エジプト編

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世界最古の観光地、といわれるのが、ここエジプト。ピラミッドは、ローマ時代からの観光名所だったというから、2000年以上の観光の歴史を誇る。 見所は、もちろんピラミッド。それから、王家の谷、アブシンベルと続く。説明のいらないような超有名観光地ばかりだ。 日本からのアクセスも悪くない。エジプト航空が成田と関空に就航していて、このうち関空発はノンストップの直行便。13時間20分で着くのだから、ロンドンやニューヨークに行くのと変わらない。ただ、成田発はマニラとバンコクを経由するので注意。20時間以上かかる。便が多いのは欧米系で、乗り継ぎがスムーズなのはKLM、BA、LHあたり。いずれもヨーロッパからは毎日便がある。 国内移動は飛行機、バス、鉄道ともそろっていて、信頼性もまずまず。物価もきわめて安い。 こうかくと、なんだか旅行するのに快適な国という感じになりそうだけれど、もちろんそうではない。なにより厄介なのは、ツーリストにたかってくる輩たち。物売り、客引き、その他諸々がとにかくしつこいので、多少は旅慣れていないときついだろう。これほどまでにしつこい連中がいるのは、世界を見渡してもモロッコとエジプトだけじゃないかと思う。インドなんてかわいいもんだ。 ビザは必要だが、カイロ空港で取れる。国内線の飛行機はけっこう混むので、短期旅行なら日本で手配するに越したことはない。上記の3名所を自由旅行でまわるには、日本からの往復を含めて、10日くらいは必要だろう。
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INDEX
クフ王のピラミッド カフラー王のピラミッド スフィンクス メンカウラー王のピラミッド
メンフィス サッカーラのピラミッド群 ダハシュールのピラミッド群 ガーミア・ホセイン
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ぜーんぜん、わかってません! 世界で最も有名な遺跡といえば、やはりエジプトのピラミッドだろう。それだけに、遺跡オタクならば、一度は行かずにはおれないのが、ギザである。なぜなら、エジプトには数多くのピラミッドがあるが、そのなかでも特に有名なのがギザの3大ピラミッドだからだ。クフ王のピラミッドは、その3大ピラミッドのひとつで、エジプトにある全ピラミッドのなかでも最大の規模だ。文字通り、エジプトを代表するピラミッドなのである。 ところが、行ってみた人の感想を聞くと「うーん、まあ、こんなもんかなあって感じ」というような返事が返ってくることが多い。でも、そんなことをいう人は、とても不幸だと思う。この不思議な建造物は、調べれば調べるほど、興味深くてたまらなくなってくる。 古代エジプトは紀元前3000年頃から、紀元前30年まで、約3000年続いた。その年代を大きく分けると、古王国、中王国、新王国、プトレマイオス朝、の4つになる。このうち、ピラミッドが造られたのは、古王国の時代、紀元前2500年を中心とした頃である。 つまり、いまから4500年も前なのだ。 クフ王のピラミッドは、底辺230m、高さ147mの正四角錐である。 使われた石は、約2.5トンの石灰岩が約260万個と言われいる。なんだか多すぎてピンとこないけど、高さ3m、厚さ30pの壁で、フランス全土を囲むことができるほどの量だという。うーん、気の遠くなるような量ではないか? いったい、こんなものを、古代エジプト人は、どうやって作ったのか? 何しろ、完成したのは4500年前である。日本ならいい加減な縄文土器を作っていた頃の話だ。 じつは、これ、古代ローマの時代から「謎」とされている。当時は、まだエジプトの古代文字も使われていて、それこそ古代エジプト文明の残滓は残されていた筈なのだが、ピラミッド建設の技術はすべて忘れ去られていたらしい。まあ、ローマ時代といっても、ピラミッドができてから2000年以上は経っているのだから、当然なのかも知れないけれど。 で、今に至るまで、どうやって作ったかの答えは導き出されていない。だから、「宇宙人が作ったのだ」というような、突拍子もない説まで出てくるのだ。 それはさておき、ここに来たら、是非ピラミッド内部に入ってみよう。