masayuki takayanagi

「死人」(JINYA DISK B−11)
吉増剛造 高柳昌行 翠川敬基

 最初、しばらく聴いていたときは、なんやねんこれ、と思った。ポエトリー・リーディングがなにをいってるのかさっぱり聴き取れないし、急に興奮して早口になったり、言葉を重ねたりするのが、なんともお約束っぽく、いかにも「即興っぽく朗読してます」的な古さを感じたのだが、それは私の早とちりでした。高柳のギターが、バックをつけるというより割ってはいってくるあたりから、「言葉」と「ノイズ」のコラボレーションが生まれ、詩を全部きちんと聴かせることよりも、ギターと同じく「音」と「音」の応酬を優先する詩人の立場がはっきりわかってくる。しかも、それは同時に、断片的ではあるが「言葉」でもあるわけで、言の葉のパワーはひじょうに強いものがあり、聴いていてどんどん興奮してくる。これは、やっぱり高柳の力なのだろうな。ほかの共演者とだったら、こういう展開にはなるまい、と思わせるだけの、圧倒的な存在感、スピード感、リズムがある。聴き終わって、しばらく感動のあまり呆然とし、ああ、久しぶりに高柳作品をいっぱい聴きたい、と切実に思った。めちゃめちゃ刺激とかやる気をもらった。感謝。日本の、というか、世界の即興音楽シーンの得た宝物のような作品である。なお、吉増の名前がいちばんさきに出ているが、ミュージシャンではないので、形式的に高柳の項目にいれた。

「AXIS ANOTHER REVOLABLE THING PART1」(OFF BEAT RECORDS ORLP−1005)
「AXIS ANOTHER REVOLABLE THING PART2」(OFF BEAT RECORDS ORLP−1009)
MASAYUKI TAKAYANAGI NEW DIRECTION−UNIT IN CONCERT

 こういうすごいコンサートがあり、ちゃんと録音していたひとがおり、それをまた今世の中にふたたび出そうというひとがおり、そういうえらいひとたちによって、私がこのCDを聴けるわけで、そういった人たちに感謝。これはすばらしい音楽の宝物である。4人のミュージシャンは、どんな曲でもほんの一瞬の手抜きもなく、ずーーーーーーっとひたすら集中して演奏を続ける。その結果、形成される音楽は、これが不思議なもので、どの曲もまったく似通ったところのない、新しいものが生み出される。固定メンバーでこういったタイプの即興をやっていれば、演奏がどれも似てくるのは当然ではないか、と思うが、そうならない。なに? どの演奏も、ギャーーーーヒーーーッというだけではないかって? アホか。おまえはどこに目を、いや、耳をつけているのだ。おまえはラ・グリマの聴衆か。全部全然ちがうやないかーい。おそらく彼らの集団投射とか漸次投射というのは、単にメンバーの音に反応してつぎの音を出す、その繰り返しによって演奏を構築していき、その結果が「音楽」になる……といったような生やさしいものではなく、具体的にはよくわからないが、少しでも前進しよう、新しいものを生みだそう、という強烈な意志が4人のメンバーにあり、それによって演奏が貫かれているからこそ、こういった違いが生まれてくるのだろう。一瞬もダレない、弛緩しない、凄まじい意志の力である。もう一回書くが、ほんと日本が生んだ宝物ですよ、この二枚の演奏は。ただ、ライナーの字が小さすぎて、老眼がはじまった私には読めません。つらいのう。

