charles mingus

「PITHECANTHROPUS ELECTUS」(ATLANTIC SMJ7228)
THE CHARLIE MINGUS JAZZ WORKSHOP

 一曲目の「直立猿人」こそ、稀有な傑作である。ほんまにええ曲で、よくこんな曲を書けるなあ、といつ聴いても思う。サックス2管だけのクインテットなのだが、ビッグバンド的なサウンドに聞こえる。それは、たんに譜面の問題ではなく、ぐっと抑えたピアニシモから一転してフォルテに転じるダイナミクスの妙や、ドラム、ベースまで一丸となって畳みかけるような一体感など、個々の楽器で表現できるすべての音色、リズム、ハーモニーをミンガスが熟知していることのあらわれであろう。聴いていて血湧き肉躍る。考えてみれば、ミンガスの傑作には、どれもこの「血湧き肉躍る」感覚がある。もっといえば、よいジャズ(あるいは私が好きなジャズ)は全部血湧き肉躍ると言い切ってしまってもいいかもしれない。本作はジャケットもいいし、ライナーノートもいい。うちにあるのは、レーベル面に所有者の名前のシールが貼られた、「名盤蒐集会」とかいうジャズ評論家たちのコメントが裏ジャケットに直接印刷されている古い古い日本盤だが、鑑賞するにはさしつかえなし。しかし、このアルバムのすばらしさは一曲目につきるようで、公害問題を扱ったという二曲目や、ジャッキー・マクリーンをフィーチュアしたB−1、じつは「直立猿人」以上の大作であるB−2も、タイトル曲には遠く及ばない。やはり、この一曲目が傑作となったのは、ミンガスの手腕や個々のミュージシャンの技能もあるが、それをこえた、なんというか神懸かり的なものがあったのではないかと思う。

「THE CROWN」(ATLANTIC 1260)
THE CHARLES MINGUS JAZZ WORKSHOP

 まさに「道化師」という感じのジャケット。一曲目の「ハイチャン・ファイト・ソング」こそがこのアルバムの白眉であることは誰もが認めよう。ミンガスの重量級ベースが唸りをあげ、サックスとトロンボーンが叫び、ドラムが煽る。たしかに「ハイチ人の戦いの歌」だと言われればそう信じてしまいそうな、原始的な荒ぶる迫力に満ちている。しかし、もともとミンガスはレッドベリーの曲からインスパイアされたらしいから、この曲の根はブルースというかブラックミュージックにあるのだろう。とにかく、この曲も「直立猿人」同様、血湧き肉躍る。しかし……ソロイストがなあ……。ジミー・ネッパーはモダンジャズ的ソロもスウィング的大音量のジャングルサウンドも両方できる名手で、本作(というかミンガスミュージック)にぴったりですばらしいのだが、サックスがカーティス・ポーターというのがどうにも役不足である。アンサンブルは立派にこなし、雰囲気も出しているのだが、ソロになると、ちょっと物足りない。これがドルフィーだったらなあ、とかハミエット・ブルーイットだったらなあ、カークだったらなあ、ジョージ・アダムスだったらなあ……とか無い物ねだりをしてしまう。ミンガスは、よほどパーカーに心酔しているようで、メンバーにひとりはかならずパーカースクールのアルト吹きを入れるが(チャールズ・マクファーソンとかチャーリー・マリアノとかマクリーンとか……本作ではポーターがその役目)、それってただ単にビバップのできるアルトが欲しいんじゃなくて、パーカーが突き詰めるところまでいったあの「泣き叫ぶような」プレイができるアルトが欲しかったのではないか。それをべつのやりかたで表現したのがドルフィーであって、だからこそドルフィーはミンガスのサウンドに完璧に馴染んだのではないか……そんなことを考えながら聴いた。でも、ふつうのジャズアルバムならポーターは十分その責を果たしている。あくまでミンガスミュージックにおいては……ということだ。そして、このアルバム、ほかの曲はいまいちで、二曲目もB面の二曲も「ハイチャン・ファイト・ソング」ほどには至っていない。とくにタイトル曲は、なにがおもしろいんだかよくわからん(英語がわからないからかも)。でも、A−1だけで十分である。クインテットとは思えない分厚い、狂乱のサウンドで聴くたびに興奮する、最高のミンガスワールドである。