一日限定300名のみで、午前8時と午後1時にチケットが販売される。午後のほうがとりやすいから、12時半には並んでみるといい。 ピラミッドの内部は、基本的に腰を屈めてしか入れないような狭い通路と、玄室と呼ばれる棺桶のあった部屋に分けられる。ただ、クフ王の場合、途中に「大回廊」という広い通路がある。高さが8.5mという広い空間の通路が、50mも続くのだ。その奥に玄室がある。この玄室が、ピラミッドの内部の終点、とされる。 が、本当はそうではない。大回廊の天井の一番高い部分に、下から見たらわからないほどの小さな横穴があり、そこが玄室の真上に続いている。そこには、4つも部屋が発見されているのだ。いわば、「隠し通路」、「隠し部屋」なのだ。 「隠し通路」はまだある。「王妃の間」と呼ばれる別の玄室に至る通路には、途中穴を開けたような跡を見ることができる。これは、現代のフランス人建築家が開けたものだが、穴の向こうに別の空間があることを発見したという。さらに、この通路の下にも、また別の空間があることを、早稲田隊が電磁波探査によって発見している。また、奥の玄室には、高さ10pほどの斜坑があるが、その奥にも、隠し扉のようなものがあることが、ドイツ製ロボットが突き止めた。 このように、クフ王のピラミッドの内部には、まだまだ隠された空間が多数ある、ということなのだ。 ピラミッドの破壊調査は、禁じられている。だから、大穴を開けて、さらに内部を調べることはできない。いっそ、でっかいレントゲンでも撮れないものかと思うけど、たぶん無理なのだろう。 そのため、このピラミッドが、どういう目的で、どういう手段で、どういう内部構造で作られたかが、いまもって謎なのだ(目的については「墓である」というのが通説だが、裏付けられているわけではない)。 一番奥の玄室に座ってたたずんでみよう。 装飾の全くない、暗く息苦しい空間である。暑いので、汗がダラダラ出てくる。いるだけで不快になるような場所である。 でも、ここだけは現代エジプトと隔絶された時が流れている。 4500年前の王は、なぜこのような、巨大なからくり細工みたいな建造物を残したのか。古代に思いを馳せることができるのではないか。 (2001年訪問)
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なんでこんな形で建っているの? これも、ギザの3大ピラミッドのひとつ。カフラー王はクフ王の息子で、やはりエジプト古王国時代の絶頂期の支配者である。底辺210m、高さ136mと、クフ王のそれよりは小さいが、やはり巨大なピラミッドには違いない。 このピラミッドは、スフィンクスとセットになって建てられている。そのため、「スフィンクスのピラミッド」ということで有名かもしれない。 でも、じつは、このピラミッドとスフィンクスは、直接的な関連がないようなのだ。 というのも、スフィンクスとカフラー王のピラミッドは、同時期に建てられていないことが判明しつつあるからだ。 最近の研究によると、たとえば、両者は石材の組み方が微妙に違っているという。また、カフラー王のピラミッドに付随する神殿の方向と、スフィンクスの向く方向が、これまた微妙にズレてもいる。神殿の床の高さと、スフィンクスの床の高さも、5mも違う。 つまり、この二つの建造物は、別物であり、どうやらスフィンクスのほうが先に存在していたようなのである。スフィンクスが単独で建っていたところに、後からカフラー王のピラミッドが建てられた。ピラミッドには付随する神殿があるのだが、それがスフィンクスを取り込むような構造になっている。 なぜ、このような建てられ方になったのか。 これは、まったくわかっていない。そもそも、スフィンクスは、カフラー王のピラミッドの守護神である、と考えられてきた。でも、別の時期に建てられたのならば、この説は成り立たない。じゃあ、このスフィンクスは何なのか? さらに、スフィンクスが、カフラー王のピラミッド以前に建てられていたとなると、クフ王の時代と重なることになる。では、クフ王は、なぜスフィンクスを無視したピラミッドを建てたのか? これまた、まったくわからないことだらけなのである。 このピラミッドは、現在、内部に入ることはできない。 神殿部分は、それほど大きな見所はないが、巨大な石組みを確認しておきたい。一個500トンもの巨石が積まれているのだ。こんな大きな石を、どうやって持ち上げたんでしょうね〜。不思議ですね〜。いや〜、遺跡って、ほんとうにいいですね〜。さよなら、さよなら、さよなら・・・。 (2001年訪問) |
