三多摩テーゼ20年−経過とその後の展開−
(小林 文人)
−東京都立多摩社会教育会館発行『戦後三多摩における
社会教育のあゆみ』(Z・1994)所収−
*戦後東京社会教育行政・施設史■
*東京23区の公民館研究■
(1)「新しい公民館像をめざして」作成の経過
東京都教育庁社会教育部(当時)が「新しい公民館像をめざして」(1973年版、同庁主要刊行物登録・昭和47年度・社第16号、1974年版、同・昭和48年度・第15号)を公表して早いものですでに20年が経過した。
この作成に当たったのは、1972年度に東京都教育庁社会教育部によって設置された「公民館資料作成委員会」であった。委員会は初年度の報告(1973年版)をまとめた後、後述するように残された課題について、翌73年度も継続され、第2次報告(1974年版)を仕上げて一応の役割を終えた。
委員会の実務は、初年度から都教育庁社会教育部成人教育課が担当(小川昭文氏)し、次年度は当時出来たばかりの同部・社会教育主事室が担当(佐々木貢氏)した。「公民館資料作成委員会」の設置については、当時の成人教育課長であった内田和一氏の役割が大きい。同氏はその前に立川社会教育会館(現多摩社会教育会館)副館長でもあり、また三多摩の公民館にかんする委員会だということで、立川社会教育会館の間接的な協力もあったように記憶している。当時、内田和一氏が研究室に来室され、協力を依頼されたことを憶えている。
周知のように東京都の公民館にたいする施策は、まことに貧困というほかなく、1972年の段階では、公民館総数はわずかに26館に過ぎなかった。この年に本土復帰した沖縄県を除いて東京都の公民館設置率は全国最低であった(その後沖縄県での公民館設置がすすみ、現在でも東京都は全国最低である)。時あたかも1967年に誕生した美濃部革新都政が2期目に入り、図書館にたいする都の積極的な振興施策と対応して、公民館施策をも前進させようと都公連など公民館関係者(たとえば国立市・徳永功氏や、都公連事務局長であった国分寺市・進藤文夫氏など)が精力的な努力を重ねていることは知っていた。
「東京都公民館資料作成委員会」の設置は、公民館関係者とこれに理解ある東京都教育庁関係者の相互努力の具体的なあらわれといってよかろう(その背景・経過については本号後掲の徳永功氏や進藤文夫氏の「回想」にくわしい)。
委員会のメンバ−は、1973年度が小嶋道男、小林文人、進藤文夫、徳永功、西村弘(あいうえお順)の5人、1974年度はこれに臨時委員として石間資生、小川正美、川廷宗之、佐藤進、吉田徹(同)の新しいメンバ−(若い世代?)も加わった。行政的に設置されたこの種の委員会としてはなかなか活発な論議・検討が重ねられた。とくに初年度において「四つの役割・七つの原則」が構想されたが、「東京の公民館」の新しいイメ−ジを創り出そうという意気に燃え、談論風発、時間をこえ、予定をこえて、論議はつきることがなかった。懐かしい思い出である。
「新しい公民館像をめざして」1973年版では、T公民館とは何か−四つの役割、U公民館運営の基本−七つの原則、に基づいて、V公民館の施設(標準的施設・設備の規模と内容)、が示され、最後に、Wいま何をめざすべきか、がまとめとして提示されている。
「四つの役割・七つの原則」(略)については、比較的に有名であるが、「いま何をめざすべきか」もまたこの委員会が思いをこめて書きあげた部分である。念のため項目のみ再録しておこう。
1,公民館は住民が自らつくりあげていくべきものです。
2,既存施設の内容を変えさせ、新しい施設につくりかえさせましょう。
3,市の基本構想の中に公民館をはっきり位置づけさせよう。
4,公民館を図書館と共に地域社会に必要不可欠な二本の柱にしよう。
初年度の報告では、この段階での「新しい公民館」の理念・原則および施設論は明らかにされたが、具体的にその事業・運営を担う職員の在り方(職員論)については提示するに至らなかった。この残された課題への追求が、翌年の1974年版を生み出すことになる。委員会のメンバ−に新しく公民館実践の場で情熱をかたむけ、格闘している職員5氏が参加したのも、まさに新しい「職員像」の探求のためであった。
