cecil taylor

「AKISAKILA」(ART UNION ABCJ−30/31)
CECIL TAYLOR UNIT

 セシル・テイラーの決定的なこの一枚ってなんだろう。80年代以降も膨大な量の吹き込みがあるのに、いまだにジャズの棚には「ジャズ・アドヴァンス」とか「ワールド・オブ……」とか「ユニット・ストラクチャーズ」「コンキスタドール」などが「問題作」などと書かれて並んでいるだけ。もちろん、セシルはその後、そんなジャズの文脈では扱えないような遙かな高みに達しているわけだが、ジャズのひとにとってはいまだに「モンクの影響を受けた」「ジャズ・アドヴァンス」のピアニストなのだろう。でも、決定的一枚っていうのがないなあ。個人的には、ソロなら「インデント」、バンドなら「ダーク・トゥ・ゼムセルブズ」か「Aの第二幕」か。でも、後者はめちゃめちゃすごいけどサム・リヴァースがなあ……いや、それにしてもどれも古いものばかりだ。もっと新しいものからも選びたいけど、FMPなどから膨大な量のアルバムがでているし、トニー・オクスリー、ウィリアム・パーカーとの10枚組も聴いてないし、まあ、セシルの全貌についてはなにも知らないのと同様だしなあ。チャールズ・ゲイルとやってるやつも好きだし……本当は、活動期間が長いから、絶頂期がいつで、どれがいちばんいいか、なんて決めようがないのだが、そんなときにふと心をよぎるのが日本録音のこの「アキサキラ」と「ソロ」の二枚。どちらもLPで持っていたのだが、「アキサキラ」はCDで買い直した。長尺なのでCDのほうが聴きやすいのだ。昔は、ベースレスでアルト〜ピアノ〜ドラムという編成なので、坂田さんがいたころの山下トリオとよく比較されたが、もちろん内容はまるでちがう。山下トリオの場合、坂田さんが吹いているときはどうしてもサックスに耳がいくものの、基本的には「全員対等」という状態が崩れないのに対して、セシル・テイラー・ユニットの場合は、ジミー・ライオンズが吹いていても、耳はセシルに釘付けになる。それほど凄い。このアルバムでも、とにかく最初っから最後までずーーーーーーっとセシルを聴いてしまう。アンドリュー・シリル(録音が悪いのか、すごくバタバタいう)やジミー・ライオンズはテンションが下がる瞬間があるが(いや、どっちも凄いんですが。とくにアンドリュー・シリルはすげーっ)、セシルに限ってそれはない。ずーーーーーーーっと緊張感を保ったまま、一瞬の躊躇もなく弾き続ける。すごいすごいと聴き手の私はアホなので単純に喜んでしまうが、本当はそんな単純な問題ではないはずだ。聴けば聴くほどいろいろ考え込んでしまい、セシルの指先からほとばしる金属片のようなピアノ音の本流にからめとられ、蟻地獄のような状態になる。2枚組で一曲だけ、という当時のセシルのパターンで、作品であると同時に一種のドキュメントでもあるので、あっという間に聴きとおしてしまう(でも、しんどい)。今回聞きなおしていまだに衝撃度を失っていないと再確認。やっぱり「アキサキラ」かなあ、と思ってしまう私は意外と日本びいきか? しかし、来年(2007)には山下さんとセシルの共演が実現するそうで、その内容に私は戦々恐々です(聴きたくもあり、怖くもあり……)。

「THE OWNER OF THE RIVER BANK」(ENJA RECORDS ENJ−9465 2)
CECIL TAYLOR & ITALIAN INSTABILE ORCHESTRA

セシル・テイラーはやっぱり小編制(トリオか、せめてカルテットどまり)でしょう。なかでも、ソロがいちばんいいと思う、と考えている私のような人間にとって、セシルのビッグバンドものは、だいたいスルーしているのでよく知らんけど、セシルのオーケストラものだと、セシルのピアノ対オーケストレーションという形が多いのでは、と思う。まあ、これは勝手な想像だけど、少なくとも「ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ」はそうなってた(めちゃ古いけどね)。でも、本作は、なにしろあのイタリアン・インスタビレ・オーケストラとの共演ということで、そういう興味が勝って、おもわず買ってしまった。聴いてみると、たしかにそういう箇所も多いのだが、インスタビレにつどうイタリアフリージャズ界の巨匠たちのすばらしいソロがつぎつぎとフィーチュアされ、そういう部分はセシルがどうのこうの関係なく、インスタビレオケの作品として楽しめるし、聴き終えた印象としては、全体として、セシルとインスタビレオケががっぷり四つに組んだ「コラボ」を堪能した、という感じ。なかなかヘヴィーな内容がぎっしり詰まっているので、しょっちゅう聴き直すというわけにはいかないが、ええもんはええ! ときどき、体力と気力が充実しているときに、また挑戦してみたいアルバムである。