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有名は有名なんだけどね エジプト観光の象徴といえば、やはりこれ、ギザのスフィンクスだろう。カフラー王のピラミッドをバックにした写真は、まさに古代エジプトのイメージそのものと言っていい。エジプトにきて、これを見ないで帰る人がいるとすれば、いい度胸だこっち来い! とはいうものの、正直これは、見たら「あっそう」で終わってしまいがちな遺跡である。4500年も昔にこんな像を作ったんだ、へえ〜、とは思うけれど、それよりはるかに巨大なピラミッドを見てしまっては、そんな感慨も消え失せる。損な役回りだ。同情するよ、スフィンクス。 さて、スフィンクスとは、ネメス頭巾をかぶった王の頭部に、ライオンの胴体が付いている像のことをいう。だから、スフィンクス像自体は、古代エジプトで無数に作られ、いまも多くの遺物がある。ただ、一般的に観光客が「スフィンクス」というときは、当然、このギザのスフィンクスを思い描く。ギザのスフィンクスは、エジプト最大のものだからである。 このスフィンクスが、いつ、どういう目的で建てられたかは謎である、ということは、「カフラー王のピラミッド」の項で書いた。ただ、正確にいうと、目的に関していえば、多少のことはわかっている。すなわち、これは太陽神ラーと古代エジプトの王権の統合を象徴したものらしい、ということだ。だから、エジプト最大のピラミッドが造られたこの地は、とても神聖な場所だったんじゃないか、というくらいの想像はできる。でも、それだけなんだけどね。 ちなみに、スフィンクスに触ったり登ったりすることはできない。 長い風雪と塩害で、ボロボロの身体になってしまっているから、ということらしい。 (2001年訪問)
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ただ、このピラミッドでは、過去に重大な発見があった。 1837年というから、もう170年近くも前の話だが、イギリスの探検家が、このピラミッドの探索を行ったところ、玄室の近くで人骨を発見したのである。 ピラミッドの多くには、内部に「玄室」、つまり棺桶のある部屋がある。そして、棺桶も多く発見されている。ただ、棺桶の内部は常に空っぽで、ピラミッド内部から人骨やミイラが発見された例はない。ピラミッドは墓である、という説の最大の泣き所がここで、内部から人骨のかけらも発見されていないならば、それは墓と断言することはできない。 ところが、このピラミッドからは、人骨がみつかったのである。棺の中からではなかったが、とにもかくにも人骨である。さっそく、この探検家は人骨をピラミッドの中から引き出し、大英博物館へ送った。この人骨がいつの時代のもので、どういう立場の人間のものなのか。それがわかれば、ピラミッドの最大の謎「何のために作られたか」が解決されるかもしれなかった。 が、ファラオの呪いなのだろうか? 人骨を乗せた船は、地中海で難破し、海底に沈んでしまったのである。 これ以外に、ピラミッド内で人骨が発見された例はない。失われた人骨が王のものなのか、それとも当時のピラミッド制作者のものなのか、あるいは後世の墓泥棒の一人なのか。判別する術は、もちろんなくなった。 このピラミッドは、内部に入ることができる。入口から入って、一番奥にあるのが玄室で、さらにそこから階段が下に伸びている。その地底の部屋が、「増築された玄室」とされる場所である。玄室がなぜ二カ所もあるのか?それも、わからないままだ。 (2001年訪問)
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5 メンフィス ★★
