5000年の時を超えてよみがえる、縄文の都


青森県三内丸山遺跡 '94


科学技術映像祭科学技術庁長官賞・日本産業映画コンクール教養部門賞

1995年/カラー/58分

 

企画製作=縄文映画製作委員会

監督=飯塚俊男   撮影=原正

録音=菊池信之   演出助手=阿部ひろ子

撮影助手=飯塚大介 録音協力=古賀陽一

音楽=廣瀬量平   語り=高橋克彦







 青森平野が八甲田山の山懐から陸奥湾に向かって広がり、その西側には小高い丘陵地帯がなだらかに続いている。この丘陵の海に向かった先端部分の台地に三内丸山がある。青森市の郊外。周辺には縄文時代の遺跡が多く分布する。
 江戸時代後期の漂泊の文人菅江真澄は、1796年(寛政8年)、桜見物に三内を訪れ、「この村の古い堰の崩れたところから、縄形、布形の古い瓦、あるいは、甕の壊れたような形をしたものを発掘したといってあるのを見た。」と遊覧記「栖家能山(すみかのやま)」に記し、土偶の頭部と土器の破片のスケッチを添えている。
 発掘調査はこれまでにも何度も行われ、縄文時代中期の遺構、遺物が発見されている。
 1992年、青森県営運動公園拡張事業による野球場の建設に先立ち、発掘調査が始まった。
 調査は、青森県埋蔵文化財調査センターが担当し、全国からさまざまな分野の専門家が参加した。当初は、2年間の予定であったが、遺構、遺物の量が膨大で、発掘調査は3年間となった。
 1994年4月、私たち撮影スタッフは遺跡の近くに一軒家を借りて撮影開始。そこから毎日発掘現場に通う日々が続いた。



 青森市三内丸山の発掘現場は、600名を超える作業員で活気づいている。酷暑の中、作業が続けられる。
 出土したおびただしい土器の量に驚かされる。
 縄文時代前期、中期の北東北のデザインを円筒土器様式と呼んでいるが、土器の文様には流行があり、100年単位くらいで少しずつ変化している。そのすべての様式を三内丸山遺跡で見ることができる。5500年前から1500年間、途切れることなく定住し続けたのだ。何という巨大な遺跡なのだろう。
 発掘の責任者、埋文センターの岡田さんは
「この遺跡の特徴は、普通腐食して見ることのできない動植物の遺体や、木や繊維で作られた道具が泥炭層から出土することです。縄文時代の生活を考えるとき、今まで土器や石器に限られていたのが、ここでは木の器、縄、繊維製品、樹皮製品など、実に多様な生活の跡が見えてきます。そればかりでなく、5500年前から4000年前まで、約1500年にわたる縄文人の住居跡がここにあります。大型住居や、倉庫、墓地、さまざまな生活用品の捨て場を伴った巨大な村が現われようとしています。」
 住居跡の東側、小さな沢は、古代のごみ捨て場だった。この沢から、世界でも最古級の朱漆塗りの木製品が、泥にまみれて姿を現わす。
 鮮やかな青緑、ヒスイが原石のまま出土する。ヒスイは日本では、新潟県の糸魚川付近でしか採れない。さらに北海道産の黒曜石、秋田県産のアスファルト、岩手県久慈産のコハクなどが見つかっている。当時の盛んな交易が偲ばれる。
 高い文化、海を通じての活発な交易…それを示す船の出現を待つ。とうとう出土した。現代のオールと寸分違わぬ舟の櫂。

 住居跡の発掘が進んでいる。丹念に土をかきあげる作業員のヘラ先に、縄文時代の人々が踏みしめた床面が伝わってくる。
 7月、直径1メートルもあるクリの柱が6本出現。見学者が相次ぐ。野球場の建設は中止となり、遺跡は保存されることに決定。
 クリの実は当時の主食、巨木には村を守る精霊が宿る。
 1500年の定住生活を支えた物と心が、しだいに明らかになっていく。




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