mototeru takagi

「MOSURA FREIGHT!」(MTCJ5520)
MOTOTERU TAKAGI TRIO

 ずっとレコードを探していたのだが、とうとうCDで再発されて、聴くことができた。しかし、聴いて驚け見て笑えで、あまりに凄まじい演奏内容に衝撃を受けた。凄い凄い凄すぎるぞこれはっ。高木さんの最後(に近い)生演奏に接することができて非常に幸福だ。こんな凄い演奏をしていた人だったのだなあ。入手できるアルバムは、LP時代からだいたい聴いたと思っていたが、「アイソレイション」や「パリ日本館コンサート」などなどを聴いているだけではわからない、圧倒的な世界があったのだ。かつて入手できたものでは、あの「インスピレイション・アンド・パワー」の沖至グループでのソプラノソロが近いかも。最近のものでは、「深海」という吉沢さんとの演奏がめちゃめちゃすごくて、これに近い。とにかく、聴いてもらわなきゃわからないが、いろんな人が「高木はすごい」と言うのがやっとわかった気がする。テナーはおそらく世界的レベルに個性的だが、バスクラもいい。昔のスウィング・ジャーナルに載ったファラオ・サンダースの「カーマ」の評で、高木さんがぼろくそに書いてるのを読んだが、その当時、こんな演奏をしていたのだとしたら、そりゃあの軟弱なアルバムをけなしても当然だわなあ、と思う。たぶん、このアルバムが出た当時、世界で、シェップやアイラー、ファラオ、ブロッツマン……などを押しのけて、実力は堂々一番だったはずの高木さんの音がこうして聞ける喜びは大きい。末永く愛聴したい。高木さんのように、いつまでもフリーな心を忘れずに演奏し続けたいものだ。最後にアルバムタイトルだが、モスラのつづりがMOTHRAではなくMOSURAなのはなぜ?(どうでもいいって? そりゃそうだ)

「JAZZ A MAISON DE JAPON,PARIS」(NADJA PA−3160)
TAKAGI ET KAKO QUARTET

このアルバムは学生のころ、ものすごくよく聴いた。毎日聴いていた時期もあるし、一日に何度も聴いた時期もある。どうしてそんなに聴いたかというと、うーん……内容がすばらしいというよりも、内容がいまいちよくわからなかったから、というのが正直なところだ。一聴してすぐに、おお、これはすごい!と思えるようなわかりやすいアルバムよりも、こういった「なんだかわからないけど、なんとなくひっかかる」ような作品のほうが、なんとかしてわかろうという思いから、繰り返し聴いてしまうものだ(あまりにわけがわからないと、何回か聴いて飽きてしまうこともあるが、「この作品にはなにかある。それをつきとめたい」みたいな直感が働くことがあるのです)。加古と高木、そしてケント・カーター、ロン・ピットナーという4人がつむぎだす音は、セッションではなく、完全なレギュラーグループとしてのものに聞こえる。加古のピアノはすばらしく、こういうのが現代音楽的というのかなあ、その方面には無知なのでよくわからないが、細部にまで意を払った即興で、リリカルかつパワフル、聞き惚れてしまうが、問題は高木で、彼のソロは、シンプルにストレートにブロウするような部分があまりなくて、ひとつのものを斜めから、裏から、横から見るような、そんなソロだ。熱くブロウしているのだが、そのエネルギーがドーンとこちらに伝わってくるような吹き方をしていない。どこか遠くから、大きな振幅で届く……これはなんなんだろう。そういう疑問がこのアルバムを私に何度もターンテーブルに載せさせているのだ。全体の印象は、モノクロームで、冷たい氷の炎が燃えさかっているような、そんな感じ……と書いてもわからんわなあ。とにかく聴いてもらわないと。双頭バンドだが、先に名前のでている高木の項にいれた。

