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自分としては時間の感覚がハッキリしないのだが、6/9金曜日にコトは急速に動き出した。 午前中カテーテル治療が行われ、というより、例のバルーンが抜かれ、右太ももの付け根が不意に自由の身となったのだ。 一日中つきまとわれていた例のドッキンドッキンという、アタマの中まで響く鼓動も消える。 右足そけい部からカテーテルを抜いた瞬間の感触は、割と鮮烈に覚えている。 K先生が足元にすわっている感じがして、なんやらかんやらされて、スコンッと何かが取れたような感じがしたあとで、右の太股に生ぬるい飛沫がプシャアッと引っかかったのである。 例えるならオシッコがかかったような感じだ。 私が自分でよく書くエロ小説みたいなものだ。 看護士さんや先生は、特に慌てた様子もなく、流れ出したものを拭った。 『先生、今のはもしかして血ですか?』 と尋ねると、『そうだよ、ちょっと出ちゃった、てへ』と答えられた。 てへ、というのは私の心象風景である。メガネをかけていないので、K先生がどんな表情で言ったのか、正確には判らない。 動脈に穴を開けて管を入れたり出したりするわけだから、それを抜けば当然出血はするだろう。 先生がおよそ三十分くらい、圧迫をかけて動脈を止血し続けてくれる。 その後私は六時間の安静を言い渡された。肘の内側からのカテ挿入だと、術後二時間安静だが、そけい部だと六時間なのだ。 まぁ、それまで日曜日から絶対安静だったわけだから、特に何も変わっていない。 三度の食事がないので、朝昼晩の感覚がない。 一応気休めで歯磨きをしたりするのだが、ハッキリとした時間の認識は薄かった。これらはすべて一日に起こったことのはずなのだが、私にとっては二日か三日くらいかかって起こった出来事のように長く感じた。 午後になって、つまりは六時間の安静のあと、一般病棟への移動が言い渡された。 正直嬉しさよりも、親しみの沸いた看護士さんたちとの別れがつらかった。 主任さんは、私が入院前日から洗髪していないことを気にしていることを知っていて、先生に私がいつ洗髪できるようになるのか確認してくれた。 洗髪は早くて来週のアタマになるだろうという言葉に、主任さんもほかの看護士さんも同情してくれて、寝たままで洗髪してくれることになった。 優しい人たちだった。 私は横になったまま、丁寧に頭を洗ってもらった。 前述したように、入院前日にパーマをかけていた私のアタマからは、なぜか汗やもろもろの入り混じったカレーのようなスパイシーなにおいがしていた。 そのしんどさも洗い流されてホッとする。 そして、更に私には試練が訪れる。 K先生はアッサリポンと私に一般病棟への移動を告げたが、更に当然のように心臓リハビリの次の段階を指示した。 それがベッドの上での九十度の背中起こしである。 日曜日からずっと寝たきりだった私は、絶対安静の言葉に従って、着替え以外では体を横向きにすることさえしなかった。 その私が体を起こす、というのは、自覚している以上に大変な苦痛を伴った。 私はベッドの背中を起こされて、ズルズルとお尻が落ちていく感覚を覚えながら、90度身を起こして数秒後、あわれにも急降下した血圧に耐えられず、貧血を起こし、真っ白になって再び横たわった。 めまいの苦しみと真っ白な脳裏に、こんなんじゃいつ起きられるようになるんだろうという、ちょっとした絶望を覚えた。 K先生がやってきて、特別落胆した様子もなく、『じゃあ45度からゆっくりと』と言われる。 45度も試したが、10分耐えるのがやっとだった。その10分も、ひたすら耐えて、といった様子で、新米ナースのNさんは、心配のあまりオロオロしていた。 そんなアリサマだというのに、私はその数時間後、一般病棟に移動した。 