john coltrane

「THE OLATUNJI CONCERT THE LAST LIVE RECORDING」(IMPULSE UCCI−1001)
JOHN COLTRANE

 なんでいまさら後期コルトレーンなんだと言われそうだが、後期コルトレーンこそ、私にとっては永遠の精神的支柱なのである。「とか言って、ほんとはファラオ・サンダースが聴きたいだけだったりして」。ぎくっ。それはほとんど図星である。白状すると、後期コルトレーンのアルバムを聴くとき、私の耳はファラオにのみ集中している。なんといっても、あの雄叫びである。それが、もっとも輝いていたのはコルトレーン5に在籍していたときだろう。コルトレーンのいないところでのファラオは、おんなじようなことをやっていても、コルトレーンという巨岩のような荘厳な存在がいないだけ、やたらと薄っぺらく聞こえるが(もちろん、その薄っぺらくて安っぽいファラオも大好きなのですが)、コルトレーンがいると、そのフリークトーンを多く用いた(というか、そればっか)絶叫的なソロが、すごく効果的で、意味のあるものに聞こえるのは不思議である。このアルバムは、ごっつい音が悪いし(とくにドラムは音がへしゃげてしまって、騒音にしか聞こえない)、よほどの物好き以外にはおすすめできない。同時期のものを聴くのなら、ほかにもちゃんとした録音がいくらもあるからである(バンドとしてのラスト音源ということで、記録的な価値は絶大だが)。しかし、久しぶりに本作を聞き直して、ところどころに出てくるコルトレーンの(死の直前とはとうてい思えぬ)力強いソロや、ファラオのぎゃおーっぎょえええっぐおーっという怪獣総進撃のようなソロに耳を傾けていると、とてつもない神秘性、とてつもない精神性、とてつもないエネルギーに満ちあふれていたあの頃のジャズの神髄を味わったような気になった。「アセンション」以降のコルトレーンはダメなどと抜かす輩に、これを聴かせて鉄槌をくだしたい思いである。真剣に聴きとおすと、ぐったり疲れてしまうというのも、あの頃のジャズの特徴である(めちゃめちゃ音が悪いせいもあるけど)。心地よい疲れである。しかし、ファラオは変わっとらんなあ。いまだにこのときのまんまである。絶叫絶叫また絶叫。阿鼻叫喚とはこのことである。ファラオのこういったソロを聴くと、とにかく興奮する。そのへんのいろんなものを叩きまくりたくなる。そして、コルトレーンのソプラノソロのすさまじいことよ。「マイ・フェイヴァリット・シングス」のソロは、「セルフレスネス」の同曲の(ある意味)100倍ぐらいすごい。これをもし、生で目の前で聴いたら、ぜったいに興奮のあまり鼻血を出しているか、感動のあまり気絶しているにちがいない。すごいバンドだなあ。すごい音楽だなあ。すごい時代だなあ。

「INTERSTELLAR SPACE」(MCA RECORDS WMC5−118)
JOHN COLTRANE

 コルトレーンの数多いアルバムのなかで、一枚といわれればこれです。コルトレーンのなかでもっとも好きなアルバム。おりにふれ、聴き返す。今回も、久々に聴いてみて、やっぱりええなあ、としみじみ感動した。今回は、仕事が行き詰まっていて、自分のなかに「やる気」をかきたてる必要があったのだが、このチョイスは正解だった。当時のコルトレーンがもっていた、純粋な音楽探究の志やすさまじいまでのやる気が私をかきたててくれ、なんとか仕事を乗り切ることができた。コルトレーンの音楽は、いつもやる気を与えてくれる。手塚治虫の諸作と同じだ。こういうすごいことをしたひとがいるんだよなあ。俺なんかもっとがんばらなあかんよなあ。そんな気持ちにさせてくれる。「インターステラー・スペース」は、とにかく傑作だ。ベースやピアノがいないぶん、コルトレーンの剥きだしの生音が一番身近に感じられる録音だし、演奏も、現在、数多く行われているテナー〜ドラムのデュオの原形ではあるが、それらの要素はほとんどこのアルバムにすでに認められるという意味で、いまだテナー〜ドラムデュオの最高峰といえる。今は、ばたばたしたソロしかできぬラシッド・アリも、この録音当時は、意外なほどいいのです。後期のコルトレーンは、宗教や精神世界への傾斜が聴き手の耳をくらますというか、いやがるリスナーもいるようだが、このデュオは、そういう抹香臭さがないぶん、誰でも聴きやすいのではありますまいか。とにかく、名盤だと思います。

「ONE DOWN,ONE UP  LIVE AT THE HALF NOTE」(UNIVERSAL MUSIC COMPANY 0602498621431)
JOHN COLTRANE

 昔海賊版で出ていたやつの完全版。海賊版にくらべて音はめっちゃいいし、内容的には最高(一曲めの途中でかなりテープがよじれているようだが)。いやはやよくぞ出してくれました。二枚組というのもすげーが、「ワン・アップ・ワン・ダウン」という私の大好きな曲も入ってるし、言うことなし。コルトレーンのソロを聴いているとほとんどフリーである。頭で計算したフリーフォームというのではなく、あふれ出す膨大なエネルギーが自然にソロをフリーキーにした、という感じであり、このあと彼はフリージャズ期に入るが、そのころはファラオ・サンダースというフリーキーの塊、みたいな化け物がいたので、どっちかというとコルトレーンのソロは、ファラオが吹きはじめるまでの場面設定というか、役割分担として、かえってちゃんとした演奏をしているように思う。みんな、オムとかメディテイションとかクルセママの全体的な混沌とした感じにだまされているのではないか。コルトレーンのソロはそういうフリーのアルバムではけっこうモーダルな感じで吹いており、必死になってフリークトーンを吹いてみました、みたいなやつが多く、それはそれでめちゃかっこいいのだが、そういった後期のアルバムよりも、このライヴとか「トランジション」のほうがコルトレーン自身は行くところまで行ってる。たぶん、このアルバムあたりのライブで必死こいて自分でがんばってみたけれど、どうしても思い描いているような音が出ない、ということに気づいたのではないか。それをファラオは楽勝で出す。だから、彼をメンバーにしたのだろう。しかし、それらのアルバムよりも、このライヴとか「トランジション」とか「ニューシングアットニューポート」とか……そういうコルトレーンが、ファラオにある部分を任せるまえの、全部自分でやろうとしてもがいていた時期の、パワー爆発のアルバムのほうが、ぎりぎり限界のひとりのミュージシャンのドキュメントとしてみて感動を覚えたりもする。ファラオの、ある意味簡単に出しているフリークトーンにくらべて、全身血みどろになって、命と引き替えに吹いているような凄まじさがある。私は、ファラオの加わった後期コルトレーンのアルバムすべてを愛し、人生観、音楽観等いろいろと大きな影響を受けた人間だが、じつはそれらのアルバムではトータルエキスプレッションとして以外はコルトレーンではなくファラオを聴いているわけで、コルトレーンを聴くなら、やっぱりこのアルバムに代表される作品群を一番にあげたい。ジョン・コルトレーンというミュージシャンがこの世に残した大件作というだけでなく、エルヴィン、マッコイ、ジミーとのカルテットの最高到達点として、コルトレーンは今の世には過剰すぎる、過激すぎる、と抜かしている連中を椅子に紐でしばりつけて聴かせたいと思う。二枚とも、どの曲も最高で、こんなライヴを目のまえで見たらおそらく気絶するだろうと思う。司会者が、一曲目が終わったときに、やや苦笑ぎみにMCする場面がある(ような気がする。私の耳では)が、とにかく一曲目のあまりの長尺ソロとその過激さ、過剰さに、「いやはや、ようやるで、こいつら」という感嘆半分、呆れ半分の苦笑なのだと思う。みんなで、コルトレーンを聴いて呆れよう! 今の世の中、呆れるような演奏がなさすぎる。こじんまりとした、パッケージ化されたものばかりではないか。