「COMPLETE”LA GRIMA”」(DOUBT MUSIC DMF−113)
TAKAYANAGI MASAYUKI NEW DIRECTION FOR THE ART

 もうなにも言うことはない。頭を下げて、この演奏が録音されていた僥倖と、今完全な形で世に出た僥倖とに、全音楽ファンは深く感謝すべきでしょう。とにかく一回聴いて感動して、すぐにもう一度聴いてまたまた感動して、さらにもう一度聴いて、さすがに疲れたが、三度つづけて通して聴いても、その面白さは減少するどころか、ますます瑞々しく私の五感を刺激しつづけたのである。とにかく最初と最後のヤジを収録したのがかなりポイント高いです。ヤジのあとにいきなりはじまる三人(そうだ、たった三人の演奏なのである。そのこともすごいよなー)の爆走は一瞬も立ち止まることなくひたすら駆けつづけ、最後の最後の最後の瞬間にぴたっととまる。そして「帰れ、帰れ」の大合唱。ああああ、かっこいい。今の世の中に、客に帰れ帰れと絶叫せしめるようなパワーを持った音楽がありますか? 彼らの演奏は、そこにいた連中に「なにか」を突きつけた。のど元に。ぐさりと。だから、彼らは恐怖と畏怖を感じ、三人を拒絶しようとしたのではないか。もちろんもっと政治的な問題が後ろにはあるのかもしれないが、とにかくその模様を単純に録音して再生しただけで、聴くもの(つまり私ですが)を慄然とさせるだけの力がありますよ。三人は、音を出した瞬間から最後の瞬間まで全力疾走する。森剣治もまったく休むことなくアルトを吹き続けている。これは単に肉体的な問題としてもすごい。サックスというのは吹いていると唇がバテてくるものなのだが、森はそんなことは知らんよとばかりにずーーーーーーっと吹いている。ひとによっては、森のソロが爆発しない、つまり、クライマックスに向かわない、という感想を抱くかもしれない。それはこのグループでのほかの演奏すべてに言えることだが、森はとにかくひたすら反応している。そして、反応せよ、とフレーズを重ねる。たとえば、山下トリオの場合、三人が対等といっても坂田明が吹きだすと、客は坂田のソロだと思って聴く。それはある意味正しい。坂田が吹くときは、あとのふたりは坂田を中心にして盛り上げようとする。つまり、やや引いた形でバッキングに回るわけだ。ものすごく過激で強烈なバッキングではあるが。このことはたぶん正しい。というのは、山下さん自身がこういったようなことをエッセイに書いているからだ。坂田が吹き止めると、そこからピアノのソロになり、ドラムのソロはドラム以外がやめたときにこそ回ってくる。つまりは普通のジャズと同じなのである。しかし、このグループはそうではない。アルトは一瞬の休みもなく最初から最後まで吹きつづけているわけで、それをソロとしたらずっとアルトソロである。もちろんそうではなく、彼らはひたすら対等なのである。ある意味、ずっとアルトソロであり、ギターソロであり、ドラムソロなのだ。そして、驚くべきことに、森剣治は四十数分、ずっとバテずに(まあ、バテてはいるだろうが、それを感じさせずに)、常に新しいことを仕掛けようとしている。CDで大音量で何度も聴くとそれが如実にわかるのである。これはすごいことですよ。とてつもない集中力だ。それはほかのふたりにもいえる。こちらも、ずっとひたすら耳をスピーカーに釘付けにして、一音たりとも聞き逃さないように集中していないと、この演奏の真髄をキャッチすることはできない。やるほうもたいへんだが、聴くほうもたいへんだ。このころはそういう音楽がたくさんあった。今の世の中、そうやって聴くものに努力を強いるような音楽があるだろうか。まあ、少しはあるけれども、基本的には、聴く側はだらーっとしていて、その耳のなかに音圧でねじこんでくるような音ばかりではないか。つまり、聴き手が努力しなくてもわかる音楽、聴き手にとどかなかったら、送り手が悪い、というような音楽の作り方になっていないか。いい音楽を味わうには聴き手側が自分の耳をきたえたり、高めたりすることも必要だ、というあたりまえのことをこのアルバムの演奏は教えてくれる。最後の「帰れ帰れ」というコールをしている連中は、きっとこのあと音楽なんか聴いていないだろうな、という確信めいたものが私の胸にはある。昔、フュージョンブームのまっただ中、オールナイトの某ジャズフェスティバルで、夜中に登場した富樫雅彦〜佐藤允彦デュオに同じように「帰れ」コールが起こったことがあったが、あいつらもぜったいあのあと音楽なんか聴いてない、と私は強く思っておるのであります。