「DARK TO THEMSELVES」(ENJA RECORDS ENJ−2084 2)
CECIL TAYLOR UNIT

 大傑作。名盤。とにかく聴いてもらうしかない必聴のアルバム。私は、セシル・テイラーはソロかデュオ、あるいは管のないトリオぐらいがいちばん好きで、管が入っているとセシルのピアノの凄さを鑑賞する邪魔になるとすら思っているが、管が入っていてもなかには「Aの第二幕」のような傑作もある。そして、そういうなかの頂点はこのアルバムだろう。最初にソロをするトランペットのラフ・マリク(と読むのか)がなかなかいい雰囲気をセッティングする。正直なところ、この手のフリージャズでトランペットという楽器はサックスのようにはなかなかいかず、でかい音でパアッパアッと一生懸命吹くのだが、さほどハイノートも続かず、結局バテて失速……みたいなことが多い。根本的に、楽器として向いていないんじゃないかとすら思う。ドン・チェリーやレスター・ボウイのように完璧に自分のスタイルをつくりあげ、それを押し出しているひとは別として、フリーブロウイングのパワーミュージックだと、けっこうつらい。しかし、このひとはすごくがんばっていて、最後までパワーもイマジネーションも尽きないし、セシルのバッキングがまたすばらしく、一番バッターとしては最高の働きである。そして、デヴィッド・ウェアが凄まじい演奏をする。ここが本作の白眉である。私がはじめてデヴィッド・ウェアを聴いたのはこの盤であった。以来、すっかりファンになったのだが、とにかくここでのウェアはかなりの若さだと思うが、太い音でうねるようなブロウを繰り広げ、セシルの煽りに対してもしっかり自己を主張して、めちゃめちゃかっこいい。そして、ジミー・ライオンズはさすがにセシルのもっとも長い相方であって、ツボを心得たソロを展開。いやはや、レコードだとA面B面通して一曲というパターンだが、まったく飽きないし、もっと聴いていたい気分になる。「ユニット・ストラクチャーズ」や「コンキスタドール」を聴いてセシルをわかった気になっているひとは、ぜったい聴いてほしい。もう、ほんとすばらしいとしか言いようがない、山下洋輔でいえば「キアズマ」か「モントルー・アフター・グロウ」「ホット・メニュー」クラスの傑作である。

「SOLO」(TRIO RECORDS PA−7067)
CECIL TAYLOR

このアルバムを買ったのは高校生のときで、まだオーネット・コールマンもドルフィーもミンガスもコルトレーンもよくわからん状態だったころだ。セシル・テイラーのこともなんだかよくわからずに、一種の「嗅覚」を働かせて、思い切って買った。聴いてみて、やはりさっぱりわからず、うわあ、大失敗か、と思ったが、とりあえず元をとるために毎日毎日繰り返し聴いていたが、そのうちにフレーズを覚えてしまった。それぐらい聴き込んだのである。「アサック・イン・アメ」とかいった変な曲名もかっこよかった。初来日のときのソロピアノだが、そのときのライヴ盤「アキサキラ」も後日購入して聴いてみたけれど、トリオによる二枚組ライヴより、このソロピアノのほうが衝撃は強かったといえる。このアルバムを皮切りに、長いあいだにかなりの量のセシルのアルバムを聴いてきたが、やはり私の好きなのはこの「ソロ」と「インデント」の二作にとどめをさす。ずっと「ソロ」は聴きやすく、「インデント」は怖い……というような感想だったのだが、今回久しぶりに聞きなおしてみて、いやいや「ソロ」もかなりえぐいですなあ、と思った。山下洋輔がいろいろな意味で、自分の演奏を入れる枠組みを変えていったのにくらべて、セシルはソロだろうとコンボだろうとビッグバンドだろうと最近まで枠組みも自己の演奏もほとんど変わっていないと思う。当時は「ヨースケ・アローン」のほうがフレーズが聴こえてくる、セシルのソロのほうがアブストラクトである、というように言われていた気がするが、もちろんそんなことはなくて、どちらもそれぞれ個性あふれるフレーズを持っている。たしかにこのアルバムなどは、いわゆる「ジャズ」の聴きかただとかなりしんどい部分が多く、もしも「なんじゃこれは?」と思った場合は、あきらめずにしつこくしつこく聴き込むことが大事ではないかと思う。なにしろ高校生のときからのおつきあいのアルバムなので、フレーズのひとつひとつが私にとって大事な宝物(というのはちょっとおおげさか、と書いていて自分でも思ったけど)なのである。個人的な思い入れが強すぎて、なかなか冷静にはコメントしづらいなあ。

「INDENT」(FREEDOM PA−7186)
CECIL TAYLOR

日本吹き込みの「ソロ」のほうを先に聴いてしまったので、本作は長いあいだ手を出さずにいたのだが、あるとき聴いてみて、あまりに凄まじくて鳥肌がたちまくった記憶がある。なんというか「ギザギザ」な感じの演奏で、真剣にじっと耳を傾けていると、そのギザギザ感で聴いているほうがいっぱいになってしまい、あーーーーーっ!と叫びたくなるような、そんなアルバムだ。なんのことかわからない? わからんでしょうなあ。「ソロ」とは時期も曲も共通しているので、ある意味、兄弟のような作品ではあるが、こちらのほうがよりハードだ。ときどきひっぱりだして聴くと、なんとなく背筋がピンとのびて、なにかをやらねば、こんなことをしていてはいかん、という気持ちになる。真剣に聴くと、聴き終えるとへとへとになるタイプの演奏ではあるが、こういう演奏を真剣に聴かずしてどうするのか。