「THE COMPLETE 1961 VILLAGE VANGUARD RECORDINGS」(IMPULSE IMPD4−232)
JOHN COLTRANE

まえから欲しかったヴィレッジ・ヴァンガードのコンプリート盤4枚組ボックス。ついに購入してしまいました。これはもともと「ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」「インプレッションズ」「ジ・アザー・ヴィレッジ・ヴァンガード・テープス(二枚組)」「トレーンズ・モード」の4作に分割されて発売されていて、私は「トレーンズ・モード(二枚組)」以外は全部レコードで持っているのだが、未発表が3曲あるというし、あまりレコードを聴くこともないので、思い切って買ったのである。いやはや、超久しぶりにコルトレーンの音楽と向かい合いました(ファラオが聴きたいがために、後期コルトレーンを聴くことはたまにあるのだが、ドルフィーの入ってたころがいちばん聴き手としてはしんどいからなあ)。まさにへヴィサウンド。娯楽の要素をほぼ完璧にそぎ落とした、ある意味つらいつらい音楽だが、興奮させてくれることも世界一。この稿を書くために何度も聞きなおしたが、ぜったいに早送りはしないようにしました。それがコルトレーンの演奏と向き合う礼儀なのである。こういう考え方は古いか? でも、そうせざるをえないような殺気がスピーカーから噴き出してくるのである。i−tuneなどにバラバラにして入れることを拒否するような重さ、暗さがここには厳然としてあるのである。わからんひとにはわかってもらわなくてよい。今回、通して聴いてわかったことは、ドルフィーの凄さ。完全にコルトレーンたちよりも先に行ってる。61年という時点で、ここまで後世のフリーミュージックの連中がやってるようなことを、ほぼ完全な形で実行していたとは……。「ライヴ・アット・ザ……」と「インプレッションズ」だけ聴いていたのではとうていわからなかったドルフィーの到達点である。そしてすごいのは、そのドルフィーの到達点がコルトレーンたちと音楽的に相容れないところであって、ドルフィーはたとえそうであってもまったく手を抜かず、自分を曲げず、自分のソロのパートはひたすら自己表現に徹している。コルトレーンたちにあわせたりしていないのである。だから、全体としてみると、すごくぶかっこうな音楽になっているが、そのせめぎ合いというか、ドキュメンタリー性もこの4枚組の聞きものである。さてさて、気合いを入れて、まずは1枚目から聴いていきましょう。
1−1「インディア」……いきなり未発表。トレーンマニアの食いつきはめちゃめちゃ良いであろう。コルトレーンの痙攣のようなソプラノソロからはじまるが、このマイナー一発物のだるい曲調の曲が、なぜにこのように魅力的に聴こえるかというと、それはエルヴィンの空間を埋めつくす強力なリズムのせいにほかならない。ベースとピアノによる呪術的なサウンドだけでは、これほどいきいきとした音楽には聴こえないはず。ドルフィーのバスクラソロをはさんで、もういちどコルトレーンのソプラノソロ。
1−2「チェイシン・ザ・トレーン」……ようするにテーマがあるようなないような、ただのブルース。「ジ・アザー・ヴィレッジ・ヴァンガード・テープス」収録。オルタネイトフィンガリングを使いまくるコルトレーンのテナーソロは、おそらく次代のテナー吹きに大いなる示唆をあたえたと思う。このころのコルトレーンのブルースのソロは、普通の意味でのフレーズを吹かない、特殊なもので、とにかくひたすらオルタネイトフィンガリングでベターッとしたフレーズを実験のように並べていくもので、盛り上がることもなく、ひたすら客をまえにしてのフレーズの実験を繰り広げているが、これが今の耳からするとめちゃめちゃスリリングである。そのあとのドルフィーのソロは完全に自分の世界が確立されていたことがわかる、ワンアンドオンリーのもので、コルトレーンの実験的なソロとはまったくちがう種類のものである。そのあと、またコルトレーンのテナーソロになるのだが、またしてもオルタネイトフィンガリングの練習のようなソロ。
1−3「インプレッションズ」……凄い。「トレーンズ・モード」収録。「インプレッションズ」の同曲よりちょっとテンポが速いか。3曲めにしてクライマックスが来てしまった感じ。ドルフィーも凄まじいソロをするが、やはりよくも悪くも空気が変わってしまうのは否めない。コルトレーンの音楽というのは、ソロにあわせてバックが変わっていく、あるいはバックによってソロがかわる、というその場その場での柔軟なかけひきがキモになっていると思うし、この曲などはその典型といっていいナンバーだが、ドルフィーのソロはそういうのとはちょとちがう。もちろん少なからぬかけひきはあるだろうが、ドルフィーの演奏はあくまでドルフィーが主体であって、バックがどうなろうとドルフィーはわが道をいくわけで、そのあたりの直情的な感じというか俺はこう吹くんだ的な感じがドルフィーの良さだが、ドルフィーに関しては、あまりどしゃめしゃ叩いてはいかん、こいつの好きなように吹かせるほうがいいのだ、という風に、エルヴィンもぐーっと抑えているように聴こえる。それはまさにそのとおりで、ドルフィーの世界は「まずドルフィーのフレーズありき」なのである。そのあたりが、「インプレッションズ」はドルフィーにそぐわない、と感じてしまうのである。そして、この演奏でのドルフィーのソロがあまりに鋭いので、よけいにそう感じるのだ。マッコイのピアノソロのあとテーマ。
1−4「スピリチュアル」……「ジ・アザー・ヴィレッジ・ヴァンガード・テープス」収録ヴァージョン。エバラ某のようなタイトルだ。高校時代、「ライヴ・アット・ザ……」の一曲めのこの曲のテーマを聴いて、「なんちゅうおおげさな」と感じたが、今聴いても気持ちは同じ。なんでこんなにおおげさなのか。まあ、それはいいとして、まずはコルトレーンのソプラノソロ。レーザー光線をあちこちに向けて無差別に発射しているような、攻撃的なソロである。エルヴィンのドラムは、こういう曲調のとき最高である。ベースのバッキングも凄いので聞き逃さないように。そのあとを受けるドルフィーのバスクラソロが、だるい雰囲気にばっちりフィットして凄い。まさしく「自由」である。なにもないキャンバスに絵を描いていくようなソロ。最終的にそのキャンバスは、ドルフィーにしかわからない絵がいっぱいに描かれているのだが……。それにしても、「インディア」といいこの曲といい、コルトレーンのこのころの曲は、だるーいマイナーのモード一発というのが多い。「なんじゃこれ。お経か」と感じるひとにはこれは苦痛だろう。私は大好きですが。マッコイの重たい重たい、コンクリートの塊をくくりつけているようなソロのあと、ドルフィーによって描かれた絵のうえにもう一度自分の絵を描くようにコルトレーンがソロをする。これまた重いよなあ。そしてまた、おおげさなエンディングテーマ。思うに、コルトレーンが二回ソロをするのは、ドルフィーによって「ドルフィー主体の世界」になってしまった音空間を、コルトレーン4の世界にむりやり引き戻す意味があったのではないか。それほどドルフィーの世界観は独自でありかつ強力なのである。
1−5「マイルス・モード」……「トレーンズ・モード」収録。この日のライヴで、はじめて「ジャズ」の曲がはじまったような、ちゃんとした(?)曲。なぜかこの曲、ドルフィーのアルトの音量が、テーマのときから異常に大きくてバランスを崩している。ヴァン・ゲルダーが失敗したのでしょうね。コルトレーンのテナーソロは、このころの典型的な、エルヴィンのリズムに乗った、非常に快調なもの。そのあとドルフィーがあいかわらず自分を剥き出しにしたアルトソロを展開し、マッコイがコルトレーン4の世界に引き戻す……という展開。そのあとレジー・ワークマンのベースソロだかなんだかわからない部分を挟んでテーマの提示。
1−6「ナイーマ」……「トレーンズ・モード」収録。バラードなので、こういった演奏順に収録するという特殊なボックスでないかぎり、3曲めぐらいに入るべき曲。一応「ナイーマ」ということになっているが、テーマのメロディーはかなりちがう。べつの曲と考えてもいいぐらい。テーマのあと、すぐにドルフィーがバスクラでいびつなグロいソロをする。こういうのが「凄い」と思うか、「場違い」と思うかで、ドルフィーのこのセッションでの位置づけや評価が変わってくると思う。私は、「最高」と思うが、一般的にはどうなのかな。とにかくドルフィーの歪んだ美意識がいちばん発揮されているバラードだと思う。それが美しいと思えるようなら、あなたはドルフィーの世界の住人なのです。しかし、こういった曲の先発ソロにおいても自己の表現をまげないドルフィーは、ほんとにすごいと思う。つづいてマッコイのリリカルなピアノソロ。そして、コルトレーンの(一般的な意味においても)美しいテナーソロ……というか、ほとんどテーマを軽くなぞっただけの演奏。しかし、たぶんこのときヴィレッジ・ヴァンガードにいあわせた客たちへの一服の清涼剤になったであろう、ごくごく短い瞬間。非常にバランスの悪い「ナイーマ」だが、その含んでいる音楽的な意味はひじょうに深い。
2−1「ブラジリア」……なぜか「アンタイトルド・オリジナル」として「ジ・アザー・ヴィレッジ・ヴァンガード・テープス」に収録されていた。「コルトレーン・カルテット・プレイズ」に入っとるやろうが! いつも聴いて思うことは、この二管によるぐじゃぐじゃっとしたテーマの提示の、どこがブラジリアなのかと。コルトレーンのソロは、いきなりのハーモニクス。うひゃあ、かっこいい! このソロは、「トランジション」あたりのコルトレーンに近い、かなりいきまくったソロである。ミディアムテンポだが、いわゆる一般的にいう「スウィングする」ような演奏ではなく、ひたすらじっと考えながら、じっくりゆっくり攻めていく感じ。戦車があらゆるものを踏みつぶして進む……そんな演奏。ちょっとかっこよすぎるわ。つづくドルフィーのアルトソロも力強く、この演奏にかぎってはコルトレーン〜ドルフィーのリレーがひじょうにスムーズである。曲調のせいだろうな、たぶん。そのあとのマッコイのソロもめちゃめちゃかっこいい。いわゆる「モードジャズのピアノの典型的フレーズ」がこの時点のマッコイにおいてすでに完成していたことを示す。そして、レジー・ワークマンのベースソロ……ということになっているが、なんとなくギャリソンっぽいところもあるベースソロである。それにしても長い演奏だ。
2−2「チェイシン・アナザー・トレイン」……「トレーズ・モード」収録。ここから二日めの演奏。タイトルは微妙にちがうが、要するにB♭のミディアムのブルース。あいかわらず、テーマがあるようなないような曲。1−2の同曲に比べて、かなり「いわゆるハードバップのブルース」的であるのは、やはりドラムが(なぜか)ロイ・ヘインズに替わっているせいだろうか。しかし、ちょっと油断するとオルタネイトフィンガリングを使った、このころのコルトレーンのおなじみのフレーズにずぶずぶとはまっていき、果てしなくグルーヴするドラムとあいまって、いつしかどっぷりとコルトレーン以外ではありえないブルースに塗りつぶされてしまう。長尺のわりに、通常の意味での、ジャズ的な「盛り上がり」がないので、聴き方、というか味わいかたはけっこうむずかしい。コルトレーンが、いろいろなことを客をまえにして「試そう」としているのであって、そこを楽しめればOKなのだが。つづいてドルフィーが満を持してアルトで飛び出してくるが、やはりコルトレーン同様、客をまえにして「試す」ようなソロである。そして、またしてもドルフィーをサンドイッチにしてコルトレーンのソロ。最初のソロとなんらかわることのないペースの、じっくり、ゆっくり試していくようなソロである。この意味がなあ……。
2−3「インディア」……「フロム・ジ・オリジナル・マスター・テープ」というCDに収録された曲。そんなアルバム知らんちゅうねん。なんというか、1−1の演奏よりも、格段にインド風味が増している、そんな気がする。ソプラノソロがドルフィーのバスクラをサンドイッチにしている。このドルフィーのソロはかなり過激で、凄まじくすらある。現代のフリージャズミュージシャンがやっていることを、50年もまえに、しかも完璧な形でやっていたドルフィーは凄い。このドルフィーのソロに感動しないやつはでてこい。わしが説教したる! しかし、コルトレーンのソプラノって、高音を出すとき、ほんと苦しそうだよな。軽々とアプローチするいまどきのソプラノ吹きとはまるでちがう。
2−4「スピリチュアル」……これも「フロム・ジ・オリジナル・マスター・テープ」からの曲。先発のコルトレーンのヘヴィなテナーソロ(1−4ではソプラノソロのみ)と、それをプッシュする、ずるずると床をひきずりまわすようなエルヴィンのドラムのコンビネーションのすばらしさは筆舌に尽くしがたい。こういうコンビネーションの妙はドルフィーとのあいだにはないものである。それがドルフィーがあたかも孤立しているかのような印象を生むのだろうが、さっきも書いたように、ドルフィーの演奏はあまりに音楽として確立しており、コルトレーン4のフレキシブルなタイプの演奏とはテイストがちがいすぎるのだ。だが、ドルフィーによる一種の異物感がこのクインテットのスリルやテンションを作り出しているのだから、音楽というものはわからない。「インプレッションズ」と「ライヴ・アット・ザ……」という二枚のオリジナルアルバムだけを聴いていたら、コルトレーングループでのドルフィーの評価は現在よりもずっと低かったはず。アイラーの9枚組といい、コルトレーンの未発表といい、既発アルバムだけを聴いていたら、評価を誤ることってあるよなあ。たぶん、あのアイラーのボックスが出るまえに死んだジャズ評論家がアイラーについて書いた文章など、現在では無価値になってしまった。少なくとも、今の目から見たら噴飯ものだろう。コルトレーングループでのドルフィーの評価も、「トレーンズ・モード」やこのコンプリートボックスを聴かずに死んだジャズ評論家は、ドルフィーはコルトレーンバンドでは実力を発揮できずにいた、と思っただろうな。いやはや、実力発揮しまくりですわ。
2−5「ソフトリー・アズ・インナ・モーニング・サンライズ」……やっとマスターテイクが出た。これは耳なじんだ「ライヴ・アット・ザ……」からの選曲。テナーでなく、マッコイのピアノがテーマのメロディを弾き、コルトレーンはアドリブに徹する。それにしてもマイナー系の多いバンドだ。ソプラノで細かいフレーズを吹きまくるコルトレーンにとって、おそらくこの曲は単なる素材であり、スタンダードを演奏しているという気持ちはないのだろう。コードもいじらず、ほとんどマイナー系一発ものとして、痙攣のようなソロをとる。
3−1「チェイシン・ザ・トレーン」……これも「ライヴ・アット・ザ……」に収録されているオリジナルテイクバージョン。どあたまのフレーズを聴くだけで、あ、これは……とわかるほど、耳にタコができるぐらい聴いたあの「チェイシン・ザ・トレーン」である。やっぱりマスターテイクはマスターテイクだけのことはある。他のバージョンにもそれぞれ良さがあるが、コルトレーンのノリ、フレーズの過激さ、全体の迫力など、このバージョンが一番である。この、フレーズを長く吹かない、ブツ切れにしてそれをダーッと並べて音楽を構築していくという手法はおそらくこの曲で開花したものだろうが、それまでのコルトレーンがシーツオブサウンドという、長い長いフレーズを吹ききることで音楽を作っていたのと正反対である。しかし、えぐいなあ、このソロは。「チェイシン・アナザー・トレーン」と比べても、ほとんど「ちゃんとしたバップフレーズ」は存在せず、ただただリズムに身を任せて音塊をぶつけていく、といった風な演奏が展開する。このソロなど、後進のテナー吹きにどれほどの影響を与えたか、その重要性ははかりしれない。ドルフィーはラストテーマの最後の音だけ吹いているが、ソロはしていない。そのほうがよかったと私は思います。
3−2「グリーン・スリーブス」……「ジ・アザー・ヴィレッジ・ヴァンガード・テープス」に収録されていたバージョン。ややおとなしめな感じだが、この曲、好きなんです。ヴィレッジ・ヴァンガード・セッションでは、3拍子の曲はこの「グリーン・スリーブス」しか取り上げられていないが(もう1テイクあるけど)、もしかしたら録音されていないだけで「マイ・フェヴァリット・シングス」とかも演っていたのかなあ。それとも「アフリカ・ブラス」の録音間もないので、それの収録曲を演奏したということか……というような無意味なことまで思いをはせてしまう。
3−3「インプレッションズ」……「トレーンズ・モード」収録のバージョンで、マスターテイクとちがってドルフィーも大きくフィーチュアされている。というか、ドルフィーが吹き出すと、その気合いというか迫力のまえにコルトレーンがかすんでしまうほど。しかし、全体の音楽性からすると、ドルフィーの部分だけ浮きあがっている。エルヴィンの奔放なポリリズムドラミング、マッコイの鉈でぶった切るようなコードワークなどは、テナーがモーダルにごりごり吹きまくるためにもっとも適した設定であって、ドルフィーのように自分主体で考えぬいたフレーズを吹きまくるようなタイプのソリストはやはり別世界からの来訪なのである。しかし、ドルフィーの価値が削がれることはいささかもなく、逆にドルフィーの空間を切り裂いていくようなソロは、コルトレーンの「あれも言ってなかったっけ、あ、これも言いわすれてた、ドラムがこうくるなら俺はこう」的な、ある意味長〜いソロに対して、ドルフィーは完全に自分のいいたいことだけ言って去っていく感じ。どっちもいいんだけど、「インプレッションズ」という曲の意義(?)を考えると、やはりテナーのワンホーンであってほしい。ドルフィーとエルヴィンはいまいち噛み合っていないように聴こえる。つまり、エルヴィンはいろいろやるのだが、ドルフィーはわが道を行くだけなので。コルトレーンのソロは文句のつけようがない。モード曲のソロのお手本のようなすばらしいものである。マッコイのソロもかっこいい。どちらもその後10年ぐらいのジャズのソロの基礎となったようなソロである。ドルフィーだけが、10年、20年……そんなスパンでなく、もっと大きな周期で「先」を示唆した演奏である。リスナーに何かを考えさせる。重い。
3−4「スピリチュアル」……「ライヴ・アット・ザ……」からのマスターテイク。コルトレーンのソロは一音一音が耳になじんだもの。つづくドルフィーのバスクラも、身に染み込んでいる。これが私の「初バスクラ体験」だっただけに、かなり衝撃を受けた。今から思えば、これはドルフィーのバスクラソロのなかでも、決していい演奏ではないし、このヴァンガードセッションのなかにも、ほかにもっとめちゃくちゃ凄い演奏があるのに(「スピリチュアル」の別テイクのドルフィーのソロは、どれもこのマスターテイクよりも圧倒的に凄い)、このテイクがマスターテイクになってしまったことが、「コルトレーングループのドルフィーはいまいち実力を発揮できなかった」というような評価につながっているのではないか。コルトレーンの出来不出来でテイクが選ばれるのだろうから、しかたないといえはしかたないが……。でも、そうはいっても、この曲のドルフィーのバスクラを、高校生だった私は毎日飽きもせずに聴いてすごいすごいと言っていた。ピアノの、コードを煉瓦のように並べていくような重いソロのあと、コルトレーンがふたたびソプラノで「ぴよぴよぴよぴよ……」というヒヨコのようなソロをする。
3−5「ナイーマ」……未発表テイクである。でも、1−6同様、テーマを聴くかぎりでは、「ナイーマ」とは別の曲のように聴こえる。少なくとも、コルトレーン派のテナー吹きで、同曲をやっているひとで、こんなテーマの提示をしているミュージシャンはいない。みんな、「ジャイアント・ステップス」のテーマのメロディーを踏襲している。ドルフィーのバスクラとの2管のアレンジがあまりうまくいっていないのか?だいたいこのヴィレッジ・ヴァンガードセッション22曲を通じて、バラードはこの「ナイーマ」の2テイクのみなのに(まあ、「スピリチュアル」や「インディア」をバラードと言うこともできるかもしれないが、まあ、ふつうは言わんわなあ)、そのバラードの先発ソロがドルフィーのバスクラというのはどういうことだ。そして、ここでのドルフィーは、ほんま好きなようにやりたおしている。すごいとしかいいようがない。美しいバラードでの、グロテスクな自己表現。それをひたむきにやれば、こんなに異常な美が構築される、というのは、たとえ頭でわかっていても、当時、客のまえでここまで徹底してやる勇気のあったミュージシャンは(コルトレーンもふくめて)いなかっただろう。ドルフィー万歳。直後のマッコイのソロがあまりに美しくて、かっこよくて、そのあたりも、ドルフィーの異様さをひきたてる。どうしてこの曲が未発表なのか……と真剣に悩んだが、そうか、コルトレーンのソロがないからか。
3−6「インプレッションズ」……「インプレッションズ」収録のオリジナルテイク。これもめちゃめちゃ耳なじんだ演奏。ソロの初っぱなのフレーズからほとんど覚えてるもんなー。とにかくかっこいい。「チェイシン・ザ・トレーン」で示した、フレーズになっていないブツ切れの短いフレーズを少しずつ変化させながら重ねていくことによって大きなカタルシスにつなげていく手法は、「チェイシン・ザ……」よりもこのモードナンバーのほうにぴったりだ。そして、この曲のソロはこのあと大勢のテナーマンに模倣されることになる金字塔のような演奏なのだ。なにしろモード曲においてテナーがどう吹くべきかというアイデアがぎっしり詰まっている宝物蔵みたいなソロだ。オルタネイティヴフィンガリングやハーモニクス、リズムずらしなどを使った理知的なフレーズが多用される一方、感情にまかせた過激なブローもあり、まさに圧倒的。そして、ドラムとベースも、後輩世代に大きく影響を与えたはず。10分をすぎたあたりからのコルトレーンのソロはまさに鬼神だ。コルトレーンが吹きまくっているあいだマッコイはほとんど(まるっきり)バッキングをしないが(まあ、あたりまえですな)、コルトレーンがテーマに入ったら突然ガーンと弾く、というのは、コルトレーンのソロのあいだも、「俺関係ないや」とカウンターにビールをのみにいったりしておらず、ずーっとピアノのまえで、なにも弾かずにリーダーのソロを聴いているのかなあ。しんどいなあ、そういうの。マッコイが弾かないかわりに、ドルフィーが吹いているとき(このテイクではでてこないが)とはうってかわって(ドルフィーのソロの方法論というのは、何度も書いているが、エルヴィンがふるボリュームで叩く……というようなやりとりを、ある意味拒否するようなところがあるのだろう)、エルヴィンもドラムも壊れんとばかりどつきまくっている。やっぱりなんだかんだ言ってもマスターテイクはマスターテイクなんだなあ、と納得させられる、凄い演奏である。
4−1「インディア」……「インプレッションズ」収録の耳なじんだオリジナルバージョン。やっぱりオリジナルバージョンはすごいという結論に達する。コルトレーンの縦横無尽なソプラノソロは、なんとなくドルフィーの影響があるような気もするほど跳躍が大きい。つづくドルフィーのソロはいまいち不完全燃焼気味なところもあるが、そのあとにもう一度でてくるコルトレーンのソロがめちゃすごい。こうしてみると、オリジナルバージョンというのは、コルトレーンに有利(?)に、ドルフィーに不利(?)になるような音源が選ばれてしまっていて、それがヴィレッジヴァンガードでのドルフィー評価についてマイナスに働いたのだろう。こうして4枚組で完全版がでてみると、その評価が、ある意味、つくられたものであったことがわかる。ドルフィーはやっぱりものすごかったのである。
4−2「グリーンスリーヴス」……「トレーンズ・モード」収録バージョン。マッコイの重い重いソロのあと、コルトレーンがソプラノで見得を切りながら登場するところはまことにかっこいいが、それにつづくソロはあっさりと終わってしまう。演奏時間は4分51秒と、この4枚組のなかでいちばん短い。チェンジ・オブ・ペース的な演奏か。
4−3「マイルス・モード」……未発表。かっこいいテーマのあと、コルトレーンのソロが暴発する。このあたりは70年代のモーダルジャズの先駆、みたいな感じ。コルトレーンのソロのバックで聴こえる「ひょうひょうひょう……」というような変な音はドルフィーがいちびってるのか? ベースもアルコとピチカート同時進行でめちゃくちゃやりたおしてるし、コルトレーンのソロは誰がなにをやろうがエルヴィンとデュオ……みたいに進行。そのあと突然ドルフィーのアルトが登場し、あいかわらずのすごいソロをする。この曲のドルフィーはマジですごい。「よくやった、ドルフィー!」と言ってやりたいぐらい。後半、ぐじゃぐじゃになるところなど、昔の坂田明に(音色も含めて)似ているかも。マッコイの軽快なソロを挟んで(この途中、また「ひょうひょう……」という音がする)、テーマ。
4−4「インディア」……またしても「インディア」。これは「ジ・アザー・ヴィレッジ・ヴァンガード・テープス」収録。テーマ自体がめちゃめちゃかっこよく、そのあとにでてくるコルトレーンのヴァイブレーターのように痙攣しまくるソプラノソロも絶品。そのバックでいきいきと叩きまくるエルヴィンもすばらしいのひとこと。そのあとに出てくるドルフィーのバスクラソロはアドリブの限界に挑むがごとき最高の演奏。このソロではエルヴィンとのインタープレイもかなりつっこんだ感じの応酬があって、聴き応え十分。ええぞドルフィー、いけいけドルフィー。このバージョンが「インプレッションズ」のオリジナルバージョンと入れ代わっていたら、おそらくドルフィーのすごさはもっともっと早くに喧伝されていただろう。つづくコルトレーンの二回目のソロもよくて、リフが入ったあとのエルヴィンとの応酬はとても60年代初期のものとは思えない。こういう演奏が「今どきではない」という人もいるが、じゃあ何がいまどきなんですかね。まあ、わからんやつにはなにをいってもしかたないが、いまどきいまどきというやつは、きっと5年後には音楽なんか聴いていないだろう。
4−5「スピリチュアル」……「ジ・アザー・ヴィレッジ・ヴァンガード・テープス」収録バージョン。テーマのところでものすごい低音が聴こえてくるぞ。いやはや、「ライヴ・アット・ザ……」収録のマスターテイクよりもある意味凄いかもしれない。圧倒的な演奏である。ドルフィーもコルトレーンも、客のこととか店のこととか今日は録音だーというようなこととか一切考えず、ひたすらひたすらひたすら吹く。そんな熱演である。なんと20分29秒もあってこの4枚組最長の演奏である。えかかげんにせえよ、おまえら! と肩のひとつも叩きたくなる。最初のコルトレーンのテナーソロの丁寧さよ。じっくりじっくりフレーズをかもしだして、つみあげていく。そのバックのリズムセクションのすごさ(とくにエルヴィン)。ああ、もう言うことおまへん! これがこの時期のコルトレーンジャズの醍醐味なのだ。8分をすぎたあたりの「タタタ・ティアオー、タタタ・ティアオー、タタタ・ティアオー……」というフレーズの積み重ねかたなど筆舌に尽くしがたい(わかってもらえますでしょうか)。つづくドルフィーは最初から不協和音連発のバスクラソロ。このソロは本当にすばらしい。全身全霊をかけた魂の噴出だと思う(そういう抽象的な表現ではなにも伝わらないが)。ほんと、コルトレーンもドルフィーも、こういうテンポだと「しゃべっている」ように聴こえるなあ。マッコイのソロを挟んで、ふたたびコルトレーンが登場し、テーマになって終わるが、20分以上の長尺の演奏を聴いたという疲労感はない。この曲が4枚組最後なのだ。アー、お名残惜しいですなあ。
まあ、通して聴くとかなりしんどいが、ときどき1枚聴くだけなら心地よさだけがあるのではないか。とにかく4枚22曲、どこを切っても金太郎飴のような名演ばかりである。最初に書いたこととかぶるが、この4枚組を聴きとおしてわかったことは二つ。
・ドルフィーすごすぎる。このグループでの彼が過小評価されていてのは、ひとえにコルトレーンの演奏の出来を重視してオリジナルアルバムへの収録曲を決めたからであった。
・コルトレーンのソロは「チェイシン・ザ・トレーン」も「インプレッションズ」も、巷間いわれているような「圧倒的な迫力で○○分吹きまくる」といったものではなく、どちらかというと盛り上げることなくフレーズを考え考え積み上げていくような、「試し」ている感じのものである。
ということで、つかれました。毎日3回ずつぐらい聴いてたもんなあ……。