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おお、古代の都か〜、そりゃすげえ、なんて期待して行っては行けない。何しろ古くは4000年も前の都である。さしたるものは、残っていないのだ。 遺跡は、現在のミート・ラヒーナ村の周辺1qくらいに散らばっている。ただ、見つかるのは、建物の残骸程度のもので、はりきって歩いて探索しても暑いだけ。将来、大々的な発掘でもなされればまた変わるのかも知れないが、現時点では、観光客がみて喜びそうなものはない。 ただ、小さな博物館があり、ちょっとしたものは、そこに集められている。といっても、ラメセス2世の巨像とか、アラバスター製のスフィンクスだとか、はっきりいって大したものではない。 ここは、ナイルデルタの最上流部にあたり、ここより上流はナイル川の渓谷である。すなわち、地理的な要衝で、だからこそ都がおかれたわけだ。そう考えて、周囲の地形を眺めてみると、なんとなく、「あーそうかな」と思わないでもない。 そんな小さな感慨を、大切にしましょうそれだけよ、という遺跡です。 (2001年訪問)
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6 サッカーラのピラミッド群 ★★★
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エジプトで最初にピラミッドを造った男。それはジュセル王である。紀元前2650年頃の在位だから、もう5000年近くも前、と表現した方がいいかもしれない。5000年ですよ5000年。1万年の半分なのだ。すごいと思いません? 思わない? あ、そう・・・。 このジュセル王が造ったピラミッドが残されているのが、サッカーラという地区だ。カイロから南西に25q、ナイル川から少し離れた砂漠のなかに、サッカーラのピラミッド群はある。ジュセル王のピラミッドはそのひとつだ。 彼がこのピラミッドを造らせるまでは、王の墓といえば、マスタバ墳と相場が決まっていた。マスタバ墳とは、日干し煉瓦を台形に積んで、その地下に遺体を埋めるものである。 ところが、この墓の設計者は、台形の日干し煉瓦を6段重ねにした。結果、6つの段をもった、階段状のピラミッドが完成する。これが、ピラミッドの原型というわけだ。高さ60mと、決して大きくはないが、形状は独特で、ピラミッドに興味のある人ならば、これはたしかに見る価値はある。 残念ながら、ジュセル王のピラミッドの内部には入れない。ただ、サッカーラには、他にも遺跡が散らばっている。小さなピラミッドがいくつかあり、他に貴族の墓もある。そのいくつかの内部には入ることができる。貴族の墓の内部には、彫刻がきれいな形で残されていたりもする。悪くない遺跡群だ。 ただ、いかんせん、交通があまりに不便なのが欠点だ。 何しろ、ローカルバスを降りてから、軽く1時間は歩かないといけない。その路程の半分は砂漠である。夏なら、ホントに死にかねない。 だから、地球の歩き方に従って自力で行こうとするならば、まずとんでもない目に遭うでしょう。ここは、バックパッカーといえども、タクシーで行くことを勧めます。 (2001年訪問)
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実際、ほとんどの王は、自分の治世にひとつしかピラミッドを造っていない。 ところが、例外がいる。それが、古王国第4王朝の始祖・スネフル王だ。彼は、ジュセル王の後、約50年後に登場。リビアやシナイに遠征隊を派遣した、力の強かった王なのだけど、治世中に、なんと3つもピラミッドを完成させているのだ。 彼が造った一つ目のピラミッドは、メイドゥムにある。ただ、これは父王が造り始めたものを完成させただけである。 そして、2つめと3つめのピラミッドがあるのが、ここダハシュールなのだ。 ここは、サッカーラのさらに南にあるピラミッド群である。ナイル川からも少し離れていて、砂漠のただなかにあり、それだけに雰囲気は抜群。ギザのピラミッド群がカイロ市街のすぐ横にあって、砂漠の雰囲気がゼロなのに対し、ここは本当に「砂漠」を実感できる場所だ。 ここのピラミッドは、ふたつとも独特である。 ひとつは赤のピラミッド、と呼ばれる。これは、赤味を帯びた石灰岩で築かれているからその名があり、とくに夕暮れに見ると、たしかに赤い。四角錐のいわゆる「真正ピラミッド」としては最古のもので、その姿はじつに美しい。見ているだけでホレボレする。高さ104m、底辺は南北211m、東西221m。規模もそこそこだ。 しかも嬉しいことに、このピラミッドは、内部に入ることができる。 