「SECOND ACT OF A VOL.1−2−3」(SHANDAR 83507)
CECIL TAYLOR

日本では「Aの第二幕」というタイトルで知られているが、うちにあるボックスレコードだと、ジャケットには「セシル・テイラー」としか印刷されていないし、背中にも「セシル・テイラーVOL.1−2−3」と書いてあるだけなので、もしかすると「セシル・テイラー」というのがこのアルバムのタイトルなのかもしれない(「Aの第二幕」というのは曲名)。しかし、まさにそんな感じの、レコード3枚組ですたすらセシル・テイラーが弾いて弾いて弾きまくる、セシル・テイラー度100パーセントの作品である。裏ジャケの下のほうに小さく「NUITS DE LA FONDATION MAEGHT」と印刷されているが、これもタイトルとはいえまい)。さて、シリアスな作品が多く、そのほとんどが「聴くとへとへとになる」タイプのアルバムばかりのセシル・テイラーだが、そのなかでももっとも「へとへとになる」のは本作だろう。学生のころに、バイト代が入った日に思い切って購入して聴き、とにかくあまりのしんどさにへばったが、そのかわり感動もすごくて、当時はこれがフリージャズの最高傑作かも、とまで思ったものだ。今でも、セシル・テイラーの最高傑作であり、フリージャズ史に残る大傑作であるという思いはかわらない。とにかくレコード三枚組で一曲(!)というすごさ(実際には一枚目A面から三枚目A面までが一曲で、三枚目のB面はアンコールだと思う)。しかも最初っから最後まで、セシルとその一派はひたすら疾走、疾駆、爆走……。一瞬のためらいもなく、一瞬のゆるみもなく、ただひたすらめちゃめちゃ高いテンションを保ったまま走りぬける。テンションはきわめて高いが、その高い状態のなかで、何度もそれ以上の高みに向かってのぼりつめ、何度も爆発するのだからおそれいる。アンドリュー・シリルはめちゃめちゃすごく、ジミー・ライオンズとサム・リバースもものすごくがんばっているが、なんといってもセシル・テイラーがあまりに凄まじくて、もう人間業とは思えない集中力とテクニックで弾きまくっている。よく「ピアノが悲鳴をあげる」というが、まさにそんな感じ。見せ場がありすぎて困るぐらいに起伏にとみ、ダイナミクスもストーリーもある演奏ではあるが、いやはやとにかく疲れる。というわけで、本作を私は購入して以来四回しか通して聴いていない(たいがい一枚目でバテてしまう)。今回、ものすごくひさしぶりに通して聴いたが、いやーーーーーーっ、やっぱりすごいですなー。しょっちゅう聴きまくるアルバムが「好きなアルバム」とはかぎらない。単にそれは、聴きやすいだけかもしれない。こういう、滅多に聴かない、いや聴けないアルバムこそが、すごいのだ、ということを、フリージャズファンは知っているはずである。セシル・テイラーのファンで本作を聴いていないひとはたぶんいないと思うが、セシルのファンでなくてもフリージャズ好きならぜったい聴いてほしい傑作。

「ALWAYS PLEASURE」(FREE MUSIC PRODUCTION FMPCD69)
CECIL TAYLOR ENSEMBLE

傑作。セシル・テイラー〜チャールズ・ゲイルという組み合わせがここまで壮絶な演奏を生んだ。もちろんもうひとりのサックス(ソプラノ)も、ラッパも、シローンもトリスタン・ホンディンガーも、ドラムもそれぞれにいいのだが、やっぱりゲイルのテナーとセシルのぶつかりあいが本作の最大の値打ちだろう。ジミー・ライオンズにくらべても、チャールズ・ゲイルのテナーは一音一音が血を吐くような重みがあり、セシルの疾駆するようなピアノとの対比がドラマを生む。もちろんセシルのピアノが軽いというわけではないよ。しかし、ゲイルの空間をへし曲げるような咆哮とそれのバックで煽って煽って煽りまくるセシルを聴いていると、そこまでせんでも……と思ってしまうほどの激突だ。煽る、というより「ディスる」という言葉を使いたくなるほどである。そこへ狂気のチェロと百戦錬磨のウッドベースの弓弾きがくわわり、パワフルかつ達者なドラムがはまると、これはもう極上のフリージャズ。愉しいなあ。こういうのを聴いていると、わくわくするし、仕事をやる気にもなるというものだ。いつまでたってもこういう古いタイプのパワーミュージックが好きなのだなあ、俺。おそらく、この演奏が行われていた時間、地球上のエネルギーの部分がその演奏会場に集中していたはずだ。もしかしたら、都会の電気の一部は止まっていたかもしれない、などと空想してしまうほどに、凄まじいエネルギーとパワーとパッションの噴出だ。「ジャズ・アドヴァンス」なんか聴かなくてもいい。たとえば本作をセシル・テイラーの初体験にしたっていいわけである。そういう風にちゃんとこういう巨人を紹介する入門書があるべきだと思うけどなあ。

