第3章 ホスピタル・ホスピタリティ・ハウスに期待される機能と可能性

第2章では日本の主要病院における調査を元に、ホスピタル・ホスピタリティ・ハウスの必要性と期待される役割についてふれた。この章では、「医療ソーシャルワーカー」、「ボランティア」「ホスピスマインド」「公的支援」をキーワードに、さらに踏み込んで日本のハウスの課題を分析し、これからのハウスに求められる機能、新たな可能性を探ることで、新しいハウスのあり方を提案したい。

1.医療機関との連携

ホスピタル・ホスピタリティ・ハウスを効果的に運営するために、医療機関の協力は欠かせない。その協力の仕方は、医療機関の中で出来るものと、医療機関からハウスに場所を移して行う方が良いものと、2通りある。どちらにおいても、その役割を担うのは、病院に配置されている医療ソーシャルワーカーが理想的である。  ここでは、@今、病児と付き添い家族の負担の軽減のために医療機関ができること、A医療ソーシャルワーカーとハウスの連携により、さらに病児と家族を支援し、ハウスの効果を高めることへの期待、の2点について考察する。

(1)医療機関に求められている役割

 今、病児とその家族の負担の軽減のために医療機関に求められている役割は、大きく分けると、@遠隔地から来た家族とハウスをつなぐこと、A医療機関同士が連携すること、B院内に付き添い家族のための部屋を作ること、の3点であると思う。また、どの役割も医療ソーシャルワーカーの協力が鍵となることは言うまでもない。  まず、ハウスにとって、医療機関の一番重要で基本的な役割は、遠隔地から来て宿泊場所に困っている病児の家族をハウスに結びつけることである。医療機関は、ハウスの利用者となる病児や家族が最初に訪れるところであり、病児や家族の闘病生活の方向性を決定する場所である。資料(資料3−3)を見ると、国立循環器病センターでは、来院当日の 出所「心臓病児・親の会のアンケート調査結果」 宿泊場所はホテルを利用する家族が非常に多く、見知らぬ土地で病気の子どもを抱えて不安と孤独感でいっぱいの家族の多くが、ハウスのような施設にたどり着いていないことがわかる。資料には、長い待ち時間や煩雑な入院手続きで疲れきり、わが子が重い心臓病であることの説明を受け精神的ショックも大きい状態であるのに、遠くまで帰宅している家族や車の中に寝泊りする家族も見られ、闘病生活の厳しさがうかがえる。医療機関がハウスの必要性を認識し、医療の一環として、ハウス利用の対象となる家族に確実にハウスを紹介することが重要で、医療ソーシャルワーカーを配置している病院ならそこがつなぎ役になることが望ましいと思う。また、同時に受け皿となるハウスの数を増やすことが課題となる。  次に、医療機関同士の連携について考える。「愛の家」の利用者を対象に行われた調査(資料3−4)を見ると、病院の医師や看護婦を通じ てハウスに結びついてはいるものの、入院前にハウスのことを知っていた家族はまだ半数以下であることがわかる。心臓病などの難病の場合、入院の2、3日前に突然連絡が来ることもある。子どもの病気によっては入院中に着用する浴衣や下着などを滅菌しなければならない場合もあり、最初に何着もまとめて持ってくることになる。このような入院の準備だけでも大変なのに、さらに家族の宿泊先まで探すとなると、家族の負担はどれだけ大きいだろうか。小さい子どもの手を引いて、大きな荷物を抱え、慣れない電車を乗り継いで遠隔地から病院までたどり着くと、次は大きな待合室で長時間待たされ、入院の手続きを済ませる頃には肉体的にも精神的にも疲れきっている。その状態で自分が宿泊できるところを探すのは本当に大変なことである。この家族が入院前にハウスがあることを知っていれば、宿泊場所に頭を悩ませることなく、また、いつ終わるかわからない入院のための大量の荷物を先にハウスに送っておくことも可能になる。  ここで注目したいのは、地元の主治医からハウスのことを聞いていたケースである。このケースのように、地元の病院で大きな病院を紹介するときに、同時にその地域のハウスについての情報も提供できるのが一番効果的で理想的な形であると思う。病児や家族の生活をサポートすることも医療の一環であるという視点をもって、医療機関とハウスとの連携だけでなく、医療機関同士が連携することも重要なのである。  さらなる医療機関の役割として、「マクドナルドルーム」のような部屋を、病院内に設置することが考えられる。特に病児の様態が安定しないときには、家族は病児の側を離れたくないと感じるものである。また、病院側から、病児の病状の急変時のために病院のすぐ近くに待機しているよう指示が出る場合もある。そのような場合に、第1章で少しふれた「マクドナルド・ルーム」のように、病院内に家族が休養できる部屋があれば、家族の負担はずいぶん軽減される。これについても、前述の2点と同様に、医療機関側が家族の苦労を理解し、病児の家族のサポートも医療の一環であるとの認識から、病院内の部屋を提供すれば可能になる。アメリカの病院には、患者とその家族のために、シャワーやテレビ、ベッドなどをそろえた「ファミリールーム」を設置しているところもある。このような部屋のニーズが日本にもあることが、第2章であげた資料(資料2−自由回答A48)、からもうかがえる。  ただし、ハウスの代用としてこのような部屋を利用することは避けなければならない。たとえば、病児が外泊するときにはできるだけ病院以外の刺激を与える必要があるし、また、病児によっては病院は怖くて痛い思いをするところだと認識している場合もあるからである。また、第2章で述べたように病院では日常生活を保障することは不可能なので、病院内に長期に宿泊することは付き添い家族の負担を増加させる恐れがある。また、病院という性格上、24時間物音が絶えないし、一人っきりでホッとする時間を得ることは難しいと思われる。ずっと病院の中にいたのでは気分を切り替えることも出来ないだろう。病児とその家族にとって、「病院を出る」ことが非常に重要な意味を持つのである。したがって、付き添い家族の精神的、肉体的負担を軽減するためには、このような部屋を長期に利用しないような工夫が必要となる。基本的にはハウスに滞在し、どうしても病児の近くにいなければならない場合においてのみ利用する形をとることが望ましいだろう。