「SETTIN’ THE PACE」(PRESTIGE UCCO−9095)
JOHN COLTRANE

 プレスティッジのコルトレーンで好きなものを3枚あげろといわれたら、「ラッシュ・ライフ」、「トレーニング・イン」そしてこの「セッティン・ザ・ペース」だ。名盤の誉れ高い「ソウル・トレーン」は、好みからすると4位以下。この3枚に共通しているのは、ワンホーンであること(「ラッシュ・ライフ」はたしか一曲だけラッパが入っていたような気がするが、基本的にはワンホーン)だが、なかでもとくにこの「セッティン・ザ・ペース」は偏愛している。というのは「リトル・メロネー」が入っているからだ。この曲、めちゃめちゃ好きなのよ。まるでドルフィーが書くような、うじゃけたメロディーラインをもつ変態的な曲だが、かっこいい。一度聞いたらかならず耳に残る。マクリーン畢生の名曲である。作曲者マクリーンのものも含め、さまざまなアルバムでさまざまなミュージシャンがとりあげているが、このコルトレーンのバージョンがなんといっても最高である。ちょうどこのアルバムを録音したころのコルトレーンは、マイルスバンドに入った時期のような「なにかを持っているが、めっちゃ下手」という状態から脱して、楽器のコントロール、表現、音色、ハーモニー解釈などすべての面において自信をもっていたと思える時期であって、要するに「シーツ・オブ・サウンド」のまっただ中なのである。このアルバムでも、とにかく吹きまくる。ちょっとでもスペースがあいたら、そこを音符で埋めないとおさまらない、とでもいうように、吹いて吹いて吹きまくるのだ。それが心地よい。じつはレコードを持っているのだが、やはり常時ヘヴィローテーションで聞きたくて、今回廉価版を買ってしまった。で、気がついたのだが、このアルバムって、A面1曲目がバラードなのだ。大胆なことするなあ。レコードでは、「リトル・メロネー」が入ってるB面ばっかり聞いていたから、気が付かなかった。というわけで、私にとってコルトレーン・プレスティッジ期の最高傑作のひとつである本作、ばんばん聴きまっせ。

「LIVE IN SEATTLE」(IMPULSE GRD−2−146)
JOHN COLTRANE

後期コルトレーンでは「アセンション」以上にないがしろにされている作品だと思う。紙ジャケでの日本盤再発などでも、無視されているのではないか。私は古いカット盤で持っていたので、CDになって、「ボディ・アンド・ソウル」や「アフロ・ブルー」といった興味深いナンバーが追加されているとは全然知らず、こないだあわてて買ったのである。いやはや、めちゃめちゃ久しぶりに聴いて、次の日、また聴いて、その次の日また聴いた。結局4日連続で聴き、このアルバムの凄さがひしひしとわかった。このアルバムをけなすひとというのは、「体力がない」のである。このアルバムは、コルトレーンも凄いし、ファラオも凄いし、マッコイも凄いし、エルヴィンも凄いし、ジミー・ギャリソンも凄いという、凄いづくしで、なんでみんなけなすかなあ。つまりはどの曲もあまりにてんこ盛り過ぎるということなのだろうな。ひとりとして手抜きするやつがいないから、しんどくなるのだろう。よく「混沌としている」というが、さほど混沌としているとは思わない。コルトレーンはあいかわらずフリーになりきれない微妙なところで必死になってがんばっている感じだし、ファラオはずっと全開。マッコイは、いくところまでいってしまったコルトレーンとファラオによる空気の変化を、まともな音楽に引き戻そうとするかのように全力でフレーズを弾きまくる。いつもなら、身を引くか、コードソロで終わるようなところも自らが主役となってがんがん行く。二枚通して聴くと、マッコイのすばらしい演奏が耳に残る。エルヴィンもまったく手抜きなしで、ファラオが咆哮していようがピアノのソロであろうがロールしまくりの大奮闘。これが興奮せざるにおられようか。エルヴィンやマッコイとコルトレーンが音楽上の理由で不仲になり云々という話が喧伝されているが、少なくともこのライヴでは、そういう手抜きはまったく感じられないし、たとえばフレーズをまともに吹かずぎゃおおおと吠えるファラオのバックでエルヴィンが自分のソロのようなどしゃめしゃ叩きをしているような部分も、緊張感があってよい。唯一の問題(?)は、ドナルド・ギャレットのバスクラで、テーマ部分や三管でゆったり吹いているところはいかにもバスクラでかっこいいのだが、ひとりのソロになると急にきいきいいいだして、あまりイマジネーションを感じられない一本調子のソロになってしまう。もっとバスクラという楽器の特性をいかしたソロであれば、この猛者ばかりのバンドのチェンジオブペースにもなっただろうと思うと惜しい。新しく加わった二曲はどちらも興味深く、「ボディ・アンド・ソウル」はどう聴いてもボディアンド・ソウルには聞こえない。今でも私はこの演奏が「ボディ・アンド・ソウル」であることをうたがっているのだが、演奏自体はすばらしい。「コルトレーンを聴け」にはこの曲は混沌が著しいと説明してあるが、どこを指してのことかよくわからない。けっこうすっきりしてると思うけどな……。「アフロ・ブルー」は、出だしはちゃんとした「アフロ・ブルー」なのだが、途中からどんどん変な風に展開していき、最後にまったくちがう曲のようになったあたりでバサッと切れてしまう。三十数分の演奏がバサッと切れるのだから、実際には何分(一時間?)の演奏だったのか……。まあ体力がないと演れないし、聴けないよね。それにしても「エヴォリューション」の途中でわけのわからないボーカル(?)を披露しているのはいったいダレ?(ドナルド・ギャレットか?)レコードのときは「フィーチュアリング・ファラオ・サンダース」という文言が副題としてついていたのだが、CDになって、なくなってしまった。なんで?(2曲増やしたことで、ファラオの出番の比率が下がったからか?)とにかく「体力のないやつは聴くな」という、健康のバロメーターみたいなアルバム。みんな、毛嫌いせずに虚心に聴きましょう!

「SELFLESSMESS FEATURING MY FAVORITE THINGS」(IMPULSE! STEREO AS−9161)
JOHN COLTRANE

 A面全体をしめる「マイ・フェイヴァリット・シングス」のライヴバージョンは、ドラムがロイ・ヘインズであることも手伝ってか、いつものカルテットの演奏とはちがった印象を与え、これが決定版である、というような評価もあるようだが、もちろん数多く演奏された同曲のライヴバージョンのひとつにすぎない。でも、非常にエキサイティングな演奏で、これを聴いて興奮しないひとはいないだろう。だが、本作でのバージョンを絶対視するあまりか、アトランティック盤の初演は退屈だ、とか、ソプラノを使いこなせていないとかいって貶める意見もあるようだが、もちろんそんなことはなく、「サウンド・オブ・ミュージック」で明るく快活に歌われていた同曲を、まるでインド音楽のようなモード曲へと変貌させ、微妙な反復とトリルを使うことで宗教的な香りさえする演奏へと高めたことは賞賛にあたいする。あれは、ライヴで、ソプラノでギャーッといいたおす演奏とは意味がちがうのだ。本作の価値は、たしかにA面のこの一曲につきるようだが、ではB面の2曲、「アイ・ウォント・トゥ・トーク・アバウト・ユー」と「セルフレスネス」のほうはどうか。とくに後者はファラオ・サンダースが加入したあとの演奏ということもあって、あまりジャズ喫茶ではB面はかけられないが、なんといってもタイトルナンバーである。悪いわけないやん……ということで、今回久しぶりに聴いてみた。「アイ・ウォント・トゥ・トーク・アバウト・ユー」はめちゃめちゃ凄い。カデンツァが「バードランド」よりも長いし、テンションまったく落ちないし、こういう凄まじいソロをかなりの観衆がいるまえで延々行うというのはどえらいことではないか。そしてB−2の表題曲「セルフレスネス」はどうだろう。うーん、「クルセママ」の残りだとのことだが、最初のうちはおとなしくはじまる。しかし、そのうちファラオがゲロゲロいいだして、ちょっと盛り上がるかと思ったら、そのまま変化することなくすんなり移行する。あれ? と思っていたら、最後の最後でまたしてもファラオがゴゲゴゲと吹き出し、今度はかなりがんばる。それをバック(?)にしてコルトレーンも(こっちはまともなフレーズ)フルトーンで吹き、おお、かっこいい……という感じでエンディング。表題曲にもってくるにはちょっと……と思うが、ほかの2曲が再演なのでしかたないのか。とにかく、A−1だけ聴いてるのはもったいない。もっとB面を聴こう……って、今はCDだからそんなことないのか。

「OM」(IMPULSE! STEREO A−9140)
JOHN COLTRANE

A面、B面通して一曲という重い重い作品。「至上の愛」の一曲目のヴォイスが押しつけがましく思うひとは、きっと本作の冒頭でパーカッションやフルートをバックに朗詠される「オーム」というヴォイスも嫌いなんだろうな。オウム真理教の事件のとき、私はまっさきにこのアルバムを思い出した。暗い雰囲気のなか、皆が「オーム」「オーム」「オーム」と不気味な詠唱をしたあと、コルトレーンとファラオのサックスがぎょえええっと叫ぶこのアルバムをはじめて聴いたとき、私はあまりにかっこいいのでのたうちまわったが、実際にはオウム真理教の音楽は「ショーコショコショコショコ」というアホみたいに幼稚なもので、とてもじゃないが本作のような崇高で宗教的法悦を感じさせるものではなかった。どこが宗教的法悦や、こんなもんぐじゃぐじゃなだけや、というひとももちろんいるだろうが、とにかくこういう演奏には弱いのである。ポリリズム、幽玄なコード、暗く深いベース、そして呻き、わめき、絶叫し、痙攣する2本のテナー、それにつけくわえてジョー・ブラジルのフルートもいい味をだしている。ジャケットもすばらしいし、私の好みにあまりにぴったりである。しかし、私がアルバムのことを大学の一年先輩のアルト吹きにいうと、「音楽に宗教を持ち込むな」と吐き捨てるように言われたことを思い出す(ふだん温厚なひとなのに、ものすごく怒っていた)。まあ、そういう風に評価のわかれる音楽ではあるが、私にとっては、ファラオがスクリームするための土台をコルトレーンがちゃんと用意しているアルバム、という位置づけであって、それ以上なにをのぞもうか(コルトレーン亡きあとのファラオは、そういった土台がない状況でひとりで吠えなくてはならず、かなりの凡作、駄作を生み出すことになった)。ファラオを聴くべきアルバム。ただし、一般にフリー、フリーといわれている時期のコルトレーンは、じつはファラオがあまりにぎゃーぎゃー吠えているのでそのイメージばかりあって、混沌としたサウンドのようにおもわれがちだが(まあ、それは当たっているといえばいるのだが)、コルトレーン本人のソロは意外なほどちゃんとしていて、本作でもコルトレーンのモーダルかつオルタネイトフィンガリングを駆使したソロは、「トランジション」あたりのソロとなんら変わりはない。めっちゃかっこええ。そのあとファラオが死ぬほど吹き倒して、A面のラストあたりで「オーム」という掛け声(?)がふたたび現れる。マッコイのピアノも悪くはないし、二本のベースの共演も聞きどころ満載だ。途中ちょっとダレるが、体力さえあれば大丈夫。こういうのを聴かず嫌いでいるのは不幸。傑作です。