ストレッチャーで運ばれながら、慕わしく看病してくれた看護士の人たちとの別れに、私は思わず涙した。 『ここを出るのに笑顔じゃない人は初めてだよ』と、笑われる。 『ありがとうございました、また来ます』 と言うと、『また来ちゃダメでしょ』と爆笑された。 最後の最後に、私はメガネをかけて看護士さんたちの顔を見た。 どの顔も初めて見る顔ばかりだったが、どの人の声もみんななつかしい、みんな優しくしてくれた声だった。 さて、私は大名行列のように看護士さんやら先生やら母に囲まれ、二階のICUから六階の心臓病棟まで上がった。 その間に目を開けていたおかげで、三半規管をみごとにやられて酔った。 ICUの薄っぺらい枕が取られてしまい、ゴソッとした感触の一般病棟の大きな枕が頭の下に置かれると、たちまち気持ち悪くなってしまい、タオルを重ねただけのものに変えてもらった。 また、一般病棟のベッドはICUのベッドの十倍くらい硬かった。 ICUにいる間は全く気付かなかったのだが、驚くほど尻が痛くなっている。尻の感触がなくなっていて、ワキワキしたくなるもどかしい感じがずっとあるのだ。 相変わらず点滴されている箇所の血管痛もひどい。 クダ人間のままだから、ステップアップした象徴といえば、かたわらにとうとう登場したテレビさまくらいのものだった。 私が最初に入れられた部屋は四人部屋の〈リハビリ室〉と呼ばれる部屋で、ナースステーションのすぐ隣、仕切りはカーテンだけでドアはなく、すべてベッド横にモニターがくっついている。 私のベッドは廊下寄り、つまりはナースステーション側で、窓はない。私の他には死にかけたようなじーさんが一人いるだけだ。 しばらくして、斜め前にいる死にかけたようなじーさんが何者か分かった。 なんとルフィじーさんではないか。 そりゃあ死に掛けたように見えるはずである。 しかしじーさんは着実に、私より一足先に、ICUを卒業していたのだった。 じーさんは私を見るが、言葉はない。ボケている、というより、体の機能がすべて低下して疲労しちゃっている感じだった。 じーさんと会話はできないが、ICU卒業生として、なんとなく心温まるものを感じつつ、これから少しずつ良くなる自分を想像したのだが…。 10日の土曜日。 この日私は病院のいろいろなシステムを悟ることになった。 まず第一に土日は病院が止まる。何もかも。 私の一般病棟での担当看護士さんアキさん(仮名)は、今週金曜日の出勤が終わると土日が休みで、月曜日まで来ない。 K先生も来ない。 主治医もいないし担当看護士もいないし、病院の機能そのものが停止しているわけだから、当然なんの検査もない。 つまり私が何をがんばろうと、進展がない。 私は昨日90度の背中起こしができなかったことを大後悔した。 アレができなかったことで、私の土日の目標は、45度体を起こせるようになること≠ナ終わってしまったのだ。 二日間もあるというのに、ゴハンを食べられるようになるどころではないし、点滴をはずすどころじゃない。尿バックも取れないし、モニターもつけたまま。 つまりクダ人間のまま、金土日を過ごさなくてはならなくなったのである。 この週末の教訓で、私は決意した。 少しくらい目が回っても根性で乗り切ろう…と。 そうでなくては、『まぁ、寝ときたかったらいつまでも寝てたら?』的扱いを受ける、それが一般病棟なのだ。 ICUのような、至れり尽くせり、セレブな毎日は終わった。 私を待っていたのは、根性と忍耐の一般病棟での日々だったのである。 6/11,12 につづく |
