労働と学習の4年間
奥多摩山村工作隊

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 奥多摩山村工作隊。1951年から1955年まで、西多摩の山々には大勢の左翼青年が送り込まれ、山村住民への工作、小河内ダム労働者への工作が行われた。その拠点は、小河内、氷川、古里、五日市、大久野、(小宮)、檜原、恩方などに置かれた。また、独立遊撃隊員などによる軍事訓練も一時期行われていた。このページは、その歴史的事実の記録を目的にする。小河内山村工作隊 宇佐美静治 小河内事件 由井誓 渡辺恒雄 高史明 山窩サンカ 中核自衛隊 蜂起 革命 共産党 パルチザン    


 夕暮れの西多摩の山々。日本革命をめざす青年たちが、この山々の中であるいは更に奥で4年余りにわたって活動した。青年たちの苦闘にも関わらず、農山村から都市を包囲するという中国革命の模倣は、日本国民に支持されることなく終わった。


 嵐吹く野の果ての雄叫び 聞けわれらが決意 
   民族の自由かちとる日まで  われら憩いなし
 
 風雨肌をつんざくあした 冷たき雨のゆうべ 
   野に伏し岩にひそみて時をまつ われらパルチザン

                         (奥多摩山村工作隊員作 パルチザンの歌より)

 宣伝には紙芝居や幻灯がよく使われた。山村解放の意義を宣伝するため工作隊自らシナリオを用意したものもある。




 時効を過ぎたとはいえ刑事事件が絡んでいたり、左翼運動への関与が知れると不都合な人もいるので、工作隊への参加を公言している人は実名で、そのほかの参加者は当時使用していた組織内名、偽名、ニックネーム、イニシャルなどで記録することとした。


 
独立遊撃隊の活動は、山村工作隊を隠れ蓑にしていた時期(約半年)があり、その活動が混同される傾向にあった。また、工作隊員の中にも混同していた者もあるが、両組織は質的に別のものと考えて別項目とした。

記事・写真の無断使用はお断りします

はじめに
 山村工作隊は、戦後日本の混乱した共産主義運動の中で生れた。その指導がどのように行われたかについては、不明確な点が多く、ほとんど研究されていない。その解明は不十分なままになるのではないかと私には思われる。このサイトは、西多摩での工作隊の活動の歴史的事実を記録することが目的であり、その活動の歴史的・政治的な評価は、その資質のある方に委ねたい。
 インターネット上では、当時の左翼運動を漫画チックに話題にし、面白おかしくお喋りしている方々が多く見うけられる。歴史的事実を歪曲するもの以上ではありえないので、このサイトからの情報で同じようにお喋りするのは自粛してもらいたい。
 また、当時の左翼運動の過ちを、現在にダブらせて、左翼政党や個人を中傷・攻撃する保守系一部政治家も見かけるが、事実関係を曲げるものが多く、政治家としては下品な主張となっていることが多い。そうした輩にこのサイトが使われないように願う。
 私は『情報に色を付けない』『情報操作に組しない』という姿勢で情報を整理することを心がけている。この趣旨にご協力をお願いします。

 取材は、工作隊に参加したことを記録した遺稿集や当時の商業新聞記事、共産党関係の機関紙記事、自己批判書、公安機関の調査資料などを収集したほか、生存している(いた)元隊員から直接にヒヤリングするとともに、工作隊と接触のあった地元の人々の証言との照合に努めた。

不確かな伝聞情報や隊員の武勇伝の類は参考としつつも事実の確定からは排除した。
 (収集・参考資料は、山村工作隊研究資料のページに一覧としました)

 このページで公表しているのは、公表に問題がないと思われる取材の一部でしかない。後日、新たな情報を含め、プライバシー等に配慮しつつ、更に、吟味して内容を充実したいと考えている。

 

 
※ 山村工作隊・独立遊撃隊についての情報をお持ちの方はご連絡ください。メールアドレスはトップページにあります。
 1952年1月27日、学年末の試験を終えたり放棄した早大学生を中心とする20人余りが小河内に入る。女の湯地区の金城飯場で合宿し、日本共産党小河内山村工作隊を名のり、村民への工作活動を開始。村内を一軒ずつ回り、党綱領やパンフレットを配布したり、農作業を手伝うなどして村民に溶け込もうとした。しかし、外来者には好奇心を持ちながらも排他的な土地柄で工作は進まなかった。
 警察は、すぐに監視活動に入り、ビラをくばる隊員を尾行し、証拠のビラ類を集めはじめた。占領下にあった当時、共産党の活動のほとんどが占領軍の発した政令325号「占領目的阻害行為処罰令」違反となっていた。
 隊員には警戒心が乏しく、夜にはアコーディオンで歌を歌い、路上でダンスなどをするのが目撃された。二カ月ほどたった3月29日早朝、金城飯場は警官隊に包囲され、中にいた23人が検挙された。
 逮捕理由は、政令325号違反のほか、薪を拾い集めたことを盗伐・窃盗に、飯場使用 を不法侵入に、警官との言い争いを強要未遂とした。