「CRESCENT」(IMPULSE! STEREO A−9140)
JOHN COLTRANE QUARTET FEATURING MCCOY TYNER/JIMMY GARRISON/ELVIN JONES

 偏執狂的なコルトレーン研究家であるデイヴ・リーブマンはこの作品がいちばん好きだそうで、その気持ちはよくわかる。「アセンション」以降の混沌としたフリー系作品についても理論的に分析しようとするぐらいで、リーブマンの立ち位置というかコルトレーン音楽への関心が、ひじょうに理知的な部分にあることはまちがいないと思うが、そういうひとにとって、後期のアルバムは、「なんでエルヴィンとマッコイのかわりに、こんなしょぼいピアノとドラムをいれたのか」「どうしてちゃんとしたフレーズを使わず、クラスターのようなサウンドにしたのか」といったあたりでとまどっているのが本音ではないか。つまり、すごいミュージシャンを集めての音楽的な成果よりも、宗教的なものや精神的なものを含んだ、トータルな部分でアルバムを作ろうというコルトレーンの考え方についていけないわけで、それは多くのリスナーもそうだったと思われる。「至上の愛」ですら、精神的・宗教的な部分で抵抗がある……そんなひとにとって、このアルバムなどは、「ちょうどええ感じ」なのではないだろうか。凛々しいコルトレーンの吹きざまとバックのミュージシャンとの相互理解がぴったり一致し、しかもハードバップや単なるモードジャズと距離をおく精神性もある。まさに危ういバランスを保った時期の傑作なのだと思う。たとえば「クレッセント」などは「至上の愛」を思わせる崇高なテンションに満ちた過激なバラード(?)でつづく「ワイズワン」も同傾向で、このあたりまでは「至上の愛」なのだが、そのつぎの「ベッシーズ・ブルース」はファンキーささえ感じさせるE♭のふつうのブルースで、とても楽しくスウィングする。精神性と親しみやすさをかねそなえた、そういったバランス感覚がこのアルバムを好きだという気持ちにさせるのだと思う。私も、高校生のとき、「ベッシーズ・ブルース」をコピーしました(アルトで)。B面もコルトレーンフリークなテナー奏者によくとりあげられる「ロニーズ・ラメント」、そしてエルヴィンが暴れまくるその名もずばり「ザ・ドラム・シング」と傑作ぞろいである。

「MEDITATIONS」(IMPULSE! STEREO A−9110)
JOHN COLTRANE

「オム」はまだしも、あの「オーム」というお経みたいなやつが最初と最後に出てくるが、本作ははたしてちゃんと書かれた部分があるのか、それとも全体的になにも決め事のない即興なのかよくわからない。とにかく後期コルトレーンを代表する傑作。これもまた、私が好きで好きで好きでしかたないアルバム。たぶん、嫌なひとにとっては拷問に近いと思うが、本作と「オム」あたりは、ファラオ・サンダース好きにとっては涎たれまくりのすばらしい作品なのである。この作品を最後に、マッコイとエルヴィンが退団するが、まあそりゃそうでしょう。こんなぐじゃぐじゃのサウンドでは、彼らの良さがまるで発揮できないわけだから。とにかく本作でのファラオの咆哮はとくに凄まじく、聴いていて手に汗握る。植草甚一が「何匹もの犬の吠え声」とか「アリゾナの砂嵐」とか評したあの吹きすさぶフリークトーンの嵐である。まさにゴジラが出現し、大都会を破壊しまくっているような、圧倒的な存在感がある。もしかしたらファラオ好きは特撮怪獣映画好きかもしれない。たとえばちょっと編成が大きいフリージャズ系のバンド(たとえばブロッツマンテンテットとか渋さ知らずとか生活向上委員会とか)の曲は伊福部サウンドを思わせるものがけっこうあるではないか(あんまり関係ないか)。各曲のタイトルはキリスト教的な「父と子と聖霊」とかそういったものが使われているが(曲名は5曲分ついているが、A面がひとかたまり、B面がひとかたまり、と切れ目なく演奏される。A面ラストで一応の終止感はあるけど。CDはトラックを変えてあるという話もきいたが、確かめてはいない。たぶん便宜上のことで意味はあるまい。もともと全部一続きに聴くべき演奏である)、「オム」もそうだが、後期コルトレーンにおける宗教色は、どうもキリスト教っぽくない。といってシャンカールのようなインド風でもない。(よくわからんけど)ドルイドとかブードゥーとかいった感じの土俗宗教のようである。あるいはクトゥルーか。そこにいる神も、もちろんヤーヴェではなく、顔は見えないが、異形の神であろうかと思う。そこへいくと、ファラオ・サンダースにとっての神ってはっきりしていて露骨で単純だなあ。冒頭いきなり、混沌のなかにサックスがおなじ音を連打するようなフレーズではじまるのがまずもって衝撃的。そのあと、どうなるのかというと、そのままずーーーーっと進行していくのである。コルトレーンのソロは「オム」よりもずっとフリーではあるが、力強いトーン、高音と中音域(あるいは低音部)のフレーズの対比、オルタネイティヴフィンガリング、フラジオのファラオとはまたちがった血を吐くような味わいなど、自分のやっていることをちゃんとわかっているのだよ、コルトレーンは! この時期のコルトレーンがさっぱりわからないというひとは、コルトレーンのソロだけに焦点をしぼって、耳の穴をかっぽじってよく聴くべし。つづくファラオのソロは、学生時代の私が、こういう風に吹きたいとあこがれたもの。そのあとまたコルトレーンがでてきて、マッハ15の超アップテンポの集団即興は異常なほどもりあがっていく。そのもりあがりのあと、バシッとマッコイのピアノソロにいけばいいのだが、こういう演奏の常として、そのあと少しダラッとした時期があって、それからピアノソロになる。こういうフリージャズ特有の「えーと、このあとどうしようかな」的なだらだら感を嫌ったのがたぶん山下トリオ的なバシッと次の展開に移る的フリーなのだろう。ここではエルヴィンが「コルトレーン4」的なバッキングで大暴れし、マッコイもそれに応えて激しいインプロヴィゼイションを繰り広げる。この部分だけをとると、「至上の愛」あたりのサウンドとさほどかわりのない、すばらしくエキサイティングなモードジャズだ。このアルバムを毛嫌いするひとはこういったあたりも聴いているのだろうか。全体的にラシッド・アリとエルヴィンの2ドラムが効果があがっているのかどうかはさだかではないが、こういうぐじゃぐじゃのクラスター的サウンドではさっきも書いたようにエルヴィンの良さはほとんど発揮されないから、退団もやむなしだなあ。B面は、ベースソロではじまりテナーが美しいテーマを吹く、という展開で、ちょうど半分ぐらいまで、つまりファラオがぐっと出てくる場面までは、「至上の愛」かと聴きまがわんばかり。このままいけば……と思っていると、ファラオがすべてをぶち壊してくれる。これがいいんです! しかし、残念なことに、もうちょっと……というところで退場、そのあとはマッコイの無伴奏ソロピアノになり、これがめっちゃかっこええ。存分にひとりで自己表現をしたマッコイが退場し、最後はコルトレーンの幽玄なテナーがテーマ(?)を奏で、長丁場の幕がおりる。傑作だが、聴きとおすには体力がいる点は「オム」と同じ。

「THE JOHN COLTRANE QUARTET PLAYS」(IMPULSE! STEREO IMP−88103)
JOHN COLTRANE

 これもまた傑作だなあ。大好きなアルバムである。フィーチュアされている「チム・チム・チェリー」は要するにマイナー3拍子で、「マイ・フェイヴァリット・シングス」や「アフロ・ブルー」とアドリブの素材としてはまったく同じ曲といってもいい(「グリーンスリーブス」はサビがメジャーになるのでちょっとちがうかもしれないが、まあ一緒ですわ)。コルトレーンは、「ソプラノで吹けるマイナーワルツで、モードで処理できる曲」ならなんでもよかったのではないだろうか。私はバードランドの「アフロブルー」よりこっちのソロのほうがなめらかかつツボをおさえていて好きかもしれない。このアルバム、インパルスのコルトレーンのなかでは、やや扱いが地味かもしれないが、それはほかの作品があまりに傑作かつ派手すぎて、この作品にライトがあたりにくくなっているだけで、内容は遜色なくすばらしい。ほかのミュージシャンのアルバムだったとしたら、生涯の最高作のような扱われかたをしたにちがいない。それぐらいインパルス期のコルトレーンは充実していた。「ネイチュア・ボーイ(ナット・キング・コールの大ヒットだというが、どう聴いてもコルトレーンのオリジナルにしか聴こえない。換骨奪胎とはこのことか)」「ソング・オブ・プレイズ(存在感のあるベースソロではじまる「至上の愛」に通じるというか、この時期のコルトレーンの特徴的な演奏。エンディングがやたらと長いのも特徴的か)」、冒頭のドラムのロールだけをバックにコルトレーンがテナーを吹く場面があまりにも印象的な「ブラジリア(めっちゃかっこええ! どこがブラジルなのかさっぱりわからないが。この濃厚なコテコテ度合いはブラジルというより豚汁である)」など、ほかの収録作も聴き応えあり。たぶん「チムチム……」の入っているA面が人気だろうが、B面のほうがえぐいかもしれませんよ。ジャケットでコルトレーンが珍しく、リンクのメタルではなく、セルマーのエボナイトを使っているが、これはたまたま試しているときに写真を撮られたのだろうと思う。音色を聴くかぎりでは、おそらく収録されている演奏はリンクを使用していると思うがいかがなものか。だって内ジャケの写真ではリンクを使ってるし。

「COLTRANE」(IMPULSE! STEREO YS−8502−AI)
JOHN COLTRANE

 これまた大傑作。下から見上げた青いジャケットで有名な作品。このジャケットはすでに、「これは楽しいだけのジャズではありませんよ」という宣言というか、一種の精神的なものを感じる。インパルスでの初リーダー作で、その名もずばり「コルトレーン」である。これって、よく考えてみたら、「田中」とか「横山」というタイトルのアルバムということだから、めちゃめちゃダサいような気もするが、外国人の名前だとさほど違和感がないのはなぜだろう。とにかく一曲目の「アウト・オブ・ジス・ワールド」からして気合い入りまくりで、圧倒的な迫力である。スタンダードの知識とかが皆無なので、この曲、ずっとコルトレーンの曲だと思ってた。だって、どう聴いても「浮世はなれて」とかいうアホみたいなタイトルの歌ものとは思えないアレンジで、ハチロクのリズムに乗ってエルヴィンが叩きまくり、コルトレーンも咆哮する。しかし、コルトレーンの吹き方は約半年まえの「ヴィレッジ・ヴァンガード」のときのたとえば「チェイシン・ザ・トレーン」などとはまるでちがっていて、あのときはブツ切れのフレーズを荒々しく積み重ねていたものが、モーダルなひとつの長いフレーズを凄まじいテクニックで吹ききるようになっており、たった半年でどんどん変貌しているのがわかる。二曲目の「ソウルアイズ」もバラードとして完璧な演奏で、B面に移ると、「チェイシン・ザ・トレーン」でみせたような小刻み積み重ね方式のソロがふんだんに出てくるソプラノでの「尺取り虫」(というタイトルだと、このソロがたしかに尺取り虫の動きっぽく聴こえるから不思議)、こってりしたミディアムテンポでエルヴィン節が炸裂する「トゥンジ」、ヴァンガードライヴでおなじみのめちゃかっこいい曲「マイルス・モード」(松風鉱一的というか、ひじょうに最近のジャズっぽいナンバーである)などどれも聴き応え十分。でも、一曲といえば「アウト・オブ・ジス・ワールド」につきるか。

「BALLADS」(IMPULSE! STEREO A−32)
JOHN COLTRANE QUARTET WITH MCCOY TYNER JIMMY GARRISON & ELVIN JONES

 この超有名な作品を、私は買ったことはない。ひとにもらったのである。自分で買うようなアルバムではない。有線でしょっちゅう流れているので、酒場やお好み焼き屋や喫茶店や商店街でもよくかかる。そういったシチュエーションで「バラード」を聴くなんて最高だ、みたいな文章にお目に掛かることもあるが、私はシリアスでストイックな作品が焼鳥屋や商店街でかかるのはあまり好きではない。やはり、このころのジャズはジャズ喫茶で居住まいをただして聴くべきだ、という古くさい考えを持っているようだ。たしかに、この作品はコルトレーンのアルバムとしては、甘くて、わかりやすいものなのかもしれないが、「ジャズのかかるお好み焼き屋でワインを」とか「女性でも気軽に入店できるホルモン焼き屋。BGMには小粋なジャズ」とかいって、安直に有線をかけるだけ、というのは音楽に対する冒涜ではないか、とまで思ってしまうのである。「酒場でジャズ」みたいなのもいいかげんにしてほしいなあ。というようなことはともかく、あんまり何度もあちこちで聴かされて、コピーもしていないのにフレーズを歌えるほどだが、自分から積極的に聴いたことはない。このアルバムでのコルトレーンのバラード演奏は、1オクターブ上で歌っており、それがどうも線の細さを感じさせるのだ。「アイ・ウォント・トゥ・トーク・アバウト・ユー」のような、ぶっといバラードのほうが好きです。

「A LOVE SUPREME」(IMPULSE! STEREO IMP−88060)
JOHN COLTRANE

 この作品だけを扱った本も邦訳されたぐらいで、コルトレーン最大の人気盤だそうだ(日本では「バラード」のほうが売れているらしい)。たしかにずっしりと重い手応えの作品で、しかもライヴでの過激さや奔放さは、ぎゅっとたずなをしめられて抑制されている。その「抑制の美」こそが本作の魅力ではないか。銅鑼の音とピアノではじまる一曲目からとにかくぴりぴりするほどのストイックな雰囲気ではじまり、Bラスまでそのテンションは持続する。たしかに傑作だ。ベースによるたった4音が「世界」を創造する、荘厳な一曲目(コルトレーンが吹きはじめると、いきなりバンドが頂点に達し、あとはそれを持続する)や、エルヴィンが暴れるB面の曲の人気が高いようだが、私はA−2が好きだ(テナー吹きはだいたいそうみたいです)。もう、めちゃめちゃかっこいい(この曲を、「コルトレーンを聴け」では「音楽を音楽として演奏することをどこかに置き忘れている」と評しているがおおきなお世話。私にはこの曲が本作中いちばん「音楽を音楽として演奏している」ように聴こえます。それと、この曲が「ベムシャ・スウィング」に似ていると書いているが、そうかなあ?)。一曲目の最後に出てくる「アラーサプリー」とくり返すヴォイス部分は「コルトレーンを聴け」によると「演奏の完成度を乱して」おり「押しつけがましい」のだそうだが、この部分こそ、高校生だった私がなんの予備知識もなく聴いていて衝撃を受けた箇所であり、この部分なくしてなんの「至上の愛」かと思う。ついでなので書いておくが、「コルトレーンを聴け」にはB−1が「よく聴けばブルース形式なのだがよく聴かなければ絶対にわからないであろうほどコルトレーンはこのフォーマットを自分用にねじまげてしまった」とあるが、誰が聴いても、テーマ部分を聴くだけでマイナーブルースとわかるだろう曲である(でも、とにかくめちゃめちゃかっこいい。テンポが早いこともてつだって、コルトレーンのソロはいちばん暴れているかも。ソロのクライマックス部分で絶叫するコルトレーンは本当に阿修羅のごとし。本作の頂点である)。それに続くドラムソロとベースソロははたして3曲目なのか4曲目なのか判然としがたい(ベースソロでちょろっと一曲目のテーマが出てくる)。「ツラトゥストラはかく語りき」みたいにエルヴィンがマレットでどんがん、どんがんと盛り上げる、最後の4曲目は、ややおおげさな感じだが、しめくくりとしては申し分ない。でも、本作は、精神性とか問題作としての価値を置いておいても、単にモードジャズの金字塔というか集大成としても私は好きです。といって、そう頻繁に聴けるような作品ではない。そのことが逆に本作の重さ、凄さを証明している。その後、エルヴィンやブランフォード・マルサリス、森山威男などによりカバーされている本作だが、この突出した精神性までコピーするわけにはいかない。たのむから、こんなアルバムをBGMに使わないでください、お願いします、某さぬきうどん屋さん(もちろんうどん屋が悪いわけではなく、有線会社が悪いのだ)。

