フィレンツェの発展と安定とともに、その目的は薄れたけれども、それでも、その要塞的外観は、いまに至るまで変わらなかった、というわけだ。

ただ、フィレンツェの他の施設と同じように、この宮殿の見所は、壁を飾る絵画や彫刻となってしまう。この宮殿のほとんどの部屋が、多様な絵画で埋もれているのだ。それでも、ひとつだけ例外の部屋がある。いにしえのフィレンツェ共和国第2書記官室。通称「マキャヴェリの間」である。

マキャヴリは、16世紀初頭、フィレンツェが共和制の時代に大統領の片腕として活躍した男である。日本では、冷徹な政治思想家、というイメージが強いけれど、本当のところは有能な官僚だった。彼はフランスやローマ法王庁と渡り合い、巧みな外交を繰り広げ、フィレンツェの自由と独立を守ろうとした。

しかし、実際には、彼が補佐した大統領はフィレンツェの自由を守りきることができず、追放していたメディチ家の復権を許してしまう。この、メディチの復権の瞬間とともに、大統領の側近だったマキャベリも職を追われる。マキャベリが第2書記官の座にあったのは、たった15年間でしかない。

まだ43歳で職を失った彼が、つれづれに書いたのが、「君主論」であり「政略論」である。しかし、これは彼が自らの思想をまとめようとして書いたというよりは、むしろ、復職を目指した自らの政治的アピールといったほうがいい。当時、政体が安定せず、つねに他国の脅威におびえていたフィレンツェへの憂国の書でもあった。

彼は、自国の国民軍を組織することを切実に訴えた(当時、フィレンツェには傭兵しかいなかった)。しかし、それは青臭い理想論とされ、そんなこともあってか、これらの著書の評判は、彼の存命中、それほど高くはなかったという。

ところが、現在のヴェッキオ宮殿では、当時の大統領室も残されていないのに、第2書記官室だけは、保存されている。マキャヴェリの文名が、彼の死後、いかに高くなったかを示すもといえる。

「マキャヴェリの間」にだけは、派手な絵画も、生き生きとした彫刻もない。ただ、マキャヴェリの肖像画と、胸像、それに机がひとつあるだけである。あとは白壁で、どことなく陰鬱な感じがする。そのせいもあり、この部屋を訪れた観光客は、ほとんど例外なく10秒以内に出ていく。片隅に座り込んで肖像画を眺めていた僕は、どうみても変わり者だった。

マキャヴェリに特段の感心のない人には、まったく見ても仕方のない部屋である。でも、この殺風景な部屋こそに、私は国を支えた男の真実を感じる気がする。マキャベリの時代には、あるいは別の絵画でも飾られていたのかもしれないけれど、彼の性格からすると、そんなことには気を払わなかったのではないか。いまも残るような殺風景な白壁の部屋で、延々書類を眺めていたのではないか。そんな姿が、目に浮かぶ。

そうして再び肖像画を見ると、こころなしか、マキャベリの表情が笑って見えるのである。

(99年4月訪問) 
 

10 ポンペイ ★★★★★ 
  本物のローマがあった!

ポンペイには、もうずいぶん昔、大学3年時に初めてヨーロッパ旅行をした際、行きました。(といっても、10年程しか経ってないけど)。

ポンペイは、ベスビオス火山の灰に埋もれて、今世紀に完全なままで発掘された都市として余りにも有名で、実はあまり期待をしていなかったのです(疑り深い性格なので、有名な物についてはまず眉に唾を付けて考える)。でも、ここに関しては予想以上でした。

なにより驚いたのは、建物の様子や作りが、古代ローマを舞台にした映画や漫画、小説などで見る通りだったことです。1000年以上(かな)灰に埋もれて保存されていた為、当時の建物がかなりそっくりそのまま残っており、四角い中庭を囲む、廊下とそれを取り巻く建物、中庭(廊下沿い)には石造りの水槽、というか、丸太(円柱)を縦に割ったような形の水盤(植木鉢のようなものかも)があったり。廊下からは各室に入る事が出来、何だか当時のローマ人もこうしていたのではないか、とも思われました(ただ、建物の屋根は無く、本当に廃虚と言う感じです)。