内部は単純で、約90mの下り坂のあと、少し歩くとふたつの前室があり、その奥に玄室がある。ただ、玄室には入れない。 この90mの下り坂、行きも帰りもすごいしんどい。何しろ、腰を屈めてやっと通れるような高さしかない通路なのだ。90mを這ったような形で前進しないといけない。老人の場合卒倒することもあるそうなのだけど、確かにその通りだ。 もうひとつのピラミッドは、屈折ピラミッド。これは、ピラミッドの下部と上部で傾斜角度が違うから、その名が付いた。下半分は54度、上半分は43度である。なぜこのような形になったかはわからない。途中で工事を急いだからだとか、崩れそうになったからだとか言われているけれど、根拠なんてないからね。 さらにこのピラミッドの変わった点は、西と北に二つの入口を持ち、それぞれが別々の玄室に通じていることだ。ふたつの玄室は、内部で繋がっている。こうなると、なんだか探検隊のおもちゃみたいになってしまって、どうにも墓という感じがしないよね。 このうちのどちらがスネフル王の墓なのかは、わかっていない。いや、どちらも違うのかも知れない。何しろ、残されたこの巨大建造物以外には、なーんにも証拠がないないんだから、仕方がない。 いずれにしろ、ここはカイロ市街からは結構遠いけれど、ぜひオススメしたいピラミッド群だ。交通は、やはりバスだとしんどいので、タクシーにしよう。サッカーラ、メンフィスと合わせて回って、60〜70ポンド(2000円程度)である。 (01年訪問) |
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ただ、イスラム地区をそぞろにあるいたところで、あんまり感慨はないと思う。イスラム圏に初めて来た人ならともかく、そうでないなら、とくに珍しいと思うものもないだろう。街並みは古いのかもしれないし、確かに歴史的建築物も混じっているのだが、中世を感じることのできる空間ではない。せいぜい、土産物屋巡りをするだけだ。 それはさておき、このイスラム地区の中心がハーン・ハリーリ、と呼ばれるエリア。そのハーン・ハリーリの象徴的建造物が、このガーミア・ホセインだ。12世紀に起源を持つ、由緒あるモスクである。 ホセインとは、よく知られているとおり、シーア派の有名なカリフである。ホセインが死んだのは680年のことだが、その遺骸の一部が12世紀になってカイロに持ち込まれ、それを記念して建てられたのが、このモスクである。 現存する建物は19世紀のものだから、それほど歴史的価値のあるものではない。内部に入っても、とくに特徴のあるモスクとはいえない。結論として言えば、わざわざ訪れるほどのない遺跡、ということになります。 (01年訪問) |
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エジプトでイスラム世界の歴史的英雄をひとり挙げるとすれば、やはりサラディンになるだろう。ご存じの通り、12世紀にキリスト教徒の十字軍を撃退し、アイユーブ朝を打ち立てた、アラブの覇者である。日本で信長が人気のように、エジプトではサラディンの人気が高い。 そのサラディンが築いた城塞が、シタデルである。当初はさしたる規模でもない城塞だったようだが、サラディンの死後も拡張され続け、その後近代に至るまで、ここがカイロの政治の中枢になった。つまり、エジプトの「故宮」というわけだ。 ただ、北京の故宮が、往時の帝王の暮らしぶりを彷彿とさせる雰囲気を残しているのに対し、ここは城塞内部がだいぶ手を加えられていて、軍事博物館とか警察博物館とか余計なものに変身してしまっている。だから王宮を見物する、という気分ではない。それが残念だ。 とはいえ、高台に建つ厚みのある城壁、入り組んだ城内など、歩いているだけで雰囲気をつかむことはできるだろう。そして、なんといってもガーミア・ムハンマド・アリという、素晴らしいモスクは見る価値がある。なにしろ、内部の装飾が美しい。深緑に金の装飾がされたドーム。多くのシャンデリア。近代ヨーロッパの影響を受けた、西欧風の内装を持つモスクなのだ。 このモスクは、ムハンマド・アリ朝の1857年に完成した。 ムハンマド・アリ朝は、1807年にトルコのオスマン帝国から独立を成し遂げた王朝だ。実体はともかく、1957年のエジプト革命まで存続する、エジプト最後の王国である。 ムハンマド・アリ朝時代には、あまり巨大建築物は建てられなかった。西欧による蹂躙を受けるなかで、そうした建築をする余裕がなかったのだろう。その数少ない大型建築のなかで、このガーミア・ムハンマド・アリだけは光彩を放っている。僕は多くの巨大モスクを見てきたけれど、そのなかでもかなり上位にランクできる美しさだ。 見所があるようでないシタデルの中で、ここだけは一見の価値があると勧められる場所である。 (01年訪問) |