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ノートによると、水を飲むと気分が悪くなって吐いていたのが、5日の月曜日のことらしい。 水差しを使って、一口二口と飲ませてもらっていたのだが、しばらくするとオエッとなって点滴の内容物ごと吐いてしまう。ヘンな緑色っぽい液をゲロゲロッと吐いていた。 吐いても自分では始末できないし、髪の毛が汚れようと、着ているもの(検査着)が汚れようと、シーツがちょっぴり湿ろうと、拭われて清拭の時間までそのままである。 何も食べていないし、何も飲んでいないので、吐くものも臭わないし、それどころじゃないせいか、自分的にあまり気にならない。 二度吐いたんだが、一回目なんてまるで噴水みたいに、いきなり横向いてゲローッとやったんだけどね。 右を向いていると吐きたくなるので、左を向くことにする。 もっとも、この時点で私が動かせる場所は、首と点滴の入っていない方の腕と、左足だけである。 もともと血管が出にくいたちなのは、入院しても変わらず、結局点滴は、手の甲に打たれる。 記憶が定かでないのだが、以降点滴は、右に左にちょくちょくと移動し、一番多いときは腕と左足の甲の部分の二箇所に刺されていた。 相変わらず痒い場所はナースコールして掻いてもらう。 看護士さんたちは、私がクダ人間だと知っているので、イヤな素振りなんて見せない。みんな優しい。 水をたった一口飲みたいとか、ただ口をゆすぎたい、というだけでも飛んできてくれる。ありがたかった。 月曜日の時点ですでにすることがなくなっているが、昨日の苦痛を思い出すと、退屈なくらいはなんでもないと思えてくる。 動かせない部分(バルーンを挿入したままの右のそけい部と、点滴の入っている側)や、点滴、血管拡張のクスリのため、頭までズキズキしてるのはたまらないが、日曜日のあの苦痛は消えている。 火曜日に先生から当面の予定を聞かされる。 明日、左腕からカテーテルを入れて検査をするとのこと。 経過が良かったら、そのままバルーンをとると言われて期待がふくらむ。 この頃の退屈しのぎは、あ行のアから順番に芸能人の名前をられつしていくことだった。 一人シリトリは行き詰ると判っていたので、同じ要領で芸能人からアニメキャラなどジャンルを増やした。 ピアノ●森のカイ君と雨宮でヤオイを考えたりもしたが、すぐにオリジナルが書きたくなってしまい、そうなると書けないのがつらくなって、結局は芸能人の名前に逃避した。 水曜日、カテーテル検査。 別の箇所も血管が狭くなっていたとのことで、結局バルーンの位置を変えただけにとどまり、ICU残留。 後に魔の木曜日と自分で名付けた6/8木曜日。 一日中何もナイ。ナイナイ尽くし、ナイ尽くし、というやつである。 おおよそ一日のスケジュールは決まってきたものの、なんらかの問題は常に抱えている感じ。 一番つらかったのはもちろん点滴のために生じた血管痛というやつで、これは点滴の入っている方の腕にまだら模様の鬱血後が浮くほどひどかった。 腕全体が冷たくなり、何かが触るだけでも痛い。 瑣末なところでは着る物。 病院が最初に用意してくれた検査着は、着替えなければならず、ご存知のようにXLでも胸はキツキツの私は、浴衣を頼んだのだが、浴衣も脇の下のとこがキツキツで痛い。 胸から筋肉が失われているらしく、自分の胸そのものが凶器のように重く感じ、モニターにつながっている血圧計も、必要な時以外は小まめにはずしてもらわなくては重苦しく感じていた。 とにかくアッと言う間に体力、筋力が落ちたようである。なにせもともとナイものだから。 シーンとしているICUの広さや、間取りといった全体像は、天井しか見えない私には把握できない。 その中でいつからか、ルフィじーさん(仮名)という人がいるのがわかった。 メガネをはずしたままだったので、声だけしか判らない。 無論、メガネをつけていたとしても、カーテンで仕切られたベッドの上、寝たきりなんだから何も見えるはずない。 