第1章 ホスピタル・ホスピタリティ・ハウスの起源とアメリカにおける展開 

第1章では、「ホスピタル・ホスピタリティ・ハウス」という施設について、第1号ホスピタル・ホスピタリティ・ハウスを生み出したアメリカのハウスを例にとり、ハウスの代表的な形であるマクドナルドハウスに触れつつ紹介したい。 

1.ホスピタル・ホスピタリティ・ゲスト・ハウス

 ホスピタル・ホスピタリティ・ハウス(以後ハウスと省略)は、正式名称をホスピタル・ホスピタリティ・ゲスト・ハウス(Hospital Hospitality guest House)といい、患者とその家族が滞在できる施設の総称である。「ホスピタリティ」には「温かく迎え入れる」「温かくもてなす」という意味があることから、「病気の患者と家族を温かく迎え入れる家」という意味の施設であることがわかる。  ハウスは、特定の病院でしか受けられない難病の治療のために遠隔地から来る患者あるいは病児とその家族が、病院の近くに安価に宿泊でき、また同時に同じような境遇にある家族との情報交換や相互の支えあいまで目的とする施設で、特に医療費が高額なアメリカにおいて必要性が高く、早い時期から発展してきた。  第1号ホスピタル・ホスピタリティ・ハウスは、アメリカの白血病患者のケビン少年の遺族が1972年7月26日にオープンした「ザ・ケビン・ゲスト・ハウス」である。ケビン氏の治療中、両親は近くのモーテルを利用していたが、同じように病気と闘っている他の家族が経済的に苦しい状況で、病院のロビーや車中に寝泊りするのを目の当たりにしていた。そこで、ケビン少年の死後、父親は倉庫に使われていた古い建物を改造し、病気の子どもと家族が宿泊できる施設を作ったのである。「ザ・ケビン・ゲスト・ハウス」は、6室と共有の台所とリビングルーム、子どもが遊ぶための中庭まで備えたものであった。   現在ハウスの機能を持つ部屋は何種類もあるが、「ザ・ケビン・ゲスト・ハウス」のようにいくつかのプライバシーが守られる部屋があり、台所や食堂などの共用スペースとプレイルームを備える形はかなり理想的なものであると思う。この、質の高い「ザ・ケビン・ゲスト・ハウス」が、後述するマクドナルドハウスにインスピレーションを与え、アメリカのハウスの歴史を方向付けたのである。   現在ではNAHHH(National Association of Hosspital Hospitality Houses)という、初期にホスピタル・ホスピタリティ・ハウスを開設した人たちの協力で発足した非営利組織の全米ネットワークがあり、治療を受ける病院の近くに滞在施設を探す家族にフリーダイヤルで情報を提供したり、各ハウスの運営ノウハウの交換・研修、新設ハウスへのノウハウ提供などを行っている。本部事務局はメリーランド州におかれ、1996年9月の時点で会員ハウス数は120(稼働中の施設が89・設立準備中の施設が31)である。運営資金は会員ハウスと他からの寄付により、各ハウスの代表らが交代で理事を務め、スタッフはパートタイマーを含めて3人、コンピュータによる事務処理などにボランティアが加わっている。  全米におけるホスピタル・ホスピタリティ・ハウスの機能を持つ室数については、個人が一時的に自宅の一室を提供する場合や病院が研修医用宿舎の一部を提供している場合、ホテルが一部の客室をディスカウント料金にしている場合もあり、NAHHHも把握できていないというのが現状である。  実際のハウスの運営は、一般的に、フルタイムのスタッフやボランティア、理事に支えられており、宿泊料は患者やその家族が利用できるような安価な料金設定にしてあるうえに、その料金でも支払えない家族は免除されることになっている。ハウスの利用料収入だけでは運営できないため、企業から寄付を集めたり、地域のスポーツ大会やダンスパーティーなどのイベントを利用して寄付を集めたりするが、理事からの拠出も収入の一部である。アメリカではハウスの理事に選ばれることは名誉なことで、日本でいうロータリークラブのメンバーのような人が多いということである。  ボランティアについても、フィラデルフィアの、あるハウス(43室)では、6人のフルタイムスタッフに対して登録ボランティアは200人、そのうち定期的に活動している人が150人いるという状況である。ボランティアの内容は、電話の応対や到着者の出迎え、施設の利用方法の説明、施設の清掃、病院への送迎などのほか、広報活動、パーティーなどの特別行事の手伝い、キルトを縫ったり、ケーキ、クッキー、パイなどをたまに焼くボランティアまで、ハウスによって多種多様である。