したがって1974年版では、73年版「新しい公民館像をめざして」に加えて、第二部「公民館職員の役割」があと一つの主題となっている。内容をみると、T基本的な役割、U組織体制、V職務内容、W勤務条件、X任用、Y研修、Z職員集団、の構成により職員論が展開された。そして末尾に「公民館主事の宣言(提案)」を掲げている。いずれも、実践的な蓄積をふりかえりつつ、追求すべき方向を求めて論議をつくし、まとめられたものであった。
公民館職員の基本的な役割としては、当時ようやく注目されてきた「学習権」をキィワ−ドとした。「公民館職員は−−すべての住民の学習権保障のための奉仕者−−」であり「住民みずからが学習・文化活動をより豊かに編成し発展していくための援助者」と規定している。この理念に立脚して、組織、職務、条件、任用、研修、職場等の各論が展開されたわけである。
とくに最後の頁をかざる「公民館主事の宣言(提案)」については、図書館関係者が共有している「図書館の自由に関する宣言」(日本図書館協会・1954年採択、その後1979年改訂)や、専門職集団としての「倫理綱領」のようなものを、公民館職員の立場から“提案”してみようではないか、という考え方から練り上げられた。これも当時の思いを想起するために、再録しておくことにしよう。
1,公民館職員は、いつでも、住民の立場に立ちます。
2,公民館職員は、住民自治のために積極的に努力します。
3,公民館職員は、科学の成果を尊重し、地域における文化創造をめざします。
4,公民館職員は、集会・学習の自由を保障し、集団の秘密を守ります。
5,公民館職員は、労働者として、みずからの権利を守ります。
▼「新しい公民館像をめざして」(三多摩テーゼ、1973〜74年)

(2)黄色いレポ−トの波紋
「新しい公民館像をめざして」の理念や内容がまとめられていく過程の論点や詳細はここでは省略せざるを得ない。参加した委員それぞれによって考え方の差異はもちろんあった筈であるが、私なりに、報告作成にあたって心していたことを幾つか列挙すれば、次のようなことであったと記憶している。
・東京都や市町村の行政関係者だけではなく、公民館を知らない住民にも読んでもらえるような内容にする。したがって分かりやすく、簡潔に、項目も分節化して書く。
・基本となる理念を明確にする。それは公民館のイメ−ジ(像)をはっきり打ち出すことになる。
・しかし単なる抽象的な考え方ではなく、何らかの具体的かつ実践的な事実に基礎をおいて展開する。
・時間的制約もあり、課題を残しつつ、当然さらに新しく発展させられるべき提案として位置づける。その意味で「関係各位の忌憚のないご批判」(はしがき)が重要である。
たとえば1974年版「あとがき」はこのように記している。
「私たちは、この二年間、それぞれの本務をかかえながら、せい一杯この資料づくりに没頭してきた。制度的にも不備な面をのこし、実態としても多様であいまいな公民館に、一つの新しい未来像をえがき出そうというのが共通のねがいであった。
しかしこの作業はこれで完結したのではない。今後とも、この“新しい公民館像”はたえず新しくえがき出されなければならない。−−(略)−− 委員一同」 (1974・3・31) 報告は黄色の表紙のパンフレットにあざやかに刷りあがった。黄色のレポ−トはそれから静かな反響を呼びはじめる。三多摩・公民館関係者だけでなく、東京都外(例えば神奈川、埼玉、長野など)でも、また日本社会教育学会や社会教育推進全国協議会の研究集会などでも、話題が広がっていった。東京都社会教育部によりパンフレットは2000部印刷されたが、ぢきに在庫がなくなったと聞いた。そのうちに、「新しい公民館像をめざして」は東京・三多摩の公民館関係者が作成したというところから、誰いうとなく「三多摩テ−ゼ」と呼ばれるようになった。それはこの黄色いレポ−トが、東京都関係者だけのものではなく、いつの間にか全国的規模でひろく読まれ、論議されはじめたことの反映でもあったのだろう。
「三多摩テ−ゼ」としての一定の評価が生まれてきた頃から、黄色いレポ−トの原本が入手できない事情もあって、さまざまのコピ−、復刻版、海賊版?が作られている。たとえば小さな学習会のテキストとして、自治体・公民館運営審議会の配布資料として、あるいは県や市・郡の公民館連絡協議会の研修資料としてなど、かなりの部数が世にでたと思われる。社会教育関係の単行本への収録まで加えると、合計五万部をこえるのではないかと推定されている(東京都立川社会教育会館「東京の公民館の現状と課題」T、総論−はじめに−3頁、1982年)。