ルフィじーさんはだいぶモーロクしているようだったが、ゴハンも食べているし、どうやら半身起こしたりもできるようで、現状は私よりマシである。 じーさんの担当は、三浦理恵子ソックリの愛らしい声をした看護士さんだった。 リエコの声はとても美しい鈴の音のように響いて聞こえる。 リエコはいつもじーさんに優しい。 『ルフィさん、お口大きく開けてください。苦しいですか? ルフィさん、今日は元気ですか? なぁに? どうしたの? ルフィさん』 リエコよ…、と心の中で私も思わず頼りたくなるような甘い声だ。 ある日ルフィじーさんをピンチが襲った。 リエコがいない時だった。 食事中、何かが喉に詰まったのを、うまく取れなかったらしい。 『ルフィさんの息が止まった』と、看護士さんが告げると、主治医さんや家族が呼ばれる。 寝たきりの動けない私も、顔も見た事のないじーさんを応援するしかない。 時間の感覚がないが、そうこうしている間に寝る時間になったらしく、私は睡眠薬をもらう。 ルフィじーさんの家族と一緒に、葬儀屋も来た。 じーさんの前で価格の相談が行われているようだ。笑い声も聞こえる。 こういうのはアリなんだろうか? と、わたし的混乱の中、記憶の中断。 どうやら私は眠ったらしい。 次に起きた時、ICUはいつもの静けさを取り戻していた。 シーンと静まった中、ルフィじーさんがどうなったのかは判らない。 翌朝、リエコの声が聞こえた。 『ルフィさん、昨夜たいへんだったんだって? リエコのこと待っててくれたんだね。今日はリエコずっといられるからね』 うおっ、じーさん、やったんだな! ささやかながら、私もリエコと共にじーさんの生還を喜んだ。 そのことをリエコもじーさんも一生知る事はないが、私は満足している。 6/9,10 につづく |
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PM1:30頃、F病院に到着。 痛くて苦しいのに、どうして意識を失えないのか。自分のガマン強さが憎い。 病院に到着したことでかなり安堵した私のこの時の感想は、『こりゃあ夜の九時半くらいには帰れるんだろうか』だった。 この時点で自分の病名等はわかっていないが、判っていてもこの程度の感想だったに違いない。 逆算すると、搬送されてから治療開始までなんと三時間半もたっている。 運ばれた時点で、看護士さんや当番のお医者さんの、『発症から一時間半か、キツイな…』という声が聞こえたが、ナニがキツイのか判らなかった。 自分としては、倒れた時の10の苦痛が、病院に来た、という安心感で7から8くらいまで下がっていたからである。 体の中の酸素の量を調べる為と、色を確認するため、マニキュアとペディキュアを剥がされる。 生まれて初めて酸素マスクを装着。なんかかえって苦しい気もしたが、すぐに慣れる。 痛みが治まらないので、ニトロを舌下に噴射。 ほとんど効果のあった感覚なし。 治療までの時間、自分としてはそれほど長く感じなかった。 恐らくこの時点で最も時間を長く感じていたのは母だっただろう。 かわいそうに、誰にも相談できず、知り合いなどいない土地で、苦しい思いをさせたことは最大の親不孝だった。 やっとこさ待っていた循環器のK先生が到着。 メガネがないので声だけで判断するに、三谷幸喜ヤングといった雰囲気。 『あなたは限りなく心筋梗塞の疑いがあります。だけど検査して確認してからの治療では遅いので、心筋梗塞だと決め付けた状態で治療に入ります』 優しいが断定的に確認され、ハイハイ頷く。 心筋梗塞は父もなった病気だ。父の場合、冠動脈三本のうち、二本が詰まったまま、治療できずにそのままになっている。 いま父の心臓を動かしているのはたった一本の、しかも細くなった冠動脈一本なのだ。 