多摩飛行場の終戦処理と進駐軍による接収
1940年8月15日、多摩飛行場の開場式がおこなわれた。滑走路は全長 約1200メートル、幅50メートルで、当時としては東洋一の軍用飛行場であった。立川から飛行実験部が移転、その後陸軍航空審査本部となり、航空整備学校、発動機試験所、気象部なども置かれた。
このページでは、終戦から進駐軍による接収までの多摩飛行場をめぐる情報を整理する。
これまで、多摩飛行場に関する情報は少なく、それも伝聞情報で裏づけのないものがほとんどである。進駐軍の到着以前に関係書類のほとんどが焼却処分されたためである。関係者が後日記録した文書や進駐部隊OBのサイトに記録された情報、公文書に記録された情報を、確かさのある情報として整理した。とりわけ、元航空審査部総務課付大尉で元西多摩地区終戦処理事務所の大手吉次さんと元同庶務課軍属で終戦処理と進駐軍の下で施設管理などを行った村野助治さんの残した記録は直接資料に近いものとして最も参考とした。
審査部終戦処理委員会
昭和20年8月15日 玉音放送を期に審査部の審査業務は一切停止となり終戦処理に入った。
三千余名の航空審査部職員は一部の終戦処理・残務整理の業務に携わる要員を除き軍人は逐次復員除隊、その他の軍属・民間人も職を解かれた。
8月16日 元航空審査部総務課長の有森三雄少将が審査部終戦処理委員会委員長となり、終戦処理が開始された。
※有森少将は戦前の1934年〜1936年に英国で暮らした経験があったため英語が話せた。総務部長の職にあった隈部少将は、終戦当日の夜、家族を道連れに多摩川の川原で自決したため。
多摩飛行場の航空審査部などの施設では、少なくとも3箇所で軍の機密書類や技術資料などが積み上げられ次々に焼却処分された(多摩飛行場に関する資料が残っていないのはこのためである)。
反抗の動き(8月15日から数日間)
海軍機が飛来し、本土決戦に決起を呼びかけるビラを撒いた。
戦闘隊の黒江少佐は爆撃機「飛龍」で華中か華南に飛び、そこで抗戦することを構想したが中止。
爆撃隊の酒本少佐が爆撃機「飛龍」に燃料満載を命じ、沖縄へ飛ぶ決意を示したが中止。
爆撃隊の陸士出身の将校が兵をつれて奥多摩に篭もり本土決戦を考えたが中止。(わち)
偵察隊の中村治光少佐が、徹底抗戦を呼びかけるアジビラの印刷を指示。(わち)
※実際には作られなかった。
8月17日 航空本部指令により終戦処理要員は飛行可能な飛行機を飛行場のよく見える場所に整列させ、総出で各機のプロペラを取り外して機体の前に揃え並べた。飛行機による反抗を警戒した米軍が占領進駐を前に多摩飛行場にある飛行機を飛行できないようプロペラなどの取り外しを要求したためである。この作業は米軍機が上空から監視する中で行われた(8月28日、点検のため米軍偵察機が航空写真を撮影している)。
後日、米軍は、飛行機のジェネレーターも外しプロペラの前に置くことを要求(通信筒により指示)。これも終戦処理要員が外した。
審査部偵察隊では、プロペラを外す前に見習い工員を含め全員が記念搭乗飛行を許可され、交代で全員が搭乗を体験した。飛行機が引渡される前に地上員にも飛行体験をさせたいとの偵察隊幹部の思いからである。また、愛機との別れを前に機体をガソリンで磨き上げた。
プロペラを外され整列する日本軍機(米軍機により8月28日撮影と思われる)
復員準備 ※ 8月30日までに復員を完了するように指示があった。
武装解除 小銃と帯剣を武器庫に返納
階級章を外す
復員のため持ち帰る私物を整理(軍服、飯ごう、毛布、シーツ、私物箱)
復員のための食料配布(米を一人2升、航空食用菓子)