確か、そこかしこにいわゆるギリシャ・ローマ風の円柱が立っていたりもしていたと思います。部屋には鮮やかな彩色の壁画が(部分的にではありますが)残っていたり、台所であった場所には、小さな家型の飾り物の中に神の像が書かれてあったり(いわゆる神棚の類です)。神棚が、台所にあったりするのが、日本と共通してたりして、妙な気がします。

共同浴場も残っていました。こちらも興味深かったです。当時は蒸し風呂、水浴、湯浴の3種があったとのことで、かなり広い蒸し風呂には部屋の隅に火を炊いた 石造りの水槽型の入れ物があり、これも今のサウナとかのやり方と共通していて妙な気がしました。

湯浴(或いは水浴)の湯船は、意外と小さく、しかし後方の壁にがん(半円形の窪み)が穿たれ、(それも背の丈よりもっと高い大きながんに、更に3つの小さながんがついていたと思います)、おそらくそこには彫像か、植物等が置かれていたのではないかと思われます。(今のスパリゾートなんかでよくある、ギリシャ・ローマを真似たような装飾とそっくりなんです、勿論こちらが元祖ですが。)こちらには屋根も付いてました(丈夫だったのかな)。

その他にも、円柱の立ち並ぶ、屋根付き(舞台上にだけ屋根がある)の野外劇場、各家の入り口には、美しいモザイクタイルが残っているところもあり、それが面白い事に、当時の言葉で”Welcome”と書いてあるのとか、犬が描いてあって、 ”猛犬注意”という、一種の防犯装置であったものとか。

通りは(大通りだと思いますが、)完全に石で舗装されており、歩道と車道(馬車の)にはかなりの落差があり、所々に道を横切って、飛び石状(というか、横断歩道みたいに長方形の石が置かれている)に石が置いてあり、横断が出来るようになっているとか(馬車は車輪を石と石の間に通して通る)、人間の知恵って、1000年前も大して今と変わらないなあ、と思ってしまいます。

この時は、ローマ市内やバチカン等、それとロンドン、パリ(いわゆる定番の、3都市周遊市内観光付き後フリーのツアー、但しポンペイはオプション)にも行き、各都市でそれぞれ自分なりのお目当てがあり、またローマなどは本当に街の至る所に遺跡や古い泉水などがあり、さすがという感じでしたが、この旅行で一番印象に残ったのは、意外にもポンペイでした。

(’99年2月 記・ひおき)

★なんだか読んでいるだけで行きたくなってしまった。古代の都市遺跡がきれいに残っているところなんて、世界でも数少ない。それにしても、やっぱり地中海世界って、すごいよなあ。(管理人)

  当時の生活が目に浮かぶ

ポンペイの遺跡は、その規模の大きさ(丁寧に観て歩くなら半日ではとても無理です。ナポリに宿をとってまる1日費しましょう)、そして、当時の邸宅の中が驚くほどよく残っていて、また、それらがフォロ・ロマーノなどと違い、非常に私的な部分を観ているということもあって、妙な生々しさがあります。

旅行後には、全体の情景よりも、各の邸宅内部の暗がりにうっすら光が射し込む光景と中庭の強い日差しとの対比が脳裏に焼き付いています。もちろん、フォロ、劇場、円形闘技場と古代ローマ都市には欠かせないものがここにも組み込まれていますが、それらは(建築的に)美しさ、構成の巧みさという点でみれば、他の遺跡に一歩譲ると思います(フォロの背後に不気味なヴェスビオスが聳えている風景は見事ですが・・・)。

ですから、ここでは、各邸宅内部の構成(内部空間は素晴らしいものがあります)、フレスコ画の微妙な差異(独特のスタイルがあり、多様性はあまりないと思う)を楽しみ、 大通りとその両脇の商店、公衆浴場(石膏で型をとられた人が無造作に横たわっていて不気味です)、売春宿などから当時の人々の生活(風俗)に想いを巡らしてより多く感情移入出来たなら、きっと素晴らしい1日になると思います(これらに興味のない人には、長く退屈なものになるかもしれません)。