「ARCHIVE 1」(JINYA DISK/NDU−A101)
MASAYUKI TAKAYANAGI

 お宝、という言葉があるが、このボックスはほんとうにお宝。こんな音源、よく残っていたなあ。しかも、こんないい音で。サックスが森剣治ではなく、藤川義明のものがほとんど(五枚中四枚が藤川アルト)、というのも珍しいと思うが、ここでの藤川さんが、もうちょっと筆舌に尽くしがたいぐらい良い演奏をしていて、もう……いや、ほんとにもう、凄まじいんであります。アルトだけでなくて、フルートもソプラノも最高で、バンドとしても、いつもの集団投射的な大爆発大音量的演奏や漸次投射ももちろんあって(というか、それが基本)、それもすばらしいが、いわゆる「フリージャズ」的な即興もあって、それもめちゃめちゃかっこいいし、もう一瞬たりとも耳がはなせない。あー、至福。あー、桃源郷。あー、愉しい。さっきも書いたが、このボックスはまさにお宝。百回聞いても飽きないだろうなあ。アルトの無伴奏ソロの曲もあって(二曲あるが、どちらもすばらしい)、そこでの藤川の凄まじいブロウは目から鱗だの目くそだの涙だのいろんなものが落ちまくるような快演だ。そして、なによりも高柳さんのギター! ほんの何音かで、信じがたいほどの高みに我々を連れて行ってくれるし、恐怖のどんぞこに叩き込んでもくれるし、これだけの必死の演奏に対して、我々も必死で聞かねばならない。そんな気持ちというか姿勢に自然にさせてくれる、超弩級のハイレベルの演奏。ジンヤとかダウトとかで、高柳さんの復刻作業や未発表音源がどんどん出てきたが、それらを全部持っているひとも、本作はぜったいぜったい聴くべきです。これだけのすごい音が詰まっていて(ほんとに「詰まってる」という感じで、どの演奏も凄いんですよ、マジで)、この値段は正直いって安すぎる。これがアーカイヴの1で、このあとも続々出てくるとしたら、もう身の毛もよだつね、わしは。

「LONELY WOMAN」(VIVID SOUND CORPORATION VSCD−301)
MASAYUKI TAKAYANAGI

ソロである。悠雅彦氏と清水俊彦氏の長文の解説は、何度読んでも私にはよくわからん。とくにアイラーコンセプトについての説明はわかりにくいのだが、それが本作を解くキーワードだというからいろいろ考えてはみたが、やっぱりよくわからない。とにかくこのソロはアイラーの方法論に基づくものだということだそうだが、私のアイラーに対する理解とは全然別の次元の話のようである。そんなこととは関係なく、この演奏はめちゃめちゃ、めちゃめちゃ、めちゃめちゃかっこいいです。いつものエフェクターを使った轟音のノイジーな演奏とはちがって、1音1音に魂を込めたプレイ。音の強弱、出すタイミング、リズムの乗りかた外しかた……そういったもののすべてを真摯にコントロールしながら、自分が今出している音、いまから出す音と向き合い、つむいでいこうとしている。何度か聴いて、あっ、ここのこういう感じをアイラーコンセプトと呼んでるのかな、と思った瞬間もあったのだが、自信はない。結局、まあいいじゃん、わしら凡人にはわからんよ、ええやんけ、かっこよかったら……といういつもの酔っぱらいの結論に達してしまうのだ。リズムもベースもない、ソロギターというのは、たとえばジョー・パスみたいにベースラインからなにから全部ひとりでやってしまうようなものはのぞくと、こういった具合に、空白・静寂部分のテンションがしっかり保てていないと成立しないと思う。そのぐらいのことは私にもわかるのです。ギターの、しかも(ほとんど)単音のみでつづられた演奏なので、当然のようにスカスカである。我々は聴きながらそのスカスカを想像力でおぎない、埋めていくもよし、スカスカのままを味わうもよし、聞き方は自由だと思う。

「ENCOUNTER AND IMPROVISATION」(MOBYS/CHITEI RECORDS MC10017)
TAKAYANAGI MASAYUKI/PETER KOWALD/MIDORIKAWA KEIKI

 いきなり、ショッキングな開幕で、そのあと緩急と変化が存分にあるなかで、3人それぞれの個性と主張を保ちつつ、協調と裏切りがあり、目まぐるしい展開がひたすら続くのだが、聴いている我々としては、ただただ「心地よい緊張を保ちつつ、精神を遊ばせる」状態を維持できる、という稀有な演奏。即興とはかくあるべき、とは言わないが、そう言いたくなるようなレベルの超高い演奏。正直いって、いらぬ箇所、不必要な部分がまるで見あたらぬ。集中力と技術の産物。単にまとまっているだけでなく、単に相手に合わせているだけでなく、単に相手とちがうことをしているだけでもなく、怖ろしいほど高度で純粋で野蛮で繊細なやりとりがここにある。何度聴いても心地よい。よくぞ録音していてくれた、よくぞ発売してくれたと感謝するしかない。傑作。