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ルクソール、というと、なんだかすごいロマンティックな響きがする。エジプトの古都、ファラオの都、まさしくこれぞエジプト旅行のハイライト、あー行きて〜、てな感じかしら。 でも、実際は騒々しくて、過度にツーリステックな町です。もちろん、メンフィスなどに比べたら古代遺跡には恵まれていてそれなりに楽しめるのだけれど、町中には、紀元前を思わせる街並みなど残っていない。ま、4000年も前の街並みが残っていたら、それこそ怖ろしいけどね。 というわけで、ルクソール市中心部にある古代遺跡といえば、このルクソール神殿くらいになってしまう。 簡単にエジプトの歴史をおさらいしておくと、古王国が滅んだ後、ナイル川の中流域に新しい王朝が誕生した。それが、中王国である。紀元前2040年頃から、同1790年くらいまで、約250年間続いた王朝だ。この中王国が置いたナイル中流域の都がテーベ。都は次の新王国時代にも引き継がれ、テーベは古代エジプトの中心として栄え続けた。そのテーベの現代の都市名がルクソールであり、この王朝が作った神殿が、ルクソール神殿だ。 神殿の造りは単純で、一本の回廊の周囲に塔門や列柱室などが、ずらりと並んでいるだけだ。オベリスクや塔門、列柱室あたりは、4000年前の建物にしてはよく残されている、というレベル。規模も、それほど大きくはない。有名なわりには大したことのない遺跡、というのがあるけれど、どちらかといえばそれに近い。町の真ん中にずどーんとあるので、お手軽に観光できるのは嬉しいところだが、それだけにあんまり期待して行ってはいけない。 ただ、規模が小さいことには理由があって、この神殿は、後述するカルナック神殿の副殿として建設されたからでもある。副殿が主殿より小さいのは、いわば当たり前のことだ。 この遺跡を楽しむには、むしろ外からボケーっと見るのがいいかも知れない。向かいのマクドナルドの3階あたりでぼーっとしていると、結構幸せな気持ちになれるかも。夜のライトアップも、そこそこ美しい。 (2001年1月訪問)
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作られ始めたのは中王国時代だが、主な建物ができあがったのは新王国時代。歴代の王がいろいろ勝手に建物を建てたので、中は結構ぐちゃぐちゃだ。ひとつの神殿というよりは、神殿群、といったほうがいいかも知れない。 ここの注目はなんといっても列柱室だ。高さ20m。直系1・5mほどの巨大な円柱が、なんと144本も並んでいる。密集して建っているので、片隅に立つとまるで森の中に立っているかのような静謐さを感じることができる。あー、これが古代エジプトなのね、と感激する人もいるかもしれない。それぞれの柱に彫刻が彫り込まれているのも、念が入っている。 あとは、オベリスクもよく見ておきたい。オベリスクとは角柱の記念塔みたいなものだが、ハトシェプスト女王のオベリスクは高さ30mもある。これ、一枚岩を加工したということだが、つまり長さ30mにも及ぶ巨大な岩を加工し運び、よいしょ、と立てることのできる技術があったということだ。うーむ、さすが古代エジプト不思議の文明じゃ、と思うではないか。 ということで、そんなに見所いっぱい、というほどではないけれど、とりあえず「大きさ」を楽しめる遺跡ではあります。 (2001年1月訪問) |