         小河内工作隊への弾圧

只今、執筆中

 掲載予定

 
工作隊員の生活 (衣食住)は

 村民との交流

 工作隊に派遣された理由は?

 慰問団、医療工作隊、文芸工作隊の来訪

 六全協の路線転換と工作隊(活動総括は?)

 山を下りた工作隊は何処へ(砂川へ、代議士、映画監督、作家、学者、中国などと貿易)

 エピソード(木村源兵衛宅でご馳走になる、犬を食べる、河原で司法解剖)


 朝鮮戦争の最中、日本共産党の指導部は大きな混乱の中にあった。米国の占領下での日本革命の道筋についての党内論争、中ソの共産党からの干渉、GHQや警察による党組織への弾圧などが重なり、指導部は公然活動を行う表の組織と地下活動に入った裏の組織という二重構造を持つようになった。この混乱の中で軍事方針が提起され、農山村から都市を包囲するという中国革命を模倣した運動が持ち込まれた。この中での宣伝隊の役割を担ったのが日本共産党山村工作隊である。日本各地で活動したが、わずかな期間でどの地域でも歴史的には成功したと評価できるものはない。逆に、当時の左翼運動を後退させるものであった。(これらの背景については、日本共産党史や様々な立場からの戦後左翼運動史の資料を参考にしていただきたい)

西多摩を山村工作隊の活動地域とした主な理由は、次の事項が挙げられる。
@都心から40〜50キロに位置し、都市部を包囲する一翼となりうる地域。
A戦後の農地解放(民主化)は山林には及ばず、山林地主が地域を支配する封建制が残る。山村民は、窮乏化しており、民主化を求めているだろう。
B朝鮮戦争遂行の軍事基地である立川基地、横田基地に近い。
C小河内ダムを軍事基地に電力を送る軍事ダムと位置づけることで、反戦、反米運動と結合できる。



 山村工作隊は、同時期に北海道から九州まで各地に創られたが、成果のないまま六全協(1955年7月)の後に全て解消した。関東では、平野の辺縁の山地に拠点が設けられ、奥多摩山村工作隊の関係した「小河内事件」「恩方事件」は、埼玉の「横川事件」、山梨の「曙村事件」とともに山村工作隊が惹き起こした暴力事件としてクローズアップされた。


準備
 西多摩地区の共産党組織は、農民工作の一環として早くから山村民への工作を行っていた。それは共産党の軍事方針とは必ずしも連携した活動ではなかった。 51年末までの山村工作隊の活動は農民を農民委員会に組織するためパージされた労働者党員をおくり込んだものだった。

 山村工作隊っていうのが、軍事方針が出たことによって山村根拠地をつくるために結成されたようにいわれてるが、少なくとも東京にかぎっていえば、そんなことはねえよ。そのまえからあったんだ。  まえにもいったように、農村に農民委員会をつくろうというのが方針だったわけだけど、これはなかなか進まない。それで、レッドパージ組の労働者党員やなんかを、農民を組織化するために送り込んだんだよ。それが最初だよ。(共産党東京都軍事委員長大窪敏三薯「まっ直ぐ」より)

 51年8月、日本共産党都委員会内に「小河内ダム反対」の対策委員会を設置、元新宿地区委員長の岩崎貞夫が実務担当となる。横田、立川、小河内での闘争強化などを目的に多摩地区の三つの地区委員会(西多摩・北多摩・南多摩)を三多摩の大地区委員会として統合。対策委員会を現地の闘争本部化し、岩崎貞夫、西多摩の軍事委員長だった宇佐美静治らが小河内現地入りし、工作隊の受入準備をはじめた。