公刊されている単行本、研究物、行政資料等への「三多摩テ−ゼ」の収録は、主要なものだけで次のようなものがあげられる。
1,東京都教育庁社会教育部「社会教育行政基本資料集」3、1974年
2,社会教育推進全国協議会・資料委員会編「社会教育・四つのテ−ゼ」社全協通信別冊、1976年
3,島田修一編「社会教育の自由」教育基本法文献選集六、学陽書房、1978年(抜粋)
4,社会教育推進全国協議会編「社会教育ハンドブック」1979年、1984年、同新版「生涯学習・社会教育ハンドブック」1989年(主要項目のみ)
5,横山宏・小林文人編「公民館史資料集成」エイデル研究所、1986年
(3)三多摩テ−ゼをめぐる論議
「新しい公民館像をめざして」が作成され、またそれが広く読まれていった背景ないし要因として、当時の三多摩における住民の側からの公民館への期待・要求・運動があったことを忘れてはならない。公民館がいまだ地域に定着せず、住民の公民館への認識も育っていなかった段階から、「1960年代後半から70年代にかけて、ようやく公民館をもとめる住民運動が高まって」(前掲「社会教育・四つのテ−ゼ」、進藤文夫“新しい公民館像をめざして”解説)きたのである。このような公民館にたいする住民意識の成長や公民館づくりの住民運動が「新しい公民館像」づくりの背景にあり、同時にまた、「新しい公民館像」の提示が公民館をもとめる住民運動を刺激し活発化したということができる。 住民の側のこのような動きは、戦後教育改革期以降の細々とした公民館実践が、ようやく三多摩の地にも一定の厚みをもって定着してきたことを意味している。地域のなかで公民館の実績と職員の役割が住民にも具体的に見えるかたちで蓄積されてきた、1970年代はそういう段階でもあったのである。
70年代後半、三多摩各地で取り組まれた公民館づくり住民運動のなかで「三多摩テ−ゼ」はそのテキストとしてよく読まれた。たくさんの証言がある。
<注>東村山、福生、国分寺、武蔵野、東大和など各市の住民運動。社全協三多摩支部「三多摩の社会教育[−三多摩テ−ゼからの10年」1983年、三多摩公民館研究所編「研究紀要」第1号、三多摩テ−ゼの思い出と公民館大学論、1991年など)
三多摩だけではない。埼玉(たとえば草加市、上福岡市など)や神奈川(茅ケ崎市、相模原市など)で、あるいは長野、京都、山口などで(もちろんそれ以外の地域でも)、三多摩テ−ゼはよく読まれ、活用された。山口県豊浦町では、三多摩テ−ゼをモデルとして実際に町立の中央公民館が建設された(1977年)。
<注>本号には典型的な動きとして、茅ケ崎市・相模原市・京都府・豊浦町からの「証言」 を収録している。−後掲資料参照)
戦後日本の、とくに1960年代以降の社会教育実践・運動のなかで生みだされてきたテ−ゼとして、主要には三つのテ−ゼが有名である。あえて(誤解をおそれず)その際立った特徴をあげれば、枚方テ−ゼ(1963年)は自治体が“発見”し、下伊那テ−ゼ(1965年)は職員集団が“創出”し、そして三多摩テ−ゼ(1973年)は住民が“活用”した、といえるのかもしれない。
さて、このように三多摩テ−ゼが広く波及していくなかで、その積極的な評価とともにさまざまの論議、意見、そして批判が出されてきている。それは、理論的なもの、実践的なもの、そして運動的なもの、それぞれの観点をもちつつ、いずれも公民館運動の発展・創造にむけて貴重な意味をもつものであった。積極的な評価の部分は別にして、むしろ批判的な論議を今後にむけてどう創造的に活かしていくか。三多摩テ−ゼがさらに新しく挑戦すべき課題について、なお十分な検討が必要であろうが、ここでは一応次の5点に整理しておくことにする。
@東京の公民館がおかれている貧しい実態・条件を改善・充実していこうという問題意識が起点にあったため、三多摩テ−ゼは全体として理念的であるとともに、具体的な部分は条件整備論につよく傾斜した内容になっている(たとえば「施設の地域設置」「充分な職員配置」など)。しかし都市化・過密化を背景として自治体財政が一定の条件をもっていた70年代の段階から、自治体をめぐる状況は明らかに変化してきている。80年代において、たとえば都市減量経営論や公的サ−ビス(公的社会教育)の見直し、あるいは「行政改革」の考え方が主流となってくる段階では、甘い単純な条件整備論だけでは充分に対応しきれない。新たな政策動向をしっかりと見据えて、これに対抗しつつ、なおかつ公民館が公共的機関として存在しなければならない厳密な理念と現実的な根拠を、幅広い構図をもってシャ−プに提示していく必要があるのではないか。その視点での「公民館像」の新たな構築がもとめられる。