「ARCHIVE 2」(JINYA DISK B28)
MASAYUKI TAKAYANAGI

冒頭から「今からドラマがはじまる」という予感がする。カセットテープによる録音をマスターとして使用しているので云々という記載があるが、そんなことはまーーーーったく気にならなかった。音質良し! 悪夢を誘うような低音、悲鳴や叫びのようなギターのスクリーム、ガラスが砕け散るような音、悪霊に憑かれたようなパーカッション、人がしゃべっているような音、実際にヴォイスも聞こえるぞ、どこかの倉庫で深夜に棚卸しをしていて、なにからなにまでひっくり返した……そんな危ういサウンド、ひたすらに高みを目指す、餓鬼のように上に上にのぼろうとする欲求、そしてノイズ、ノイズ、ノイズ……たった3人で奏でているとは思えない圧倒的な「音楽」。静寂と饒舌は相反することなく訪れる。新しいなにかを予見しつつも、古代から続く忌まわしい呪詛や儀式を引き継いでいる。露骨にアコースティックな部分と、エレクトリックなものがぶちまけられている。単に「ノイズをやろーぜ」ではこうはならない。ここに、強烈な個性と意志の力を感じないリスナーはいないだろう。これを、そういう時代だったんだよ、とか、あのころだからこそこんな音が、とか言うのは大間違いだ。今、このときだからこそ聴かれるべき音楽だと思うよ。やはり喜怒哀楽の感情のうち「怒り」の念を強く感じる演奏なのだ。まあ、音楽自体は、そういうこととは関係なく単に「音」としてそこにあるのだから、今聴こうがいつ聴こうが自由だし、そこにどんな感情を読み取ろうと、いや、読み取るまいと、自由なのだけれど。最後に入る拍手の少なさが、客の数を物語っているようで、ちょっと泣ける。宝物がまた増えたよ。

「LIVE INDEPENDENCE」(SELFPORTRAIT PSFD−57)
高柳昌行NEW DIRECTION

 高柳、吉沢元治、豊住芳三郎というトリオによる70年の貴重な演奏。2曲が収められているが、いつものあの激しいエレクトリックなノイズによる轟音の嵐ではなく、1曲目は高柳さんもアコースティックギターだし、あとのふたりもアコースティックなインプロヴィゼイションを行っていて、これがまあ、じつに気持ちよいのです。こういったセッティングでの演奏を聴くと、高柳さんがじつに繊細な心配りをしながら一音一音大事に弾いているのかわかるし、エレクトリックな轟音の場合はそのなかに埋没しがちな「即興演奏家としての巧さ」がはっきりとわかる。ところどころにメロディが感じられるのもおもしろい。吉沢元治の吹く笛(?)は素朴といえば素朴、稚拙といえば稚拙だが、案外この演奏の核なのかもしれない。2曲目は例の「集団投射」なのだが、かなり初期のものだと思われ、あの凄まじい音の奔流にまでは至っていない。エレクトリックギターを使用し、共演者ふたりも激しい演奏をしているのだが、のちのあのえげつないまでの爆音が天上の音楽へと昇華していくような、ああいうとんでもない爆発はない。しかし、これもまた心地よいのであります。エレクトリックとアコースティックの境目、みたいなところがまだ残っていて、いろんな細かいフレーズややりとりがちゃんと聞こえてくる。この演奏が、録音されていてこうしてCDになったというのは、じつに意義深いことだと思います。