(2)ハウスにおける医療ソーシャルワークの可能性

ハウスにソーシャルワーカーやカウンセリング技術を持つ相談員を求める声が調査結果からうかがえる(資料2−自由回答A23、E17、E20、資料4−1)。特に病院のソーシャルワーカーが効果的に機能していな 出所「患者・患者家族長期滞在支援制度設立に関するアンケート調査結果」 い場合、地方から出てきて頼れる人間もいない付き添い家族は相談できるところがないため、ハウス内のソーシャルワーカーやカウンセラーのような存在に対するニーズは高くなる。しかし、実状では、ハウス内に常勤のソーシャルワーカーを置くことは、現実的にほとんど不可能である。常勤のソーシャルワーカーを雇うだけの賃金を、ハウスの運営費から捻出するのはまず無理であるし、一戸建ての家屋を数家族で利用するタイプのハウスでは、ソーシャルワーカーの居場所さえ確保できない。実際に、今稼動しているハウスで、ソーシャルワーカーやカウンセラーやを配置しているところはほとんどない。ただ、ハウスマネージャーをしている神父さんやシスター、ボランティア等に相談を持ちかけているケースはかなり多く、この場合、ハウスマネージャーに専門的な知識と資質がなければ、使えるはずの福祉や医療のサービスに結びつかないというケースや、ハウスマネージャーの精神的負担が大きくなり、運営の継続が難しくなるケース等が出てくる恐れもある。また、ハウスによっては、利用者の相談に乗るようなハウスマネージャーがいないところもあるし、このように、ボランティアの資質や善意に頼った形態では安定しないだろう。  そこで、ハウスと、利用者が通っている病院の医療ソーシャルワーカーとの連携を提案したい。具体的には、医療ソーシャルワークの一環として、医療ソーシャルワーカーがハウスに出向くのである。1つのハウスにいくつかの病院から利用者がきている場合は、それらの病院同士で連携し合えばよいだろう。これには多くのメリットがある。まず、利用者が医療、福祉サービスに結びつきやすくなる点や、病院の医療ソーシャルワーカーのところまでたどり着けない利用者のニーズを発掘することが可能になるという点が上げられる。ソーシャルワーカーを利用することにまだ慣れていない病児と家族が多い中で、毎日生活する場所にソーシャルワーカーが定期的に来れば、相談者の数ははるかに増えるだろう。日常会話の中にこそニーズが隠れている場合もあるし、利用者がソーシャルワーカーを使う能力を身につけることも大切である。さらに、医療ソーシャルワーカーがハウスに出向くことで、後に述べるホスピス的なケアや遺族へのグリーフケアを行う可能性も秘めている。  ハウスは、病院という古く堅苦しい体制の中ではできないような新しくて柔軟なケアを行う可能性を持っている。病院の規制の中ではできない先駆的なことでも、ハウスで行うことは可能である。病児のきょうだいの子どもに対するサポートも、グリーフケアも、病院よりハウス内の方が行いやすいだろう。転院先を探すことに忙しい病院の医療ソーシャルワークより、ずっと高度で確実な医療ソーシャルワークを効果的に行う場としてもハウスは機能するのではないだろうか。  もちろん、どの病院にも必要な数のソーシャルワーカーが配置され、十分に医療ソーシャルワークを行える環境を整え、病児やその家族を十二分にサポートできるようになることも大切である。しかし、その場合でも、週に1度でもハウスを訪れ、利用者との距離を縮め、ニーズを発掘する努力は必要であると思う。ハウスは医療ソーシャルワークを行う場に十分値するだろう。  これは、病院の医療ソーシャルワーカーの数が増えないことには難しい課題であるが、ハウスの存在、ハウスの運営、ハウスでの医療ソーシャルワークも医療の一環であるという視点から、医療ソーシャルワーカーがハウスのソーシャルワーカーとしても機能するというのが最終的に理想的な形だと思う。