「THE AFRICA BRASS SESSIONS,VOL.2」(IMPULSE! STEREO/YS−8507−AI)
JOHN COLTRANE

 このアルバムは高校生のときに中古で買ったもので、なぜか「アフリカブラス」ではなく、その第二集を買ってしまったのだが、内容は第一集におとらず、すばらしい。というか第一集よりこっちのほうが、じつは好きなのです。「アフリカブラス」のほうは長い間持っていなくて、うちのビッグバンドで演るときに、アレンジャーに音源を渡すために、何年かまえにはじめて買った。だから第一集はCDなのである。「アフリカブラス」はコルトレーンがテナーを首から下げて立っているジャケットだが、このセッション2のほうはアフリカのオブジェ(?)が大写しになったシンプルなもので、ひじょうにかっこいい。中身も「ソング・オブ・ザ・アンダーグラウンド・レイルロード」(ながいあいだ、地下鉄の歌だと思っていた)、「グリーンスリーブス(テイクワン)」「アフリカブラス(テイクワン)」の3曲というシンプルさで、これがまた聞きよいのだ。一応ビッグバンドということになっているが、ドルフィーによるアレンジは、ほんとうにちょこっとサウンドを厚くする、とか、ぴれぴれぴれ……という効果音を味付けする程度であって、アンサンブル担当者はだれもソロをしないし、いまならシンセで十分代用できるぐらいだが、それがまたかっこいいのである。要するにコルトレーンのソロをよりいっそう際だたせ、かっこよく聴かせるための工夫、という程度であり、やはりコルトレーンの音楽には贅肉というか分厚さは不必要だと思う(たぶん、本人もそう思ったのだろう。このあとビッグバンド的なアルバムはないし、ライヴでも試みられていないようだ)。でも……このアルバムは大好きで、はじめて聴いたときは感動したし、しょっちゅう聴いていた。もし、「ライヴ版アフリカブラス」があれば、もっと躍動的で、コルトレーンももっと吹きまくっただろうし、アンサンブルメンバーのうちから何人かソロをしただろうに……と夢想したりした。たまたま第一集がなかったから、というだけの理由なのに、1よりもこっちを偏愛するようになったのである。偶然というのはおもしろいですね。さて、「アフリカブラス」の1と2を聴いてみて、最初に聴いたときの印象を思い出した。つまり、どれもアレンジのタイプが一緒で、テーマを全員で吹くということはなく、コルトレーンがひとりでテーマを吹き、あとの管楽器はそれにバッキングするだけなのである。コルトレーンが主役というのはわかっているが、もうちょっとテーマのメロディー自体をアレンジしてもよかったのではないか。でも、久しぶりに聴いた「地下鉄の歌(ちがうって)」はめちゃかっこよかったし、「グリーンスリーブス」も(ほぼカルテットだけの演奏なのだが)最高、そしてもちろん「アフリカブラス」は「アフリカブラス」収録のテイクツーとなんら遜色ない演奏でありました。

「AFRICA/BRASS」(IMPULSE! STEREO A−6)
JOHN COLTRANE

 というわけで、第二集をさきに買ってしまった私だが、この第一集はあとでCDで買ったはずなのに、なぜここにLPがあるのかとつらつら考えてみたら、たぶんだれかにもらったのだろう。もちろんすばらしい演奏だが、とくに2に収録されていない「ブルース・マイナー」(ようするに「マイナー・ブルース」)についてのみ述べると、ほとんどがコルトレーンのテナーによるテーマ提示とそれに追随するような複数の管によるバッキング……がこのアルバムの「アレンジ」なのだと思っていたら、この曲だけ、複数の管によるハモリでテーマが提示され、「おっ」と思ったのもつかのま。あまりに単純きわまりないテーマで、それが終わったら、あとはコルトレーンのソロ。いくら温厚な私でも、あのなあ、コルトレーンはん、どんだけミュージシャン集めとんねん、ちょっとはみんなを使わんかい、と憤ってしまいそうになる。途中で、分厚い管のバッキングがつくが、これもあらずもがな。ただ、コルトレーンのソロは(この曲にかぎらずだが)すぐれている。マッコイのピアノソロをはさんで、もう一度登場するコルトレーンは、バッキングを背にして気持ちよさそうにブロウする。なかなか見られない、コルトレーンの「決まったバックを意識した」ブロウである。悪くはありません。よくもないけど。

「DUKE ELLINGTON & JOHN COLTRANE」(IMPULSE! STEREO A−30)
DUKE ELLINGTON & JOHN COLTRANE

 いきなりバラードの「インナ・センチメンタル・ムード」ではじまるという意表をついた選曲だが、さすがにコルトレーンとエリントンというジャズの「重さ」代表のふたりだ。バラードでも、リラックスムードのなかにしっかりと荘厳なテンションがあり、一曲目としてふさわしいバラード演奏になっている。そして、2曲目のへんてこなテーマのブルースでは、ちょっとコルトレーンがいつもの調子でごりごり吹きそうになるが、すぐに終わってしまう。全般的にこのアルバムでのコルトレーンは、ある意味不完全燃焼のようにも聞こえるが(もちろんエリントンにあわせた結果だろう)、そのかわり、べつのなにかが引き出されているように思える。というのは、同時期のコルトレーンの作品にくらべて、本作での彼は、レギュラーメンバーや格下のメンバーとのギグとちがって、久しぶりの自分より偉いひと(へんな言い方だが)との初顔合わせということで、ジョニー・ホッジスやマイルス、モンクなどのバンドに加わったときとおなじような(あるいはそれ以上の)緊張を強いられたはず。また、エリントンのほうも、先鋭的なジャズの旗手との共演ということで、ある程度の緊張をしていたはずだ。どうなることか、とふたりとも思っていたはず。それが、ぴんと背筋を伸ばした、馴れ合いにならない、清涼かつ張りつめた空気を生んだと思う。結果的に、手さぐりのまま終わってしまう、とか、互いが自己主張を譲らずに音楽にならずに終わってしまう、とか、そういう可能性もあっただけに、実りのある作品を生み出せたことは喜ばしい。ただし、本作でのコルトレーンは、一曲をのぞいてずっとテナーを吹いているにもかかわらず、なぜかずっとソプラノを吹いているみたいに、高音部で吹いていて、非常にうわずった感がある。それが、デュークをまえにしたトレーンのうわずった心をあらわしている……というようなこともないだろうけど。

「LIVE AT THE VILLAGE VANGUARD AGAIN!」(IMPULSE! STEREO IMP−88110)
COLTRANE

 本当に思いで深いアルバム。高校生だった私は、このアルバムでコルトレーンが「マイ・フェイヴァリット・シングス」をフリージャズとして演奏していることを植草甚一の本で知り、どうしても聴きたくて、天王寺にあった「ムゲン」というジャズ喫茶に学校をさぼって行って(しょっちゅうさぼって昼間から出入りしていた)、このアルバムをリクエストした。もちろん「マイ・フェイヴァリット・シングス」が入っているB面を、である。すると、いきなりはじまったのは、ベースのオスティナートとすこし遅れて入ってくるピアノのバッキング、そしてソプラノによる自由勝手なソロ。まちがってべつのアルバムがかかったのではないか、と思いながらずっと聴いていると、そのうちにコルトレーンがテーマを吹きはじめ、ああ、まちがってはいなかったと安心したが、そのあとで登場した狂気のようなサウンドに、高校生だった私は愕然とした。そうです。ファラオ・サンダースです。いやー、驚いた。そのとき私は、ど素人ながらアルト吹きだったわけだが、サックスからこんな凄まじい音が出せるとは思ってもいなかった。ぼろぼろの雑居ビルの二階にあるジャズ喫茶の暗い空間で、私は身をよじり、「かっこええ、めちゃめちゃかっこええ、ああ、もういつ死んでもええ」と全身をうち震わせていたのです。生まれてはじめて経験する、音楽による法悦体験みたいな感じか。それが原体験で、いまだにファラオが好きで、自分でもあんな風に吹きたくてフリークトーンのバリエーションを練習している。人生が「曲がった」瞬間というやつですな。そして気がつくと、店にいた客は全員帰っていた。悪いことしたなあ、と思ったが、それよりも感動のほうが勝った。こんな凄い演奏を聴かずに帰るやつはアホじゃ、死ね、と思った。しかし、時代はフュージョンブームのまっただなか。その店でも、ナベサダの「ハウズエブリシング」とかがかかっていたころである。まあ、わからんでもないけどね。数か月後だったか一年ぐらいしてからだったか、日本橋の中古レコード店で当時廃盤だったこのアルバムを中古で入手できたときの天にものぼるうれしさは今でも覚えている。テナーではじまる「ネイマ」の美しさは、オリジナルバージョンをはるかにうわまわる。ピアノのつくりだす散漫なコード感をバックに、ときにいとおしむように、また、ときに激しく吹きつづけるコルトレーン。ラストで、テーマに戻ったときの歌いあげる感じのすばらしさ。そして、そのあとはじまる、正直なんだかよくわからないギャリソンの超ロングベースソロ(これがあきれるほど長く続くのだ。A面のラストから続いているとは、あとで知った)もよくわからぬつま感動した。フラメンコギターみたいに「掻き鳴らす」感じなのだ。なにしろ最初に聴いたときの衝撃が凄かったもんだから、すげーっ、と言いながら毎日聴いていた。そして、それに続く、おまちかねの「マイ・フェイヴァリット……」。もう死ぬほどかっこいい。痙攣するようなトリルをきかせまくるコルトレーンのソプラノもいいが、彼がテーマを放り出すように終えて、そのあと突然出てくるファラオのぐじゃぐじゃのソロ。たまりません。いわゆるフラッタータンギングを使って暴れる部分からはじまり、やがてフリークトーンで絶叫しはじめ、その後ろでソプラノでコルトレーンが煽る。グロウル、ハーモニクス、フラジオ、クラスター、ダブルタンギング、フラッタータンギングなどあらゆるフリークトーンに関する技法がショウケースのように並べ立てられる。これを、なんにもわからん高校生のときに聴いた私の衝撃を想像してほしい(無理か)。これこそ我が師との最初の出会いだったわけだ。やがてコルトレーンも加わって、混沌たるサウンドは頂点に達する。そして、そこから抜け出すコルトレーンのソプラノのかっこよさ、そしてポテンシャルがあがりまくって最後に突入するテーマの美しさ! ラシッド・アリのドラムがぱたぱたいってしょぼい? アリスのピアノが軽すぎる? そんなことはどうでもいい。とにかく私にはこのアルバムは宝物なのだ。けなすやつは許さねー。そして、CD時代になって、A面B面を通して聴けるようになっても、やっぱりLPの、ギャリソンの延々と続くベースソロでA面が途切れるように終わってしまう、この商品としての構成の悪さがいいんだよねー。ダサいジャケットも、なんとなく好きだ。なお、なぜかこのアルバムでは「ジョン・コルトレーン」ではなく「コルトレーン」としか表記されていない(アルバムの背も)。それと、私が持っている日本盤のライナーは岩波洋三というひとが書いているのだが、あまりに無意味なこと(というか「心にもないこと」)を書いていて呆然とする。

「EXPRESSION」(IMPULSE! STEREO IMP−88157)
JOHN COLTRANE

「オラトゥンジ・コンサート」が出るまでは、コルトレーンのラストアルバムと考えられていたアルバムで、スタジオ録音としてはラストなのだから、遺作といってもいいかもしれない。ソプラノを持つコルトレーンの肖像画がジャケットで、そこに享年が記載されているのだから。しかし、私はどうしてもこのアルバムになじめず、何度かチャレンジしてみたが、一般的にいわれているような感動を得ることができなかった。なんでやろ。とくにA面の二曲。めちゃめちゃ短い一曲目もなぜかコルトレーンのテナーが弱々しく、「?」だが二曲目の、コルトレーンのフルートをフィーチュアした演奏は、コルトレーンのフルートが下手すぎて、かなりきつい。こういう演奏は楽器のうまい下手じゃない、というひとがいるかもしれないが、すくなくともコルトレーンの音楽は楽器のうまい下手におおいに関係がある。コルトレーン自身は、いわゆるヘタウマ的な演奏をする立ち位置になく、そういう部分はファラオとかほかの若いメンバーに任せていたはずだ。それが自らそういった部分に身を置く、というのはコルトレーンの感覚がだんだん変わってきたことをしめしているのだろうか。より自由な精神を得たということかもしれない。そういうことなら、このあとのコルトレーンの音楽は、もしかしたらアート・アンサンブルみたいになっていったかもしれないわけで、ものすごく残念なことだ。しかし……とにかくこの二曲目は、ダレてしまう。B面はA面にくらべてはるかにましで、「インターステラー・スペース」と同時期に録音された曲などが入っていて、私の好みのはずなのだが、なんとなくA面をひきずっているというか、ダレた、弱々しい感じがつきまとう。遺作という言葉が先入観になっているのかもしれない。しかし、このあとのライヴ録音である「オラトゥンジ・コンサート」でのコルトレーンの音はあいかわらずの凄まじさであることを考えると、なんでこのアルバムだけ……と思う。コルトレーンの作品のなかでは、めったに聴かないアルバムナンバーワンだ。

