横田基地命名の由来

横田基地の名の由来は米軍作成地図と写真偵察から


終戦前から米軍は「YOKOTA」の呼称を使用

 (位置は、横田の1マイル半南西、箱根ヶ崎の1マイル半南南東)

    
       1946年頃の横田基地ベースオペレーションズ 陸軍の航空基地となっている)

 

はじめに

 国立国会図書館憲政資料室に、第二次大戦中の米軍による日本本土空襲や占領準備に関連する膨大な量の資料がマイクロフィルム映像として所蔵されている。この資料の中から、旧帝国陸軍多摩飛行場を特定する名に「YOKOTA」が使われている様々な書類が多数見つかり、米軍が終戦前から「YOKOTA」の呼称を使っていた事実が明らかとなった。同飛行場は米軍を中心とする占領軍により接収され、その後、米軍の基地として使われるようになって57年にもなる。同飛行場が「YOKOTA」と名付けられた時期とその由来はこれまで明確な証拠がないままに諸説が論じられ、謎なっていた。[注1]

この諸説の中に「米軍は写真撮影で調べ一番近い部落の横田の名前を使ったと、戦後になって基地の通訳から聞いた」というものがあるが、マイクロフィルム中から多数見つかった書類はこれを裏付けるものとなった。

 これまで、私は、横田基地の現状や歴史的経緯を取材対象にしてきたことから、「YOKOTA」命名の謎についても関心を持っていたが、事実を裏付ける証拠がないまま、未解決の状態にあった。多摩地域の空襲の歴史などを地道に研究している齊藤勉さん(八王子市郷土資料室運営協議会会長)から資料の一部を提供され、また、国会図書館憲政資料室で関係資料を入手できたことで「YOKOTA」命名の謎に迫ることができた。これまで横田基地取材を通して接点のあった基地広報部や基地史料部の協力を得ることができたことで、英文で、しかも軍用略語が多用された関係資料を解読することが可能となった。本稿は、その解読結果と考察をまとめたものである。

 

日本が米国を中心とする連合国に無条件降伏したのが1945年8月15日。多摩飛行場に米陸軍第1騎兵師団が進駐し接収作業を開始したのは45年9月6日の事であった(9月3日に先遣隊到着)。直ぐに、米陸軍第2戦闘貨物空輸群が同飛行場を使用した。翌46年8月に第3爆撃飛行大隊が厚木から移駐。横田飛行場を正式に米陸軍航空軍の基地として開設し、基地名を「YOKOTA ARMY AIR BASE」とした。翌47年9月に米陸軍航空軍から米空軍が独立したため、横田基地は米空軍の管理する基地となった。この飛行場を「YOKOTA」と呼ぶようになったのは、接収されて以降のことと考える説が多かったが、次に紹介する書類により覆された。


(1)米国戦略爆撃調査団の収集した資料


 第二次世界大戦が終結した後、大戦中の戦略爆撃の効果を検証するため米国戦略爆撃調査団(United States Strategic Bombing SurveyUSSBS)が米陸海軍合同の機関として設けられ、ヨーロッパ戦域と太平洋戦域でそれぞれ調査活動を行い、47年に最終報告書(Final Reports)にまとめている。この最終報告と同調査団のまとめた「太平洋調査団報告書および作成用資料(Security-Classified Pacific Survey Reports and Supporting Records,1928-1947)」、B29爆撃機による爆撃記録である「第2021爆撃軍団作戦任務報告書(Security-Classified Tactical Mission Reports of the 20th & 21st Bomber Commands, 1945)」などに綴られた資料の中には「YOKOTA」飛行場について記載された文書が多数ある。

 これらの資料には、戦中に米軍内諸組織が単独、あるいは連携して作成した書類が収集され綴られている(これらの資料の実物は、米国国立公文書館に所蔵され、マイクロフィルム化されたものが日本の国会図書館憲政資料室に所蔵されている)。