「BLUES & ROOTS」(ATLANTIC 1305)
CHARLIE MINGUS

 ええジャケットやなあ。目をとじ、ベースのネックをつかんだミンガスのアップ。このジャケットを見るだけで、音が聴こえてきそうだ。このジャケのよさは、CDでは半減どころかほとんど伝わらんやろなあ。内容もすばらしく、一曲目の「水曜の夜の祈りの会」からミンガスワールド全開である。編成もこの時期のものとしてはかなり大きく、サックスがマクリーン、ジョン・ハンディ、ブッカー・アーヴィン、ペッパー・アダムスの曲者4人、ボントロがネッパーとウィリー・デニスの二人という、合計6管。トランペットがいない、というあたりがミンガスが管楽器を集めるときにどういうサウンドを思い描いているのかわかって興味深い。とにかくトロンボーンはぜったい必要なのだろうな。この1曲目でも、二本のボントロがオスティナート的な重低音のリズムを刻み、そこに泣き叫ぶようなアルトが参加してのワンコーラスが終わると、全員による吠えるようなテーマがはじまり(実際に誰かが叫んでいる)、これはもう狂乱のミンガスワールド。「祈りの会」といってもいわゆるゴスペル教会のコール・アンド・レスポンスのそれであって(本来ゴスペルとブルースは相容れないものなのだが)、ホレス・パーランの執拗に同じフレーズを偏執狂的にくり返すソロやブッカー・アーヴィンのなにも考えていないような気合い一発の豪放なソロがかっこいい。ブッカー・アーヴィンは大味なのでいつもなら私はあまり好きではないのだが、なぜかミンガスのところでのアーヴィンはばっちりあうのだった。このアルバムは、「直立猿人」「道化師」などとちがって、「A面1曲目だけ」ではない。ほかの曲はどれもコテコテですばらしいうえに、A−3の「モーニン」(ぶっちぎるようなバリサクを前面にだしためっちゃかっこいいテーマ)やB−3「EのフラットとAのフラット」などはA−1に匹敵するぐらいすごい。なお、ミンガスのライナーノートに「このアルバムではブルースだけを演奏した」みたいなことが書いてあるが、それはまあ、ブルース的な曲という意味で、いわゆる12小節のブルースばっかりということではない(たとえばA−3などはマイナーブルースっぽい16小節だが、途中で4小節がはさまる。でもまったく不自然ではない)。ただ、すごい猛者をそろえてはいるけれど、ミンガスはドルフィーやカークといった「もう一段うえのガイキチたち」の登場を待っているような気はする。