2.ボランティアの可能性

 第3章でもふれたように、アメリカのようにボランティア文化が発達していない日本に、アメリカのハウスのボランティアの形態をそのまま輸入してもなじまないだろう。利用者の声からも、「あまり生活に踏み込まないボランティア」を求める声が目立っている。では、日本のハウスになじみ、効果が期待されるボランティアとはどのようなものなのか。ハウスのどの部分にボランティアを導入するのが効果的なのか。ここではハウスにおけるボランティアの可能性について考えてみたい。 

(1)ボランティアとホスピタリティ

 アメリカのようにボランティアがまだ生活に定着していない日本のハウスになじむボランティアとはどのようなものか、東京都文京区で教会が主体となって運営している「ぶどうの家」を例にとって考えたい。  「ぶどうの家」は、教会が主体となって運営しているという背景もあって、日本のハウスの中で特にボランティアが定着しているハウスである。ここでは、ボランティアと利用者の直接的な接触を極力避けるというルールがあることが特徴的である。「ぶどうの家」の登録ボランティアは約30人ほどで、主な仕事は月に1回の大そうじ、利用者の受け付け業務、利用者がハウスを去るときに渡すキルトの作成などである。この「キルト」には、ハウスを出て、地元に帰っても、つらいときにはキルトを見て一人ではないのだと感じてほしいという願いがこもっており、アメリカのマクドナルドハウスの視察時にヒントを得たものである。  このように、「ハウスにホスピタリティを与える」というボランティア活動を通じて、利用者の生活に深く踏み込まなくても、闘病生活の苦労を理解しようとし、支えたいと思う気持ちを伝えることは可能なのである。ハウスという一つの建物に、家庭的な温かい雰囲気を与え、ハウスの機能を維持させるボランティアなら、日本においても十分なじみ、ニーズもあるのではないだろうか。

