青梅市柚木町墜落B-29搭乗員のための米日合同慰霊祭 
US- Japan Joint memorial service For B-29 crew crashed at Ome Yugi

   2006年4月2日(日)午後130分〜3時
  墜落地点慰霊碑前  青梅市柚木町2丁目 山林

式次第

米日国歌 独唱       米空軍太平洋音楽隊員   

黙祷

主催者挨拶  野村哲也

横田基地代表の言葉    副司令官 ポール J. モントゴメリー大佐

来賓の言葉           竹内俊夫青梅市長

                   遺族からのメッセージ (代読 川島憲治)

法要                   (仏式)   即清寺 増澤秀丸住職

焼香                   (読経)   参加者全員

牧師の祈り              (キリスト教式)  横田基地牧師 イェルトン トラビス

献花        献酒            記念植樹 (紅白のモクレン)

鎮魂ラッパ  米空軍太平洋音楽隊員

閉会の言葉  青木光男


    墜落地点近くを会場に行われた米日合同慰霊祭には約150人が出席した

Message from McGinty Family
    to the people of Yugi-machi

We are forever grateful to the people of Yugi-machi for remembering the crew of T-Square 26. Thank you for the respect and dignity shown by recovering these men and placing them in sacred ground until they could be brought home to rest. We grieve the loss of your son, husband, and brother.  The McGinty family wishes that a bond of friendship between the American and Japanese families will continue to grow. And together we honor the memory of these sons of America and sons of Japan. May they find peace in death as we have, through their sacrifice, been given peace in life.

  マックギンティ・ファミリーから
       柚木町の人々へのメッセージ

私達は、T□26機のクルーを慰霊する柚木町の人々に永遠に感謝します。彼ら搭乗員が故郷での永遠の休息のために運ばれるまでの間、彼らの遺体を収容し神聖な場所に埋葬していただいたことによって示された、皆さんの敬意と威厳とに対して感謝します。私達は、あなた方の息子、夫、および兄弟が(戦争で)失われたことを深く悲しく思います。マックギンティ・ファミリーは、アメリカと日本の家族の間の友好の絆が、強まり続けることを願います。そして、私達は(戦争で失われた)これらのアメリカの息子と日本の息子の行いを共に尊敬します。彼らの犠牲を通して私達に平和な生活が与えられたごとく、彼らの死が安らかなものでありますように。

  T□26とは、柚木町に墜落したB−29の垂直尾翼に書かれた機体認識のテイルコードです。

フィラデルフィア地域新聞 06.4.2号               仮訳 川島憲治

 クラッシュ61年後の、日本での和解

 1945年4月2日、11人の乗組員と500ポンド爆弾のペイロードがあるB-29 スーパーフォートレスはサイパンから東京へ飛びたちました。 任務は航空機工場を破壊することになっていました。 低レベルで飛行した後に、打たれて、火がついて、青梅市柚木町の山村近くでクラッシュして爆発しました。その中で、ナビゲータ、フランシスC.マックギンティ〈24歳・ジャーマンタウン、フィラデルフィア〉は戦死しました。

 2週間前に、彼と同名の甥フラン・マックギンティ(ニュータウン区域)は、日本人新聞記者Noriharu Kawashimaから連絡を受けました。Kawashimaは、柚木町の人々が戦死した乗組員のために追悼式を行うと言いました、墜落の61年後にです。

「控えめに言っても、私は驚きました」と、一家の記録係として彼のおじのメダルや戦時の手紙を保管する マックギンティは言いました。トルーマン大統領によってサインされた彼のおじに対する称賛の言葉は額に入れられ彼の居間に掛かっています。

先週、星条旗新聞に掲載された記事によると、B-29が墜落した土地の所有者の野村哲也さんは死者の霊を弔うために記念碑を建設しました。新聞によると、今日の慰霊祭は日本人そしてアメリカ人の高官や、1945年に飛行機が落ちるのを見た数人を含む、およそ100人の村人が出席するでしょう。仏教徒の聖職者が事故現場を祝福し、そして、アメリカのバーボンウイスキーが「神酒の捧げもの」として注がれるという。

「日本人は私たちとの和解を望んでいます」と、マックギンティは言いました。

「彼らが思い起こすことは素晴らしいです」と、バッキンガムに住んでいる兄弟のジョン・マックギンティは言いました。

「私は驚いています」と、B-29の乗組員で、墜落する前に飛行機からパラシュートで降下したフランク・レイノルズ(当時23歳・現在84歳)は言いました。

そして、注目すべきは、墜落の後、村の人々が復活祭の月曜日にした行いです。 彼らは謹んで戦死した乗組員の遺体を埋葬しました。 マックギンティ家とレイノルズにとって、その詳細は(慰霊祭の)2週間前までは未知でした。