「THE BLACK SAINT AND THE SINNER LADY」(IMPULSE! STEREO A−35)
MINGUS

 いやー、なんと申しましょうか、このアルバム、めちゃめちゃ好きなんであります。まず、タイトルがいいでしょう? 「黒い聖者と罪ある女」……うひーっ、かっこいい! 学生のころ、このタイトルにひかれて廉価版を買ったのだが、これは一生の宝です。ジャケットもかっこよくて、ジャケットの一番下のところに、パイプだかシガーだかに火をつけるミンガスの顔が写っている。雰囲気あるやん! そして、肝心の内容だが、さすがに学生のとき、最初に聴いたときはそのよさがいまいち理解できず、「ミンガス・プレゼンツ・ミンガス」などの、強烈なソリストをフィーチュアした音作りではないことにとまどったが、何度か聴くうちに、このアルバムがミンガスの濃密きわまりなく、重厚きわまりなく、とろけるように甘く、舌を刺すように苦く、強烈にリズミカルで、強烈に美しく、強烈に凶暴な世界をもっともストレートにあらわしていることがわかってきた。麻薬のような、アブサンのような、癖になるこのサウンドをどう表現したらいいのだろうか。デューク・エリントンのサウンドの前衛化、といった通り一遍の形容ではまったく伝わらないだろう。曲はどれも、アンサンブルとソロが男女がセックスしているような濃厚なからみかたをしていて、意表をつくようなギターの使い方をはじめ、天に突き刺さるようなトランペットやクウェンティン・ジャクソンの大男が大声で叫んでいるようなプランジャーソロなど、全員がミンガスの意図をしっかり受け止めて、自己表現をしている。メンバーに、マクリーンやブッカー・アーヴィン、ジミー・ネッパー、ジョン・ハンディ、カーク、ドルフィー……といった猛者たちがおらず、ジェローム・リチャードソンやチャーリー・マリアノ、ディック・ヘイファー……といった、どちらかというとアクの薄い、はっきりいって没個性の連中がそろっている点もおもしろく、そういったミュージシャンがミンガスの意図をしっかりくんで、この凄まじい音楽の成立に大きく寄与しているのだから、人は見かけによらない、というか、「うーん、こいつら、ほんまはやるんやなあ」と単純に思ったり……。なお本作のジャケットにも背にも、チャールズでもチャーリーでもなく、ただ「ミンガス」とだけ表記してある(うちのは廉価版なので、内ジャケットのことは知らん)。