 51年12月24日から年末年始の休みを使い、早大社研の学生10人が小河内村に入り世論調査。戒能通孝教授の名刺を持ち、役場職員宅などに泊まった。同日、東大の学生、吉川勇一(東大・全学連中執)、武藤一羊(東大文学部)らが恩方村に入り農村調査を行う(二人は工作隊とはならなかった)。
 調査といっても、その場で調査項目を考え、山村に封建的な支配が残っていること、民主化の必要性があることなどの事例を見聞きすることであった。
  軍事優先の4カ月が村民を引き離す

 小河内隊23人が早朝に検挙された3月29日の昼過ぎには、1週間の山村工作合流を予定していた高史明(現・小説家)ら6人が小河内に到着。金城飯場への立ち入りに対して警官隊が出動したため、グループは山を上った湯沢小屋に移動した。

 4月1日には早大の10人が到着し、村内を回り「工作隊健在」のデモンストレーションを行う。この日、読売新聞の渡辺恒雄記者(現社長)が取材に訪れ、高史明がインタビューに応じている。

 4月6日、この日到着した11人が棍棒などを持ち夜中に小河内村原駐在所に押しかけ、警察電話のコードを切ったり、ガラスを割ったりした。その晩八畳岩などに泊まった工作隊員は、よく朝からの警官隊の捜索・検挙を恐れて小河内村から一時的に姿を消した。
               詳細は → 
小河内村原駐在所襲撃


 都内では、5月1日の血のメーデー事件や交番襲撃事件などが続発し、それに関与した者が身を隠すために工作隊や遊撃隊として派遣されるようになる。メーデー事件の後に、西多摩全体では400人近い人員が派遣されたと西多摩地区軍事委員の宇佐美は書き残している(大げさに思える人数だが)。それに伴い、工作隊の活動が軍事に引きづられ過激になる傾向を強めた。

 7月の第2次、3次の弾圧は、小河内ダム労務者に対するオルグ活動を嫌がる建設会社側の飯場用心棒との暴力的対立の中で起きた。飯場の用心棒との対決の必要から、遊撃隊員は短刀や棍棒を携帯しはじめたが、これが検挙の口実となった。
 第3次弾圧では、消防団も動員され山狩りが行われ、隊員には重傷を負うものもでた。

                       
早大で撒かれた工作隊のビラ
                         第3次弾圧に対する工作隊の抗議ビラ

                         
小河内工作隊への弾圧

感想・意見・質問・情報

山村工作隊と独立遊撃隊

 山村工作隊が武装組織と誤解されるのは、山村工作隊を隠れ蓑にする独立遊撃隊の存在による。独立遊撃隊は、工作隊よりも更に山奥で武闘訓練をしたが、山村工作隊を防衛するとの理由で、第2次弾圧事件では警官隊到着阻止の行動をとった(が失敗した)。


 宇佐美静治の指導する独立遊撃隊は、独自の活動を始めた。宇佐美は、「蜂起近し」の認識を持ち、武器を調達するため米兵を襲うことを数度計画・実行。しかし、7月28日、宇佐美は恩方のアジトで警官隊の急襲を受け、6年余り獄中に拘束されることとなった。他の幹部も捕まり、独立遊撃隊の活動は半年余で停滞し解消した。

                               独立遊撃隊と宇佐美静司へ

                               獄中の宇佐美静治への手紙



 
総選挙で大敗 過酷な冬との闘い

 52年10月の総選挙で共産党は全国35の議席を全て失い、軍事方針は国民の支持を得られないことを痛切に感じとった。小河内村でも共産党候補への投票前回29票が僅か7票に激減。党幹部たちは、軍事的活動を抑制するようになった。

 これにより、山村工作隊の活動の中心は農山村の人々に党の宣伝をする啓蒙活動ことに戻った。しかし、中央からの活動資金援助は無くなり、隊員は生きるために山で仕事に就くようになり宣伝活動も滞った。隊員の多くは、炭焼きや炭の運び出し、薪の生産などに従事した。中には、行商をする者もいた。
  隊員の生活は、早朝から夜まで食うために働き、就寝前に学習するという生活に様変わりした。過酷な小河内の冬は、隊員を痛めつけた。最低限の食事もままならず、木の実やキノコ、道端の草まで食べた。八畳岩での野宿は冬場無理で、辛うじて暖をとれる廃屋などにもぐりこんだ。
 そうした厳しい生活の中で、準備段階から小河内に入り二度まで検挙され、合わせて8ヶ月にわたる長期勾留を受けた岩崎貞夫は体を壊していった。53年6月に発病し入院したが快復せず、10月末に世を去った。岩崎の死は、三多摩地区委員
会や都委員会を驚かせ、必要な組織的援助を怠ったことを各委員会は自己批判した(機関紙で公表)。
                   詳しくは →
  岩崎貞夫同志の死