  2.ロナルド・マクドナルド・ハウス

  ホスピタル・ホスピタリティ・ハウスには、先述のように、独立した形態のものからホテルの一室を利用したものまで様々な形態が見られる。また、ハウスには病気の種類や対象を特定している施設とそうでない施設があり、ハウスが数多くあるアメリカに例をとると、病気の大人とその家族を対象とする「ファミリーハウス」と呼ばれる施設や、がん患者とその家族を対象とする施設、傷痍軍人とその家族を対象とする施設などがある。とりわけ病児とその家族を対象とする「ロナルド・マクドナルド・ハウス(Ronald Mcdonald House)」が有名である。  ロナルド・マクドナルド・ハウスの歴史は、1974年、アメリカのフィラデルフィアの白血病の少女の家族がフィラデルフィア児童専門病院の小児腫瘍科医長オードリー・エバンズ女史に相談を持ちかけたことから始まる。エバンズ女史が「大きな児童病院はみな、宿泊に困った人たちのホームを必要としている」と語ったのをきっかけに、少女の父親が所属していたフットボールチームの総支配人や仲間の選手達がエバンズ女史らと宿泊施設建設運動を展開した。それに対し、移転後の病院の1階に店舗をい開いたファーストフード店のマクドナルドが施設名を「ロナルド・マクドナルド・ハウス」にすることを条件に、当時売り出すことにしていたシャムロックシェイクの1週間分の売上金を寄付することを提案、この計画にフィラデルフィア地区のマクドナルド全店が協力し、この寄付を主な資金として第1号マクドナルドハウスが誕生した。この「ロナルド・マクドナルド」はマクドナルド社のピエロのキャラクターの名前で、アメリカの子ども達にはサンタクロースぐらい有名な人気者である。   現在では、マクドナルド社の創業者レイ・クロックを記念して1984年に作られたロナルド・マクドナルド・ハウス・チャリティーズ(RMHC)という財団を通して支援が行われており、マクドナルドハウスの数はアメリカを中心にカナダやヨーロッパなど16カ国203施設に達している(1996年9月現在)。  RMHCは子どものための非営利組織を対象に支援している財団で、資金は故レイ・クロックの夫人から寄せられる年間約5億ドルに関係企業からの寄付を加えて成り立っている。マクドナルドハウス新設の他にも、がんの子ども達のキャンプなど関係事業にも協力している。現在の支援方法は全米または地域規模のキャンペーンを行って、各店舗に募金箱を置くパターンが中心で、キャンペーンはフットボールチームや野球チーム、歌手などの協力を得て、メディアを通じて大々的に展開されている。  RMHCと地域のマクドナルド社との支援関係は地域によってさまざまであるが、マクドナルドハウスの設立方法はマニュアル化されていて、RMHCの支援を受けるための前提条件は@宿泊施設が必要な病院の医療スタッフがアドバイザーとなる。A病気の子どもの親を含むボランティア組織の協力がある。B地域のマクドナルド社が協力する、の3点である。  マクドナルドハウスの1室の利用料は、最初の4日間が1泊15ドルで、5日目以降は1泊10ドルである(払えない家族は免除される)。最低一人のハウスマネージャーが有給で常駐し、個室の清掃の確認(清掃は宿泊した家族の義務)や、受付などには数百人規模の登録ボランティアが4時間ごとにシフトをくんで働いており、共有部分の清掃はパートタイマーのスタッフが行っている。運営に関わる寄付金はマクドナルド社によるものだけでなく、電話会社が電話料金を割引したり、コカ・コーラ社が1本10セントでコーラを飲めるように商品を提供するなど、地域のさまざまな会社の協力を得ている。 病院とハウスの関係もさまざまで、病院の付属施設のような形態のものから、病院の建物の一部を利用してボランティアで運営する「ロナルド・マクドナルド・ルーム」と呼ばれるものまである。