「明らかに、このイベントは私たちが知っていたより多くの方法でその村の人々を感動させました」と、レイノルズは言いました。

 「汚らわしい妖精」の最後の飛行

離陸は、1945年4月1日午後7時でした。 それはT□26の乗組員の17番目の任務でした。大型4発エンジンのボーイングスーパーフォートレスは高高度爆撃のために第二次世界大戦中に設計されました。 T-26はと地上員のガールフレンドにちなんで「Filthy Fay U」という愛称で呼ばれました。 ノーズアートはヌード女性のイメージが描かれていました。

「それは、赤十字の看護婦がベースに到着するまでで、パンティーとブラジャーを塗装するようにと命令が来ました。その後、飛行機は「FayU」と呼ばれました」とレイノルズは思い出した。

満月の空を飛んで7時間後に、飛行機は東京湾の中の離れ島に近づきました。

 サーチライトは飛行機を捕らえました。砲弾破裂が機体を強く揺さぶった。 2基のエンジンがノックアウトされましたが、乗組員は攻撃目標に向かい続けました。「私たちは爆弾を落としました。私たちは目標に命中させたと思いましたが、確信してはいはません。サーチライトが非常に明るかったので、私たちは見えないまま発射したのです」とレイノルズは言いました。

 インターホンが不調だったので、後部の乗組員は操縦室と交信することができませんでした。 2基のエンジンなしの状態で、コミュニケーションがなく、爆弾倉は開いたままでした。海岸線に向かって逃げるためにパイロットは鋭く機を傾けた。私たちにはそれがうまく行ったように見えましたが、私たちは悪い状態で撃たれました。 レイノルズは、「中央燃料タンク近くのいたる所でスパークしていた」と思い出しました。センター燃料タンクは800ガロンのガソリンが入っていました。スパークは炎に変わりました。消火器をつかんで、それを出そうとしましたが、私は開いた爆弾倉[ドア]のために、炎から切り離されました。

 レイノルズは、落としていなかった1つの500ポンド爆弾を見ました。 炎はそれをなめていました。「私は、爆発しそうであるのを知りました」と、彼は言いました。

 彼は、パラシュートを着けて、飛行機を捨てるように仲間に叫びました。 後部脱出口を滑り抜ける直前に、彼は、彼の.45サービスピストルを取り外して飛行機にそれを残しました。 ジャップは私を殺すかもしれないが、彼らは私の銃で私を殺さないだろうと私は考えました。彼は5人の他のものと同様にジャンプしました。 炎が飛行機の中央を巡りました。 フランシス・マックギンティら操縦室の5人の男は炎の中に捕らえられました。

 「おとうさんはいかがですか?」

フランシス・コルンバ・マックギンティは1920年のクリスマスに誕生した。 1944年12月23日、彼の24回目の誕生日の2日前、彼はフィラデルフィアの家族に手紙を書きました。

「私は快適です。私たちの飛行任務は全く困難なく、私のことは心配していない。私は、沢山食べて、本当に元気です。唯一新鮮なミルクが飲めません」

「おとうさんはいかがですか、戦闘にあって日本を爆撃している息子をどう考えていますか」

ドニゴールからのアイルランド人移民だった父パトリックは、特に末の息子(フランシス)が心配でした。

 フランが戦争に出た1943年、息子が北部フィラデルフィア・ステーションで列車に乗って、さようならと手を振ったとき、パトリックは冷静に息子を見つめました。 列車が引きちぎられたとき、パトリック・マックギンティは1つのひざをプラットホームに落して立ち崩れました。 彼の息子のジョンとエドモンドは、父を支えました。「私たちは本当におとうさんを慰めなければなりませんでした」「父は、二度とフランの生きている姿を見ないだろうという恐ろしい予感がしたと言いました」とジョン・マックギンティは思い出しました。

  彼の父は神と取引した

「おとうさんはパイプ喫煙者でした。彼は、以前はよくタバコをひどく吸っていました。 彼は、息子を安全に家に戻すなら、永遠にタバコをやめると主に約束しました。 そして、彼はタバコをやめました。 フランが生きて家に帰らなかったことは、彼を打ちのめしました。母もそうでした」と彼は言いました。

 フランマックギンティには、ガールフレンドがいました。兵役の前に、彼は北部フィラデルフィアで油配達用トラックに積荷をしました。

 仕事中の爆発と炎で、彼はひどく脚をやけどしました、そして、1942年の大部分、彼はベッドにいました。 それでも、彼は戦争に行き飛行機を飛ばすことについて話したのを、彼の兄弟ジョンは思い出しました。
「フラン、そのやけどでは空軍は決して召集はしない」と私は言ったが、彼は傷を癒し健康になった。彼は体力検査にパスし、そして、空軍は彼を召集しました」と、ジョンは言いました。

フランの戦後のプランはきまっていませんでした。 多分、彼は、軍のキャリアを作るか、または民間航空でそうするでしょう。とにかく飛行と関係があったでしょう。「彼は飛行機が好きでした」と、ジョンは言いました。