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ツタンカーメンの黄金のマスク、といえば、知らぬ人はいないだろう。そのマスクが発見されたのが、ここ王家の墓。ピラミッドと並び称される、エジプト第一級の観光名所だ。 ここを一口で説明するならば、「古代の王の共同墓地」である。エジプトの新王国時代のファラオたちの墓が、砂漠のなかの小さな谷に身を寄せ合うかのように集まっているのだ。古代王墓では、盗掘の被害が多かった。そこで、ファラオたちは、外からは見えにくい谷に目立たないように墓を集め、集中的に管理することによって墓盗人から逃れようとしたのである。 だから、この谷の王墓の外見は全てとても地味である。というか、単なる穴ぼこでしかない。ここで確認されている墓の数は62。ただ、盗掘防止という観点でいえば、成功したのはツタンカーメン王の墓ひとつでしかない。ツタンカーメンの墓からは20世紀になってから豪華な副葬品が多数発見されたが、それ以外の墓は古代に盗掘を受けていて、ほとんど何も残されてはいない。 ということで、ここの観光は、公開されている10コほどの墓をひたすら入ったり出たりすることになる。 墓の構造はなかなか興味深い。入口は小さいが地中深く掘られていて、盗掘防止のために、途中で落とし穴のような深い井戸が掘られていたりする。一番奥にミイラが収められていた玄室があるが、そこまでの道のりは長く、通廊が150mも続いたりすることもある。古代の技術で地中150mの穴を掘ることがどれだけ大変だったか。偲べるというものだ。 玄室の隣室に、多数の人骨が発見された墓もある。その隣室は、完全密封されていた形跡があり、どうやら墓を作った奴隷たちが、墓の秘密を守るために閉じこめられたらしい。いまでもその人骨を見ることはできる。 また、王墓の内部は華麗な壁画で飾られていて、それが現在まで残されている。壁画は墓によって結構異なっており、美しいものも多い。 と、いろいろと見所はあるのだが、いかんせん、同じような墓が多いので、まあ3つか4つ見れば飽きてくるでしょう。僕は気合いを入れて、観光できる10の墓全てを見たが、その必要を人に勧める気はありません。 ツタンカーメンの墓に関して言えば、内部の壁画の保存状態はきわめていいけれど、墓そのものは小規模で、壁画も稚拙。見る価値があるかどうかと言われると疑問符がつくけれど、まあせっかくここまできたのだからね。 ちなみに、ひとつのチケットで見学できる墓は3つまで。ツタンカーメン墓は別料金。遺跡好きならば、チケットは2枚買って6つの墓を見て、別料金のツタンカーメン墓を見ればいいと思います。あ、黄金のマスクなどの副葬品は、全てカイロの博物館に運ばれているのであしからず。 (2001年1月訪問) |
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王妃の谷とは、文字通り王の妃やその子供たちといった、王以外の王族が葬られた墳墓群で、王家の谷の南西1キロ半ほどの位置にある。約80もの墳墓があるとされるが、破損が激しいもの多い。ただ、ネフェルタニの墓だけは例外で、古代に盗掘を受けたものの、以後19世紀まで外気に触れなかったため、きわめて保存状態がよい。しかも、ネフェルタリは、強大な王だったラメセス2世の妻でもあり、墓自体が豪勢だ。とくに壁画の美しさは、エジプトの遺跡のなかでもトップといっていいだろう。 壁画の美しさを文章で表現するのはとても難しいが、赤と黒を基調とした引き締まった形に仕上がっている。僕は絵画を見る目はないのだけれど、王妃の横顔の盛り上がったような質感などには、リアリティを感じずにはいられない。 ということで、ルクソールに行ったならば是非訪れて欲しいのがネフェルタニの墓なのだが、残念なことに、一日の入場者を制限していて、なかなかチケットを取りにくい。気合いを入れて早起きし、朝6時に窓口に並ぼう。 また、王妃の谷には、いくつかの他の墳墓を見ることができるが、さしたる見所はないので省略しときます。 (2001年1月訪問) |