復員のための金員、証明書を発給
部署により、この外、工具などの持ち帰りが黙認された
8月28日 米軍は厚木飛行場に空挺師団による先遣隊を送り込み、日本占領の準備を開始。
米軍機による上空からの偵察
8月29日 陸軍航空審査部解散。航空本部の指令により陸軍航空審査部はこの日をもって解散となった。審査部の残務整理業務要員は兵器の処理などが終わらないため、そのまま航空本部に転属という形をとり多摩飛行場内で終戦処理業務を継続した。
占領部隊の到着と接収開始
9月2日 米第3艦隊ミズーリ号上での降伏調印式のあと、その日から横浜港大桟橋等に米第8軍の第一騎兵師団4〜5,000人が上陸し、3日も第8軍の主力部隊が次々に上陸。第一騎兵師団は神奈川県内や三多摩の進駐対象施設へ向かった。9月3日には米陸軍第一騎兵師団が立川、調布、多摩の各飛行場やその他の付属施設の接収を一斉に開始した。

9月3日の夕方(午後6時頃)、米陸軍第一騎兵師団の施設(工兵)部隊約60人が10台ほどのジープを連ね 営門(後の第3ゲート付近)から入場し、審査部司令部前に現れた。 すでに暗くなっており、ジープはライトを点灯していた。(※村野)
日本人は審査部施設より即刻退去を命ぜられたので、残っていた軍人は直ちに福生小学校に移動した。残務整理要員も急きょ審査部司令部より脱出し、一部は豊岡士官学校に仮住まい、その他は熊川の森田氏の別邸(現在の幸楽園の前身)に移転した。豊岡士官学校もその後まもなく別の進駐部隊により接収されたため、再び、熊川の森田別邸で合流することになった。
進駐部隊は各門を閉鎖し歩哨を置いた。
進駐部隊との折衝は審査部終戦処理委員会委員長の有森三雄少将が対応した。
武器の引渡しが即日??行われた。
※日本人の審査部施設からの退去が命じられた時点を接収開始と考える
9月4日 私物を持ち出すことが許されものが司令部に戻ったが、元庶務課の村野助治さんは施設内の設備に詳しかったことから、そのまま、進駐部隊の下で勤務することとなった。
飛行場を確保した米軍は、施設の補修に着手.. 第43工兵大隊が熊川倉庫に入る(※村野)
4日までに横田進駐の人数は約160人となる。(9月5日付け朝日新聞報道による)
9月5日 進駐部隊からの要求第1号 給水、電気、ボイラーなどの技術者の出頭指令
審査部で施設管理に従事していた元軍属が出頭
給水・ボイラー・・・・・上野秋則、寺田、岡野、大井
電気・・・・・吉田
その後、西多摩の大工、板金、ペンキ、左官などの職人が兵舎の改修に動員された
9月下旬までに、民間人事局が開設され、労務者を管理するようになる
仕事は基地施設の改修と飛行場の整備
労務提供
9月5日、米軍が横田飛行場に進駐してくると、すぐに基地内の清掃その他のための勤労奉仕の要請が出された。当時の福生町では各町会にその割り当てをおこない、「日本人らしく一生懸命働くよう」お願いした。
西多摩地区終戦連絡事務所から西多摩の各町村に対して労務提供の要請が行われた。各町村ごとに第3ゲート前の畑(現在の基地内南住宅地区)に集合し、米兵が必要な人数を基地内に入れて作業をさせた。賃金が払われた。
村野助治さんは軍属として審査部庶務で働いていたが、施設についての知識が買われて管理事務所で働き、その後30年間基地従業員として横田で働いた。
9月8日 米陸軍航空軍第90戦闘機中隊が進駐(1949年10月まで) 同中隊OBサイト記述
※進駐がこの日なのか裏づけが不十分、単なる飛来である可能性もある
米陸軍航空軍第90戦闘機中隊のものと思われる戦闘機(1947年)
9月16日 第54軍団輸送機航空団第2戦闘貨物群(2CCG)が進駐