3.日本におけるホスピタル・ホスピタリティ・ハウスの歴史と成果

  日本にも30数施設のホスピタル・ホスピタリティ・ハウスが稼動している。資料(資料1−1)は、現在明らかになっている日本のホスピタル・ホスピタリティ・ハウスの歴史である。この年表を見ると、初期にハウスを誕生させた流れは大きく二つあると思われる。一つは、1986年発足の、国立循環器病センターの「心臓病児・親の会」というボランティアグループによるハウス運営の流れである。もう一つは、1990年発足の国立がんセンター「6A母の会」が中心となって起こしたファミリーハウス運動で、さまざまな分野にの人材の協力を得、他府県にもハウス設立の波を伝えながら、一番大きな流れを作っている(年表によれば、この二つの流れ以前に北海道難病センターという施設が建設されているが、建物内に病院に通う患者・付き添い家族が利用できる宿泊室を備えているものの、他のハウスとは設立趣旨を異にするものである)。この二つの流れにふれつつ、日本におけるハウスの歴史をたどりたいと思う。  
1986年に開設された大阪吹田市の「江坂寮」は、当時、自身の子どもが心臓病だった梶原早千枝氏が立ち上げた「心臓病児・親の会」というボランティアグループの運動の一環として、国立循環器病センターを受診する心臓病児と家族のために設立された。その後、「心臓病児・親の会」は賛同者を募って会費を集め、その資金を元にマンションの1室を借り、付き添いの母親たちに低料金で提供を始めた(1)。会の活動は数度にわたって新聞にも取り上げられた。その記事の反響や梶原氏の尽力により支援者も増え、善意で部屋を提供してくれる人も現れはじめた。さらに、1995年、梶原氏がボランティアで通っている養護施設「慶徳会子供の家」に、地域交流センターが増設され、その部屋に、貸し布団代と食費のみで、付き添いの母親が宿泊できるようになった。「慶徳会子供の家」では、養護施設の特性を生かして、病児のきょうだいの子どもをショートステイで預かることも始めた。この施設は病院から車で10分ほどのところにあり、病児のきょうだいのいる家族の大きな支えになっている。  
その後、「心臓病児・親の会」が運営するハウスは6施設14室にまで増え(現在は5施設14室)、利用者は述べ2万4000人に達している(1999年12月現在)。現在では「サポートハウス・親の会」に名称を変更し、新たなハウスや支援者を求めて奔走しながらも、入院中の病児のためのコンサートを企画したり、月に一回ほどのペースで、ハウスに宿泊している母親の勉強会を開くなど精力的に活動している。  
さらに近年、「サポートハウス・親の会」は新たな問題に直面している。1997年の臓器移植法の施行をうけ、国立循環器病センターは、数少ない移植実施施設の一つに指定された(2)。そのため、心臓移植待ち患者の、長期にわたるハウス利用が増えてきている。しかし、サポートハウスの部屋数には限りがあり、移植待ち患者とその家族の長期利用が増えることで、本来の対象者である小児科の付き添い家族が利用する部屋がなくなってしまうという事態が生じている。現状では臓器移植待ち患者へのサポートはほとんどなく、病院側もその必要性を認めてはいるものの、未だ実現には至っていない。このため、「サポートハウス・親の会」は、この新しいニーズへの対応に頭を悩ませている(3)。  
もう一つの流れである、東京都の国立がんセンターから始まった東京のファミリーハウス運動は、小児科医長の大平医師と江口婦長の積極的な協力が鍵となり、日本のホスピタル・ホスピタリティ・ハウスの歴史に大きな流れを作った。1991年、国立がんセンター6A病棟の「6A母の会」は、病棟にボランティアに来ていたキャスリン・ライリー氏(当時はニューヨークに本部を置くメリノール修道会のシスターであった)からアメリカのマクドナルドハウスの話を聞き、ハウス設立運動をおこすことを決めた。このころ病棟には積極的な母親がそろっていたこと、大平医長や江口婦長が非常に協力的であったことが功を奏し、滞在施設を設立しようという動きは病棟全体に広まっていった。  
同年7月17日、「6A母の会」を中心に東京六本木の聖フランシスカン・チャペルセンターでパネルディスカッションが行われた。パネラーには「6A母の会」の母親3人と大平医長、江口婦長、キャスリン氏の6名で、2日前に朝日新聞に滞在施設設立運動についての記事が掲載された効果もあり、会場には66人の参加者が集まった。このパネルディスカッションを受け、看病で病院に通った経験をもつ金田えり子氏が足立区の自宅の2階を6Aの母親たちに提供し、「カネダハウス」として2年に渡って利用された。  
この間に「(仮称)『愛の家』設立準備委員会」が発足し、継続的な組織的支援が可能な滞在施設設立が検討され、「かんがる〜の家(おうち)」の設立計画につながっていった。「かんがる〜の家」は、当時骨髄異形性症候群で骨髄移植を待っていた葭野高志氏とその両親の久氏と宏子氏の自宅の2階の200uほどのベランダの提供を受けて、欧米各地のマクドナルドハウスを参考に建設された。プレイルームや共用スペースと5室の個室を備えた「かんがる〜の家」は、病児とその家族のための滞在施設が建設された日本で最初の例となった。「かんがる〜の家」の開所と共に「『愛の家』設立準備委員会」も「『愛の家』運営委員会」に名前を変更した(東京都内に同じ「愛の家」という名称の社会福祉法人があったことから後に「『ファミリーハウス』運営委員会」に再び名称変更)。以降、次々にファミリーハウスは増え、現在7施設19部屋を運営するに至っている(1998年現在)。  