そして 遺跡のはずれに秘儀荘がありますが、時間に余裕のある人は絶対いくべきです。フレスコ画の保存状態の良さ、美しさでは、他のものと一線を画すると思います。観ずに帰ってくれば、後で後悔します。フォロ方面から秘儀荘へ歩いていくと、途中エルコラーノ門を通り抜け、両脇に墳墓が立ち並ぶ通りとなります。地味ですが、各邸宅をじっくり見比べてきた人にとっては、それらも非常に興味を引く 一つのコレクションかもしれません。

また当時の邸宅に興味を持った人、2〜3時くらいに見終わってしまった人は、ナポリへの帰り道の途中、エルコラーノの遺跡に立ち寄ることをおすすめします。こちらは発掘が進んでおらず、規模が小さくてうら寂しい感じがしますが(ポンペイの遺跡にピンと来なかった人にはお奨めできません)、2軒ほど興味を惹いた邸宅がありました(1軒はモザイクが見事です)。

(99年記 kzm3)

★kzm3さんは、以前の投稿を、わざわざ旅行者向けに書き直してくれました。ありがとうございます。その時代の雰囲気を想像するっていうのは、たしかにとても楽しいですよね。(管理人)

11 ハドリアヌス帝別荘 ★★★ 
  イタリアの洗練された美しさ

この別荘建築は、バリエーションに富んでいて、他では目にすることの出来ない形式があり(少なくとも私の観た中では・・・)、海上劇場、カノーポス(触ろうとしたアヒルに噛まれた!)の二つは実に見事です。順路に沿って歩くと、意図的にそれらが構成されていることが解ります。

全体的に柱の太さは細く、プロポーションは非常に洗練されていて、優美ではかなさがあります。しかし、現代の人々が庭に飾る大理石の置物の様な、キッチュさは微塵もないので、重厚なドリス式神殿が好みの人でも、ガッカリすることはないと思います。もともと別荘建築として建てられたので、実用性よりも美しさが重視された結果でしょう。

ただし、規模は決して大きくないですし、失われてしまった部分が多く、場所的なこともあって、フォロ・ロマーノの遺跡を観た時のようなロマン(ここで 数々のドラマが生まれたのだろうなぁ的なもの)は感じませんが、観光客も思ったより少ないので、ゆったりとした時間を過ごせます。

ハドリアヌス帝の別荘は、ローマから乗るバスを事前に調べておけば簡単にいけます(片道75分位だったと思います。テルミニ駅内のインフォメーションで確認して下さい)。半日(2〜3時間)でみおわってしまうので、ローマ市内に直ちに引き返す必要のない人は、近くのティボリにあるエステ家の別荘(数々の噴水が見事)もあわせて観れば丁度1日になります。

また、実際に行った事はありませんが、本で見たり、実際に訪れた友人の話を基に次の2つも推薦します。
 マテーラ・・・・・・独特の景観にカッパドキアと似たような美学を感じます。美しき廃墟の山という感じ。
 パエストゥム・・ 重厚なドリス式神殿が、ほぼ完全な形で残っている。(いずれもイタリア)

(99年2月記 kzm3)

★「ゆったりとした時間」というのはなかなか魅力ですね。遺跡は、必ずしも規模だけではなく、雰囲気に魅了される部分が大きいものですから。静かに皇帝の栄華を偲びたいですねえ。(管理人)

 

12 ナポリ (投稿) 
  丸々遺跡に埋まっている

 イタリアとギリシャに行きました。ギリシャもびっくりするほどいろんな遺跡がまちの中にあるので楽しいですが、イタリアのナポリは本当にすごい。町が丸々遺跡に埋まっていたのです。保存もよくフレスコ画も素敵でした。

 ツアーの半日ではとても回りきれずできることなら1ヶ月おいてってくれーと言う場所です。
そのうちスキャナーかなにかを手にいれて映像も送りたいと思います。

(よっちゃん)

★ギリシア、ローマは、やっぱり遺跡の規模、数が違うようですね。なんだか、街に遺跡が溢れすぎていて、全然貴重じゃない、っていう感じのようです。そのへんに、ぽんって、コロシアムがあったりするんだから、なんだか、やってられなくなっちゃうのだ。(管理人)

 





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