同じ病気と聞いて、これも私より母がショックを受けたようだ。三十代(たとえギリギリとはいえ)でこの病気にかかる人はそういない。 カテーテル治療と呼ばれる心筋梗塞の治療が始まった。 私の場合は、そけい部、つまり右太ももの付け根の動脈に、局部麻酔を打ち、カテーテルようするに管≠通して治療した。 陰毛が剃られ、ついでに尿道カテーテルってやつも突っ込まれる。正直胸の痛みで四苦八苦してたので、へのカッパだった。 ここで私が考えたのは、ウンチ出しといてホンットに良かったなぁ、である。 局部麻酔のみなので、当たり前だが心臓の痛みや苦しさはそのままだ。 カテーテル治療室は寒く、脂汗をかいていた私も震えた。 管が入ったら絶対動いてはダメだと命じられ、どんなことでも看護士さんに依頼するように厳命される。 乾燥肌のせいと、あろうことか前日にパーマをかけていたため、風呂もシャワーもまる一日入っていなかった私は、体も顔もあちこちが痒くなってたまらなかった。 そのたびに『鼻の頭をかいてください』とか、苦痛の中でお願いする。 あまりの痛さで思わず笑ったくらいだ。 ノートには、かゆみと強烈な痛み、とある。 開始してすぐ、『イオカさん(実際は本名)、やっぱり心筋梗塞でした。即治療に入りますね』との声。 『怖いです』 『大丈夫、イオカさんにとっては初めてでも、僕らにとっては日常茶飯事の治療ですからね、安心してください』 いったいどのくらいで発覚し、どのくらいかかって血栓を取り除いたのかわからない。 身悶えていると、『イオカさん、大丈夫、詰まっていた血栓が取れましたよ』との声。 実はこの間もちょくちょく、K先生から痛みの度合いについて確認されていた。 例の、1から10でどのくらい? ってやつだ。 治療室の手前では7くらいだった痛みは、治療開始から8と9をいったりきたりという感じだった。 たま〜に10になるが、もしかしたら慣れてきていたのかもしれない。 そして、その瞬間が来た。 血栓を取り除かれた数秒後、私は全身で跳ねそうになった。 『痛い、イタイ』と声をあげ、涙が出た。なんだこの痛みは、と、本気で泣いた。 『今痛みいくつ?』 『12』 『12? そうか、突破しちゃったか』 K先生が思わず、といった感じで笑った気がした。 笑いごっちゃねーよ、と思いながらも、何も出来ない。泣いてイタイと喚くばかりだ。 『イオカさん、それはね、血栓が取れて止まっていた血液が流れ出した痛みなんだよ。あなたと同じ病気をした人は、みんな同じ痛みを経験するんです』 K先生のその言葉を聞いた瞬間の、私のなんとも言えない気持ちは、同じ病気をした人にしかたぶん判らないのだろう。 みんな感じるからだからナニ? という思いと、そうか、みんな感じたのか、つらかったな、とか、お父さんゴメンネ、とかいう思いが、ぐちゃぐちゃになってまた涙になった。 12という、限界を越えた苦痛がどのくらい続いたのか、正確に覚えていない。 五分だったかもしれないし、もっと長いか、短いか、しばらくして、痛みを忘れている自分がいた。 唇が乾き、どこかしらがかゆく、口の中がカラカラになっていた。 この時私が思っていたのは、退院したら、氷をいれて冷やしたコーラをガブガブ飲もう、という、やっすい夢だ。 衰弱した心臓にサポート的な機械が挿入され、細くなった血管にバルーンと呼ばれる治療用の風船が入れられて、治療は一段階を終えた。 『イオカさん、終わったよ』 とK先生。看護士さんの『おつかれさま』という声。 『コーラ』と私は言った。 『なぁに?』 『コーラ、コーラ飲みたい』 『……ダメ』 一瞬絶句した後で、K先生はやんわりと拒んだ。 今じゃなくて、後で、そう続けたかったけれど、もう気力がなかった。 