このように、ハウス誕生の契機となった大きな流れは、大阪の「サポートハウス・親の会」と東京の「ファミリーハウス運営委員会」の2団体によるものと考えられるが、この時期、ハウス設立に取り組んでいたのはこの2団体だけではなかった。東京都中央区の区立住宅を借り受けて「あかつきハウス」を運営している「(財)がんの子供を守る会」は、1989年の「小児がん国際シンポジウム」においてマクドナルドハウスの生みの親であるエバンズ医師を招いている。その後、1990年に国立がんセンターと聖路加国際病院の小児科母の会および両小児科医長が、連名で中央区医師会長あてに宿泊施設に関する協力要望書を提出した動きに連動して、守る会も、区立住宅の借り受けのための訴えを起こしたのである。このことから、1980年代後半には、長期入院病児が増加し、ハウスのニーズが高まっていたこと、マクドナルドハウスについての知識が広まり始めていたことがわかる。  
その後、ハウスの必要性を叫ぶ声は、日本各地の長期入院病児の多い病院に広がり、ホスピタル・ホスピタリティ・ハウスはさまざまなスタイルで徐々に増加していった。資料(資料1−2)からもわかるように、運営団体の性格も、ハウス利用の対象も、利用料も、ハウスによってずいぶん異なる。さまざまな分野の人が、それぞれにハウスの必要性を感じ、それぞれが可能な方法でハウスを設立し、運営してきた結果だからである。  
1998年、ついに厚生省が景気対策臨時緊急特別枠で「慢性疾患児家族宿泊施設の整備」として94億円を要求、第3次補正予算に19億円が計上された。これは国がホスピタル・ホスピタリティ・ハウスの必要性を認め、初めて公的助成を行うことを決めたものであり、滞在施設設立運動が大きく前進したことを示す。  
また、1998年12月には東京都千代田区に本社を置く日本化薬という企業が、埼玉県大宮市に社員寮を新築する折に、その1階に難病の子どもと付き添い家族が滞在できるホスピタル・ホスピタリティ・ハウスを非営利で提供している。日本化薬の主要製品の一つに抗がん剤があり、小児がんの子どもと家族に関わる機会が数多くあったことから、会社創立80周年の記念事業としてハウスの設立・運営が始まったのである。このハウスは4階建ての社員寮の1階部分に設立され、社内公募の結果「あすなろの家」と名づけられた。プライバシーへの配慮のため社員寮とは入り口を異にするつくりになっている「あすなろの家」には、10室の個室のほか、3家族が同時に使える台所や食堂、子どものためのプレイルームなど、共用スペースにも十分に配慮されている。10室の内1室は車椅子対応のつくりになっていることも興味深い。各部屋にはユニットバス、電話、テレビ、テーブルセット、ポット、エアコン完備というホテル並みの設備があり、土日・祝日以外はハウスマネージャーが1名常勤している。企業が全面的に協力している珍しい例である。  
さらに、先ほど紹介したアメリカのロナルド・マクドナルド・ハウスを日本にも作ろうという動きがある。1999年4月、マクドナルドハウス建設とボランティア支援を目的として「財団法人ドナルド・マクドナルド・ハウス・チャリティーズ・ジャパン デン・フジタ財団」が誕生。2001年に日本での第1号マクドナルドハウスを建設することを目標に、アメリカへのボランティア研修の派遣を開始し、準備を始めている。また、ハウスをボランティアで運営する8団体に助成も行っている(4)。  
現在では、北海道から熊本まで、それぞれのスタイルのハウスが稼動している。個人が善意で部屋を提供して運営されているものから団体で運営するもの、企業が建設したものまで、多種多様なハウスは、33施設66室にまで増えた(1996年現在)。ほとんどのハウスが、運営に必要な費用を利用料のほか会費や寄付などでまかない、利用料を500円〜3000円と格安に設定し、付き添い家族を支えている。厚生省による公的支援もようやく第一歩を踏み出し、これからは公的な整備についても期待されるところであろう。これについては第3章で詳しく考察したい。

注: (1)「日経新聞」夕刊18面 1999.12.8
(2)脳死臓器移植施設は、国内の心臓移植では「国立循環器病センター」「大阪大学医学部附属病院」「東京女子医科大学」の3施設に限定されている
  (『New TRANSPLANT』日本臓器移植ネットワーク 1999.7 による)
(3)「サポートハウス・親の会」代表へのヒアリングによる
(4)財団法人ドナルド・マクドナルド・ハウス・チャリティーズ・ジャパン デン・フジタ財団『マクドナルドハウス』創刊号 1999
 


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