「2001.07.06」(地底レコード B22F)
MOTOTERU TAKAGI

たいへん貴重な音源がこうして世に出ることの意義ははかりしれない。一曲目は高木さんのオリジナル。隙間だらけのすかすかな演奏だが、それが枯淡の極致のような、一方ではまた、奥に潜むどろどろした熱気を感じさせて、しだいに引き込まれていく。すごい存在感である。このとき60歳ちょっと過ぎたあたりだと思うが、高木さんは2002年12月に亡くなるので、録音されたものとしてはほんとうに「最後の演奏」ではないかと思う。私は神戸のビッグアップルでこのあとの時期の高木さんの演奏を聴いているが(たしか豊住さんとのデュオだったと思う)、そのときは、15分ぐらい吹くと「じゃあ、このへんで」と演奏を終わろうとするので、さすがに豊住さんが「もう1曲やりましょう」といってワンセット30分ぐらいやっていたように思う。体力的にきつかったのではないか。しかし、あの鋼鉄のような硬質な音色は健在で、瞬発力もあり、そういった凄味は本作にもちゃんととらえられている。二曲目は即興とのことだが、実際にはアイラーの曲だと思う。でも、似て非なるものかもしれない。三曲目もはじめはなんだか楽しい感じだなあと思っていると、一曲のなかで刻々と演奏形態が変化していき、様々なドラマが展開して、聴いていて気をゆるめることができない。四曲目はおなじみの「ロンリー・ウーマン」だが、濁った音もまじえながら朴訥に異形のメロディーをつむいでいく高木さんはデューイ・レッドマンに重なる。しかし、演奏が進むにつれて、その自由さ、好き放題な吹きっぷりが今度はオーネット・コールマンとダブってきたりして。まあ、勝手なリスナーの世迷い言ですけどね。ベースとドラムの息のあったプレイはさすがの聞きどころ。五曲目はチャールズ・タイラーの曲らしくて、なんとも凄い選曲。この曲での高木さんは自由奔放で、ねちっこく、ねばっこいフレーズをなんの仕掛けも仕込みもなしに振りまいて、これぞまさにフリージャズ、といった演奏をする。つまり、「フリー」で「ジャズ」なのだから、フリージャズとしか呼びようがないだろう。高木さんのアルバムでどれか一枚代表作を、というと、おそらくこのアルバムが挙げられることはないと思うが、私にとっては思い入れもあって大事な大事なアルバムです。アフターアワーズにいろいろお話を聴かせていただいたことも今となっては貴重な思い出です。感謝。

「不屈の民」(ちゃぷちゃぷレコード POCS−9353)
高木元輝

 96年の高木元輝ソロ。本来は、アルトの浅見光人とのデュオコンサートなのだが、そのなかから高木さんのソロ部分だけを抽出したものらしい。完全即興が2曲と「不屈の民」という構成だが、「不屈の民」もそのメロディが何度も繰り返されるパートがある、というだけで、実質的にはほとんど即興だと思う。最晩年の高木さんの演奏(豊住さんとのデュオ)に接したことがあるが(あれはとても貴重な体験だった)、体力的にはかなりきつかったろうと想像されるが演奏はやはりあちこち閃光のような輝きがあり、かつての凄まじい演奏をほうふつとさせた。96年の本作は、まだまだお元気だったはずだが、ここに聴かれるのはあの太い轟音で咆哮する姿は皆無で枯れた演奏である。たっぷりと「間」をいかし、しかもフレーズがはっきりと聴こえてくる独自のソロで、音もか細く、おしつけがましさは一切ない。全体に繊細極まりない即興で、基本的には中低音より高音部を中心に演奏されるので、途中ソプラノかと聞きまがう箇所があるほどである(が、全部テナーなんですよね?)。フレージングも、シンプルでメロディアスで、奇抜さや突飛な跳躍はない。まるで童謡かなにかの断片のようである。さっきも書いたが全体に音が小さく、そっとささやくような演奏で、ハーモニクス(ちょっとだけ聴かれる)やフリークトーンなどもほとんどないし、もちろん循環呼吸によるエヴァン・パーカー的な構築も、阿部薫的なものものしさも、ブロッツマンのような豪快なパワーもない。では、なにがあるのかというと、信じられないぐらいの優しさと哀しさである。サックスソロというのは吹いているもののすべてを剥きだしに晒けだすものだが、愛おしげにメロディを吹く高木元輝という「人間」がここにあるこの演奏だとしたら、高木さんのたどりついた境地というのはどれほどの高みだったのかと思う。正直、感動する。そして、何度も聴いていると、さっき書いた「枯れた演奏」という言葉を打ち消したくなってくる。枯れたように聞こえるが、切ってみるとそこにはおびただしい水気が溢れ出す「生きた木」だったのである。その芳香は鮮烈なのだ。いやー、これはいい演奏だと思います。3曲目のテーマなどはいくらでも思い入れをこめて感情的になることができそうなのに、軽いビブラートによるそっけないような吹き方に終始するが、それがかえって哀切な空気を生む。すばらしいアルバムだと思うが、聞き流すような聴き方ではまったく価値がわからないタイプの演奏だということも言えると思う。傑作。