「CHARLES MINGUS PRESENTS CHARLES MINGUS」(CANDID RECORDS SMJ−6178)
CHARLES MINGUS

 傑作です。高校生のときに、なけなしの金をはたいて買ったが、聴いて感動しまくった。ある意味、高校生でもはっきりわかるメッセージ性のある音楽なのだ。たった4人での演奏とは思えないほど音が分厚いが、それはたくみなアレンジがほどこされて小編成でもオーケストラのような音を云々とかいうことではなく、この4人の猛者たちがほぼ休まずにずっと吹き、弾き、叩いているそのパワーというか、信じられないほどのエネルギーの噴出がからまりあい、ひとつになってスピーカーを突き破らんばかりにしてこちらに押し寄せてくる。それが「分厚さ」となって聞こえるのだと思う。そしで彼らを突き動かすエネルギーの源は「怒り」なのだ。1曲目の「フォーク・フォームbP」という曲はブルースだが、かっちりしたテーマはない(と思う)。ミンガスのベースとドルフィーが掛け合いのようになるところがテーマといえばテーマか。ミンガスのベースによるイントロ、子だけでも十分凄くて、ミンガスの気合いがひしひしと伝わってくる。演奏の特徴としては、ミンガスのベースソロとダニー・リッチモンドのドラムソロ、アルトとトランペットそれぞれのブレイク以外のところは、ほとんどドルフィーとテッド・カーソンが同時に吹いていることで、これもまた「音の分厚さ」を感じさせるマジックだとは思うが、場面によって主役は変われど、つねにふたりで吹く、しかもバッキングじゃなくてどちらも即興で、というのはかなりむずかしいことだと思う(フリージャズのコレクティヴ・プロヴィゼイションがよく陥りがちな、混沌としたものになってしまう)。なお、マイナーブルースっぽいのだが、テッド・カーソンのソロあたりから普通のブルースだったのかとわかる。途中からの盛り上がりかたはすさまじく、この1曲だけでも本作は名盤といわれていたと思うぐらいすばらしい演奏。そのあとミンガスがライヴハウスにいる客(スタジオ録音なので、レコードを聴いているひとへの一種のジョーク半分なのだと思う)に向かって、静かに聴け、と前置きしかあとであの曲が始まるのだ。そう……2曲目「オリジナル・フォーバス・フェイブルス」は、とに各高校生であった私の脳天を直撃した。なにを言ってるのかはよくわからないが、とにかくこの4人がめちゃくちゃ怒っていることはわかった(とくにミンガスとダニー・リッチモンド)。ミンガスの野太い声による「おお、神よ、あいつらに私たちを撃たさせないで。おお、神よ、あいつらに私たちを刺させないで」という懇願(?)の歌ではじまり、「ナチスはもういらない。クー・クルックス・クランももういらない」と叫ぶ。「馬鹿なやつ(リディキュラス)の名前を教えてくれ、ダニー?」というミンガスの言葉に、ダニー・リッチモンドが「フォーバス知事だ!」と叫び、ミンガスが「なんであいつ、あんなに不愉快で馬鹿なんだろう」というと、またリッチモンドが「あいつは差別のない学校を許なかった」と叫ぶ。「彼は馬鹿だ。ブー! ナチのファシストの最高権威! ブー! クー・クルックス・クラン!」……もう言いたい放題だが、そのあとがもっと凄い。「馬鹿で手に負えないやつたちの名前を挙げてくれ、ダニー・リッチモンド」「フォーバスとアイゼンハワー(大統領)とロックフェラーだぜ!」「あいつらどうしてあんなに不愉快で馬鹿なんだろう」「あいつらはおまえに洗脳と憎悪を教えてくれるぜ」……いやあ、すごいっす(私の訳なので、まちがってるかもしれまへん)。ジャズの大名盤としてこれまでも今後も世界中で聴かれ続けるであろうアルバムに、巻き添え的に「馬鹿の代表」として名前の載ってしまったアイゼンハワー大統領もたまったもんではないだろうが、ここまでフォーバス知事という個人をたとえ音楽とはといえ攻撃してもいいのだろうかという気持ちを持つひとがいても当然である。しかし、正直、このミンガスの怒りのもととなったリトルロック高校事件というのは、こんな程度の怒りの発露ではとうてい収まらないようなえげつなん差別事件であって、まだまだ生ぬるいとしか思えない。そして、ドルフィーとテッド・カーソンのソロも爆発しており、4人が一丸となった最高の高まりを聴かせてくれるが、特筆すべきことは、「曲がいい」ことであって、皆さん、怒りや揶揄の部分だけを見て、この曲のめちゃめちゃかっこいいテーマのことを忘れているのでは? ミンガスのコンポーザーとしての才能を感じられる名曲ですよ。だからこそ、歌がなくてもちゃんと聴けるのである。そして、ひとつどうしても言いたいことは、この曲でのミンガスたちの演奏がやりすぎで、やりかたが下品で、音楽家は音楽だけで主張すべきだ、というような意見である。