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たとえれば推古女帝になるだろうか。ハトシェプストといえば、古代エジプトでもっとも有名な女王であり、また、エジプト新王国繁栄の母、でもある。 古代エジプトの歴史の中で、女王は幾度か出現した。ただ、その多くは、世嗣がいない場合に擁立されたものである。ところが、ハトシェプストの場合だけは違う。王となるべき男児がいるのに、女王が誕生してしまったのである。 彼女は新王国第18王朝のトトメス2世の王妃であった。トトメス2世の死後、王位はトトメス3世に引きつがれたのだが、彼女はどういうわけかトトメス3世の共同統治者として王位に就いてしまったのである。 なぜだろうか? トトメス3世が幼少であった、というのはひとつの理由だろう。ただ、それだけならば、彼女は摂政の地位で十分な筈であった。彼女が摂政に飽きたらず自ら王になった理由とは? この事情はよくわかっていない。トトメス3世は彼女の実子ではなく、そのために正当な王妃であった彼女が自分の王権を主張した、との見方はあるけれど、正妃の実子でない王が即位した例など、いくらでもある。結局、現状ではハトシェプスト即位の理由は解明されていないのである。 ただ、このハトシェプスト女王葬祭殿に来ると、その理由が少しわかる気がする。 この建物は、古代エジプトの建造物の中では、例外的といってもいいほど「華麗」である。 古代ローマを思わせるような柱廊の美しさは、エジプトの他の遺跡の追随を許さないだろう。彫刻に関しては、正直それほどたいしたことはないのだけれど、遠目から見た建物の美しさならば、古代エジプトのなかでもトップクラスなのだ。 ハトシェプストもおそらく、こんな「華麗」な人だったのではないだろうか。彼女は夫が残したエジプト王国の統治を、自分がやらずにはいられなかった。彼女はそれだけの才能のある人物であると、自分を信じていたのかも知れない。 事実、ハトシェプストの22年の治世は、第18王朝にとって非常に有意義な期間となった。彼女は戦争を控え国力を充実させたが、それが、後のトトメス3世のアジア遠征の原動力となったのである。この遠征の成功で、エジプトの領土は史上最大になり、新王国は絶頂期を迎えるのだ。 葬祭殿の右側には登山道があり、そこを登ると、すぐ裏にある王家の谷に出ることができる。裏山に登り切ったところから望める、ナイル川までのパノラマは絶景だ。緑に覆われたルクソール西岸の大地。エジプトを繁栄に導いた、ハトシェプストの葬祭殿からの風景にはふさわしいではないか。 (2001年1月訪問) |
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行き方は、ルクソールから各駅停車の電車に乗って20〜30分位だったと思います。そこで、駅からバスに乗るんですが、そのバスがすごく楽しい! タクシーみたいな人がいろいろ声をかけてくるのですが、それに乗ったら少しぼられるし、なんか怪しそうな人が多かったので(結構怪しげに見えるだけかも?)公共の乗り物に乗ったんですが、まずバス停がないのに、人に聞くとここがバス停だ。と言うんです。 で、バスが来たら、手を振って乗る事をアピールしないといけないみたいなんですが、なかなか難しく、でもやっと乗れるとみんな地元の良い人たちですごく混んでるのにもかかわらず、席を譲ってくれて(エジプトでは、だいたい男の人が女の人に席を譲ってくれる)地元のおばちゃんみたいな人にお菓子もらったり、桃もらったりして、デンデラまでやっと着いたんです。 結局12時くらいになってしまって、観光客があまり居ない炎天下の中ゆっくりと一人で見たんですが、他の遺跡と違って設備がちゃんとしてないのか、分かりませんが、懐中電灯がないと、あまり見えなくて部屋に入って懐中電灯を照らすと、こうもりがたくさん出てきてインディジョーンズになった気分になりました。 冒険してるような気分で見れるのですごく楽しいと思います。ただ、何処を見るにも遺跡の監視の人が結構居てバクシーシ(チップみたいなもの)をねだられて、それを渡すと、結構奥まで見せてくれたり、クレオパトラのレリーフが地下にあるんですが、そういうものも見せてくれます。結構、チップがかかるかも? 本当はデジカメとかでとってたら、写真を送れたんですが、使い捨てカメラのようなものしか持ってなかったので、いい写真がありません。でも、グラハムハンコックと言う人が書いてる「天の鏡」と言う写真がいっぱい載ってる本にデンデラが載っています。もし良かったら見てみてください。 (2000年記・kana) ★じつはまだエジプトには行ったことがありません。メジャーな観光地なので、いつか行けるだろ!と思っているうちに、時間ばかりがすぎていく・・。ピラミッドに登れる体力のあるうちにいくつもりなんだけどなあ。そのときは、デンデラにも寄ります!(管理人)、 |