(2)ボランティアとプレイルーム

 先述のように、外泊中の病児とそのきょうだいがふれあい、遊び、成長する場としてのプレイルームはハウスにとって重要なものである。そこに保育ボランティアや教育ボランティアを導入することで、その効果をより高めることができるのではないだろうか。プレイルームであれば、看病に疲れきって精神的にも参っている母親には直接関わらずに、子どもの成長を助け、母親に対するレスパイト・ケア的な効果を生み出すことが出来る。院内のプレイルームにボランティアを配置することももちろん大切だが、ハウス内に配置することにより得られる効果が二つある。 一つは病院の中に配置するとボランティアや病児のきょうだいなど人の出入りが多くなり、抵抗力が落ちている病児への感染の危険があるのに対し、ハウスに配置すれば感染の危険性を避けられるという効果である。  もう一つ期待されるのは、先述の通り、病児のきょうだいを連れて面会に行く親の労苦を軽減するというレスパイト・ケア的効果である。これには同時に病児のきょうだいの子どもの日常生活を保障するという効果もある。病児のきょうだいと病児とのつながりを大切にすることはもちろん重要であるが、現実的に病児のきょうだいは病棟に入ることすらできないので、面会時間中は廊下や待合室で親を待ち、親もそれが気がかりで精神的に疲れてしまう場合がある。きょうだいの子どもや親に余裕があるときは良いが、そうでないときはいつでも安心して病児をハウスに預けることができれば、親も病児の付き添いに安心して集中することができるだろう。  今のところ、病児のきょうだいに対するサポートはほとんどなく、ごく一部の企業が病児のきょうだいを預かるサービスを始めたところ、かなり高額であるにもかかわらず利用する親は後を絶たない。これは、それだけ病児のきょうだいのサポートに対するニーズが高いということであり、同時に、高額な利用料を払えない家族の子どもは病院の廊下で泣いていなければならないということを示している。病児の治療だけでなく、病児のきょうだいの生活にまで視野を広げてサポートしなければ、病児のきょうだいの子どもの成長は保障されないのである。病児はもちろん、そのきょうだいの子どもも「子ども」として成長することを保障されなければならない。その意味でも、病児のきょうだいまで対象にするボランティアが非常に意義深いものであることがわかる。  病児に直接的に関わることには「感染」という制限がある保育ボランティアも、ハウスなら病児のきょうだいにまで対象を広げて十分に機能できるのである。

(3)ボランティアのオリエンテーション

 ハウスは「病気」や「死」という非常にデリケートな問題を扱う場であるため、ボランティアのセンスに対して慎重にならざるを得ない。それには、ボランティア採用時にていねいな適正チェックすることはもちろん、ボランティアにオリエンテーションを行うことが非常に重要になってくる。利用者に直接関わらないといっても、病児や付き添い家族に接した経験がないボランティアにはハウスの理念や病児や家族がおかれている状況、病児や家族の心情を理解する努力を促す必要がある。逆に、病児やその家族に接した経験があるボランティア、または実際に病気や付き添いの経験があるボランティアに対しては、経験がある分、過剰な感情移入がないよう、感情の押し付けが起こらないよう、調整する必要も出てくる。オリエンテーションを行うことで、利用者とボランティアの距離を調整することが大切なのである。  また、常に利用者の声に耳を傾け、ニーズに合わせたサポートを行うことが何よりも重要になるので、そのニーズ把握も含めてボランティアを中立的な立場からアセスメントし、コーディネート、さらにはスーパーバイズまでできる人物が必要になるだろう。 

3.ホスピスマインド

 ホスピスケアは、ターミナルの患者の疼きに対する「緩和ケア」という医療の一分野のみに限られたものではなく、不安の除去、孤立化の防止、自己実現達成の援助などをも含み、最後まで心理的・社会的生活を尊重し、生を支援しようという、人間の尊厳やクオリティ・オブ・ライフにまで関わる全人的概念である。患者の週末期医療を表す「ターミナルケア」の概念とは異なり、必要があれば、患者だけでなく、患者の家族や友人などに働きかけることも含んでいる。このホスピスケアの根底に流れているホスピスマインドを実現しようとする動きがホスピス運動で、たとえ命に関わる難病患者であっても、「ぎりぎりまで良く生きる」という理念の下に展開されている。先述のアメリカのマクドナルドハウス設立運動は、このホスピス運動の流れの中で起こったものである。  1960年代にアメリカの病院内に生まれた、患者や家族のメンタルな面を重視しようとする新しい医療の意識変革に、イギリスで起こったホスピス運動の理念が加わり、1970年代以降、アメリカホスピス運動が広まった。患者の家族の滞在施設が必要であるという発想がこの運動の中でうまれ、マクドナルドハウスが設立されたのである。「温かくて家庭的な雰囲気」、「厳しい状況の中で希望をもって病気に立ち向かえる環境作り」など、ホスピス運動の理念がハウスの理念に生きている。 このことに着目すると、これからのハウスの方向性を見出すことができるのではないだろうか。