怒りとかが根本にあったとしても、それを隠して、音で勝負するのが音楽芸術だということなのだろうが、そんなこと言い出したら、メッセージソングとか社会派フォークとかラップとかどうなんのよ。また、この演奏を「純粋に音楽として聴くべきである。ドルフィーやカーソンのソロはすばらしいのだから、怒りの要素は無視して、ジャズとしてちゃんと評価すべき」みたいな意見もどうかと思う。この演奏を推進している、そしていきいきとしたものにしている原動力はやはり「怒り」であって、怒りや悲しみなどが音楽を成立させることもある。それをミンガスは生の形で出しているが、これを「純粋に音楽的に」聴くことなどできようか。怒りを表現するなら、音楽的に昇華した形で……という意見もあるようだが、私としてはこの演奏は十分音楽的に昇華されていると思う。結局、生々しすぎるのが嫌ということなのだろうが、ラップやヒップホップが叩きつけている社会的メッセージが音楽とちゃんと同居しているように、この演奏でも音楽と怒りはしっかり融合してひとつのものを形作っていると思う。そして、一番大事なことは、このミンガスの激怒があってこそ、そのあとに飛び出してくるドルフィーのすさまじいソロやカーソンの気合いに満ちたソロなどがぐっと引き立つ、いや、引き立つというのも変だな、意味を持ってくる。彼らはミンガスの怒りに応えた形で即興を行っているわけで、それを「純粋に音楽的に」切り離すことのほうが無意味でしょう。というわけで、この演奏は私にとって永遠の名演なのであります。ドルフィーのソロにめずらしく引用フレーズが露骨に出てくるのも、たぶん諧謔的なものではないかと思う。3曲目は「ファット・ラヴ」で、バンドを去ろうとするドルフィーとそれを引きとめようとするミンガスの音楽的会話である、といわれてきたが、まあ、そんなことはどうでもよくて(2曲目で言ってたこととちがう? でも、歌詞もないのに、そんなこと汲み取れるかね)、これこそ純粋にベースとバスクラのデュオを味わうべき演奏ではないでしょうか。とにかくすばらしすぎてひっくりかえる。これが1960年だっちゅーのだから驚くよね。ベースのフレーズもバスクラのフレーズも、オーネットの「ジャズ来るべきもの」の直後とは思えない超前衛的なもので、たしかにほとんど会話のようだ。それはたとえばトーキングドラムのような「言葉を模した」感じにまで極端化されていて、この演奏を1960年に聴いたひとはそりゃあ驚いたと思う。昨夜、東京のどこかのライヴハウスでフリージャズバリバリのミュージシャンがやってた演奏、といっても通用するぐらいのクオリティと先鋭さがある。いやー、ミンガスもドルフィーも凄いわ。そして、ドルフィーとミンガスばかり有名だが、この曲におけるテッド・カーソンのソロもすごいのだ。先発ソロとして、(自由度が高いようにみえて)じつはかなりむずかしいこの曲の構成を見事に吹ききっている。ミンガスのベースの無伴奏ソロが延々と続き、そこへドルフィーのバスクラがしずしず……という感じで静かに入ってくる。このあたりの感動をなんと表現できようか。音色の艶というか張りというか、そのフレーズの特異性、楽器のソノリティをいかしきった演奏はすばらしすぎる。ドルフィー主体のソロパートは、さっきのカーソンのときと同じ構造になっているのだが、それが終わったところから上記にもあるミンガスとドルフィーの「対話」になる。しゃべっているようなフレージングは、一歩まちがうとギャグになるぎりぎりのところで緊張感を保っている。全部、「言葉」に翻訳できるらしいが、そんなことはしなくてもいいと思う。とにかく「なるほどな〜〜〜」と腕組みをしてしまうような演奏で、コンポーザー、アレンジャー、バンドリーダーとしての側面が強調されがちなミンガスの、一ベーシストとしての凄さが発揮された演奏として聴くこともできる。そして全員でばっちりテーマを奏でてエンディング(ここもかっこいい)。最後は「あなたの母がもしフロイトの妻だったら」というわけのわからないタイトルの曲だが、アップテンポのバップのパロディのような曲調で、オーネット・コールマンの初期の曲を思わせるが、構造的にはやはりミンガスで、半分のテンポになったり、さらに倍テンになったりと場面がめまぐるしく変わるが、全部あらかじめ決まっているらしく、ソロイストの腕が問われるような一種の修羅場である。カーソンとドルフィーはかなりのレベルでそれをこなしており、とくにドルフィーのアルトソロの、曲の構造を完璧に把握したうえで自己主張を行うその凄みに感動します。ドルフィーがチャーリー・パーカーをもっとも研究しており、その結果としてパーカーからもっとも遠いフレーズを吹いているということがわかる。そして、全体の印象はなぜかパーカーと二重写しになるのだ。あーすごい。すごすぎる。というわけで、たった四人でたった四曲しか入ってないこのアルバムは、永遠の価値のある作品なのであります。

