ハイジャック横田着陸要求事件

1999年7月23日、羽田発の全日空のボーイング747型機がハイジャックされ、犯人が横田基地への飛行を要求する事件が発生した。このとき、横田基地ではどんな対応をしたのか。

羽田空港を離陸後ハイジャックされた全日空機は、横須賀、大島上空を回った後、犯人に横田基地へ行くことを要求された。午前11時50分、東京RAPCONは、「ハイジャッカーは、横田着陸を要求している」と伝えてきた。横田へ向かう途中、長島直之機長は首などを刺され死亡。犯人は操縦かんを握り横田直前で対地高度200b以下まで機体を降下させていた。

コックピットから出された副パイロットや乗客が異常に気づき、横田の直前でコックピットに踏み込み犯人を取り押さえた。副パイロットが操縦を交代して墜落など最悪の惨事は回避された。ハイジャック機は、八王子方向から多摩川を越え昭島上空で右旋回し羽田空港に戻った。

 このとき、横田基地ではハイジャック機が着陸する可能性があるとして、緊急事態対応チームが行動した。同基地の管制塔はハイジャック機の着陸を人道上の理由から許可した。ハイジャッカーが横田基地着陸を要求してから捕らえられるまでの8分間、横田RAPCONはハイジャック機周辺の空域を空け他の航空機を排除した。

基地管理部隊である第374空輸航空団の支援群司令官により臨時指揮統制センターが設置され、憲兵隊は福生警察署と連絡をとった。ハイジャック機着陸に備え、緊急事態対応チーム、武力防御を担うチームのほか、8台の航空機救助消防車、2台の指揮統制車、医療群各中隊を出動させ、安全部、広報部などの担当者を緊急に召集した。飛行機を基地内の隔離された場所に誘導するための緊急対応トラックと武装保安部隊が、滑走路を包囲。ベースタワーとベースオペレーションズは、基地各機関に状況を報告した。

緊急行動が動きだした直後、「犯人が取り押さえられハイジャック機は羽田に向かった」との情報が入り、20分程で緊急行動は解除された。第374支援群のシェリ・ザドロ大佐は「緊急事態対応クルーは準備できていた。たとえ、このハイジャック行動が何を引き起こしたとしても、私達は対応できる用意ができていたことを確信ました」と当時、話している。

また、ベースタワーの首席管制官エドウィン・ジャビス上級曹長は「緊急事態は、我々にとって目新しい事ではない」「週に1回は扱っている事だ。誰かが滑走路から4、5マイルの所を飛んでいて、緊急事態を告げる事はしばしばある。誰もが素早く対処する。例えば、消防隊は緊急電話から30秒程で車を発進できる。今回はハイジャックなので通常とは違う」「この機が何処へ行こうとしているか解らなかったので、空路を空けた。彼が左右でも上昇、下降でもできる状況にした。少しの間その機は、基地への着陸コースにいた。ベースタワーはグリーン信号(着陸許可)を送り、非常周波数で全日空61便の着陸に障害がないと送信した」と語った。

管制塔と緊急対応のクルーは、同機が右へ急旋回し上昇するのを目撃したという。

 

 一時的にしろ、操縦ライセンスを持たない人が操縦かんを握り、市街地上空を飛行したことは、基地周辺住民に不安を与えた。

      




日航ジャンボ機墜落と横田基地


1985年8月12日 18時12分に羽田を大阪に向け離陸した日航123便(ボーイング747型ジャンボ機・乗員15人、乗客509人、計524人)は離陸してまもなく大島西方上空付近で機体の異常を訴え、数十分間ダッチロールと呼ばれる異常飛行の後、18時56分すぎ、群馬県上野村の三国山の北北西約2.5キロメートル、標高1,565メートルの通称・御巣鷹の尾根に激突し炎上した。4名の重傷生存者と520名死亡の犠牲を出した

このとき、横田基地所属のC−130機が墜落現場を発見し、座間基地所属の陸軍ヘリUH-1が救助活動のため現場に入ろうとしたが、どうした訳か(日本政府から協力を拒まれ?)、墜落現場の真上でロープ降下しようとしていた救助ヘリと上空で待機していたC−130を引き返させるという不可解な命令が出た。

8月12日 横田・米軍関係の動き

1812 日航123便 羽田離陸

1824 EMG(緊急遭難信号)発信

    日航123便の墜落までに、横田は同機との回の交信を試み、横田は着陸許可
    を出した。

1830 嘉手納から横田へ向かっていた横田基地所属のC-130ジョン・グリフィン機長)が日航123便EMGを捕捉し、レーダーで機影を追尾。横田基地から捜索の指示。  