A三多摩テ−ゼは、全体的に「理想論であり、指針に止まっている」「具現化のための運動論が提示されていない」などの指摘(社全協三多摩支部「三多摩テ−ゼをよりよく活かすために」)にどのように応えていくか。条件整備論の非現実性だけの問題にとどまらず、公民館像そのものの抽象性を克服していく必要がある。たとえば「公民館が“大学”であるというイメ−ジはもちにくい」「−−“文化創造”という点がその後の実践のなかで豊かになってきているのでしょうか」(石間資生「三多摩テ−ゼの思いとイメ−ジを語る」三多摩公民館研究所・研究会記録、1986年10月13日)という発言などはその点を指しているのだろう。すなわち「四つの役割」や「七つの原則」が、単なるイメ−ジ、あるいは「理想論」として語られるのでなく、そのイメ−ジを具体化していく実践的な方法論を実際の事例にも即しながら、もっと深く追求していく必要がある。それは、公民館実践を担う「職員論」とともに、いわば公民館「事業論」を生き生きと描きだす課題といってもよかろう。
<注>後述の立川社会教育会館によってすすめられた「社会教育資料分析研究」(1980〜82年度)は、「三多摩テ−ゼから10年」をふりかえりつつ「新しい公民館像」を実践的に具体化していく「事業論の構築」を主要な課題とした。
B三多摩テ−ゼの理念のなかでは「住民自治」「住民主体の活動の援助」といった視点が弱いのではないか、という指摘が少なくない(小林「公民館活動は前進する」福尾・千野編「公民館入門」草土文化、第10章、1979年)。たとえば神奈川県茅ケ崎市の「公民館をつくる会」による「茅ケ崎市の公民館像をもとめて」では、三多摩テ−ゼの「四つの役割」の表現を修正しつつ、新たに「 公民館は住民自治をすすめる原点です」を追加し、「五つの役割」とした(後述)。あるいはまた町田市公民館運営審議会では、公民館改築(1978年)に向けての答申のなかで、七つの原則を評価しつつも、「まだ便宜の提供が主であり、住民参加も主催事業を目的とし−−(略)、そこでこの基本を補うために、 主体援助の原則(自主的な活動にたいする援助・推進)を追加したい」として、「八つの原則」を示している。これらの課題提起にたいして、三多摩テ−ゼが住民自治・住民主体の思想をどのように具体化していくか(とくに生涯学習の段階において)が課題であろう。
C三多摩テ−ゼは、社会的・教育的に不利な立場におかれている人々の学習権保障についてほとんどふれていない。この点については、三多摩テ−ゼ・作成委員会みずから自覚していたことであった。1974年版「あとがき」はこのように記している。
「−−子どもたちの社会教育・地域活動にたいする援助、あるいは障害者の学習権を保障する公民館のあり方、など多くの問題があとに残されている。」 この時期は「障害者青年学級」などの実践がようやく始動しはじめる頃であった。三多摩テ−ゼの記述は、当然のことであるが、当時の公民館実践の水準・到達点を反映している。
問題は子どもや障害者への取組みだけではない。高齢者にたいする公民館事業や、とくに1980年代後半になると、三多摩地区に生活しはじめた在日外国人(外国籍住民)への識字教育の実践が胎動してくる。つまり高齢化、国際化など新しい地域状況の変化は、20年前の三多摩テ−ゼの段階ではみえなかった「忘れられた人々」やあるいは「被差別少数者」の学習権保障の課題を投げかけている。