なのに気絶できないってどういうこと? ストレッチャーに寝かされてカテ室を出ると、母がずっとずっと待っていた。 カテ室に入るとき、父のとき六時間もかかったことを思い出し、思わず『いったん帰っていいよ』と告げた私だが、K先生を含めた全員がいっせいに『帰っちゃダメ!』と言ったことを思い出す。 カテーテル治療とは動脈に細工するため、心筋梗塞を治療する上では、以前よりずっと安全で簡単にはなったものの、やはり生命の危険が伴うものらしい。 一般病棟に移ってから聞いた話では、救急車で搬送されると、四人に一人は助からない病とのこと。 どうやら私の治療は二時間半かかったらしい。 長い方だと今は判る。血管を太くするだけなら、カテ治療、ホントは長くても一時間くらいですんじゃうのだ。 詰まった血管を元通りに近くするのは大変なんだなぁ。 さて、私に対する病状経過の説明はない。 母が説明を受けている間に、私は一階のカテ室から二階のICUへと運ばれる。 父が入院していた頃は、どこの病院のICUも、全て制覇した、というくらい通った場所だが、自分が入院するのは初めてである。 ある種のドキドキ感の中、とてもとても静かな場所に、私は寝かされた。 天井とすぐ横の壁と、アタマの後ろの窓らしき部分をチラ見するしかできなくても、改めて新しくてキレイな病院だと感じた。 複数の看護士さんに囲まれ、私はどんな些細なことも全てやってもらわなくてはならなくなっていた。 尋常じゃない数の点滴がぶら下がり、鼻の穴に酸素を吸引したまま、尿道カテーテルつけて、そけい部からバルーン管も入ってて、生命モニターを胸元にくっつけてる、というくだ人間と化していたが、この時点ではなんの苦痛も感じない。 それより心臓の中にもう一個心臓を入れられたみたいに、ずーーっとドックンドックンと音が響いてくるのが気にかかる。 『ドキドキうるさいかもしれないけどね、それがイオカさんの心臓を今サポートしてくれてるんだよ。いずれソイツのありがたみがわかるから』 と、母に説明を終えてやってきたK先生。 ICUにいる間ずっとこのドクンドクンは続いたが、音にはやがて馴れた。 水を飲んでもいいと言われて、やっと飲めたものの、がぶ飲みする気力はないし、あんなに乾いていたはずの喉は、もう元に戻っていた。不思議なくらい、お腹もすかないし喉も渇かない。 私の担当看護士さんはメインとサブが一人ずつ、某大女優さんと同じ名前のYさんと、新人Nさん。 かなり時間をおいて母がやってくる。 時間を聞くと、夜の七時半になっていた。 『あんたを待ってる間、涙がポロポロ出てきちゃって、そうしたら掃除のオバサンがね「アンタ、大丈夫よ、ここの病院は改装したばかりで、機械も全部新しいんだから」って言ってくれたの』 との母の言葉。 この人は七時間半前、『アンタのイタイのは気のせいよ』と言っていた鬼のような母と同一人物である。 6/5〜8 につづく |
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まだあまり思い出したくないような記憶だけれど、今書いて残しておかないと、またつらいことを忘れてエライ目にあいそうなので、病院で書き留めたノートを元に、さかのぼって六月の入院記録を記しておきます。 この日はいつものように昼の零時頃に起床。 起きてから着替えてトイレ、一階に降りる途中で、小さめのTシャツが苦しいような、ゆるゆるブラが苦しいような、締め付けられている感覚を味わい、階下でTシャツを脱ぎ、ブラにパイル地の長袖上着という格好になる。 昨日7.11で購入したホットドッグを暖め、枝豆とダイエットコークを手に、二階に駆け上がる。 階段の途中で息が苦しくなり、昇りきったところで便意を催す。 息苦しさが急速に高まる中、トイレへ。 朝一度目のお通じ。 