「MOMENTUM SPACE」(VERVE POCJ−1441)
DEWEY REDMAN/CECIL TAYLOR/ELVIN JONES

 この驚異的な顔合わせのアルバムを聴いたあと、エルヴィンとデューイは鬼籍に入ったが、エルヴィンは6年後、デューイは8年後なので、このアルバム録音時はまだまだバリバリのころのはずだ。しかし、作品としては傑作にはならなかった。それはまちがいないが、とはいえ、めちゃくちゃおもしろい作品であることもまたまちがいない。とにかくこの顔合わせを考え、そして実現したやつはとんでもないアホか凄腕のプロデューサーかどちらだと思う。1曲目はデューイの曲で、というか、曲というかただのちょっとした音列といってもいい。デューイの曲だというのに、疾走するセシルとそれにちゃんと合わせるエルヴィンに比べて、デューイはいまいち失速ぎみだが、それはしかたない。デューイ・レッドマンはたとえば坂田明のように細かいフレーズをぶっぱやく吹きまくるタイプでも、ブロッツマンのようにぐじゃぐじゃな音塊を大音量でぶつかて良しとするタイプでもファラオやデヴィッド・ウェアのように激しいスクリームでなんとかするタイプでもなく、しっかりとしたフレーズの積み重ねで表現するタイプだから、こういう切った張ったでは、ちょっと不利である。「私、不器用ですから」とデューイが言ってるような気がするが、おもしろいことはおもしろいのです。なお、デューイはアルトを吹いている。セシルがガンガンとピアノをどつきまくるたびに、エルヴィンが「わしゃどうやったらええんかなあ」という顔でシンバルをチキチキやってるのが目に浮かぶ。とにかくセシルはマイペースであり、かつ、本作を引っ張っているのだ。2曲目は、なんとエルヴィンのソロ。これはまさしくエルヴィンミュージックそのものだが、この日のセッションの空気感ゆえか、エルヴィンにしてはかなり自由な演奏になっているようにも思う。昔の重いシンバルへの一撃や腹にこたえるバスドラのキックこそないが、全体のうねるようなサウンドは健在。3曲目はデューイ・レッドマン(テナー)とエルヴィンのデュオ。デューイ・レッドマンの曲で、明るいナンバー。レッドマンはベースやピアノがいないのに、いるような感じで普通にフレーズをつむいでいくが、もともと型にはまることのない自由なひとなので、あまり、それが気にならない。ギャーッと叫んだり、ハーモニクスでノイズのような音を出したりすることもなく、めちゃめちゃ普通。エルヴィンはエルヴィンで、シンバルレガートを基本にして、これも普通の4ビートジャズとして合わせている感じ。デューイもエルヴィンがゴンゴン叩いても煽られたりすることもなく、淡々と自分の歌を歌っている。エルヴィンはソロになると急にいきいきする。枯れたような、いないような、不思議な演奏だが、妙に心引かれる。最後の最後で、急にデューイが声を出しながら吹くという例のパフォーマンスをやる。4曲目はセシル・テイラーのソロピアノ。いつもの、あの感じ。きわめて力強く、ダイナミクスもあり、精神性・先取性もかつてのままで、衰えはまったく感じられない。5曲目はセシルとエルヴィンのデュオだが、冒頭からセシルが独走しエルヴィンは手探りしながら合わせている感じ。それが次第にほぐれてきて、巧妙なシンバルワークで応じていく。レスポンスも速く、かなりいい感じではあるが、主導権は終始、セシルの側にある。こういう顔合わせでも、セシル・テイラーの圧倒的な自分の音楽へのこだわりと自信と執着を感じずにはおれない。我々が聴きたかったのは、たぶん、セシルとエルヴィンの互角のやりとりであって、ふたりがお互いに高め合っていき、とんでもない場面が展開する……ということだったのだろうが、とんでもない場面は、いつもほぼセシルひとりで創りだしているのである。まあ、しゃあないけど。6曲目は3人によるトリオ演奏。デューイのゆったりとしたテナーとセシルの性急なピアノがいいコントラストになっていておもしろい。それがだんだんと崩れてきて、3人での圧倒的なパフォーマンスが繰り広げられる。エルヴィンも相当がんばっていて、この演奏が、全員が一番自分の個性を貫き通したままでうまく噛みあったセッションといえるのではないか。ほかの曲もこの曲ぐらいエルヴィンが無茶苦茶やってくれたらよかったのに。とはいえ、やはりセシルがセッションを引っ張り、自分色に染め上げていることはまちがいない。どしゃめしゃばかりではなく、ちゃんとフレーズも聞こえてくるし、セシルはすごいな。最後はデューイのソロ(アルト)。一瞬で終わります。3者対等の演奏だが、一応セシル・テイラーの項に入れておく。

「MICHIGAN STATE UNIVERSITY,APRIL 15TH 1976」(HI HAT HHCD005)
CECIL TAYLOR

 ぎゃあああ、これはめちゃくちゃええなあ。セシルユニットのやり方なので、たぶん全体で一曲という感じの演奏だったのだろうが、CDでは便宜上曲扱いされている。いきなりドラムソロのイントロではじまり、そこにデヴィッド・S・ウェアの血を吐くようなテナーが入ってくると、もう世界はどす黒く染まる。セシルとウェアのデュオが延々続くが、このかっこよさは筆舌に尽くしがたい。ああ、こんな風に吹けたらなあ……と思うような凄まじい演奏。情念と音色とテクニックが完全に一致している。聴き惚れます。あの傑作「ダーク・トゥ・ゼムセルヴズ」を超えた? いやいや、それは言いすぎか。とにかくこの部分だけは、セシル・テイラー・ユニットというより、ウェアのリーダー作といっていいぐらいのウェアの突出した凄さが味わえる。続いてジミー・ライオンズとピアノ、ドラムのトリオになる。ライオンズももちろんすばらしいが、いやー、ウェアがえげつないぐらい吹きまくったので、ものすごく普通に聞こえる。いや、ライオンズはリーダー作など聞く限りでは、そういうビバップ等の音楽性のうえに立っている、良い意味で普通のアルト奏者であり、そこがテイラーの音楽にぴったり合ったわけだから、これでいいのだ。真摯に、ていねいにフレーズを積み上げ、ピアノやドラムとの細かい交換を行いつつ、じわじわ熱くなっていくのを聴くと、ああ、ライオンズだなあと思う。ひとりで突っ走るのではなく、一体化して盛り上がっていくという感じ。このときのマーク・エドワーズのドラムはすばらしいの一言。正直、アンドリュー・シリルやビーバー・ハリスよりもセシルのユニットには合っているのでは……とこれもまた言いすぎかも。セシルのピアノは相変わらずぶっ飛んでいて最高。そのあとようやくラルフ・マリクのトランペットが登場するが、ここはフリーなバラードのような雰囲気。マリクのトランペットは、もちろん上手いのだが、それ以上に「人間が吹いている」という感じが伝わってくるような、生々しい表現力のある演奏で、歌心もあってすばらしい。セシルと一緒に演奏するには、音量や音色よりもまず素早さとかレスポンスのほうが大事だと思われるので、セシルとやれる金管はなかなかいないと思う。その点、マリクはすごいんじゃないでしょうか。この部分かなり長く、アルバムのハイライトともなっている。ここで一旦終わって、ラストの曲は全員による演奏で、きちんとしたコンポジションがあり、かなり長いあいだ譜面のパートが続く(5分ぐらい?)。そのあとビート感のある集団即興になるが、やはりウェアの咆哮に耳が奪われる。こういうのを聴くと、いやー、テナーというのはこういう風に吹くためにアドルフ・サックスが作ったんだよね、と思ってしまうぐらい。マリクの突き刺すようなトランペットもすごく、もちろんセシルは弾いて弾いて弾き倒しており、ドラムの躍動感あふれる快演(とても「いまどき」な感じのドラムで興奮しまくる)もあってとにかく異常に盛り上がる。すごいすごいと聞きながら手に汗を握る白熱の演奏。やっぱりこれやこれやがな! と叫んでしまうような、最高の演奏なので、「放送録音かあ……」と二の足を踏んでるひとはただちに聴いてください。凄さ保証つき。

