渡辺恒雄 VS 高史明

 52年4月1日、読売の渡辺恒雄記者は3日前に検挙事件のあった小河内山村工作隊を取材するため単身拠点小屋を訪れた。仲間が検挙された直後であり、殺気立った隊員を相手に一問一答のインタビューを行い、大スクープとして4月3日の紙面を飾った。
 渡辺は、東大文学部卒業。学生時代は共産党東大細胞に属したが除名されている。卒業後、読売ウィークリー記者となった渡辺は、この記事をきっかけに本紙政治部に抜擢され、政界に影響力をもちつつ、読売新聞社社長にまで上り詰めている。

 この工作隊取材で、一問一答のインタビューに応じたのが高史明(コ・サミョン、作家)であった。高は、検挙事件の当日、6人の同志と共に小河内工作隊へ1週間派遣され、検挙事件直後の工作隊では隊長格となった。高は、後に、自らの個人史ともいえる小説「闇を喰む」(角川文庫)の中でこの時の様子を詳細に描いている。



 52年3月29日早朝、小河内工作隊が拠点としていた女の湯の金城飯場が警官隊に包囲され、23人の隊員が全員検挙された。その日の昼過ぎ、高史明ら7人は小河内村に到着し、金城飯場で昼食を取ろうとしていると警官隊が来て立ち退きを迫った。

 高ら7人は、金城飯場出て山に登り山小屋を見つけて拠点とした。そこは湯沢地区から上った尾根付近にあった炭焼き小屋(佐藤忠重所有)だった。4月1日には、更に、早大などの学生10数名が小河内に到着するなど、次々に隊員が補充され30人を越えた。到着した学生らは村内を回り、工作隊が弾圧に負けず健在であることを示すデモンストレーションを行った。
 
 渡辺記者は、工作隊の残存が金城飯場よりさらに山奥に拠点を作っていると聞いて小河内村に単独で入った。湯場部落の原駐在所に立ち寄り森田巡査から情報をもらった。森田巡査の止めるのも聞かず、渡辺は地下足袋を借りて午後2時半ごろ女の湯から急斜面を登り、隊員の足跡を辿って山小屋にたどり着く。渡辺は、工作隊に直面すると怯んで後戻りしようとしたが、殺気立った17人の工作隊員に取り囲まれた。渡辺は警察のスパイと疑われ、隊員の中には高に対し渡辺殺害を勧める者もいたという。しばらくの言い合いの末、渡辺は高を一問一答のインタビューに持ち込んだ。

 掲載紙によると、その内容は次のようなものだった。

Q 何を食っているか
A この村の貧民と同じものを食っている。麦七分、米三分、ミソ、ネギ、塩これだけだ。

Q 仕事は
A 聞くだけ野暮だ。革命の工作に決まっているじゃないか
 
Q 山村工作隊はまだあるのか
A どの山もみんな工作隊がいる。お前はここへまぎれこんで幸せだ。向こうの山に行った日にゃもう命はない。ここの仲間はみんなおとなしんだ。

Q 東京の生活を考えたことはないか
A 東京の生活が恋しいなどというのはお前たちの考えることだ。われわれは人民と共に生活しているときが一番楽しい。

Q 四月になっても学校は休むのか
A 俺たちはここで学問をやっているのだ。お前のしたような実践と遊離した学問はしない。四月からどうしようとこっちの勝手だよ

Q 武器は持っているか
A そんなことはお前達が書いたんだから知ってるだろう。武器はわれわれにはいくらでもある。ほれこれだってそうだ(目の前の丸太を指さす)。われわれには何だって武器になる。

Q いつまでここに立て篭もるか。
A そんなことを応える限りではない。ここにいれば十人で百人、いや千人まではやっつけられる。バズーカ砲も戦車もここでは役に立たぬ

Q 君たちは暴力革命が成功すると思っているか
A もちろん成功するさ。その暁にはお前など絞首刑だと言いたいが、お前など殺してもしょうがない。さっさと帰りたまえ

 
 このような問答をして、2時間ほどのインタビューを終え下山した。
 
 かっきり1週間の山村工作隊活動で都会に戻った高は、渡辺の書いた記事を読み、「書かれたことと、話したことに大きな違いは無かった。むしろ期待以上のものがあったと言ってもいい」と小説『闇を喰む』に書いている。
 また、山から東京に戻った高は後に査問を受け、このインタビューが組織の内情を暴露する裏切りであると追求されたことを同じ小説に書いている。

 高の引き連れた6人は都内の選りすぐりの中核自衛隊員と思われる。小説の中では、「安全のため殺してしまえ」と迫るG.Kの言葉が出てくる。渡辺が山中で殺害される可能性は否定できないが、高は殺害を許さなかったようだ。奥多摩山村工作隊に関連した殺人の情報はない。

 この時、渡辺が殺害されたとすれば、日本の政治は大きく変わっていたかもしれない。少なくともプロ野球界はずいぶん違っていただろう。




山村工作隊探訪記・読売新聞1952.4.3号