(1)「死」の理解とデス・エデュケーション

 ハウスを利用する病児の病気は、基本的に長期入院や度重なる検査を余儀なくされるレベルの難病であるため、当然「死」というものにふれる機会も多くなる。病児は、同室の子どもの「死」の経験などを通して、子どもなりに「死」というものについて考え、理解しようとする。その過程で、「○○ちゃんはもう退院したの」というような、看護婦や親の嘘やごまかしに傷ついたり、「死」について誰にも説明してもらえずに、一人きりで「死」を極端に恐れる子どもになってしまう可能性もある。子どもであっても「死ぬ」ということを子どもなりの感性で認識し、考えている。アメリカのホスピスでは「チャプレン」という、病院づきの神父や牧師などの宗教家がその役目にあたって「死」ということを説明し、末期の患者に寄り添っている。また、このチャプレンは、ホスピス病棟ではなくても、医療ソーシャルワーカーや「チャイルドライフスペシャリスト」と呼ばれる病児の生活全体を支える専門職と協力して、病児の不安を取り除くよう努めている。この、病児に対する死の準備教育はデス・エデュケーションと呼ばれ、日本の病院においても必要性の高いプログラムと思われる。  しかし、日本にはこのような習慣は定着しておらず、「死」ということについてもタブー視される傾向が強い。アメリカにはキリスト教という共通の大きな土台があるため、日本とは状況が多少異なるという指摘もあるのだが、キリスト教の概念を用いなくても、病児の「死」に対する不安を取り除くために尽力することは可能であるし、重要なことであると思う。病児の孤独感、不安感を軽減し、安心して治療に専念できるようにすることがなにより大切なので、ホスピス病棟への入院対象とならない病児でも、命に関わる難病である限り、デス・エデュケーションは必要なのである。タブー視されている「死」への理解は、実は、病児の不安や孤独感を取り除き、病児の「生」を支えるものなのではないだろうか。  具体的な方法については、日本においてはキリスト教などの宗教に抵抗感を覚える家族もいるため、宗教色の強いチャプレンは馴染まないかもしれないので、医療ソーシャルワーカーの役割にデス・エデュケーションを加えることが望ましいと思われる。しかし、現状のソーシャルワーカーの数で、また、告知にも踏みとどまっているような今の日本の病院で、デス・エデュケーションを行うことはまだ難しいだろう。  しかし、ハウスには、個室でゆっくり子どもと話をし、子どもの疑問に答え、不安を取り除ける可能性がある。病院の医療ソーシャルワーカーがハウスと連携することが出来れば、「死」に対する孤独や不安から一人でも多くの子どもを救う場所として、ハウスが機能することも可能なのではないだろうか。  また、病児とその家族は常に表裏をなし、病児が「死」について考えるときは、その家族もまた「死」を考えることになる。難病児と家族の関係において、子どもと同様に、あるいはそれ以上に親は「死」というものに敏感になる傾向がある。しかし、病児と同様に、親も得体の知れない「死」という大きなものと孤独にたたかうのはつらい。子どもにとってデス・エデュケーションが重要であるのと同様、親にもまたデス・エデュケーションを行う必要がでてくる。  ハウスはホスピス病棟ではないが、病児の家族に対してもホスピスマインドに基づいたデス・エデュケーションを行うことは可能である。最終的には、ハウスでも病院でも「死」に対する疑問に答え、孤独感や不安感を軽減することができるのが理想だが、現在の日本の病院ではまだ困難であることが予想されるため、まずは、ハウスに先導的にこのニーズにこたえることを期待しても良いと思う。ハウスは、病院よりも進んだ支援を行う場として機能する可能性をも持っているのである。