「AIR ABOVE MOUNTAINS〈BUILDINGS WITHIN〉」(ENJA RECORDS CDSOL−6564)
CECIL TAYLOR

 76年のソロピアノ。悪いはずがない。廉価盤CDで買い直した。中古で買った、盤面の擦り切れたLPを持っているが、これでお役御免にする。しかし、このころのセシル・テイラーのソロの凄みというのは、文章で説明しようにもできないぐらいとんでもないもので、正直、共演者なんかいらんやろと思う。下手に、ドラムやサックスの音が入ってくると、この、なんというか純度とか音楽の支配力が薄れてしまうのではないか、と思うぐらい、ひとりで完成している。たとえばカン・テーファンやエヴァン・パーカー、阿部薫、吉沢元治などを聴いてると、共演者のいらないひとたちだなあと思う。そういう、ソロとして確立しているひとが、ほかのひとと演奏すると、どうしても相手に合わせる部分がでてきて、それはそれで面白いのだが、ソロのときとはちがった演奏になるわけで、そういうひとたちの場合は、複数での演奏だけ聴いていては片手落ちになる。セシルもそうであって、デュオ、トリオ、カルテット、オーケストラ……いろいろな編成での演奏を行っているセシルだが、とりあえずはまずソロを聴かないと。聴いてもらわないと。ここに収められた2曲の演奏は、ピアノという楽器ってこんな可能性もあったのか、と世界を瞠目させたのではと勝手に想像する。ドラムであり、ベースであり、管楽器であり、オーケストラであり、もちろんピアノでもあるのがピアノだ。よく「ピアノは小さなオーケストラだ」みたいな言い方を耳にするが、いやいやいやいや、セシルのソロを聴くと、ピアノはオーケストラより凄いと思う。この疾走感、打撃、つぎつぎ現れては消えるリズム、一種もとまらぬ集中力、ときおりみせる感情の洪水そしてクールネス……。私は「インデント」や「ソロ(日本のやつ)」がめちゃめちゃ好きだが、本作もめっちゃ好きです。フレーズが浮上しようとするのを抑え、クリシェが現れそうになるのをぶち壊しながら演奏しているようなストイックさにはいつも感動する。セシル本人も言っているが、ダンサーの踊りとの関連というのも、ソロを聴くとよくわかる。この演奏から、舞台で飛び跳ね、静止し、痙攣し、もがき、走るダンサーのパフォーマンスを想像するのは容易である。そして、こんなにすごいソロをやりながら、「ダーク・トゥ・ゼムセルブズ」や「Aの第2幕」のような集団即興の傑作をも作ってしまうのだからセシルはえらい! この凄いアルバムが1000円って……そりゃないよなあ。買って文句言うのはおかしいが、安すぎる。まあ、こういうとてつもなく凄いものが、多くのひとの耳に届き、広まっていくならばいいことなのかもしれないけど。傑作です。

「THE EIGHTH」(HAT HUT RECORDS HAT ART CD 6036)
CECIL TAYLOR

 81年のドイツでのライヴ。メンバーはジミー・ライオンズ、ウィリアム・パーカー、ラシッド・ベイカーと強力。ぶっ飛びのパフォーマンス。どんなに保守的でかたくななジャズファンでも、この演奏を聴けば感動すること必至。……いや、そうとも言えんか。かたくななひとははじめからそういう姿勢で聴くかもしれないな。でも、先入観を捨て、素直にこの音と向き合えば、かならずやこのすばらしい音世界に引き込まれるでしょう……ぐらいにしておこう。最初、変なパーカッション(?)からはじまり、そのあとなんかぐだぐだするが、ピアノが登場し、ベースが絡みだしてからは一気呵成。ドラム、ベースとピアノによって形作られている超スーパー高速のリズムにジミー・ライオンズのアルトがしっかりと乗って、ひたすら吹きまくる。その音色、粒立ち、フレージングなどは、こういう比喩は失礼極まりないと思うが、同時期の坂田明を彷彿とさせるほどである。こういう言い方をするのは、坂田さんとジミー・ライオンズがまるで資質のちがうアルト奏者であることをわきまえたうえでのことであって、このアルバムでのジミー・ライオンズはたとえば……えーと、いい例が思い浮かばないが、たとえば「アキサキラ」なんかに比べても、めちゃくちゃイケイケな感じでほんとにすばらしい。もちろんセシルは凄すぎる。ライオンズのアルトソロが終ったあと、ズビューン! という感じで飛び出してくるセシルのソロはもうだれも止められない勢いである。パーソネルのところにわざわざ「ベーゼンドルファーピアノ」と書かれているが、ベーゼンドルファーもまさかこんな風にピアノを弾くやつがいるとは……と呆れ果てているのではないか。ドライで、スピーディーで、ダンサブルで……すばらしいとしか言いようがない。音楽の快感というのはここですよ、ここにあるのです! とつい口走ってしまいたくなるほどだが、もちろんそういうわけではない。でも、そう言いたくなるほど、この演奏は凄まじい。めちゃくちゃ冷静にピアノを弾きまくり、耐えきれずにピアノが発狂していくような部分も、セシル自身が発狂して叫び、鍵盤をガンガン叩きまくっているような部分もある。いずれにしてもこの時期のセシルは脂がのりきっている。全体にセシルとともに、ジミー・ライオンズが非常に突出したパフォーマンスを演じていることは特記すべきでしょう。「場を仕切る」という意味では、セシル以上だと思う。そして、ベースとドラムの圧倒的なバックアップは、凄すぎて口がだらんとあいて涎がしたたるほどのめちゃくちゃさだと思う。いやーーーーーーーーーー、このころのセシル・テイラー・ユニットはマジですごすぎる。1曲目が58分、2曲目が11分。豊饒にして過剰な最高のパフォーマンス。みんな、聴くときは心して聴くようにね! 傑作。