横田飛行場を地上部隊が接収したのち、第5空軍第54軍団輸送機航空団第2戦闘空輸群(コンバット・カーゴ・グループ=2CCG)の先遣隊が進駐(同部隊の記録では9月16日)。 第2戦闘空輸群は、第5、6、7、8の4個の戦闘貨物中隊(CCS)と第384航空サービス群から成り、全ての中隊が横田進駐した。
第2戦闘空輸群は、貨物を満載したC-46輸送機を発着させた。このため舗装が不完全な横田の滑走路は亀裂が出来て使用できなくなり、更に芝地での滑走も降雨により使えなくなった。同部隊は横田飛行場の使用をあきらめ、同年12月には厚木基地移転した(2CCGの記録では1946年1月)。この間、ウイリアム・J・ベル大佐が基地の指揮権を握り、この間基地司令官となった(初代司令官)。
冬から春の間に滑走路は修復され、爆撃機などの大型機の発着が可能となる。 滑走路の改修と基地の建設は、第353エンジニアリング建築大隊と第864航空施設大隊などが行った。いわゆる、第1次拡張工事で、1950年までに滑走路を2倍の2400bに延ばし、基地面積も拡張した。
残存日本軍航空機の処理
占領部隊が武器の統制を行うと、飛行場に整然と並べられたプロペラを外された飛行機群の処理が行われた。米軍機が8月28日に上空から撮影した写真から読みとれるだけでも約120機が識別できるが、接収時には約180機があったとされる。、周辺の飛行場にあった飛行機も多摩飛行場に集められたという。
その後、航空機の発着に邪魔であるとして、残存機体をすべて飛行場北側の滑走路から離れた場所に移動させられた。日本側兵器等の処理が始まり、両者立会いの上で兵器類は飛行機ともどもスクラップとした

この時、審査部にあった無傷の捕獲米軍機は、ボーイングB-17、カーチスP-40、ムスタングP-51の各1機。米軍の★印の上に日の丸が塗り重ねられていた。
残存飛行機の一部は研究などのために米本土へ持ち帰るなどのため保存された。キ一〇二乙、三式戦二形(飛燕)、四式戦(疾風)、五式戦(決戦機)が整備された。
米本土や英国などに移送されることとなった飛行機は、横須賀田浦飛行場に飛行空輸され、横須賀から護衛空母「バーンズ」に積まれ、11月20日に出港した。台風のため一部を海中投棄。ノーホーク軍港到着は12月●●日。
12月1日 審査部の終戦処理業務も大方終了し、処理要員もこの日を持って解散。
福生憲兵隊のあった建物に終戦処理を行う西多摩地区終戦連絡事務所(福生822)が置かれた。
この日は航空本部も同時解散した。(陸軍省もこの日解散と聞く日本軍隊が全てなくなった)
第3軽爆撃群進駐と横田基地正式命名
1946年8月 第3軽爆撃群()が進駐。
8月15日に第5空軍司令官ケネスB.ウォルフ(Kenneth B. Wolfe)少将が新しい滑走路にB−17爆撃機で降りたが、その記念式典で、第3爆撃群はラバウル上空で戦死したレイモンドM.ウィルキンズ(第3爆撃群第8爆撃中隊司令官)を記念して基地名を「ウィルキンス飛行場」としたいとの表明があったようだ。しかし、米戦争省の方針が「占領した全ての飛行場は最も近い町にちなんで名付けられる」としていたことを第3爆撃群司令官エドワードH.アンダーヒル大佐が述べたことでこの命名は実現しなかった。
基地名を「横田陸軍航空基地=YOKOTA ARMY AIR BASE」とし正式に開設。その代わりに、1947年5月17日に新しく出来た基地内の野球場施設は彼に敬意を表し「ウィルキンス野球場=WILKINS BALL PARK」と命名され、この施設は今日も使用されている。
(この経緯はドン・クーパー氏のサイトに記述があったもの)