(2)ホスピスケア

 先述した通り、ハウスはホスピス病棟ではない。しかし、ターミナルにある病児とその家族に対するホスピスケアを行う場として機能することは可能である。(1)で述べたデス・エデュケーションも含め、ターミナルの状態の子どもと家族を、在宅ホスピス的に支えることはできないだろうか。例えば、ターミナルの状態にある子どもが病院から出たいと願うなら、ハウスに外泊し、ハウスで死を迎えることも可能なのではないだろうか。このような場合、本当の自分の家に帰ることが一番良いとは思うが、体力的に無理な場合や、地元に在宅ホスピスケアを行える医療機関がない場合には、せめてハウスの一部屋で家族に囲まれてゆっくりと死を迎えることが出来れば、と思う。これには近くの病院の理解と協力、連携、在宅ケアを行える設備等が必要となるため、実現は難しいかもしれないが、一人の子どもの人権を保障するためには必要なことなのではないだろうか。

(3)グリーフケア

 すでに述べた通り、ハウスを利用する子どもは基本的に難病児であるため、残念にも子どもを亡くす家族も出てくる。頼れる人もいない見知らぬ土地で、先の見えない闘病生活の末に最愛の子どもを無くし、その悲しみと共にハウスを後にする家族に対して、何か少しでもサポートできることはないのだろうか。中には、二度と目を覚ますことのない子どもと2人きりで地元に帰る母親もいる。長期にわたる看病疲れと絶望感、悲しみ、喪失感、自責感は、一人きりで抱えるには重すぎるのではないだろうか。また、子どもの死という「危機」に対して適切な介入が行われなかった場合、残された家族に残るダメージは大きく、その悲嘆から自殺や夫婦の離婚にまで追い込まれるケースもある。こうなる前に危機に介入し、家族の悲嘆を少しでも軽減することが大切である。  ところが、遺族となってしまった家族のためのグリーフケア(悲嘆の癒しの作業)を行える病院は、日本にはまだほとんどない。しかし、亡くなった子どもと家族は、いったんはハウスに帰ってくる。そこに病院の医療ソーシャルワーカーが出向き、グリーフワークを行うことが出来れば、家族の精神的ダメージが少しは軽減されるのではないだろうか。病児とその家族の頑張りを認め、自責の念にさいなまれる家族に「あなたのせいではない」ということを伝える人間は一人でも多いほうが良い。その場ではソーシャルワーカーの援助を必要としないようでも、地元の専門的な機関や、大切な人と死別した経験を持つ人たちで作っている団体を紹介しておくことができれば、地元に帰ってからの悲嘆作業がうまくいかなかったときに役立つかもしれない。治療するところが無くなったら医療の役割が終わるわけではない。治療が終わったら病院やハウスとの関係が途絶え、一人っきりになるというわけではないことを伝えることが大切だと思う。   子どもを亡くした家族にとって、残念ながら、現在の一般的な病院は温かい場所ではない。子どもの死亡が確認されれば、死亡解剖を行うか否かの質問や、葬儀の手配など現実的な言葉が次々に医療関係者の口から聞かれ、家族は大きな悲しみの中で、次々に事務的な手続きをこなさなければならない。入院中の子どもの荷物を片付ける作業は、相当つらいものだろう。このような状況の家族に、心のこもった効果的なグリーフワークを行うことはかなり難しいと思われる。  しかし、ハウスに帰ってほんの少し気が休まっているときにならグリーフワークを適切に行うことが出来るかもしれない。ハウスマネージャーと医療ソーシャルワーカーが協力して、少しでも遺族の支えになることができればすばらしいと思う。  日本の病院は「死」に関する問題に対してまだ未発達であると思う。治療すること、治療できる部分にのみ目を向けるのではなく、病気や死に対して病児や家族が抱いている不安にも、もっと目を向けるべきである。ホスピタル・ホスピタリティ・ハウスには、温かく家庭的な雰囲気の中で、しっかりと病気や死と向き合い、ぎりぎりの状況でも希望をもって生きることを支援する場所としての機能もある。ホスピスマインドやホスピタリティを病院に定着させることを目標に、まずはハウスが先駆的に、病児とその家族の「死」と「生」を支援していくことも可能なのではないだろうか。