「LOOKING(BERLIN VERSION)THE FEEL TRIO」(FREE MUSIC PRODUCTION FMP CD25)
CECIL TAYLOR・WILLIAM PARKER・TONY OXLEY

 このフィールトリオというのは何枚かアルバムが出ているはずだが、たしか9枚組だか10枚組だかのボックスもあって、どひゃーっとなった記憶がある。さすがにそんなのは買えないが、このアルバムも内容は凄いんですよ。この「ルッキング(ベルリン・バージョン)」というのも意味がよくわからなくて、同じタイトルでセシルのソロとか、コロナクインテットのものとかも出ている。まあ、セシルの曲名とかアルバム名は昔からよくわからんものが多いのであまり気にしてもしかたがない。本作は1曲目からめちゃくちゃ凄くて、セシルは速度制限違反ぐらいの超高速で疾走するが、ウィリアム・パーカーとトニー・オクスリーも負けてはいない。同じぐらいのスピードで突っ走る。といっても、3人ともただむやみやたらと走っているだけではなく、緩急のつけかたも凄くて、長い大作映画を観ているようだ。山あり谷ありで、思わず興奮したり手に汗握るところもあって、あれよあれよというまにエンディングまでもっていかれる。セシルのこの時期のアルバムを聞いていると、ただただ音の奔流とそれが作るドラマに身を任せているだけでひたすら快感なので、なにも考える必要はない。本作では3者の対等のぶつかり合い(といってもセシルがぐいぐい引っ張っている感は否めないが、それはあとのふたりが悪いというわけではなく、対等だがセシルがリーダーの音楽だ、ということである)が徹頭徹尾展開するのだが、なかでもウィリアム・パーカーのベースは鳥肌ものである。このセシルのスピードに、ドラムはついていけても、なかなかウッドベースで立ち向かえる奏者は少ないと思うが、ここでのパーカーは本当に凄まじいプレイでセシルと呼応している。何度聴いてもかっこいい壮絶なアルバム。傑作!

「NAILED」(FREE MUSIC PRODUCTION FMP CD108)
CT:THE QUARTET

 なにかこれからしんどい仕事をしなければならないとき、気合いを入れないといけないとき、かなりやる気を掻き立てないといけないとき……などに聴くのがこのアルバムだ。セシル・テイラーの90年代の諸作のなかでも突出して高いテンションの作品である。メンバーがエヴァン・パーカー、バリー・ガイ、トニー・オクスリーと豪華だが、セシル・テイラーと共演するには、豪華だからとかビッグネームだからというのは条件にならない。正直、誰でも彼でもフリージャズのミュージシャンならセシルと一緒に出来る、というわけではない。逆に、セシル・テイラーと合うミュージシャンはけっこう限られているのではないかと思う。それぐらい独特で孤高の音楽性の持ち主なのだ。そして、案外、エヴァン・パーカーはセシル・テイラーと合わないんじゃないか、と昔は勝手に思っていた。たぶん、このアルバムを聴くまでは。その理由はいろいろあるが書いてもしかたがない。つまり私の勘違いというか、エヴァン・パーカーに対してある種の先入観があってそれが間違いだったのだ。まあ、そんなことはどうでもよくて、さっきも書いたが、本作は4人の熟練したミュージシャンによって信じられないような高みに達した即興演奏の記録である。その多くの部分はリーダーであるセシル・テイラーの凄まじいピアノとリーダーシップによったものだが、ほかの3人もとてつもない演奏でそれに応えている。セシル・テイラーとの共演というと、ぶっちぎって疾駆するえげつないピアノから振り落とされないよう必死でしがみつく……みたいな図式が浮かぶが、本作の共演者たちはそれどころか対等にセシルとぶつかり合い、触発しあっている。その結果、この圧倒的な、どえらい演奏が生まれた。トニー・オクスリーとセシルの激突は本当に凄くて、言葉を失う。そして、エヴァン・パーカーが異常なほどのテンションで最初から最後まで、「サックスのセシル・テイラー」的な演奏でセシルと対峙している。それはパーカーにとって普段とはやや違ったアプローチだ。速い。速すぎる。それには全編、あのパーカータンギングを駆使しなくてはならず、いやー、たいへんだったと思います、この演奏。のべつまくなしだもんなー。そして、たぶんこのときパーカーはいつものラーセンのラバーを使っていると思うが、ほんとにいい音でほれぼれする。ええ音やー。1曲目、52分もあるこの演奏のあいだ、パーカーのテナーの低音がとくにリアルに聞こえて、もうタマらん! そうなのだ。このアルバムではほとんどパーカーはテナーで、そこもまた本作が好きな理由のひとつだ。パーカーといえばソプラノだが、私は昔からテナーのほうが好きなのです(そのことはこれまでしつこくしつこく書いてますが)。そして、2曲目はセシルによる叙情的なピアノではじまり、エヴァン・パーカーはソプラノだが、ここでのソプラノもまたいいんです(どっちやねん……ってどっちもいいんです)。あー、極楽。とにかく4人がひたすらめちゃくちゃな速度で一瞬の気の緩みもなく全力で走り続けた、という感じの演奏。だってセシルが弾きやめないんだもんな。凄いわ。この音のパワーというか、わけのわからないエネルギーにひれ伏してほしい。こういう演奏って、体調の悪いときとかしんどいときは聴けないものだが、なぜか本作はそういうときでも聴けて、しかも、その体調の悪さがいつのまにか吹っ飛んでしまっている……という経験ができる稀有なアルバム。気合い入ります。セシル・テイラー万歳! 傑作!