 
独立遊撃隊は活動停止・解散となり、隊員はそのまま山村工作隊員となったり、山を下りて立川など基地闘争の現地オルグなどに派遣された。



                                工作隊周囲の人の話



 労働と学習が中心となった工作隊

 岩崎貞夫の死後、工作隊への指導が見直され、コミッサール(政治委員)が周期的に各拠点を巡回するようになった。自給自足に近い状態はそれほど変わらなかったようだが、地域の医療工作を兼ねて医者が来て隊員の健康診断も行われるようになり、慰問団も訪れるようになった。奥多摩は医療の空白地であり、医者にかかることはほとんど無かったため村人には大いに喜ばれ、地域に溶け込む上で、医療工作は大きな力となった。

 隊員の活動は、生活維持のための収入源として山仕事などに従事することに多くが費やされ、山村工作はあまり成果を上げなかった。
 それでも、労働と学習の日々が隊員を鍛えたことは間違いない。



   古里の拠点小屋で写した古里工作隊隊員と訪問中の他の隊員(顔にモザイクあり)




  工作隊の質素な生活

各拠点により若干の違いがあるが、隊員の生活は次のようであった。

起床は6時頃。7時には仕事に出かける。炭焼きの場合、山頂近くの仕事現場まで片道2時間ほどの山道を毎日登った。食事当番はそれより早く起き、朝食と昼弁当の用意をする。食事は大釜で共同炊事。朝と昼は麦100%の麦飯で、夜は乾麺をズルダシで食べる。乾麺は11束と決まっていた。ズリダシとは、乾麺を大釜で茹で生醤油で食べるもので奥多摩では一般的だった食事。重労働にもかかわらず食事は質素だった。

 食料調達は、山仕事の稼ぎで購入したほか、援農の際に食事をいただいたり、商品にならない小さなジャガイモをもらう。栗拾い、きのこ採りもした。築地市場の同志から塩シャケの頭などが送られおかずにした。

タバコは1〜5本配給。飲酒は禁止だが村祭の時などに村民から振舞われた時は容認された。

 洗顔は沢水で。風呂は無く、沢で体を拭いていた。
 氷川では沢水を引いてシャワーにし、ドラム缶で風呂をつくり入った。
 小河内の木下製材の飯場跡には風呂があった。

トイレは、周囲に穴を掘ってトイレにした。

服は、ぼろが多かった。国民服などの古着をカンパしてもらった。

 都内へ出るには交通機関のある場所まで歩き、青梅線か五日市線を使った。秋川流域と多摩川流域との行き来は山越えをした。


 宣伝の武器=紙芝居・幻灯   

 山村工作隊の宣伝活動は、党綱領解説の冊子などの文書も村人に配布されたが、内容が難解であったり、所持することが警察問題となるため村民には敬遠された。そこで活用されたのが紙芝居と幻灯(スライド)だった。歴史学の学生や美術系学生が動員され紙芝居が作られた。(紙芝居作りをした者の中には、後に、有名な歴史学者や前衛画家になった人もいる)。
 山村工作隊が使った紙芝居 (証言、記録のあるもの)
   
「山はおれたちのものだ」
   「山城国一揆」
   「メーデー」
   「箱根風雲録」
  
   「産児制限」




 工作隊員の学習  

 工作隊員の半数以上は学生出身で、勉学への意欲を持ち続ける者も多かった。隊員に課せられた学習内容はなかったが、「アカハタ」などの党出版物が読まれ、重要な論文は読後に討論されたりもした。現在のような党員独習指定文献といったものが指定されていなかったため、隊員は、それぞれの興味のある文献を読んでいたが、退廃的な文献などは批判の
対象となるためか手にした人はいなかったようだ。学生派遣の場合は専攻科の研究論文なども読まれていた。
 隊員の愛読書に次のものがある
  スターリン論文集         ケン
  毛沢東「遊撃戦論」        由井誓

  劉少奇「共産党員の修養を論ず」

  ※渡辺恒雄(読売新聞社社長)の回顧録には、拠点潜入ルポで見た山村工作隊の読んでいた本には、マルクス、レーニンは無く、中国や朝鮮のものばかりだったとある。毛沢東語録があったとも書かれているが、この時期には毛沢東語録は出来ていなかったので、記憶違いと思われる。
  