D三多摩テ−ゼは、いうまでもなく三多摩という地域に根ざした都市型公民館の構想である。しかし実際には全国的規模で広く論議される過程のなかで、“地域”とのかかわりにおいて、逆照射的にこの公民館構想の弱点が浮かび上がってきている。一つには、「地域に根ざした」という意味での地域主義的な施設論が、そのような地域主義の現実的な条件に乏しい大都市・政令指定都市の施設構想としては定着しにくいという問題がある。あと一つには、逆に「都市型公民館」構想に内在する没地域性、悪しき施設主義とでもいうべき問題である。たとえば都市型公民館としては、さまざまの(都市的な)地域組織・地域活動・地域団体等から多く遊離し、あるいは地域づくり運動や市民運動とも交錯せず、地域・住民自治の拠点(戦後公民館構想の原点)としての役割を欠落している、などの弱点が明らかにされてきた。(小林編「公民館の再発見」T−9、国土社、1988年、参照) 地域的な基盤のつよいところ(決して農村地域に限定されない)では、集落レベルの自治的(類似)公民館組織に支えられながら公民館の制度が展開してきた場合が多い。それらは日本各地に、たとえば自治公民館(福岡など)、町内公民館(松本)、字(アザ)公民館(沖縄)、組織公民館(相模原)、あるいは分館・地区館など、さまざまの名称・形態で存在してきた。そして全般的な地域基盤の弱体化傾向のなかで、これら「集落公民館」の悩みも深いものがある。地域のもっとも基層にある住民自治組織の可能性をどうえがくことができるか、という課題である。しかし三多摩テ−ゼはこのことについて何らふれるところがない。
<注>三多摩テ−ゼは「集落公民館」についての構想を含まない。それだけにこの欠落に逆に触発されるかたちで、それぞれの地域状況に根ざして「集落公民館」の構想をえがき、その可能性を明らかにしようとする努力がみられたのではないか。たとえば松本市教育委員会「町内公民館活動のてびき−住民によるまちづくりのために」1976年、79年改訂、あるいは沖縄について、小林・平良編「民衆と社会教育−戦後沖縄社会教育史研究」エイデル研究所、1988年、などの事例。
(4)三多摩テ−ゼの10年
以上のような論議の展開のなかで、三多摩テ−ゼ10年にあたる1983年前後には、やはり注目すべき論議があり、資料がまとめられている。いわば三多摩テ−ゼ10歳の歩みをふりかえり、20歳にむけての進路を確かめあう総括(第1次)の試みでもあった。ここには主要な次の2資料をとりあげておきたい。それぞれの目次を参考資料として収録しておく(後掲)。
1,東京都立川社会教育会館(社会教育資料分析)「東京の公民館の現状と課題」
T「公民館の事業を中心に」1981年度・U「公民館事業論の構築をめざして」1982年度
立川社会教育会館は、1980年10月、三多摩テ−ゼ10年を意識しつつ「1980年代の都市公民館のありかたをさぐる」を研究主題として「社会教育資料分析研究」を発足させた。委嘱された委員は、川上千代、小林文人、佐藤進、進藤文夫、野沢久人、平林正夫(あいうえお順)の6人、当時の館長は奇しくもかっての副館長・内田和一氏であった。この研究プロゼクトは、80・81・82年度にわたり、前半の報告Tが82年3月、後半の報告Uが83年3月に刊行さている。いずれも公民館の「事業論」を中心テ−マにおいているのは、前節3− に述べたような課題意識からであった。後半の報告作成には、臨時委員として井藤鉄男、山崎功の両氏も参加している。
最初の「総論」の部分には次のような記述がある。
「1970年代には、公民館実践は質量ともに大きく前進した。本資料集では、三多摩テ−ゼ以降に蓄積された新しい公民館実践をふまえて、その実践的な到達点を明確にし、公民館の性格と役割についての理論を一歩進める作業を試みてみたい。できうれば新しい「三多摩テ−ゼ」に発展させていければ、と考えている。」
もちろん新しいテ−ゼがまとめられるという展開にはならなかった。しかし三多摩の公民館が、80年代の歩みをたしかにきざんでいくための「事業論」の追求は真摯なものがあったと思う。
報告書Uのまとめとして「公民館事業論の構築」が試みられている。仮設的であるが、公民館事業を組み立てていくにあたっての「八つの柱」が提起されている。項目のみ抜粋しておこう。
10 公民館事業論の構築 @公民館事業論の弱さ、A事業のあり方を考える四つの視点(ミニマムな事業、すべての住民にたいする機会保障、出会いと学習の構造化、地域・館外事業)、B公民館事業の八つの柱−前提(対象、内容、体系)・事業の柱−1相談・援助(人)、2施設提供(物)、3企画・編成(活動)、4資料・広報(情報)、5集会・行事(出会い)、6館外事業(地域)、7参加・連絡(自治)、8調査・収集(研究)