「THE LIGHT OF CORONA」(FREE MUSIC PRODUCT FMP CD120)
CECIL TAYLOR:THE ENSEMBLE

 セシル・テイラーと大編成バンドというのはけっこう相性がいいのだが、本作はどうかと思って聴いてみると、おお、これはなかなかすごいじゃないですか! こういう方面にはうとい私なので、参加メンバーも名前を知っているひとがあまりいなくて、トリスタン・ホンジンガーとかドミニク・デュバル、エリオット・レヴィンぐらいしか知らんのだが、音楽的成果は豊漁だと言えるだろう。総勢9人の大所帯で、管楽器が5人。最初はさまざまなパーカッシヴなノイズとともに複数のヴォイス(中心はたぶんセシル?)が聴かれる演劇的な表現ではじまり、全員が少しずつ手を出すようなパートが長く続くが、ピアノは現れない。このあたりの集団即興の距離感というか駆け引きはとても上手く行っていて、皆でしゃばり過ぎず、相手を聴きながら自己主張をする、という感じ。ヴォイスとフルート、アルコベース、チェロなどがすごくいい味を出している。10分前後からセシルがピアノ弦を弾きはじめ、低音部を叩きながらも、相変わらずしゃべったり叫んだりしている。このあたりの緊張感を保ったまま展開する即興は本当に楽しい。全員がこの場で演奏されるべき音楽の趣旨や方法論(つまりセシルの音楽)をよく理解しているということだ。15分ぐらいからピアノが前面に出てくる。ちゃんと譜面があり、リハーサルもおそらく行われているであろう、構成のしっかりした音楽であるが、とても自然発生的に聞こえるし(もちろんそういう要素も多いだろう)、全員が楽しんで好きなように演奏しているのが伝わってくる。次第に激しいフリージャズになっていくが、のめりこんでぐちゃぐちゃになることはなく、皆が熱い演奏をしていても、どこかクールな視点が感じられる。23分ぐらいで全員が一旦消えてセシルの無伴奏ソロになり、そこにトリスタン・ホンディンガーのチェロがからんでいき、ベースもアルコで加わる……という(たぶん)トリオでの演奏が延々と続く。そこにドラムが入って4人になり、管楽器も戻ってきて、異常に盛り上がる。そこからはさまざまなドラマが展開していき、36分ぐらいで深い祈りを捧げるようなクライマックスに達する。そのあとヴォイスとトランペットを中心にフリーなパートになり、全員が参加しての混沌とした状態からピアノとアルコベース、チェロ、ドラムが抜け出して、リズミカルでクレイジーだがチェロのおかげで叙情的に聞こえるパートに突入。ここはなかなかの聞き物である。そこにソプラノが加わり、激しいピアノとの応酬になる。トロンボーンも加わって、プランジャーを使っての表現。どんどん人数が増したあと、非常にスカスカの即興コーナーがはじまる。セシルかだれかがなにか言っているがよくわからない。そのまま静かに終わっていくのかと思いきや、そこから寸劇(?)みたいなものがはじまって、譜面がありそうなエンディングになる。このあたりはその場に居合わせないと「呼吸」みたいなものはわからないが、ひとつの即興オペラを見たような気持ちになる。2曲目はセシルのピアノソロではじまる。ここはいつものセシルである。5分ぐらい弾きまくったあたりでソプラノとチェロが加わってハードなインプロヴィゼイションになる。チェロがどんどん前面に出てきて、ドラムがブラッシュで加わり、だんだんポテンシャルがあがっていく。この曲ではセシルは基本的にずっと弾いていて、それが突然全部消え、全員が口々になにやらしゃべったり、わめいたりする演劇的なパートになるが、皆、そういうことを楽しんでいる雰囲気が伝わってくる。そのあとCDを聴いているとよくわからないが、突然終わって、観客の拍手と口笛が延々続く……というかなり面白い終わり方である。冒頭にも書いたが、セシルの構成力、演劇性などは大きな編成においても発揮され、それがこの作品ではすごく良いほうに働いて、たいへん緻密で、わくわくするような演奏になった。傑作。