4.公的支援

(1)ホスピタル・ホスピタリティ・ハウスのハード面の課題

 現在、日本のホスピタル・ホスピタリティ・ハウスには、マンションの一室や家屋を部屋単位で数家族で利用しているものが多い。そのため、風呂や台所、トイレが共同だったり、他の家族とふすま1枚の仕切りしかないなど、気をつかったり、プライバシーを保つのが難しい面があった(資料−自由回答B1)。調査結果を見ても、気を使わずにすみ、プライバシーも保てる部屋に対するニーズが高いことがわかる(資料3−5)。 出所「患者・患者家族長期滞在支援制度設立に関するアンケート調査結果」  また、一般的な物件なので、バリアフリーのつくりになっていないため、重い心臓病児には階段を上ることができなかったり、車椅子を使っている場合に段差に困るということがあった。同じ状況の家族や病児の相互の支えあいという重要な役割を果たすためのプレイルームや共用スペースも一般的な物件の中に作るのは難しい。  さらに、部屋は善意の提供に頼るため、病院の近くに部屋を見つけることは困難を極める。病児の家族が少しでも病院の近くにいたいと感じていることや、場合によっては病状の急変に備えて病院から20分以内に来られるところに待機するよう指示が出ることなどを考慮すると、ハウスは病院に近ければ近いほど良いのであるが、病院が建っている地域の特性(土地の値段の高さ、国有地、高級住宅街等)もあり、その実現はかなり難しい。しかし、病院と同じ都道府県に住んでいても、病院まで1時間以上かかる家族にハウスのニーズがあるように、病院に近くなくてはハウスはその役割を果たしきれないのである。  病院に近く、プライバシーを守れる個室とプレイルームなどの共用スペースを備えたバリアフリーな施設でなければ、ホスピタル・ホスピタリティ・ハウスとしての機能を最大限に発揮することはできない。ここに民間団体や個人の善意の限界が感じられる。  そこで、この限界を超えるために求められているのが、公的な支援であると私は考える。病室の床に新聞紙を敷いて眠ったり、長期に渡る闘病生活の苦労で家庭が崩壊したり、入院している子どもが教育さえも受けることが出来ないという悲惨な医療の現場には「最低限度の生活の保障」は存在しない。国として、医療の保障と同時に生活の保障をしていかなければならないだろう。これについては次で詳しく述べることにする。