2,社会教育推進全国協議会三多摩支部編「三多摩の社会教育[−三多摩テ−ゼからの10年」1983年
社会教育研究全国集会(第23回)記念特集号もかねた本資料は、「三多摩テ−ゼからの10年」にあたって「テ−ゼの再創造にむけて、三多摩の社会教育の到達点と課題を明らかにする」ことを出発点に位置づけて編集された。「編集後記」は次のようにいう。
「三多摩においてもこの10年、施設づくりをはじめ社会教育の条件整備の水準は前進し、少なからぬ自治体の行動施策のうえでテ−ゼは一つの指標として活かされてきた。しかしその歩みは順調であるとはいえない。職員態勢づくりとその専門性保障の面での一定の前進と停滞、地域の教育・文化の発展にとっての公民館の位置と意義、多様な形態による住民参加の試みの広がりにもかかわらず、それが住民自治の発展に必ずしもつながりえていないという問題など、さらにたちいって検討すべき課題もはっきりしてきている。とくに行革路線のもとで、社会教育の権利性、公共性があらためてするどく問われているのである。これらの課題は、つまるところ、三多摩テ−ゼの再創造を、ということに焦点化されるように思われる。」
しかし、目次(後掲資料)に明らかなように、ここに収録されている各市の公民館設置や住民参加の状況、あるいは公民館を拠点とするさまざまな実践と住民の主体的な学習と運動の広がりは−それぞれに課題は当然あるにしても−、なによりも「三多摩テ−ゼからの10年」の蓄積と発展を実感させるものがある。なかでも、第U章「地域教育計画の主体としての成長をめざす住民の学習・運動」をかざっているそれぞれの地域住民運動(保谷、東大和、国分寺、東村山、立川、昭島、国立など)の報告は、社会教育ないしは「公民館は、住民がみずからつくりあげていくものです」(三多摩テ−ゼ・いま何をめざすべきか)という方向が潮流のように動いていることを語りかけている。
問題は、これから後の10年、つまりテ−ゼ20年にむけての歩みがどのような展開をたどってきたか、行政改革や生涯学習政策の動向のなかで、職員の体制や住民の運動的エネルギ−がさらに蓄積され、前進してきているかどうか、ということであろう。
テ−ゼ20年の新しい状況において、あらためて「三多摩テ−ゼの再創造を」という問いかけをかみしめてみたい。
(5)各地への波及とテ−ゼづくり
ここには、前述したように三多摩テ−ゼに刺激され、あるいはこれと連動するかたちで模索・追求された全国各地のテ−ゼづくりのなかから、四つの事例をあげる。
1,「茅ケ崎市の公民館像をもとめて」
@茅ケ崎市・市民学習グル−プ・公民館について勉強する会「茅ケ崎市の公民館像をもとめて−(付)私たちがつくった茅ケ崎市公民館条例案」(抄) (1978年4月)
A回想−「茅ケ崎市の公民館像をもとめて」をまとめる−渡辺保子(茅ケ崎市に公民館をつくる会)
2,京都府公民館連絡協議会「公民館の望ましいあり方」
@公民館の望ましいあり方検討委員会の報告「公民館の望ましいあり方」(抄) (1980年度)
A回想−「新しい公民館像をめざして」を横目に見ながら−八木隆明(京都府宇治市役所)
3,相模原市教育委員会「公民館運営のてびき」
@相模原市教育委員会「公民館運営のてびき」(抄)(1980年)
A回想−三多摩テ−ゼと相模原の公民館−小林良司(相模原市役所)
4,山口県豊浦町「中央公民館のあるべき姿」(1977年)
@回想−豊浦町と三多摩テ−ゼと私−片山房一(山口県豊浦町役場)
三多摩テ−ゼの各地への波及、あるいはさまざまの賑やかな論議は、もちろん以上につきるわけではない。そして今後もさらに論議は続いていくだろう。以上の四つの地域の事例についても、それぞれの経過や内容について資料解題を付する必要もあろうが、各事例の「証言」にゆだねることとし、ここでは紙幅もつきたので、いずれまた(20年後の動きもふくめて)次の機会をまつことにしよう。 〈小林文人〉
〈メモ〉収録資料(略)
1,回想「三多摩テ−ゼ」作成当時の回想
−徳永功(国立市元公民館長・教育長、現・社会福祉協議会)
2,回想「三多摩テ−ゼ」作成委員会の背景と経過 −進藤文夫(国分寺市元教育次長)
3,東京都立川社会教育会館「東京の公民館の現状と課題」T、U、−各目次
4,社会教育推進全国協議会三多摩支部「三多摩の社会教育」[−目次
5, →上記「各地のテ−ゼづくり」