「CALL IN QUESTION」(SELFPORTRAIT PSFD−41)
高柳昌行NEW DIRECTION

 もしかすると本作の演奏は高柳さん的には過渡期のものかもしれないが、私はこのアルバムの演奏がめちゃめちゃ好きです。高柳、吉沢、豊住という、上記「LIVE INDEPENDENCE」と同じメンバーのトリオに高木元輝のサックスが加わったカルテットによる演奏を収録したライヴ盤。「LIVE INDEPENDENCE」よりも過激さを増した激しい演奏だ(とくに豊住芳三郎のドラムは、高柳のギターに呼応というより対峙するかのごとく、えげつないほどにパワフルである)。1曲目(たぶんトリオ)は19分ほどの演奏だが、集団投射的な内容で、あまりにおもしろくてあっという間に聴き終えてしまう。集中しなくては……と思うような瞬間もなく、あれよあれよというジェットコースター状態である。2曲目(カルテット)は漸次投射的な演奏なので、吉沢のアルコベースもしっかり聞こえ、高木のテナーの音色もはっきりわかる状態で、1曲目のカオスのようなノイズの嵐からの「一転」の深みを感じる。それぞれのメンバーが音を聴きあい、反応しあう、いわゆる「フリージャズ」「フリーインプロヴィゼイション」という言葉から連想される音楽にいちばん近い演奏かも。「集団投射」においてはしばしば切り捨てられる、それぞれの楽器の「音色」を、「漸次投射」では即興の要素に加えているということかもしれないが、とにかく「集団」と「漸次」の両方ないと、高柳さんの音楽を完全に表現できたとはいえないのです。ここでも、豊住ドラム(ロールでのスピード表現など)が演奏のキーとなり、吉沢の笛(?)とともに、即興を予想もつかない方向にねじ曲げる役目を果たしている。私は高木さんのテナーが大好きだし、こういった「咆哮」系のブロウはめちゃめちゃツボなのだが、果たしてこのグループの表現様式に合っていたかどうかはわからない。実際、高木さんがこのグループにいた時期はさほど長くなかったらしい。やはり、高柳さんのニュー・ディレクションというと、藤川義明や森剣治を思い浮かべるひとのほうが圧倒的に多いのではないか。3曲目(たぶんトリオ)は、よりノイズ度が高まり、後年のアレを感じさせる瞬間があるが、これも密度の高い演奏だ。20分ぐらいあるが、とにかくめちゃめちゃかっこいいんですよ。こうやって多くのひとの努力で音源が発掘されて、順番に年代を追って聴けるようになると、高柳さんの音楽的な歩みがよくわかり、しかもそれがそのときそのときにおいて、それぞれ充実していたのだということもわかって感慨深い。やはり、すごい、すごすぎるひとなのだ。つねにかなり先を見通していたのだということもこうして音を聴くとはっきりする。このアルバムの演奏も、全メンバーが最善のものを出しているが、全体を通して、やはり高柳さんのコントロール化にある演奏だと感じる。それだけ圧倒的なひとだったのだ。3曲とも、全部すばらしいです。

「解体的交感」(DIW RECORDS DIW−415)
高柳昌行・阿部薫

 まずは、ライナーとか一切読まずに、いきなり聴くことをおすすめする。間章や清水俊彦のオリジナルライナーはもちろん、99年にCD化されたときに付け加えられたライナーも含めて、とにかく先入観になるので読まないほうがいい。聴き終えてから、読みたいひとは読んだらええんちゃう。こういう演奏は分析したり理屈をいったりなんやかやと付け加えたり自分の領域に引き込んだりしがちになるが、できるだけそういったことをていねいに排して、演奏を楽しみたい。こんなことを書くと、この凄い演奏を「楽しみたい」だと? アホか。みたいなことを言われるかもしれないが、これは「音」を純粋に味わうようにできているタイプの音楽ではないか。そこにいろんなことを付け足したり、自分の主張をくっつけたりするのは大きなマイナスだ。でかい音で、がーーーーーーーーーっ!と聴くことが、この演奏の唯一の味わい方だ。とか言うと、おまえも聴き方を強制しとるやないかと言われそうだが、まずは無心に、大音量で、頭からこの音を浴びて、そのなかにあるいろいろなものをしっかり聴いてから、なんだかんだ好きなことを言ったらいいと思う。それは自由です。でも、高柳さんの音楽も、阿部さんの音楽も、私は最近、とにかくめちゃめちゃかっこよく聞こえて仕方がない。ただ、ひたすら音としてかっこいいのであって、それは彼らの音楽をジンヤディスクはじめいろんなレーベルががんばって復刻してくれて、以前にくらべてたっぷりと味わうことができるようになったからで、そういう状態になってこそわかる、ミュージシャンの音楽性とか方向性とかもあると思う。このデュオには、現在のフリーインプロヴィゼイションシーンへとダイレクトにつながるアイデアや示唆が山のように詰まっているし、そのテンションの高さなども含めて、何十回も繰り返して聴いても飽きることなく味わい、しゃぶりつくせる感動の瞬間の宝庫である。あと、ふたりの楽器の呆れるほどのうまさとかリズムの凄さなんかも、もろに伝わってきてすばらしいです。これが70年、万博のときの日本ジャズの高みなのだ。オーネット・コールマンが「ジャズ来るべきもの」を録音してから10年後にはこうなっていたのだ。すごくないっすか? すごいよほんとに。ドルフィーのバスクラソロなんか聴いても思うけど、今夜、東京のどこかのライヴハウスでの録音です、といわれても信じてしまうような、現代性があるのだ。音楽は音楽であって、現代性も懐古も必要ない、と言われればそれまでだが、やはり何度聴いてもこのデュオは突出してすごい。