「LIVE IN VIENNA」(LEO RECORDS CDLR174)
THE CECIL TAYLAR UNIT

 カルロス・ワードが在籍していたころの演奏。ヴァイオリンはリロイ・ジェンキンスで、ちょっと意外な人選か? そんなこともないか(87年のツアーのメンバー)。最初はセシルのしゃべりにまわりのミュージシャンがうなずいたり茶々を入れたりするのが延々続いて、どうなるんや、と思っているといきなり激しいピアノとヴァイオリンのぶつかり合い、そしてベース、ドラムが入り、最終的にワードが入って全員集合となる。この冒頭の部分を聴くだけで、このライヴが凄いとわかるぐらいの気合いが伝わってくる。そのあとドラム〜ベース〜ピアノのトリオになり、えげつない演奏になる。そして12分ぐらいからヴァイオリンが入ってきて、そこからどんどん高みへ向かって上昇するような展開になる。リロイ・ジェンキンスはセシルのピアノの猛烈なエネルギーを受けて上へ上へとのぼっていくようだ。正直、リロイ・ジェンキンスってこんなに凄かったっけといいたくなるようなすばらしさ。そしてまたピアノトリオになり、サーマン・バーカーの超人のような恐ろしいドラミングでボルテージが最高潮に達したところでカルロス・ワード登場! 阿修羅のようなバーカー、狂ったように鍵盤を叩くセシルに対して、ワードは太いアルトの音色をしっかり維持しながら吹きまくる。ある意味クールであり、前任者ジミー・ライオンズ同様、セシルの挑発につり出されず、的確にフレーズを積み重ねていく。ウィリアム・パーカーのベースはランニングのようでよくわからんが、これもひとつの狂気を付け加えている。いやー、参ったなあ、という感じの盛り上がりのあと、またトリオのパートになり、ベースとピアノの対峙になる。すでに20分間休みなく引き続けているセシルだが、緊張の糸はまったく切れず、逆にテンションをぐいぐいあげていくような、暴風のように凄まじい演奏になる。そこにヴァイオリンが降臨して、展開が変わる。めちゃくちゃ速いビートだったのが、フリーになり、サーマン・バーカーがマリンバを叩き、一見どしゃめしゃのようで、実はメロディックな世界観になる(ほんまか?)。ウィリアム・パーカーはどこ吹く風でマイペースで野太いランニング。ああ、これは最高だーっ、と叫んだところで、カルロス・ワードがフルートで戻ってくる。あまりにも激しい演奏の真っ只中なので、フルートもまるで打楽器のように吹かれるのだが、そうは言ってもやはりフルート、若干のメロディが聞き取れる。ジェンキンスはひたすらヴァイオリンをゴシゴシとこすっているような豪快な、ある意味むちゃくちゃな演奏。そして、バーカーがNHKのど自慢のようなチャイム。なんじゃこりゃあっ! 36分ぐらいからまた展開が変わり、ヴァイオリンとピアノがガチンコでぶつかり合うようなカルテットのパートに、ワードのアルトが柔らかくからむという感じに。そして、ワードがテーマっぽいモチーフを繰り返すなか、セシルが凄まじい演奏を展開。これはもうピアノを殴ってるな。ワードはこの頭のおかしいユニットのなかで唯一の「ちゃんとしたひと」という感じだ。とにかくリーダーがいちばん狂ってる。弾き出してから40分以上経っているのにセシルの表現意欲と体力は衰えない。45分ぐらいからまた様相が変わり、ピアノ〜ドラム〜ヴァイオリンの全力のぶつかり合いのフリーなパートになる。たぶん多くのリスナーがここで「セシル、休め!」と叫んだと思われるがセシルは休まない。48分ぐらいからリズムの雰囲気が変わり、全員での演奏になる。セシルの猛烈なピアノが全員に乗り移ったかのように5人での全身全霊のパワー全開のパートが続き、あー、天国、あー、極楽、あー、ヘヴン……という状況が延々続く。とはいえ、そういう昂揚のなかでもワードのアルトは半分狂っていて、半分冷静に聞こえて最高である。58分ころからまた展開が変わり、ピアノとベースのデュオっぽくなる。ヴァイオリンが加わり、絶妙かつ変態的なフレーズをつぎつぎ繰り出していく。なにか叫んでいるのはサーマン・バーカーか? このあたりももう聞いているこちらとしては面白過ぎて興奮の坩堝である。62分ぐらいからまたまた雰囲気が変わり、ヴァイオリンがピチカートでテンポを出し、パーカーがアルコを豪放に弾きまくる。セシルが岩石が崩れ落ちるような重いバッキングをし、だれかがどこかで叫ぶ(バーカー?)。おもろい! 65分ぐらいからまた展開が変わる。飽きないなあ。このアルバム、買ってからずいぶん経つが何度聴いても飽きないのは、展開がどんどん変わって新しい局面に突入するからだろう。66分ぐらいで、珍しく静かな演奏になる。セシルのピアノが中心になり、やや叙情的な雰囲気のなか、マリンバが転がり、ベースが重い弓を響かせる。そして余韻を残してエンディング。あー、すばらしい。このころのセシルは全部いいなー。メンバー全員最高である。傑作としか言いようがない。

「MYSTERIES:UNTITLED」(BLACK SUN MUSIC 15049−2」
CECIL TAYLOR

 セシルの78年の世界初出録音で、しかもジミー・ライオンズ、ヘンリー・グライムズ、サニー・マレイ、そしてアーチー・シェップが参加、エッカート・ランというレーベルオーナーが個人的に渡された音源……ということでこれは聞かねば! と購入したが、世界初出録音は50分を占めるセシルのピアノソロ。あとはおまけで既出録音でした。ディスクユニオンの紹介では、
セシル・テイラー(ピアノ)
2−4
ジミー・ライオンズ
ヘンリー・グライムズ
ジミー・マーレイ
アーチー・シェップ
1978年11月ニューヨークベーゼンドルファーフェスティバル
となっていて、全曲このときの録音と思うわなー。というわけで、もちろん既出の3曲はあのときの録音(61年)なのである(ギル・エヴァンスの「イントゥ・ザ・ホット」)。このCDのなにが問題かというと,参加メンバーに、(なぜか)テッド・カーソンとラズウェル・ラッドの名前を欠いているところで、それが書いてあればみんな、ああ、あれかと思ったのではないだろうか。ちょっと腹立つ。ラッパの音、聞こえんかね? 内容とは関係ないレビューで申し訳ない。収録されているミュージシャンを無視する会社も、それを気にもせず売ろうとする日本の輸入会社もアホかと思うのである。ディスクユニオンのホームページに掲載されている新譜案内によると「(前略)本盤はなんと世界初出音源。セレストリアル・ハーモニーの社長エッカート・ラン氏がテイラーより個人的なギフトとして直接手渡された音源のCD化である。(中略)テイラー49歳、もっとも脂の乗り切っている頃の渾身のライヴでテナー・サックスのアーチー・シェップなどテイラーの盟友も多数参加」と書いてあれば、その「個人的なギフト」にシェップが入っていたのだと思うでしょう? せっかくのセシルの未発表ピアノソロが、しょうもないことで台なしになった……と書きたいところではあるが、聴いてみると、78年のソロはマジすばらしいのである。セシルの最高のソロと比べても遜色ない(録音がちょっと……という気はするが、十分鑑賞に耐える音質である)。50分間のジェットコースター。そして、61年の3曲についても、「久々に聴いたなあ」という感じで、やっぱりすばらしい演奏である。そういう機会を与えてくれたことには感謝。でも、「イントゥ・ザ・ホット」からこの3曲だけ抜き出すというのはやっぱり荒業だろう。