(2)前進情報センター作成の「日本の飛行場」

 「YOKOTA」飛行場への空撮ミッションから得られた情報をまとめた米軍「前進情報センター(Advance Intelligence Center)」作成の「日本の飛行場(Japanese Airfields)」との表題の資料の中に「YOKOTA」の名が使われた写真偵察に基づく資料(資料1)がある。45720日の日付けで作成された表には飛行場の位置、広さ、滑走路、格納庫、確認した飛行機の数、などの情報が整理されタイプ打ちされている。この資料により米軍が終戦前に同飛行場について「YOKOTA」名を使用していたことがわかるとともに、次の情報が読み取れる。




 資料1  前進情報センターが終戦前(45年7月20日)に作成した「日本の飛行場」にYOKOTAの名

@「YOKOTA」飛行場の位置と名前の由来  (COLUMN AB

 「YOKOTA」飛行場についての記載事項を見ると、同飛行場の位置として「YOKOTA」の1マイル半南西、「HAKONEGASAKI」の1マイル半南南東と書かれている。この位置関係から考察すると「YOKOTA」の名は村山村(現武蔵村山市)の字名である「横田」に由来することは間違いない。同センターは、多摩飛行場の名を把握していなかったため、「YOKOTA」の名を付け、補欠の候補名として「MURAYAMA」「SYOWAN」の名も挙げている。位置を示す座標は、北緯3545分、東経13922分の記載がある。

A「YOKOTA」飛行場のサイズと滑走路   (COLUMN C・D

 飛行場のCLASSとして「HAD」とされ評価している。HADheavy airdromeの意味で、滑走路のLength(長さ)が6000フィート以上でsurface(表面)はall weather(全天候)対応の飛行場という基準を満たす第1級のランクにあることを示す。同飛行場のデータとして、飛行場のサイズが6400×4100、滑走路は4100×275で北北西/南南東と記載されている(単位の記載はないがフィート)。

B「YOKOTA」飛行場の施設配置      (COLUMN EF

 飛行場の西側に、大きな格納庫(lg hanger)が10、小さな格納庫(sm hanger)が49、作業建物(shop building)が30あるなどの情報が記載されている。

コラムFには、飛行場の東と北西に、65の半地下式防壁と21の駐機場のあることが記載されている。


C「YOKOTA」飛行場への撮影ミッションは11 (COLUMN H

 44117日〜45年6月10日に多摩飛行場に対して実施された撮影ミッションは11回。各撮影ミッションの写真分析で確認された飛行機の数は表1の通り。回数が進む中で一部の機種の特定も行われている。
ミッションコードは、「3PR」が「3写真偵察隊」のミッションであることを意味し、その後の数字「4」と「5」は「1944年」「1945年」のミッションであること、次の「M」は「ミッション」の意味か他に意味があるかは不明だが、次の数字は同写真偵察隊によるその年の何番目のミッションかを示す。

D「YOKOTA」飛行場空撮による機体数確認   (COLUMN G


 各空撮ミッションにごとに、飛行機の機体数のカウントが試みられている。44117日の機体数はカウント不能となっているが、同日の昭和飛行場空撮写真に写った「YOKOTA」飛行場の上空には雲がかかっており、視界不良のためカウントできなかったものと思われる。2回目以降のミッションでは、全体の機体数だけでなく、エンジン数により(T/E=双発、S/E=単発、4/E=4発)に区分した機体数が示され、45428日以降のミッションでは、飛行機の型式による機体数の記載がある。

多摩飛行場空撮日と確認飛行機数  (表1)

写真偵察日

ミッション

確認機体数

44117

  1228

45年1月9日

  210

  227

  4月 2

  412

  413

  428

  524

  710

3PR4M4

3PR4M49

3PRM9

M

3PRM58

3PRM113

3PRM137

3PRM140

3PRM174

3PRM231

3PRM330

(計数不能)

173

154

102

50

49

43

42

55

    90

27


























Allied code-name (同型コードネーム)

Nell  =Navy Type 96 Land-based Attack Aircraft9式陸上攻撃機

Trn. =???(コード一覧になく不明)

Sally  Army Type 97 Heavy Bomber97式重爆撃機


Lily  =Army Type 99 Twin-engined Light Bomber99式双軽爆撃機

Nick   Army Type 99 Two-seat Fighter Toryu(2式複座戦闘機「屠龍」)