「FIRST MEDITATIONS(FOR QUARTET)」(ABC RECORDS AS−9332)
JOHN COLTRANE

 なんだかよくわからない鳥の顔があったり、コルトレーンの横顔があったりするジャケットがしょぼいのが難点だが、内容はすばらしい。あの「メディテイションズ」からファラオ・サンダースを除去すると、どろどろぐじゃぐじゃの部分がなくなり、こんなにもすっきりしました、という作品だが、逆に言うと、本作を聴くことによってあの混沌としたサウンドの意図していたものが、よりはっきりと浮かび上がり、そこにあのファラオのフリークトーンをつけくわえた理由もわかってこようというものだ。コルトレーンのこの頃のテナーの音はほんとうに輝かしく、それを聴いているだけでも感動する。これまでこういう音で吹いたひとはいなかったと思う。コルトレーンはこういった金属的でエッジのたった、しかも太く、温かい音のテナーサウンドを切り開いたパイオニアなのだ。しかし、このアルバムは隠れた傑作だとおもうよ。当時はともかく、今の耳で聴くと、ちょっと新しい感じのモードジャズのしかも傑作……みたいな印象で、誰も「ついていけない」とか「むちゃくちゃだ」とか思わないだろう。それが正規盤(?)の「メディテイションズ」だと、ぐちゃぐちゃのどろどろ……といった評価になってしまう。みんな、ちゃんと本質を見抜く耳を持とうよ……って無理か。ようするにファラオ・サンダースがすべて悪いのだ。ちょっとギャーっと叫んだら、それでもうみんな、「これは『フリー』だ」と断定して、ごみ箱に放り込んでしまうのだ。そして、その原型である本作も、「あの『メディテイションズ』のカルテット版なんでしょ。つまり、フリーじゃん」ということで誰も聴かないのだ。そうだそうだそうにちがいない(と勝手に決めつけているが、そういうことではないのかな?)。でも、素直に聴いてもらうとわかるけど、ここでのコルトレーンは同時期のほかの演奏とくらべてもまったく普通に「ジャズ」してまっせ。このアルバムが吹き込まれた時期は「アセンション」のあとで、「ライヴ・イン・シアトル」の直前なのだが、コルトレーンカルテットとしてはすばらしい充実をみせていると思う。それが崩壊寸前の危うさなのかどうか、そんなことは知らん。しかし、モードからフリーに踏み込もうともがくコルトレーンの真摯な、そして迫力満点の、テナーのすべての音域を駆使し、すべてのオルタネイティヴなテクニックをぶちこんだような驚異的なソロ、マッコイの新境地を開拓したともいうべき自由かつモーダルなソロ、野性児エルヴィンの奔放なバッキングなど、ごく普通のモードジャズのファンならば、全然普通に聴けて、しかもめちゃめちゃ感動できる超スーパーすばらしい内容なのに、どうしてあまりかえりみられないのか。やはり、本家「メディテイションズ」のあのぐじゃぐじゃさが、本作をちゃんと聴く耳を覆っているとしかおもえない。そうだ、ファラオ・サンダースが悪いのだ、そしてジャケットが悪いのだ。というわけで、とにかく、聴かず嫌いのひとにはぜひ一度聴いてほしい大傑作であります。とくにマッコイが気が狂ったかのような凄まじい激演を繰り広げていて、聴くたびに目が点です。ラストの「セレニティ」はそれまでの噴火のような演奏が、ぐずぐずぐず……と内省的な音楽に収斂していき、「至上の愛」を聴き終えたような感動が全身を走る。もう一度いうが傑作です。私は嘘を申しません。

「TRANSITION」(IMPULSE! STEREO IMP−88115)
JOHN COLTRANE

 とにかく1曲目「トランジション」を聴け! 阿修羅のごとき、とよくいうが、まさにそんな感じで、ジャズ喫茶のスピーカーで聴いていると、目の前に巨大なコルトレーンがそびえたち、テナーをつかんで獅子吼しているさまが浮かんでくるほどの圧倒的な迫力だ。ここでのコルトレーンのソロは、「至上の愛」あたりのモード手法をさらに推し進めて、ほとんどフリーに突入しているが、それがきちんとした演奏テクニックのうえで展開されていくうえ(ハーモニクスとかオルタネイディヴフィンガリングとか……)、バックのエルヴィンたちがしっかりとその過激かつ過剰なソロをうけとめて、4ビートジャズの枠内に消化する役割を果たしているので(それはそれでたいへんなことだっただろうが)、聴いているぶんには、「過激なモードジャズ」に聞こえるわけだが(まあ、このぐらいの演奏でも「フリーだ」というひとはいるだろうが)、実際、コルトレーンのソロをとりだしてみると、「オム」や「メディテイション」あたりで演っていることとかわらない。つまり、逆に言うと、このアルバムでのコルトレーンをかっこいいと感じるひとは、「オム」や「メディテイション」あたりは全然だいじょうぶなはずである。ついでにいうとマッコイもいい。聴かず嫌いはもったいないよ。でも、本作とそういう作品の大きなちがいは、後者にはファラオというえげつないおっさんが参加していることと、コルトレーンのソロをジャズ化、4ビート化してくれていたエルヴィンたちのかわりに、パルスみたいな「雰囲気」でコルトレーンを包んでしまうようなやりかたのラシッド・アリが参加していることであって、なんども言うようだが、コルトレーン自身のソロはさほどかわっていないのである。この地獄のような一曲目につづいて、めちゃめちゃ泣かせる、かわいらしいバラード「ディア・ロード」(非常に短いし、ドラムはロイ・ヘインズ)が心を清浄にして、そしてB面一杯を費やす一種の「至上の愛」的な組曲がはじまるが、これもいい。コルトレーンもエルヴィンもマッコイもギャリソンも、ひたすら吹き、弾き、叩いている。なんでこのアルバムはコルトレーンの死後まで発表されなかったのか、まったく理解に苦しむ大傑作であることよ。カルテットの結びつきというか、相互刺激作用は、「ヴィレッジ・ヴァンガード」あたりの一万倍は凄いと思う。コルトレーンが好きで、このアルバムは聴いたことがないというひとは、人生を損してますよ。

「COLTRANE LIVE AT BIRDLAND」(IMPULSE! STEREO A−50)
JOHN COLTRANE

 1曲目の「アフロ・ブルー」はたしかにすごい、かっこいい演奏で、とくにこういったミディアムテンポのワルツのときのエルヴィンは、悪魔のような凄まじいドラミングを展開して、聴いているとおもわずのけぞってしまう。コルトレーンもそれに応える激しいソプラノソロをくりひろげている。しかしこのアルバムを生まれてはじめて聴いたとき、いちばん驚き、そして感動したのは、二曲目のバラード「アイ・ウォント・トゥ・トーク・アバウト・ユー」のカデンツァを聴いたときだった。まだサックスをはじめて間もなかった私は、このカデンツァがいったいどういう原理原則によって成り立っているのかすらわからなかったが、とにかく聴きながら興奮しまくり、そのへんにあるものを手でばんばん叩きながら、すごいすごいと連発していたのを思い出す。その後数年をへて、サックスを習っていたN先生に、このカデンツァがちゃんとした原曲のコード進行に基づいていることを実演によって教えられ、コルトレーンの凄さがまえにもましてよくわかった。よく、この部分をコピーした楽譜があるが、とうていあんなもの吹けないのであって、あれを見て、そのとおりに吹ける、というひとを私は尊敬したい。さぞかし快感だろうなあ。B面の3曲もすばらしく、ライヴならではの躍動感とライヴとは思えない完成度が同居していて、このアルバムをコルトレーンのベストに挙げるひとがおおいのもわかる気がする。B面の3曲もすばらしいが、「プロミス」はソプラノによるマイナーワルツで「アフロ・ブルー」とかぶる気がするが、正直、「アフロ・ブルー」よりええんちゃう? とおもったりもするがいかがなものか。あとの二曲はスタジオ録音だが、「アラバマ」は「至上の愛」的な演奏で、長々と荘厳なイントロを吹いたあと、リズムセクションが入った一発目の音を聴いてその不協和にビビる。そのあと、なにごともなかったような演奏を続けるコルトレーン。もう、なんでもありの世界に突入しかかっているのだ。「ユア・レディ」はソプラノによる、跳ねたようなリズムの曲で、エルヴィンがソプラノとデュオで延々続けるのだが、これはもう極楽ですよ。永遠につづいてほしいほどの極楽サウンド。ゴンチチみたいなもんです。みんな、このアルバムのB面を聴かなきゃダメですよ! ってCDで聴いてるひとには関係ないのか。

「SUN SHIP」(IMPULSE! STEREO IMP−88129)
JOHN COLTRANE

 すげーっ! このアルバムは、聴くたびに感動してへとへとになる。一曲目の「サン・シップ」は、同時期の曲「ワン・ダウン・ワン・アップ」とおなじぐらい過激で、歪んだ曲想のえぐい曲で、テーマをコルトレーンが太い音色で吹くのを聞いているだけで興奮。それにつづく、リズム主体のテナーソロを聞いているうちに血圧あがりまくり。本作に続いて録音されている「ファースト・メディテイションズ・フォー・カルテット」も同様だが、「アセンション」以降の、つまりフリーに突入したコルトレーンのグループ(エルヴィンとマッコイはいる)で、ファラオがいないものは、コルトレーンの過激さ、過剰さがものすごく際立って、テナーのサウンドも妖しく、暗く、異常な輝きを帯びて、ぎらぎらする日本刀を突きつけられているような気分になる。とにかく信じられないぐらいの音楽的冒険である。B面ラストのギャリソンのベースソロで終わるこの短い旅は、私をすぐに六十年代のあの音楽が狂気をはらんでいた時代へと連れ戻してくれる。エルヴィンもマッコイもギャリソンも凄すぎるが、やっぱりいちばん凄いのは彼らを統率し、音楽的方向を指し示し、しかも、その方向を自分のソロでねじ曲げてしまうことすら平気にやってのこる、ものすごい音楽的存在感のかたまりであるところのコルトレーンなのである。好きです、「サン・シップ」! たぶん、ここにファラオが入ると、まるでちがった空気になるだろうことは容易に想像がつく。コルトレーンは、ある程度まで吹くとファラオに任せてしまうからね。だから、ひとりで全部やらねばならないこういう状況のアルバムにこそ、コルトレーンができること、そしてできないこと、やりたいこと、やりたいけどできないこと……などがわかって、ドキュメントとしても興味深いのだ。

「KULU SE MAMA」(IMPULSE! STEREO IMP−88125)
JOHN COLTRANE

 高校生のとき中古で入手して、タイトルの「クル・セ・ママ(ジュノ・セ・ママ)」というのがどうにもよくわからず、「クル・セ・ママ」なら「クル・セ・ママ」、「ジュノ・セ・ママ」なら「ジュノ・セ・ママ」でいいのに、なぜ括弧にいれる? と頭のうえに???を点灯させながら帰宅して、さっそく聴いてみたが、そんなつまらん疑問はどうでもよくなるほどに感動した。そのときは「このアルバムがコルトレーンの最高傑作だ!」と確信したものだ(その後、考えはかわって、「インターステラー・スペース」が今はいちばん好きなのだが、一、二を争う傑作だという思いにかわりはない)。エルヴィンを中心にしたパーカション類によるアフリカ風の呪術的サウンドのなかに、ジュノ・ルイスのボーカルが響きわたる。これがうまいとか下手とかを通り越した、一度聴いたら忘れられない、心に焼きつけられるようなボーカルなのだ。そしてそのバックに、コルトレーンとファラオのテナーが鳴り響く。コルトレーンは少しだけで、基本的にはファラオの咆哮が中心だ。アフリカ風のサウンド、ボーカルもの……そういったことを完全に無視してファラオはごりごり、ぶりぶりと吹きまくる。そして、アフリカ風のサウンドとファラオのスクリーミングが、なぜかめちゃめちゃ合う! アフリカとフリージャズ……今となってはあたりまえなそんなマッチングだが、ジャズ史においてはこのアルバムが嚆矢だったのではないだろうか。今後のファラオの道を、ひいては70年代のドロドロジャズの展開を示唆した大傑作である。とにかく圧倒的な迫力で、かっこいい部分がありすぎて困るほど。聞きおえると、二時間の大作映画を見終わったような感動が残る。B面の二曲は、コルトレーンをフィーチュアした演奏で、エルヴィンとの壮絶な渡り合いも含めて、コルトレーンのテナーが聞きたいひとも堪能することになっている。私も、めったにB面は聞かないが、これからはもっとひいきにさせてもらいまっせ、B面。とにかく、このアルバム、聞いたことのないひとは絶対に聞いてみてほしい。その結果、「こんなもん聞けるかっ」となっても私は知りません。ジャケットのテナーのネックのすぐしたのあたりに、なぜか丸い青い光があたっているのも印象的で、なんとなく「神」という言葉が頭に浮かぶ。

「ASCENSION」(IMPULSE! STEREO A−95)
JOHN COLTRANE

 2バージョンあって、どっちかが市場に先に出て、すぐにもうひとつに差し替えられて云々というのが昔はよく取りざたされたが、CD時代になってそういう話もなくなった。しかし、私はLPしか持っていないから、テイクワンのほうは聴いたことがない。でも、べつに聴かなくてもいいや。CDで買い直す気にもならないし。本作は、大勢のフリー系管楽器奏者のなかから、今後の相棒となるファラオ・サンダースを選び出すための壮大なオーディションだったのだと思う。コルトレーンがちょろっと吹いて、「さあ、みんな、あとをつけてくれたまえ。えーと、デューイ・ジョンソンくん、きみはどうかな? あ、そんな風に吹くのか、わかった、きみはもういい。つぎは、えーとファラオくん。おお、なかなかいいねえ。そのフリークトーンはどうやって出すのかあとで教えてくれたまえ。つぎはハバードくんか。うーん、うまいけどねえ、私はこれからもうちょっとちがう演奏をしたいんだよ、ごめん。きみはもっとフュージョンとかをやりたまえ。そのあとは、おお、シェップくんか。きみには期待しているよ。うーむ、そうくるか。いいんだけどね、一本調子なんだよなあ、ファラオくんみたいにいろんな技をしこんでおかないとね……」こんな感じだったのではないだろうか。それにつきあわされている我々リスナーもたいへんだ。しかし、このあとコルトレーンはこの種の「フリー系ジャム」みたいなことは二度としなかった。おそらくファラオという相方を選び出したことで、もうこんなアホなことをする必要がなくなったのだ……というのが田中説です。それと、このアルバムの失敗(と言い切ってもいいのかな)の原因は、私はコルトレーンにつづく第二ソロイスト(めちゃめちゃだいじな位置だと思うよ)にデューイ・ジョンソンという音もちゃんと出ない超下手くそなトランペットをすえたことで、これでアルバムの行く末というか展開がダメになってしまったのだと思う。この、世紀の問題作として傑作になる可能性もあった作品の空気をめちゃめちゃにしてしまったデューイ・ジョンソンを二番手にしたコルトレーンに責任あり。だって、コルトレーンのソロは(短いけど)いいし、ファラオのソロは、「あ、こりゃもう決まり」って感じだし、ハバードのソロもなかなかおもしろいし……。こいつやで、このアルバムを世紀の駄作にしたのは二番手のデューイ・ジョンソンだと、決めつけてしまう私なのだった。そのうえB面のソリストは、デューイ・ジョンソンほどヘボなやつはいないが、マリオン・ブラウンもシェップもジョン・チカイもさほど出来がいいというわけでもなく、だんだん退屈してくる。A面だけ聴いていればいいアルバムかもしれない。くり返すが、コルトレーン、ファラオ、ハバードは悪くないのだ。なかなかむずかしいですね、こういう試みも。