「THREE OF FOUR SHADES OF BLUES」(ATRANTIC RECORDING CORPORATION/WEA INTERNATIONAL INC. WPCR−27206)
CHARLES MINGUS

 A面は「ベター・ギット・ヒット・イン・ユア・ソウル」や「グッドバイ・ポークパイ・ハット」の再演などが目玉。だいたい9人編成なので、オリジナル録音とくらべてそれほどの大編成とはいえないが、ラリー・コリエルとフィリップ・カテリーンのギターがテーマにもソロにも大きくフィーチュアされていてかなり原曲とは印象がちがう。基本的にはまだミンガスがベースを弾いているうえ(ジョージ・ムラツやロン・カーターが加わっている曲もあるが)、ベースソロもたっぷりあり、また、ミンガスの歌もフィーチュアされていて、ガッツのある歌い方はまだまだ元気な感じである。全体に昔よりサウンドが明るくなっているような印象がある。やはりギター勢がかっこよくて、ミンガスサウンドにはエレキギターが良く合うのだなあと感心した。ソロの多くはギターが持っていってしまってる。とはいえ、まだ弱冠23歳のりっキー・フォードもけっこうゴリゴリとがんばっているし、ジョージ・コールマンも渋い(渋いだけ?)。岡崎正通氏の日本語ライナーで2曲目のコールマンはテナーを吹いているように書いてあるが、アルトですね。3曲目は古いタイプのドブルースで、美味しいピアノソロのバックでギターがズキュン! キュワワン……とバッキングするのもいなたい。テーマはギター2本で奏でられ、そこでのギターも臭くて良い。ソロはコールマン(アルト)が先発で、これまた渋いっす(渋いだけ?)。つづくコリエルのギターソロが個性を前面に出したものなので、どうしてもコールマンは没個性に感じられる。テナーだったらなあ。リッキー・フォードのテナーソロは短いけどよくもわるくもリッキー・フォードらしいもので、とてもがんばってる。カテリーンのギターソロはまさしくブルースギター。そしてミンガスのベースソロがあってテーマ。これまたライナーについて一言だが、「素朴なメロディーでありながら、強烈なアクの強さを感じさせるのは、まさにミンガスの面目躍如」と書いてあるのはどこの部分を聴いてのことだろう。少なくとも私は普通のジャズブルースの演奏に思えました。アク……ないなあ。ええ曲やけどね。しかし、本作の一番の聴き所は、B面半分を占めるタイトル曲で、ジョン・スコとジミー・ロウルズが加わる。この時期のミンガスがいかにギターを重要視していたかということだろう。A面では出番のなかったジャック・ワルラスのトランペットも何回か登場する。タイトルには「ブルース」となっているが、普通の意味でのブルースはひとつもなく、ミンガス自身の解説(?)によると、この12分の曲は11のパートに分かれていて、たとえば最初のところは「ミンガスのサブドミナントのないブルース」となっている。つまり、トニックからいきなりドミナントに行くということか。2パート目は「古いエリントンの2コードブルースで、CメジャーとBフラット7thだけで、ほかのコードはない」とある。途中、普通のブルースになる部分もあるのだが、全編強い意志で、「ブルースになったらあかんでー」と言いつづけている演奏のようであるが、ミンガスの意図はよくわからん。でも、そういうことを考えずに聴くと、とてもおもしろい曲で、ギターやリッキー・フォードのテナーソロもよく、ジョージ・コールマンのテナーソロ(ここはテナーなのだ)もなかなかよい。ジョンスコはやはり変態だ。そして最後の曲「ノー・バディ・ノウズ」は、すかーっと明るいビッグバンドサウンドで、これもミンガスらしくないが、よく聴くと、ツインベースでかなり変なことをやっていて面白い。もっとも大きくフィーチュアされるソニー・フォーチュンの、これもおよそミンガスバンド的でないストレートアヘッドに吹きまくるアルトソロも痛快。ジョンスコはやはりくねくねと蠢き、ときにアウトするメカニカルなラインを弾きまくる。ワルラスのトランペットも変態バップな感じですがすがしいが、このあたりまで来ると、これほんまにミンガスバンドか? と思ってしまったりして。カテリーンのノリノリのギター、フォードのテナー(あいかわらずリズムがすべりがち)とソロが続き(つまり、ソロ回しの曲なのだ)、テーマ。