同日15機のA−26(後にB−26)が第3軽爆撃群の先遣隊として到着し、残りの航空機は後日厚木から飛来した
第35戦闘群の進駐と第3軽爆撃群のジョンソン基地移動
1950年 横田基地とジョンソン基地(現入間基地)の間で部隊の交代移動があった。ジョンソン基地の第35戦闘群(F-80、F-8、F-94)が横田基地に2月に移動。また、3〜4月に横田基地の第3軽爆撃群(B-26)はジョンソン基地に移動した。
6月に勃発した朝鮮戦争により横田基地を更に拡大させることとなった。極東空軍(FEAF)爆撃軍団がB-29を持つ第92及び第98爆撃航空団の司令部と共に横田に移動、爆撃機が朝鮮半島の爆撃に飛び立つことになった。
1952年、空軍の群(グループ)は航空団(ウイング)となり、中隊が直接所属する編制に切り換えられた。第35戦闘群は第35戦闘航空団となる。
1957年7月1日、第35戦闘航空団が解散し、第6102基地航空団が新しく組織された。
編集中
参考データ
外務省記録マイクロフィルム「連合軍日本進駐日時及び地名一覧」によると
(警視庁警務部長作成 東京都終戦連絡事務局への報告書 1945年10月16日)
9月3日 立川飛行機製作所(3300人)第5空軍オウルフ少将
昭和飛行機製作所(150人)第164中隊B隊ポエト大尉
調布飛行場(500人)第3爆撃隊トムスン大佐
航空審査部(2300人)航空隊
9月19日 立川工廠分散倉庫平井村(200人)歩兵ジョルダン大尉
歴代の陸軍航空審査部本部長
初代 陸軍中将 坂口芳太郎
二代 陸軍少将 橋本秀信
三代 陸軍少将 中西良助
四代 陸軍中将 寺本熊市
五代 陸軍中将 緒方辰善
審査部終戦処理委員会 (昭和20年8月16日発足・12月1日 解散)
委員長 陸軍少将 有森三雄 元審査部総務課長
西多摩地区終戦処理委員会・事務所 (リエイゾンオフィース)
委員長 久保下久二 (西多摩地方事務所長)
青木 (青梅警察署長)
各市町村長
審査部終戦処理委員は終戦処理委員会に転属となり業務を継続
数年後、進駐軍調達庁に改組 後の防衛施設局へ
終戦時の自決者
隈部少将 航空審査部総務部長
昭和20年8月15日夜 多摩川川原 多摩橋下流
家族などを道連れに 拳銃使用
水谷貞夫大佐 第3航空技術研究所技官 「飛龍」など爆撃機特攻爆装の責任者
昭和20年8月16日正午頃 福生町カニ坂上の半地下壕舎にて手りゅう弾使用
寺本熊市中将 航空本部長、元航空審査部本部長
昭和20年8月16日 航空本部長室にて地図2枚を重ね敷き、その上に座り
十文字に割腹、頚動脈を切り、とどめに拳銃をくわえて使用
※横田への進駐部隊到着の日時には諸説ある
@ 1945年9月2日(つばさ会報3号、大手吉次元少佐・元西多摩地区戦後連絡事務所)
これは大手氏の記憶違いで、その後同氏のつばさ会報では9月3日に改められている。
A 同年9月3日進駐開始 航空隊2300人(警視庁警務部長発東京都終戦連絡事務局への報告書)
B 同年9月3日深夜から翌日午前中まで(櫻井 隆)
C 同年9月3日夕方、騎兵の一ケ小隊ぐらい(六十余名)が占領(村野助治・会報11号)
D 同年9月3日午後6時、米陸軍一中尉に先導された約20名(素顔の横田基地)
E 同年9月6日福生市の歴史記述中に見られる(根拠不明)
F 同年9月6日この日米空軍の司令官が降伏の刀剣を受け取った(浜中武治)
警視庁の報告では、横田飛行場進駐部隊は航空隊2300人(10月15日現在)とある。


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