Frank  Experimental Fighter4式戦闘機「疾風」

Oscar  Army Type 1 Fighter Hayabusa1式戦闘機「隼」)

Frances Navy Land Based Bomber Ginga(陸上爆撃機「銀河」)

Jill   Navy Carrier Attack Aircraft Tenzan(艦上攻撃機「天山」


E「YOKOTA」飛行場はターゲットbQ809  (COLUMN I

戦闘情報の欄には「YOKOTA」飛行場がターゲット2809であることなどが記載されている。

ターゲットbフ下に「AOF 9017」の記載がある。

AOF=不明   90=日本を表す国コード   17=東京地区を表す地区コード  [注2]


3)第3写真偵察中隊とF13

  これらの情報は、44年秋からマリアナ、サイパンなどに配備された写真偵察機F‐13により高高度から撮影された偵察写真の分析などから作成されたもの。

米軍は、遠く離れた太平洋上の飛行場から日本本土を写真偵察するため、長距離飛行と高高度からの撮影が可能な写真偵察機を必要とした。この要求に応えられるようにB-29重爆撃機を写真偵察用に改造したのがF-13機だった。B-29の写真偵察機への改造は,機体製造元のボーイング社とカメラ部門を担当するフェアチャイルド社とが協力して行った。この頃、機種を示す「F」の文字は戦闘機にではなく写真偵察機に使われていた。第2航空団第311偵察航空団第3写真偵察隊は1944年、F-13の完成により超長距離の写真偵察隊として再編・訓練され、同年10月にマリアナ地域に配備され、日本本土空爆を任務とした第21爆撃機群の指揮下に入った。

 441030日にサイパンに2機のF-13が到着。このうち「東京ローズ」とのニックネームを持つ1機は111日、東京上空の写真偵察という任務を帯びてサイパンの飛行場を飛び立ち、およそ32000フィート(約9600メートル)の高高度から、東京の市街や航空機製造工場などを中心とする工場地帯を撮影した。渡辺洋二著「陸軍実験戦闘機隊」によると、この日昼過ぎ、偶々、多摩飛行場を飛び立った航空審査部林武臣准尉操縦のテスト機が国立上空を東進するF13機と遭遇している。

 そして、6日後の117日、第3写真偵察隊は多摩飛行場を初めて空撮した。上空は雲がかかり、飛行場の存在を確認しながらも飛行機数など詳細はつかんでいない。

(4)JANIS85補足資料の「YOKOTA AIRFIELD

  統合陸海軍情報調査(Joint Army-Navy Intelligence Studies)の本州北部資料(JANIS85)の補足として1945年5月1日付で編集された「YOKOTA AIRFIELD」(資料2)には、同年19日の写真偵察ミッション(3PRM9)で撮影された偵察写真とともに、分析結果が掲載されている。



資料2 1945年5月1日付で編集された「YOKOTA AIRFIELD


 
写真は、中央に飛行場が、上部に狭山丘陵、左下に多摩川が写っている。

 ロケーションの項目には、「村山貯水池の西南西4マイル、昭和飛行場の北西約2マイル、横田の西南西2マイル、立川の西北西2と3/4マイル、八高線と東福生駅の真東、玉川上水の北1と1/4マイル、箱根ヶ崎の南約2マイル、青梅の南18マイル、東京の西23マイル」と記載されている。「青梅の南18マイル」は誤りと思われる。

 説明の項目には、「南東のコーナーの外の木々の中に拡散地区があり、半地下式格納壕31と同未確認2があり、西側に26の小型、中型の格納庫がある」と記載されている。


(5)横田の名の採用時期と理由

@米軍は「YOKOTA」飛行場=多摩飛行場の存在を何時知ったか

陸軍多摩飛行場は1940年(昭和15年)815日、陸軍立川飛行場の付属機関として開設された。陸軍飛行実験部(後に陸軍航空審査本部と改称)を立川から移転、陸軍航空整備学校、陸軍航空発動機試験場、陸軍航空機気象部などの機関が設置された。これより前、38年には、熊川に国際スパイを監視する「愛国防護団」が組織されるなどスパイ活動に対する厳しい警戒体制が周辺地域に及んでいたことから、日米開戦以前に米軍の情報機関は同飛行場の存在を知らなかったと思われる。