(2)公的支援の経過と課題

 国立がんセンターの母親たちがアメリカのマクドナルドハウスを知り、ファミリーハウス運動を起こしはじめた1991年、厚生省もまた「これからの母子医療に関する検討会」において、入院している小児に対する心理や児童福祉の専門家の必要性とともに、病院敷地内における家族の宿泊施設の必要性について、アメリカの例を紹介しつつ、検討課題に挙げている。これは、国がホスピタル・ホスピタリティ・ハウスのような施設の必要性を初めて指摘したものである。また、「6A母の会」によるパネルディスカッションに来ていた白江氏が下村奏参議院議員の秘書であったことから、1991年8月27日の参議院予算委員会で下村参議院議員が宿泊施設の必要性を提議した時にも、「これからの母子医療に関する中間報告」の例をあげ、必要性が認められている。  それにも関わらず、その後「6A母の会」が施設設立の要望書を提出したときにはハウスの必要性は認められず、厚生省の返事は「東京に来なくて地元にいい病院があるでしょう」というものだった。しかし、口コミを含む情報が厚生省に流れ、正確な実態が把握されてきた1992年、厚生省関係者から「国がやるべきことを、みなさんがやってくださっている」という言葉がでるまでになった。「かんがる〜の家」にも見学に訪れ、1994年には厚生省の外郭団体「こども未来財団」からの委託事業として300万円の調査研究費が「愛の家」運営委員会に渡された。 他にも、日本のハウスに対する公的な協力として、1983年、北海道の全額出資で建設された「北海道難病センター」が宿泊施設を併設していたことや、1995年、「(財)がんの子供を守る会」が東京都中央区から区立住宅を借り受けて「あかつきハウス」を開所していることがあげられる。しかし、都道府県レベルの支援になると、ハウスの性格上、ハウスのある都道府県以外に住む家族の利用が多いため、制約がかかることが多く、このような支援策は数少ない。 1998年、ハウスの必要性を訴える声がようやく実を結び、厚生省が景気対策臨時緊急特別枠の概算要求で「慢性疾患児家族宿泊施設の整備」として94億円を要求した。その後、第3次補正予算で19億円計上され、40施設を対象に建設費が補助されることに決まった。この補助を利用して、2000年を目標にいくつかの宿泊施設が建設されつつある。  しかし、建設費のみで土地や運営に関わる補助がないことや、整備事業体が「設置を必要とする小児病等のある病院」のみに限定されている(民間団体が整備事業体になることが出来ない)ことなど問題点も多い。実際にこの助成を受けてハウスを建設するところでも、運営費や職員、ボランティア等について頭を悩ませているし、ハウスを維持してきたボランティア団体が助成を受けることが出来ないため、ハウス建設につながりにくいという欠点がある。もっとハウスの現状を理解し、これらの点が改善されれば、ハウスがさらに増設されることは明らかなので、非常に残念である。建設費も大切だが、それにも増して土地の提供や継続的な運営費は重要なものである。病院によっては、周囲の土地が非常に高額であることや、国立病院の近くには国有地が多いことを考慮すると、国有地、公有地の借り上げが可能になれば建設できるハウスもある。日本にはまだ国有地を借りて施設を建設した例はないが、香港のマクドナルドハウスは国有地に建設されている。  さらに、今回は単年度の補助であるが、これを継続的なものにしていかなければならない。ハウスに対するニーズがなくなることはありえないのだから、これからも国は、より「使える」制度を目指して提供していくべきだろう。  また、医療技術の進歩が日々目覚しい日本において、最近では病気に対する治療のみでなく、患者や患者家族の人権や精神的側面に目を向ける動きがでてきている。これからの医療は、「小児慢性特定疾患研究事業」「福祉医療費助成制度」等のように難病に対して補助が出るのと同様に、医療の一環として病児や家族の宿泊に関しても補助が出てしかるべきだと思う。病児とその家族の生活の保障のために、さらなる公的な支援が必要とされている。 また、実際のところ、高度先端医療を求めて遠隔地から病院の近くに来て生活している家族には、その病院のある土地の制度は適用されないことが多く、地元の福祉事務所などと何度も煩雑な手続きを行わなければならない。最寄の福祉事務所での手続きでさえ大変なことなのに、さらに地元との手続きとなると、面会時間に追われる闘病生活の中では困難で、結果、福祉サービスに結びつきにくくなっている。病気治療のために遠隔地から来ている病児と家族への補助については、その病院のある土地の公的機関が代行するか、あるいは、新たにそのような状況の人のための制度を立ち上げる必要があるだろう。本来なら、出身地に関わらず闘病生活の苦労はみな同じなので、よりレベルの高い補助が平等に行われるよう新しい制度を作るべきだと思うが、それが実現するまでの間、せめて一番近い公的機関で地元の制度も受けられるようにしなければならないだろう。  ハウスの運営には、公的な機関よりも民間団体が関わるほうが、より柔軟に、きめ細かな対応が出来ると思う。ハウスの性格は運営者に左右されるものなので、病院のすぐ近くでニーズを感じている民間団体ならば、各病院の実状に沿った支援を行うことが可能だろう。しかし、前に述べたとおり、高額な土地代や建設費、運営費を民間団体が作り出すには限界がある。特に土地に関してはすでに述べた通りである。その部分に公的な支援の役割が期待されていると思う。また、病児や家族の生活は、住民票のある土地に関わらず、保障されなければならない。その保障を行うことは国の義務である。この部分にも、公的な支援の役割がある。この2点に関して、これからも続けて国に訴えていく必要があるだろう。


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