「SECOND NIGHT IN TOKYO」(IMPULSE! MONO YB8508〜10−AI)
JOHN COLTRANE QUINTET

「セカンド」というアルバムタイトルから、なんとなく「イン・ジャパン」の続編的な感じがするのだが、ようするに日本公演第二日目の夜の演奏ということで、こちらのほうが「イン・ジャパン」に先立つ音源なのである。ブザーの音につづいて司会者が「今からジョン・コルトレーン・クインテットの祭典がはじまります」といってから長々とジャムセッションの予定などについて解説し、メンバーをひとりずつ紹介していくが、正直いってまったくいらない部分である。しかし今となってはこれが貴重なドキュメントなのだった。その後、いきなり「アフロ・ブルー」ではじまるが、感じとしては「バードランド」のライブの冒頭となんらかわりはない。しかし、コルトレーンがソロを終えたあと、いきなり登場するファラオの咆哮には、おそらく当時の日本の聴衆はどぎもをぬかれたと思うよ。とにかく死ぬまで吹く。吹き倒す。おそらく途中で唇がバテて、ヨダレを垂れ流しながら、それでも必死に唇をしめなおして音をだしていたのではないか……そう思う。こういう「死ぬまで吹く」的な感覚は、このときの(この日の、ではないけど)ライヴを観て人生が変わってしまった坂田明などの演奏スタイルに大きく影響しているのではないかと思う。つぎにも曲があるわけだし、ここでバテバテになっていてはハナシにならないわけだが、そういう日和ったことを考えず、とにかくひたすら吹く。それがこのバンドでのファラオに与えられた使命なのだ。そして、コルトレーンもひたすら吹く男だ。もはや音塊というかぐじゃぐじゃになってしまったファラオの壮絶なソロのあと、アリスのぬるいピアノ(かなり長い)をはさんで、ふたたび登場したコルトレーンの圧倒的なソプラノソロはあまりに凄く、このライヴを聴いて人生観が変わったという坂田さんの気持ちはほんとによくわかる。これが目の前で、生で展開していたら、私も、「ここでこんなことをしている場合じゃない。とにかくなにかをはじめなくては」と思ったにちがいない。当時はそういう時代であり、これはそういう音楽である。今、そういうものがないから、若い連中は、なにやったらええかわからんのである。だから、そういうものを求めて私はフリージャズやフリーミュージックを聴くのである。そこには、今のジャズにはすっかり失われてしまった、こういった音楽の要素がたしかに図太く受け継がれているからである。40分もある「アフロ・ブルー」のあと「ピース・オン・アース」。この美しいテーマをもったバラードをコルトレーンが悠々とうたいあげたあと、すぐにファラオがなにを思ったか、フラッタータンギングをしながら登場して、最初は美しさ半分、ぐじゃぐじゃ半分の微妙なバランスをとりながら吹きすすめていくのだが、途中からだんだんキューキューいいだして、ついにはぐちゃぐちゃになりかけるが、危ういところで踏みとどまる……そんなソロを展開する。このソロは、ファラオのテナー吹きとしての実力を基本的なところで証明している。たんに無茶吹きする輩ではないのである(まあ、「踏みとどまれなかった」箇所もあちこちにあるが)。雰囲気だけ、みたいな、フレーズが聴こえてこないアリスの抽象的なピアノソロのあと(長いとけっこうつらい。これさえなければもっと引き締まった音楽になると思うのだが)、ようやくコルトレーン登場。この時期の演奏に特徴的な、低音部のフィンガリングを駆使したソロを展開する。モチーフを少しずつ積み上げていって、ついには爆発する……そういった方法を何度も何度もくり返す。そして、例の、低音と高音によるひとりバトル的なやりとりなど、いやー、かっこいいっす。そこへファラオが入ってきて、コルトレーンがカデンツァ的なブロウをみせたり、ファラオがギャーギャーいったりして、エンディングは美しくおわる。たぶん聴いたひとは頭に?が百個ぐらいついたであろう。どこが「ピース・オン・アース」やねん、と。しかし、拍手はものすごい。これが約26分。それに続く曲は、ジミー・ギャリソンのあの長い長いベースソロ。「ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン」以来おなじみのあの展開である。さすがの私も、この部分は飛ばしてしまうことがある。そしてはじまるのは「クレッセント」である。これはこのアルバムの白眉である。コルトレーンの吹くテーマはひたすらかっこよく、続くファラオのソロはこのライヴのなかではいちばん過激でめちゃめちゃ興奮する。たいがい早引きに流れるアリス・コルトレーンのソロも、この曲ばかりは、バッキングのラシッド・アリがなかなか反応がいいせいか、ときにマッコイと見紛うばかりのいい瞬間がある。そして、最後にふたたび登場するコルトレーンは地に足のついた、というか、根が生えたというか、どっしりとした、堂々たる演奏をおこなう。そこにファラオがからんでくるが、ひょっとするとこのときばかりはコルトレーンのほうが激烈なフリーフォームを展開しているかもしれない。楽々とフリークトーンを発するファラオにくらべ、コルトレーンのフリークトーンはまるで血を吐くような凄まじさ、切迫感がある。このふたりのからみがこのアルバムの最高潮であろう。ラストでコルトレーンひとりになって、テーマを奏でる瞬間にこそ、一枚目のA面からともにこの演奏を追ってきたリスナーだけにわかる感動が押し寄せる。こういう演奏が「古い」とか「あの時代でなければ受け入れられない」とか「いまどきじゃない」というやつは(以下、自主的に削除)。司会が「ジョン・コルトレーン・クインテット!」と叫び、ぶっ速い「レオ」のテーマが奏でられるときに、たとえば黒澤映画を観終えたときのような充足感がわきあがる。すごい。名盤かどうかはしらないが、ジャズファンなら一度は聴いて、自分にこの音楽への耐性があるかどうか試してみるべきだと思う。三枚目のB面は全編コルトレーンへのインタビューで、インタビュアーはこの時期のコルトレーンに対して質問すべきこととはまるであさってのことをきいていてはらはらする。

「COLTRANE IN JAPAN」(IMPULSE! MONO YB8501〜3−AI)
JOHN COLTRANE

 東京でのラストコンサートで、ラジオ用に録音した音源である。ここでも、不要な司会者のMCがテンションをさげるが、今となっては貴重な資料である。すぐにコルトレーンによる、信じがたいほど美しい「ピース・オン・アース」のテーマの提示があり、ここだけでも感涙ものである。会場を埋めつくした聴衆もどよめきでそれに応える。そのあと出てくるのは、もしかするとアルトではないのか。テーマはたしかにテナーで吹いているが、そのあとのぴよぴよしたソロはアルトだと思う。レコードのライナーによるとアルトは「レオ」で聴かれるというが、そうなのか? ソプラノかも、と思ったが、やっぱりアルトだろう。しかも、たぶんファラオによるアルトソロなのだ。このソロを聴くと、ファラオがしっかりとどんなサックスでも吹ける、基本のちゃんとしたサックス奏者であることがわかる。このあたりのこと、今のCDのライナーがどうなっているのか興味深いが、見たことはない。そのつぎに出てくるのはコルトレーンによるテナーソロである。これがなんとも感動的なすばらしい演奏で、この部分のコルトレーンの演奏をきいて、この時期のコルトレーンの演奏はむちゃくちゃだ、とか、わけがわからんとか、フリーだとかいうやつは、ほんとにちゃんと聴いたのか、と言いたい。私は目の前で生でこんな風に吹かれたら、たぶん失禁して白目剥いて気絶してると思う。曲のラストに向かうにしたがって演奏はどんどん過激になっていくが、コルトレーンのテナーはぜったいに美しさを失わない。エンディングのルバートでの過激なテナーブロウはあまりに凄すぎる。終わると、感極まったような拍手と嘆声が聴こえる。B面にうつると、例によって例のごとく、この時期のコルトレーングループにとってはずせない、ギャリソンによる超ロングベースソロがはじまる。「セカンド・ナイト・イン・トーキョー」では「クレッセント」のイントロだったが、本作では(「ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン」と同様に)「マイ・フェイヴァリット・シングス」へのイントロである。しかも、ほとんど似たような演奏で、「なんの曲でも一緒かい!」と言いたくなるが、正直、なんの曲でも一緒なんだろうな。これだけの長尺をベース一本で表現するのはたいしたものであるが、まあ、しんどいといえばしんどいかも。ようやくピアノとドラムとソプラノが同時に入ってきて、ジャズ喫茶の客などはホッとするのではないか(というか、このアルバムがかかるジャズ喫茶も、今となっては珍しいかも)。ワンコードで延々と吹いたあげく(このあたりも聞きどころ)、一枚目のB面の終わりぐらいにさしかかって、ようやく「マイ・フェイヴァリット・シングス」のテーマに入る。岩波洋三のライナーでは、「半分を過ぎたあたりでコルトレーンのテナーソロがあらわれ云々」とあるが、もちろんコルトレーンはずっとソプラノを吹いている(テナーかソプラノかわからないジャズ評論家っていったい……)。このソロがめちゃめちゃ過激で、はっきりいって「セルフレスネス」も裸足で逃げ出すような、いつ果てるともしらぬ凄まじいブロウなのである。うひゃー、めちゃめちゃすごいやん! と呆然としていると、コルトレーンはとりあえず言いたいことを言ってしまったのか、一旦テーマに戻ったあと(その後もメジャーに転調してからブロウしまくるのだが)、B面に移って、ようやくファラオ・サンダースのテナーが浮かびあがる。これはかなり長く、真剣に聴いているとしんどい。そのあと、アリスのあいかわらずのソロをへて、コルトレーンがソプラノでソロをとるのだが、低音から高音部までを駆使した非常に過激な演奏で、ソプラノという楽器をここまでエグく吹けるというのは、コルトレーンがこの楽器を技術的に完全に習得しきっていることを示している。この「マイ・フェイヴァリット・シングス」がほぼ一時間。お客さんもおつかれさま。最後は「セカンド・ナイト」ではテーマがわりにちょこっと演奏されていた「レオ」。ラシッド・アリのドラムソロが延々とフィーチュアされるが、エルヴィンとは比べ物にならないほど「普通」でびっくりする。ラシッド・アリはフリージャズ系のドラマーだと思われているが、じつはエルヴィンよりもオーソドックスな、4ビート系のドラマーなのだろう。つづくアリスのソロを聴いていて思ったのだが、日本でのコルトレーンの演奏が聴きとおすのがかなりしんどい理由は、結局、どんな曲をテーマにもってきても、そのあとのルーティーンがほとんど変わらないからだろうと思う。どれもモーダルな曲ばかりで、コルトレーンがソロをして、そのあとファラオがフリーキーなソロをする。そして、アリスが上下降するだけ(といってはいいすぎだが)の退屈なモーダルなピアノの典型というようなソロをして、そのあとふたたびコルトレーンが出てきて終わる……という展開ばかりだ。そりゃ聴いてるほうだって飽きますって。でも、一曲一曲は、ものすごい感動的な名演なのだ。でも、この時期のコルトレーンに「もう少し選曲にバラエティを……」とか「ビバップ的なコードチェンジのある曲もやってほしい」とか、誰が言えただろう。それだけ彼らはわき目もふらずこういう音楽に突き進んでいたということであって、我々はそれを受け入れる以外、この時期のコルトレーンの音楽を聴く方法はない。ピアノソロのあと、長いアルトソロ(と思われる)がフィーチュアされるが、どうもこれはコルトレーンのようだ。さすがにアルトを吹いてもめちゃめちゃうまい。最後にファラオもアルトを吹き、四十五分もの長い演奏が終わる。まだ、演奏が終わっていない段階で、アホな司会者がエンディングのクライマックスの場面だというのに「それでは花束を贈呈します。花束の提供はサンケイスポーツ云々……」とかいい出して四十五分の感動をぶちこわす。この司会者は「長い演奏でコルトレーンもおつかれでしょう」とかアホなことを言うが、本当に信じられない行為である。しかし、それを覆い隠すような会場全体の熱狂した叫び、大拍手がコルトレーンたちをねぎらっている。このときの聴衆は、ちゃーーーーんとこの音楽を理解していたのだ。

「SOULTRANE」(PRESTIGE 7142)
JOHN COLTRANE

 名盤といわれているが、あまり好きではない。なにがあかんのかというと、一曲目の「グッド・ベイト」のテーマの吹き方だ。いくらなんでも装飾音符をつけすぎではないか。なんか、聴いていると頭が痛くなってくるぐらいきっちりと律儀にターンさせるのコルトレーンのきまじめな性格をあらわしているのだろうか。ソロもあまりに細かく動きすぎて、しんどい。ギクシャクしたノリでバップフレーズ+アルファみたいなソロを延々とつづける。この時期のテナーの音色も、じつはあまり好きではない。このあと、インパルス初期の「インプレッションズ」あたりの音色を経て、「コルトレーン」あたりからワン・アンド・オンリーのすばらしい音に変貌するが、プレスティッジのこのころの音はいちばん聴きにくい(個性的ではあると思う。こういう時期があってこそ、ああいうだれもが納得のいく凄い音になったのだろうが)。「アイ・ウォント・トゥ・トーク・アバウト・ユー」の初演でもあるが、テーマの一発目の音が「あの」コルトレーン的バラードなのである。すでにこの時点で彼は自分のバラード奏法を確立させていたのだ。しかし、バードランドのあの凄まじいカデンツァはなく、きっちりと吹き終えている。これはこれで好ましいが、やや物足りない。しかし、B面はひじょうに好ましく、「ユー・セイ・ユー・ケア」は短いソロスペースのなかでぶりぶりと言いたいことを言い切っているし、最後の曲「ラッシャン・ララバイ」ではアルバム全体の印象が一変する。このマイナーの子守歌を、コルトレーンは超アップテンポで演奏するのだが(バラード風のピアノのイントロがより効果をあげている)、一曲目の「グッド・ベイト」では鬱陶しさすら感じさせた「シーツ・オブ・サウンド」がかなりいい感じで成果をあげている。ここまで徹底すれば、納得せざるをえない。まあ、そもそもシーツ・オブ・サウンドというのは単なる早吹きではない。コードを細かく分解して、そこに音符をどわーっとしきつめことによって、一種のハレーションのような効果をねらっているわけだから、個々のフレーズがどうとかこうとかいう状態を飛び越えてしまわなければ意味がない。「グッド・ベイト」では、それが中途半端なので、フレーズにも耳がいき、よけいに頭が痛いのだが、「ラッシャン・ララバイ」では「ここまでやるかーっ」という風に圧倒されてしまう。冒頭にも書いたように、あまり好きではないが、ジャズ喫茶などでかかると、やはり若きコルトレーンのやる気というか意欲がびんびんつたわってくるなあ、とは思う。2曲め以降は好きなので、やはりアルバムというのは一曲目の印象が大きく左右するなあとあらためて思った。

「MY FAVORITE THINGS」(ATLANTIC SD−1361)
JOHN COLTRANE

 高校生のときにジャズのことなどほとんどわからないまま買ったレコード。アトランティック独特の、濃いような色合いのジャケットが印象的だが、内容はよくわからなかった。わからなかったが、とにかく高いお金を出して購入したものなので、毎日繰り返して聴いた。親父が、「ずーっとおんなじことばっかりやってて、退屈だ」と言うので、「この良さがわからんか」と反論したが、心のなかでは、(たしかに退屈かも)と思っていた。このアルバムの真髄がわかるにはかなりの時間を要した。「セルフレスネス」収録バージョンに代表されるような、ワルツ系の曲をエルヴィンが自在に叩きまくり、そのうえでコルトレーンのソプラノが飛翔し、絶叫する……といった展開のものとはちがった、インド音楽にも通じるような幽玄な演奏で、この微妙な味わいはたしかにソプラノで、しかもスタジオ録音でないと出せなかったと思う。また、コルトレーンのソプラノというのはけっこうキンキンした音であって、それは晩年まであまりかわらなかったが、それは彼がこの楽器のパイオニアであるからしかたない。その後排出したソプラノプレイヤーは、この楽器に対していろいろと理解をふかめ、さまざまな新しい奏法やアプローチを開発した。そして、もっと柔らかい音色、柔らかいアーティキュレイションが主流となった。今こそ、このオリジナル版の「マイ・フェイヴァリット・シングス」を完成させるときがきたのではないか……そんなことを思ったりするのです。じつは本作のもうひとつの聞き所は「サマータイム」である。この演奏の凄さは、最初はわからなかった。あるとき、「なんか変なコード、ついてるな」と気がつき、そのあと真剣に聴いてみて驚いた。冒頭部のチェンジをいじってあるのだ。そのチェンジのうえに、「サマータイム」のなんのへんてつもない単純なメロディーが乗っている。それが違和感というかモダンな響きというかかっこよさの原因なのである。そのことに気づいたあとは、そのあとにつづくテナーソロの凄さもわかるようになり、「今まではどうしてこの露骨な加工がわからなかったのか」とかえってびっくりしたぐらい。つまり、私がジャズにおけるリハーモナイズということにはじめて目を開いた瞬間だったのだ(まあ、今の耳で聴くとさほどめちゃめちゃいじってあるわけではなく、つづく「バット・ノット・フォー・ミー」のAの部分の最初8小節のほうが加工度合いは高いかも。ビル・エヴァンスの演奏の凄さもそれまでさっぱりわからず、こんなぼんやりしたピアノのどこがええんやと思っていたのだが、このときを境にその過激さはわかるようになった。好き嫌いはべつとして)。ほかの二曲「エヴリタイム・ウィ・セイ・グッバイ」「バット・ノット・フォー・ミー」も悪くないが(前者のソプラノは、正直いって、ひゃらひゃらしていると思うが、高校のころに死ぬほど聴き倒しているうちに、これはこういうもんか、と気にならなくなった。メロディの歌いあげ方は天下一品。後者もリハーモナイズされていてなかなかえぐいのだが、「サマータイム」にはおよばない)、あまりにも「マイ・フェイヴァリット」と「サマータイム」のインパクトが大きすぎる。名盤でしょう。