 「100万の断片」

 フランク・レイノルズは、燃えているB-29からジャンプして、凍るような空気の中を急降下しました。 それは1945年4月2日午前3時頃でした。 彼は炎から離れるまでパラシュートを開くのを待ちました。

日本人の戦闘機がB-29を追っていました。レイノルズは戦闘機のプロペラの気流の中を貫き、そして、彼は乱暴に揺らされました。彼は、シュート・シャラウドの綱を操ることでコントロールを獲得したが、スイング旋回するとき運命の爆撃機が落下するのを見た。「100万の断片に爆発しました。」と、彼は言いました。

 「事実ではありませんように」

厳しいニュースがグリーン通りのマックギンティ家の電報で到着しました。 フランは行方不明でした。その後、陸軍代表は彼が死んでいると言ってくるようになりした。

 この話はフィラデルフィアEvening Bulletin紙の10Bページに掲載されました。

「以前に行方不明として記載されたB-29ナビゲータ兼爆撃手のフランシスC.マックギンティ少尉は東京の上空で戦死した、と戦争省は彼の家族に通知しました」「低空での扇動的な状態で日本の首都を攻撃して、マックギンティ少尉の飛行機は、4月2日に開いている爆弾倉に直撃を受けて、炎上し、山腹に墜落ました」「今度の土曜日午前10時に、アッシジの聖フランシスの教会で彼を偲んでミサが行われるでしょう」
 ユニフォームを着て、微笑するフランの顔写真が添付されていました。

「おかあさんとおとうさんは本当にそれを決して乗り切りませんでした」と、ジョン・マックギンティは言いました。 「フランは、クリスマスに生まれて、復活祭に戦死した。そして、それらの休日は両親にとって決して同じではありませんでした。私は、両親がクリスマスに泣いたのを思い出します」

 戦後、飛行機から脱出した2人の男が、マックギンティの両親を訪問して、何が起こったかを彼らに話しました。しかし、マックギンティ家も乗組員も、B-29が柚木町の村の近くでクラッシュした後に何が地上で起こったかを知りませんでした。村の青年団は遺体捜索を組織しました。 彼らは、死んでいるエアマンの遺骸を集めて、近くのSokuseiji Templeに彼らを細心の注意を払って埋めました。

 マックギンティ家が知っていたすべては、戦後にセントルイスのジェファーソンBarracks National Cemeteryで、もどった遺体を埋葬したということだけでした。今日、白い花崗岩の墓石は戦死した5人の男性の名前を表示しています:カールG.スミス中尉、パイロット; セシルE.Coats少尉、副操縦士;フランシスC.マックギンティ少尉;ベンジャミンC.Stauber少尉;ウィリアム・D.マコーマック技能軍曹。

そのほか:
nジョン・ホートン(航空機関士)は飛行機から脱出したが、三度熱傷を受けて、墜落の9日後に死にました。
nケネス・パターソン軍曹は、2週間山に隠れましたが、ほとんど飢えた後に、降伏しました。 彼は陸軍刑務所に置かれました。そこで、彼が1945年5月9日に空襲で死亡した。
n シルビオ・ラマルカ軍曹、ジョン・エヴァンス軍曹、およびモリス・サンソウシ軍曹は帰国しました。
nフランク・レイノルズは、流暢な英語を話した日本人将校によって、逮捕されて、査問されました。 その将校は、彼がMIT、1944年のクラスを卒業したと彼に言いました。レイノルズは軍に残り成功し中佐で退任しました。 彼は現在、フロリダ州のラウンダーヒル(Lauderhill)に住んでいます。

「私がこの追悼式について聞いたとき、私は驚きました」 「私の想像を超えています」と、レイノルズは言いました。 「私たちは爆弾でいっぱいの飛行機から投下しました。もし、 それがここの上で起こったなら、私は、それを許せるかと疑います。 ご存知のように、私は長い間、日本人が嫌いだったんです。しかし、私には、現在、恨みが全くありません。だけれども、私は日本車を買わないつもりです。「死んだ青年たちの思い出がそうさせているということです。」と、彼は言いました。

 今日の慰霊祭のオーガナイザーは、メッセージを村の人々に送るようにマックギンティ家に頼みました。 甥のフラン・マックギンティはこれを書きました:

 「私たちはいつまでも、T□26の乗組員を覚えている柚木町の人々に感謝しています。 休息のために彼らを故郷に持ち帰ることができるまで、これらの男を収容して、彼らを聖地に置くことで示された威厳に感謝します。マックギンティ家は、アメリカ人と日本人の家族の間の友情の絆が、成長し続けるのを願っています」と。また、フラン・マックギンティは、「アッシジの聖フランシスの祈り」が読まれることをリクエストしました。 「許すことで、私たちは許されます」と。

「祈りは、私たちにとって、今日にとって、いろいろな事が非常に適切であることを意味します。私たちは憎しみを捨てました」と、彼は言いました。