「THREE IMPROVISED VARIATIONS ON A THEME OD QADHAFI」(JINYA DISK
MASAYUKI TAKAYANAGI ACTION DIRECT

 1990年に浜松でDATで録音されたものを音質等の修復を可能な限り行った結果ようやく世に出たものだという。リビアのカダフィー大佐に捧げたもので、捧げたといっても「批判でも賞賛でもない」とライナーノートは書いている。しかし……この音源が残っていて、それがさまざまなひとの尽力によって、こうしてCDで聞けるというのは、本当に奇跡的なことだと思う。それぐらい凄まじい内容である。そんじょそこらの音楽を蹴散らす、どころか、踏みにじり、殴る蹴るの暴行を加える……そんなえげつない形容しかでてこない、とてつもなくノイジーで暴力的な音楽である。ところが一方ではこの音楽はひたすら美しい、一点の濁りもない精神に貫かれた、グロテスクな美にあふれた世界でもある。これはテロというものの両面性を暗示しているかのようでもあるが、そういう政治的な意図はまったく無視しても、この音楽は超然として輝き、周囲を圧して屹立している。数多い(そのうちの多くはジンヤディスクやダウトミュージックの努力のたまものであって、かつてはとても「数多い」とは言えなかった)高柳昌行のアルバムのなかでも屈指の傑作のひとつといえるのではないか。こういう演奏を「楽しい」と表現すると、もしかすると演奏したご本人はお怒りになられるかもしれないが、私にとっては楽しい、楽しすぎる音楽である。楽しい、そしてかっこいい。このアルバムを聴いていると、破壊と創造がほぼ同時にものすごい速度で進行しているように思える。たとえていえば、左のスクリーンで徹底的な破壊が、右のスクリーンで徹底的な創造が行われている。創造されたものはすぐに破壊される。高柳という神によるそのめまぐるしい過程をわれわれは示されているのかもしれない。ああ、それにしてもすげーなあ。短期的なリズムではなく、ものすごく長大なスケールでのリズムがここでは鳴り響いている。傑作です。

「850113」(AKETA’S DISK AD23CD)
高柳昌行 アングリー・ウェイブス

 アケタの店を拠点にライヴを行っていたアングリー・ウェイヴスが残した自主制作LP(ディストリビューションはアケタズディスクだったらしい)を、高柳氏の死去にともないアケタズディスクがCD化したもの(ただし、録音場所はアケタの店ではない)。高柳氏自身のライナーによると「常に過激であることを条件に活動した」とあるとおり、相当過激である。リズムは常に超アップテンポで、ほぼパルスのようにしか聞こえないかもしれないが、じつはものすごく速いというだけで厳然としてそこにある。これは、アイラーの「スピリチュアル・ユニティ」などで、サニー・マレイのドラムがほとんどパルスというかふんわりした感じにしか聞こえないのと似かよっているように思う。それをもっと徹底的に押し進めたというかなんというか……(あんまりこういうことを書くと、アホか! なんにもわかっとらんがな! と言われるかもしれないのでこの辺でやめとく)。アイラーの曲の断片があちこちに出てくることからそんなことを思ったのかもしれない。録音状態もよく、これだけ3人がガンガン演奏しているのに、ちゃんとすべての音が聞き取れる。高柳氏の音楽において、この「全部が聞き取れる」というのはかなり重要なことではないかと思われる。「私のアルヴァムの中でフリー・コンセプションに基づくものは常にフル・ヴォリューム、即ち、実音に近い処までレヴェル・アップして欲しい。居住の関係で無理な方はヘッド・フォーンで極限の寸前に至るまでのヴォリューム・アップで聴取をお願いしたい」と書かれているので、そのとおりにしたが、うん、なるほど納得。とにかくでかい音で聴いたほうがすべてが聞き取れる。「アルヴァム」とか「極限に寸前に至るまで」とかいった言葉づかいに高柳氏の個性をすごく感じる。異常な集中力で演奏された、日本のフリーミュージックの極北といっていい内容なので、聴くほうも最大限の集中力で聴かなければいけませんね。傑作。なぜか今家に2枚ある……。