息苦しさはどうにも止まらず、トイレを出たところで立っていられなくなる。 乳房と脇の下の両脇付近を強い力で締め付けられるような痛みは、実は数日前にも何度か感じていたものだが、この朝の痛みは度を越していた。 これはもう、ヒト≠フ手ではどうにもならない、イシャ≠カゃなきゃムリ。 と、苦痛の中で判断、母に救急車を依頼するものの、本気に受け取られず、『気のせいよ』と軽く退けられる。 その後数分、母はブツクサ言いながら一階で掃除を継続。 二階の廊下でのた打ち回る私は、ここで救急車を呼んでもらわなくては死ぬかそれ以上の目に合う、と判断。 割と必死に『タスケテ〜』と連呼。 仕方なさそうに母二階に登場、嫌そうに『どうしろって言うのよ』と文句を言われるが、何しろもう、母が助けてくれないなら、他人しかアテにできないので、『はやく救急車を、救急車をっ』と求める。 渋々ながら母は119に連絡。半信半疑の口調で、『なんか痛がってるんですけど〜』という調子で救助要請。 『呼んだわよ』とやり手ババァのような冷たい調子で一瞥されつつ、二度目の便意。 トイレに行かないと自分が恥ずかしい状況になるだろうと素早く判断し、よろめきながら大便。 ……これが後々救われたことになる。 何しろこのあと一週間以上トイレに行けなくなるのだ。 しかし激痛のあまり、トイレを流す気力体力共になく、恥ずかしながら母に流してくれるように頼む。 母、またも嫌そうに流し、『あんたのは気のせいなのよ』的な発言をまだしている。 ……ちなみに私は特に痛みに弱い方ではないと思う。 のちに救急隊員の方に、『今の痛みを1から10であらわすならいくつ?』と聞かれて、『10』と答えているが、私の感覚で、肋間神経痛G=A石灰沈着症F=A生理痛C≠ュらいである。 生理痛の度合いとしては、鎮痛剤を二倍飲むくらいの苦痛である。 救急車で運ばれたのは、肋間神経痛以来だが、石灰沈着症の時も、病院のトイレで苦痛のあまり出た途端膝をついた経験がある。 数分後、救急隊員到着。 待ちに待った赤の他人だ! 私の顔色を見て『顔面蒼白』とか、全身を覆った脂汗を確認して『ナンタラカンタラ』とか、いろいろ本格的に説明。 不幸なことに強烈な痛みの中なのに意識をなくせない私は、ゼエゼエしながら自ら病状を説明。 母は猫を閉じ込めるのに追われていたようだ。 目を開けることがほとんどできなかったので定かではないが、狭い二階の廊下に、隊員の方々は三人から四人、来ていたようだ。 自力で起きることも立つこともできなかったので、布製っぽいタンカで座位になりつつ階下に運び出される。 私同様つらそうな隊員さんたちのゼエゼエいう息に、こんなことなら二階に上がるんじゃなかったと思ったが、どうしようもない。 この時点で私の体重は80キロ近くか、もしくは越えるくらいあったと思う。 外に運び出されると、田舎なだけに大騒ぎである。 日曜の真昼間なので、最高のショーになってしまった。 このあたりから、さすがの母もマジでヤバイと考え始めたのか、私の病状やかかりつけの医者について、うろ覚えの知識でテキトーなことを言い始めた。 何も判らないくせして、『娘のかかりつけの病院はA病院です』『では、かかりつけのA病院に運びますか?』と聞かれて、『ハイ、お願いします』なんて言っている。 このままではわたしの*スに関わると判断した私は、自分で隊員さんに話しかける。 『この痛みは心臓ですか?』 『たぶんそうです』 『じゃあA病院には行かないでください。心臓のある病院に行ってください。A病院は隔週土曜日にしか心臓のお医者さんがいません』 母はめーさんに、上の説明をしたのが自分だと言ったそうだが、それは幻にすぎない。 かくして私は、およそ四十分以上の時間をかけて、数駅離れたF病院に運ばれたのである。 6/4後編につづく |