1856 日航123便の機影がレーダーから消滅・墜落

1919 捜索に入ったC-130が山林での火災を見つけた。
    「1919 Large fire from Yokota, 305, 34.」(1919分横田から
305方向
     34マイル
に大きな火災)と横田に報告し、以後現場の600b上空を旋回。

2030 横田がC-130に、座間基地から救難チームを乗せたヘリが現場に向か
    うとの連絡(ヘリの所属は、厚木基地の海兵隊との説もある)

2050 C-130が米軍救援ヘリの到着を確認

2105 米軍救難リがC-130に、煙があって着陸できないので乗員2人を降下させると
    連絡。上空を旋回していたC-130は米軍ヘリと交信を続け、横田基地に状況を
    報告した。

2106 横田基地司令部より、C-130と米軍ヘリに帰還命令が出され、降下途中の
    隊員は救助活動を中断した。米軍ヘリは救助活動続行を申し出たが、
    「日本の救助隊が向かっている」との理由で帰還を命じられたという。
    この時ヘリは樹木の近くまで降下し、隊員はロープにぶら下がっていた。

2120 初めての日本機(F4)が事故現場上空に到着

2122 その航空機が日本の救助隊であるかを横田に確認した後、C-130は現場を離れ、
    横田基地に戻った。


横田基地に帰還後、第816戦術空輸群のジョエル・シルズ副司令官はグリフィン機長に「良くやった。しかし、このことは一切マスコミには話してはいけない」と話し、マスコミの取材に応じないように命じたという。

一方、自衛隊や警察などの捜索活動は遅れた。12日夜には墜落現場を割り出していたが現場に入ろうとしなかった。救助活動に入ったのは翌朝になってからで、事故発生から12時間以上が経過していた。遅れた理由として、日航123便が放射性物質(医療用ラジオアイソトープ)を積んでいることが指摘され、また、事故機の尾翼にバランサー(バランスを取るための重り)として劣化ウランが使用されていた。火災により放射性物質が飛散して放射能汚染の可能性があったが、その事実は秘密にされ、被爆の可能性から現場立ち入りを禁止したともいわれる。詳細は不明。

現場が汚染されているとしても、長時間身体に付着しなければ大丈夫との見解が13日になって出され、翌朝から救助活動が動き始めた。情報隠しとリスク評価の遅れと情報の混乱が救助を遅らせた。

ボイスレコーダーの内容は、パイロットたちが絶望的な状況のなかで、最後まで最大限の努力をしていた様子が一部公開されたが、全部公開はされず、事故原因は今も藪の中にある。着陸許可を出していた横田の近くにいながら、なぜ山に向かったのかの謎もボイスレコーダーの中に隠されている。

救助が遅れたことの解明も行われたとは言いがたく、政府内の誰がどのような理由で米軍ヘリの救助活動を中止させたのか、米軍内だけの判断だったのかなどは今も明らかになっていない。米軍ヘリから隊員降下が行われ、その隊員の誘導により救助隊や医師が投入されていれば生存者はもっと多かったことは間違いない。

運輸省航空事故調査委員会の最終報告書には、C-130が墜落現場を発見し位置を知らせてきたことが記載されていながら、その後の米軍の救出行動は一切記述されていない。

 その事実が明らかになったのは
事故から10年後、1995年8月27日付の米軍準機関紙「スターズ・アンド ・ ストライプス」パシフィック版が「1985墜落救助のぶざま、元エアマン証言」「日本は現場到着に12時間もかけた」の見出しでカリフォルニアの地域紙「サクラメント・ビー」の記事を転載したことによる。記事を書いたのはC-130のナビゲーターだったマイケル・アントヌッチ中尉(当時)。その記事には、いち早く現場に到着した同機から見た米軍ヘリの活動、不可解な帰還命令などが詳しく書かれている。

※ 墜落原因は、後部圧力隔壁の破損とされているが、後部圧力隔壁の破損はなかったとする説、自衛隊ミサイルの接触説などが出るくらいに謎が残っている事件。横田基地を目前にしながら(青梅市上空に達しながら)、何故、反対の山側へ進路を変えたのか。着陸許可を出していた横田基地を使わないように政府筋が動いたとする説もある。これらの謎を解明しようと今も努力している方々がいる。その成果に期待したい




    アントヌッチ氏の記事を載せたスターズ&ストライプス紙1995年8月27日号太平洋版
 
 記事の中では、救出に向かったヘリの所属が厚木基地の海兵隊となっているが、陸軍座間基地所属のUH−1ヘリであったと思われる。
 週刊文春95年9月28日号に、この記事の和訳したものが掲載されている。

  「御巣鷹の謎を追う」2005年7月7日発行(宝島社)には、付録のDVDにボイスレコーダーの音声や事故を再現したCG映像が収録されている。資料も豊富に掲載されており、事故検証の参考になる。




 

 

あの時 横田基地は