 前記「日本の飛行場(Japanese Airfields)」の「YOKOTA」の資料(資料1)によれば「YOKOTA」飛行場が撮影されたミッションは44117日が最初であるが、111日に国立上空を東進するF13航空審査部テスト機を操縦していた林武臣准尉に目撃されていることから、111日に多摩飛行場の存在を初めて知ったことも考えられる。また、別の資料「東京の飛行場」の中にあった「飛行場YOKOTA」(資料3)の末尾に記載された「DATE OF PIRTFJ #3 1 Nov 44」の「PIR」が「パイロット情報レポート」或いは「フォト情報レポート」の意味であれば、111日の時点で「YOKOTA」飛行場の存在が報告されていたことになる。

 「YOKOTA」飛行場のターゲットbヘ「2809」とかなり後ろの番号になっていることからも、初めて認知された時期は開戦からかなり経過してからであり、F-13が偵察を始めた後の4411月1日か11月7日であったと思われる。


A「YOKOTA」飛行場の呼称使用は終戦前の45年1月頃から

 ここにあげた資料以外にも「YOKOTA」の名を飛行場名として使った書類が数点見つかっている。これらの資料中、「飛行場YOKOTA」(資料3)の作成時を推定すると「YOKOTA」名の使用は451月頃まで遡ることが出来る。



資料3  44年11月1日の日付の入った書類「飛行場YOKOTA」

Bなぜ「横田」を呼称として採用したか

 陸軍多摩飛行場は地元では一般に「福生飛行場」と呼ばれていた。米軍がYOKOTA」と命名したのは、同飛行場の位置を示す記述が「YOKOTAの1マイル半南西」としていることから考えると、村山村(現武蔵村山市)の字名である「横田」に由来することは間違いない。同飛行場周辺の地名の中から何故「横田」の名が選ばれたかについては、新たに発見した地図PLAN16TOKYOAMS L571(資料4)から推測できる。



 資料4  新たに発見された地図PLAN16TOKYOAMS L571

 この地図は、米陸軍地図サービス(Army Map Service)が戦争遂行の必要から作成したもの。日本全土や日本の支配地域の地図を作成した中の1枚で、東京エリアのこの1枚は「first edition」との記載があり1944年に作成された。この東京エリア25万分の1地図の多摩地区を見ると、青梅街道と砂川道(現日産通り)の交点として「YOKOTA」の名が載っている。

「福生」「熊川」「箱根ヶ崎」「村山」などの地名が認識されていながら「横田」に注目した理由は、この地図上では飛行場に最も近い地名表記だったことによると考えられる。この地図では、町村の行政境は載っておらず、多摩飛行場が福生町や瑞穂町にあることは理解できない。この地図上では「福生」や「熊川」は八高線や青梅線の反対側に表記されており、新発見の飛行場(多摩飛行場)に最も近い地名は「YOKOTA」と映り、この名を採用したと思われる。


まとめ

 本稿に添付した資料により、米軍が、終戦前から「YOKOTA」の呼称を使用していた事実と、その名の由来が現武蔵村山市の地名「横田」にあることが明確となっている。多摩飛行場に関する旧日本陸軍作成の書類のほとんどが接収前に焼却処分されており、同飛行場の歴史を調べることは困難だが、米軍資料の中から、同飛行場を艦載機が空襲した時のパイロットによる報告書が見つかっており、今後、接収作業に取組んだ米陸軍第一騎兵師団分遣隊などが作成した書類などが発見できれば、占領期の歴史の空白部分が埋められる可能性がある。また、横田基地史料部に眠る戦後の空軍資料が公開されれば、西多摩の戦後史を知る新たな手がかりが見つかることも期待できる。
  
                        ( 瑞穂町郷土資料館 平成15年度年報 参考研究)


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