  工作隊が歌った歌
 
 歌の好みは個人により違うが、隊員が共通して歌ったのは次のもの。

  民族独立行動隊の歌
  義勇軍行進曲(現在の中国国歌)
  けつまずいても ころんでも (中国人民解放軍軍歌の替え歌)
  青年同盟の歌
  赤旗の歌
  アメリカ民謡、ロシヤ民謡など
  パルチザンの歌(工作隊員の創った歌だが、あまり人気はなかった)
   
  インターナショナル(メーデーの時だけ)
 
  ※ 国際学連の歌や大学の校歌は、労働者出身者などに配慮して歌わなかった




 組織と活動  

 各拠点は、定着の同志4〜5人が基礎単位となり○○山村工作隊細胞を形成し、様々な理由で派遣された同志・シンパが同居していた。各細胞は、キャップを決めて活動の中心となった。
 53年からはコミッサール(政治委員)が各拠点を巡回して指導するようになった。このときコミッサールをしていた通称ベラ(ベア)は、その後、中国派の政治団体を立ち上げている。
 拠点は、小河内、氷川、古里、五日市、桧原、恩方を確認している。このほか、調布、吉野、川口、霞、などの名が挙がっているが、詳しい情報はない。小宮村には拠点は無く、五日市の工作隊が通っていた。

 52年春頃には、都心の集会などでのカンパが入り資金は潤沢であったが、53年になると運動資金は入らず、自活することが求められた。活動の基礎は、食べるための労働であった。奥多摩では、炭焼きと炭運び、薪づくりと薪運び、製材所の手伝いなどだった。五日市ではニコヨンと呼ばれた失業対策の日雇い仕事が多かった。日給240円(百円2枚と十円4枚=ニコヨン)の最低賃金だったが、隊員が請け負った炭焼き仕事は更に安く日給150円だった。隊員は、労働で疲れ、工作活動のために時間を取ることも大変だったが、共産党機関紙「アカハタ」の配達だけは欠かさなかった。氷川隊では自分たちの分を含め8部の配達だったが、山間地での配達は時間がかかった。
 各拠点では、次のようなガリ版刷りの新聞を発行したが、それも途絶えがちになっていった。

      小河内   『週刊 小河内』

      氷川    『奥多摩民主新聞』

      古里    『こり』

      恩方    『恩方村新聞』


    
     小河内工作隊が最も活発だった頃に発行された機関紙「週刊小河内」

 各拠点と隊員  次のリンクへ


           小河内工作隊の拠点と隊員

           氷川工作隊の拠点と隊員  

           古里工作隊の拠点と隊員 

           五日市工作隊の拠点と隊員
  準備中

         恩方工作隊の拠点と隊員  準備中


 53年になると、山村工作は、アカハタの購読者拡大など共産党の宣伝をすることが中心となり、そのほか医療工作、文化工作などが行われた。都内から医師と看護婦が来て行われる医療工作隊活動は、普段医療にかかることの出来ない村民にはとても喜ばれた。
 氷川では、病人を抱える生活困窮家庭の実情を役場の担当者に伝え、生活保護が受けられるように働きかけた例もある。後日、その家庭を訪れた隊員は家人から合掌して迎えられたという。

 文化工作は、紙芝居のほか人形劇団や演劇集団などが巡回公演を行っている。その後、ここでの活動などが基礎になり、有名な劇団となっているケースもある。

 また、古里では、東大から派遣された隊員が近くに住む古里小学校の生徒に勉強を教えたりもした。


                      
医療工作隊と文化工作隊  


                               医療工作隊と文化工作隊 準備中






                               奥多摩山村工作隊の人数 

                          渡辺恒雄 VS 高史明

                               山での査問はなかった

                               工作隊についての誤解・ウソ


 
                                 山村工作隊研究資料 

                                 山村工作隊関係の年表 準備中


                                 「山窩工作」はあったか?

 

次のような原資料を探しています。お持ちの方、所在に心当たりのある方は是非ご連絡ください。

●ガリ版で印刷された「週刊 小河内」「奥多摩民主新聞」などの配布物。工作隊の活動を報じたビラなど(都内、大学)

●参加したことを書いた日記、メモ書き、地図など

●写真、図画(拠点とした八畳岩、飯場、山小屋、活動などの写真やスケッチ)

●小河内事件、恩方事件の裁判資料、判決文

 連絡は、メールでお願いします

                       記事・写真の無断使用はお断りします

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