「GIANT STEPS」(ATLANTIC SD−1311)
JOHN COLTRANE

 2拍ごとにかわるコードチェンジを巨人が大股で歩く様子に喩えたタイトルというが、どう考えても、マイルスから独立し、プレスティッジからアトランティックという大きなレーベルにうつっての初リーダー作ということで、「ついに始動するジャズの巨人の第一歩」という意味合いに受け取ってしまうのは私たちがその後コルトレーンが歩む道というか彼が変えていくジャズの歴史を知っているからだろうか。このアルバムが録音された時点ではだれもそのようなことを予見していなかったのか。とにかくあまりに多くのものが詰まった、あまりに巨大な意味合いをもつ作品である。収録曲すべてが凄い、というジャズアルバムもなかなかないと思うが、これはまさにそんな稀有な例である。もし、このアルバムが一曲目の「ジャイアント・ステップス」以外全部スタンダードだったとしても、歴史には残ったろうが、このときのコルトレーンのクリエイティヴィティというものは、同時期のほかのジャズマンを大きく引き離しており、その結果がこの「全曲凄い」アルバムへと結実したのだろう。個々に触れるのはやめておくが、一曲だけコメントすると「カウントダウン」というめちゃ速い曲は、冒頭、延々とドラムだけをバックにコルトレーンが速いフレーズを吹きまくるが、ベースもピアノもいない状態で、この速さで、メカニカルなコードチェンジを一糸乱れぬ指遣いとタンギングで吹きあげる。この凄まじさは、聴いていて筆舌に尽くしがたい感動を呼ぶ。これだけの超絶技巧の持ち主が、数年後にはアイラーやシェップやファラオの、あの(一般的な意味では)テクニックのない、素朴なフリージャズへの道を踏み出さざるをえなかった、ということに、私はコルトレーンのミュージシャンとしての業を思い、戦慄せざるをえない。

「COLTRANE JAZZ」(ATLANTIC SD−1354)
JOHN COLTRANE

 ものすごくレベルの高い演奏が詰まっているが、印象としては、あの全編テンション高すぎる「ジャイアント・ステップス」とおなじころの吹き込みとは信じられないほど、普通。一曲目、ピアノのイントロを聴くだけで、あー、普通のジャズや! と思ってしまう。二曲目の「ヴィレッジ・ブルース」はようするにブルースなのだが、モーダルな解釈がなされていて、あ、これはコルトレーンだな、と安心(?)する。しかし、「マイ・シャイニング・アワー」やバラード「アイル・ウェイト・アンド・プレイ」(最後の1音がハーモニクスになっていて、めっちゃかっこええ!)のようなマジ歌ものをまさに歌ものとして処理していることを考えると、同時期に並行して進められていたいろいろな音楽的展開のうち、「ジャイアント・ステップス」にはもっとも前進的なものばかりを収録し、このアルバムにはそうでないものも入れた、ということなのか。今から考えると、それはめちゃめちゃよい選択だった。もし、「ジャイアント・ステップス」にこういった「普通のジャズだよなー」的な曲(もちろん演奏自体はすばらしいのだが)が入っていたら、あの超強力なぴりぴりするようなテンションは少なくとも幾分かは減じていただろう。B−1の「ハーモニク」は、テーマにハーモニクス奏法を取り入れた曲だが、それだけだ。今なら誰でもやるハーモニクスをテーマでも使ってみました、という、ちょっとした思いつきなのだろう。それよりも、いつ聴いてもよくわからないのが「ライク・ソニー」で、これがソニー・ロリンズの影響だというのは、どこをどう聴いたらそうなのか、いまだにわからん。ラストの「サム・アザー・ブルース」は、グロスマンが中村照夫の「ユニコーン」で演奏して以来、テナーマンの必須アイテム的な曲だが、正直なところ、このアルバムでのコルトレーンのテーマの吹き方は、グロスマンのあのかっこいい、オルタネイト・フィンガリングを使ったテーマの吹き方とは大違いで、ごく普通である。なお、うちにあるレコードについている大和明の解説では、「最初の2コーラスは「ナウ・ザ・タイム」を思わせるもので、3コーラス目に入ってようやく本来の「サム・アザー・ブルース」のテーマへ移行する」とあるが、もちろん誰が聴いてもわかるとおり、3コーラス目からはただのアドリブで、2コーラス目までが本来のテーマなのである。聴いたらわかるやろ、ふつー。こういうひとがジャズ評論をしていたのだから、おそれいるほかない。レコード会社も注意してやれよ。大恥やん。

「ALTERNATE TAKES」(ATLANTIC P−4556−A)
JOHN COLTRANE

「オルタネイト・テイクス」というタイトルではあるが、ほんとうの意味での別テイク集ではなく、当時、アトランティックに移籍したばかりのコルトレーンが、いろいろなメンバーを試しつつ、メンバーチェンジを繰り返しながら、吹き込んでいった曲をあつめたものであって、だからたとえば「ジャイアント・ステップス」も、あの「ジャイアント・ステップス」での同曲とおなじメンバー、おなじ録音日の残りテイクではなく、別の日(一か月まえ)に別のメンバーで吹き込んだ同曲なのである(ほかの曲もそういう経緯)。だから、このアルバムは、「ジャイアント・ステップス」が完成するにいたるドキュメントとでもいうべき録音を集めたものであって、そういう意味では非常に興味深い。だって「ジャイアント・ステップス」も「ネイマ」も「ライク・ソニー」も、ピアノがシダー・ウォルトンでドラムがあのレックス・ハンフリーズですよ。これは聴きたいよね。でも、やはり(あたりまえのことだが)完成度はオリジナルテイクに劣る(だからこそ、メンバーをかえて吹き込みなおしているわけだが)。コルトレーンのソロ自体もたとえば「ジャイアント・ステップス」では同じフレーズの繰り返しが目立つなど、微妙に劣る。でも、「ライク・ソニー」はこっちのテイクのほうがいいかもなあ……とか考えるところにおもしろさがある。4曲目の「カズン・メアリー」(めっちゃええ)とB−1の「アイル・ウェイト・アンド・プレイ」(ラストのハーモニクスは、こっちは2音)はいわゆる別テイクだが、「カウントダウン」は「ジャイアント・ステップス」のあの激演の翌日の録音。つまり、次の日、もう一度録りなおしてみたが、前日のテイクにはおよばなかった、ということか……と思って聴いてみたら、うーん、あれはあれで凄いけど、こっちはこっちで凄いですっ。いやー、まるで(絶頂期の)グロスマンだ。なぜこっちを取らなかったのか、なかなか興味深い。「ボディ・アンド・ソウル」はかなりあとの、「コルトレーン・サウンド」の別テイク。ちょっと統一感には欠けるかも。ラストの「シーダズ・ソング・フルート」も、オリジナルテイクの翌日の演奏である。たぶこのあたりの曲はいくらでもテイクが残っているはずで、クロノジカルに発表してほしいと思うのは私だけではあるまい。

「COLTRANE TIME」(UNITED ARTISTS LAX3121)
JOHN COLTRANE

 もとはセシル・テイラーのリーダーアルバムで「ハード・ドライヴィング・ジャズ」というタイトルだったものを、名義をかえて再発したもの。非常に評判が悪いが、コルトレーンに関しては快調そのもの。セシル・テイラーのソロもモンク的なものを一歩進めた感じで立派である。ただし、そのふたりがうまく噛みあっていない感じは否めない。これは、失敗、というより、期待が大きすぎるゆえの失望感なのではないか。原田和典の「コルトレーンを聴け」(いろいろと反論というか承服できない箇所もあるが、立派な労作だと思います)には、本作について、唯一の救いはドーハムみたいなことが書いてあるが、コルトレーンのソロ部分もテイラーのソロ部分もそれなりに(当時としては)新しい感覚に満ちているのに、ドーハムの妙にうまくて歌心あふれるハードバッピッシュなソロが古くさいセッションに全体を引き戻しているようで、私は好きではない。ドーハムがもしおらず、コルトレーンのワンホーンだったらどうなっていただろうか。うーん……かわらんかもな。

「LUSH LIFE」(PRESTIGE PR7581)
JOHN COLTRANE

 いやー、めちゃめちゃ好きですね、このアルバム。プレスティッジでの大量な吹き込みのなかからベストスリーを選べといわれたら、本作と「セッティン・ザ・ペース」「トレーニング・イン」でしょう。その心は? つまり、ワンホーン。プレスティッジのコルトレーンは、変なラッパが入っているのがいやなのだ。だからこうしてワンホーンで聴けるのはうれしい(本作にもドナルド・バードが一曲だけ入ってるが、まあ、一曲だけだし)。しかも、本作は2曲をのぞいて、ピアノもいない、ピアノレストリオなのだ。録音のせいか、くすんだように蒼いイラストのジャケットの雰囲気そのままの音で、コルトレーンの音も同時期のプレスティッジ作品よりもよく聞こえるのはピアノがいないせいだろうか。うちにあるのは偽ステ盤なのだが、それでもいい音だと思える。きっとモノラル盤はもっといい音なのだろうな。選曲もすばらしく、「ライク・サムワン・イン・ラヴ」「アイ・ラヴ・ユー」「アイ・ヒア・ア・ラプソディ」など、アマチュアテナーマンの必須曲が目白押し。それに「トレーンズ・スロ・ブルース」(スロウブルースじゃなくてスロブルースというのがずっと疑問なのだがどういう意味なんでしょう。ミディアムテンポだし)やタイトル曲「ラッシュ・ライフ」など、どれもええ曲ばっか。冒頭の「ライク……」でいきなり無伴奏のイントロからはじまるあたりもかっこいいし、バラードとミディアムの中間のようなゆったりしたテンポも、コルトレーンが語りかけてくれているようでいい。初リーダー作「コルトレーン」をプレスティッジに吹き込んですぐあとの時期なのに、この成熟度はなんだ(といっても「ブルー・トレイン」の直前なのであたりまえか)。この一曲目のソロを聴いたら、当時のリスナーは誰でも「こいつはすげーっ」と思ったはずだ。このスカスカの自由な感じは、やっぱりピアノレスであるところから来ているのだろうな。最後の最後の最後の晩年までグループからピアノを欠かせることはなかったコルトレーン(たとえそれがアリスでも)だが、ピアノレスというスタイルをどうして彼が好まなかったのか、どうしてもわからない。だから、このアルバムでの3曲は珠玉なのである(2曲目の「アイ・ラヴ・ユー」のソロも絶品。テーマの吹き方もめっちゃ好き。3曲目のブルースも、ピアノレスであることがブルース臭を消していてよい)。ああ、あとの2曲もレッド・ガーランドが入ってなかったら、このアルバム、統一感のとれたコンセプトの名盤となったろうに(このままでも十分名盤ですが)。B面にうつって、いきなりピアノが入って、途中からトランペットが聴こえ、ふつーのハードバップがはじまってかえってびっくりする(でもこの演奏「ラッシュ・ライフ」は名演だよなあ。ドナルド・バードはテーマを吹かず、ソロだけのために出てくるだけなので、申しわけないが休んでてほしかった)。

「STARDUST」(PRESTIGE7268)
JOHN COLTRANE

 偽ステ盤。買った記憶がないので、誰かにもらったのだろう。いちばん関心のないころのコルトレーン。あの「スターダスト」をコルトレーンがどう料理しているだろう、というような興味で聴いたら失敗する。ただたんにプレスティッジのお手軽セッションの素材として演奏しているだけだ。タイトル曲のテーマの吹き方、あの「スターダスト」を……という意気込みはさらさらなく、異常なほどにそっけない。二曲に入っているウィルバー・ハーデンのトラペットは可もなく不可もないし、単にソロイストとして出てくるだけなので、いないほうがよかった(ハバードも)。B−1なんか、なぜテーマを吹いていないのか不思議。全体にぬるーい感じの演奏ばかりで、寄せ集めバラード集というコンセプト(?)がそもそもあかんのである。バラードを素材にソローテンポで、しかも管楽器を二人以上フィーチュアして、長尺の演奏をして、それも一曲ならまだしも、アルバム一枚それで……となるとダレるのは必至(B−1はミディアム・テンポでそれが救い。ジャズ喫茶だったら、たぶんB面をかけるだろう。でもウィルバー・ハーデンがなあ。こいつはせめて「気合い」とかないのか? 途中、じっーと考え込んだりして、うー、苛々する)。たとえコルトレーンがリーダーであってもだ。たしかにコルトレーンのテーマ提示はすばらしい。二曲目の「タイム・アフター・タイム」で高音部でのメロディーラインなど、あの「バラード」とクリソツで、しかもこの曲だけがワンホーンなので、ソロもダレず、一曲まるまる緊張感をもって終わる。だが、ねかがあかんわ。全編ワンホーンだったら名盤が生まれていたかもしれないが、こういうところがプレスティッジは雑だ。ジャズ喫茶でたまーにかかったら、そうそう、こんなアルバムもあったよね、という感じで聞き入るかもしれないが、家でかけることはまずないわ。やはり何度聴いても、コルトレーン自身のソロはたしかに立派だが、全体に一丁あがり的な気楽すぎるいいかげんなセッションで、それで「よし」とするには商品としての瑕疵が多すぎる。

「STANDARD COLTRANE」(PRESTIGE PR7243)
JOHN COLTRANE

 これも買った覚えがないので、もらいものだろう。「スターダスト」のうちの半分と同じ日の吹き込み。このアルバムは全編同じ日の吹き込みで統一されているから、そういう点では統一感はある。しかし、ウィルバー・ハーデンの覇気のないラッパがいらんがな。とにかく、トランペットを、テーマも吹かない、単なるソリストとしてだけ呼んでくるというのは、なにか意味があるのか。しかも、さしてたいしたソリストでもないのに(八分音符で、とにかくきっちり吹くひとだ)。本作もバラードではじまるダルい感じの印象のアルバムで、普通は軽快なテンポか迫力のあるアップテンポもので開幕すべきアルバムをあえてバラードではじめるというのはよほどその演奏に自信があるということか、と我々は思うわけだが、プレスティッジはそんなことを考えてもいないだろう。一曲目の「ドント・テイク・ユア・ラヴ・フロム・ミー」(全然知らん曲。スタンダードというぐらいだから有名なのか? 英文ライナー中でもタイトル誤記してあるし)もコルトレーンの長いソロも、なんだかやる気がない(といったら悪いけど、途中でテンションあがらずに投げた、というか)感じだし、つづくウィルバー・ハーデンのラッパも歌心も気合いもなく、考え考え吹いているようなソロである。ほかの曲も、似たような展開が多く、「アイル・ゲット・バイ」と「スプリング・イズ・ヒア」(この曲だけはユニゾンでトランペットもテーマを吹いている)はミディアムテンポなのだが、これがまた(コルトレーンも含めて)ダルい。ほんま、ただの「セッション」だが、それを考えると、マイルスのマラソンセッションというのは偉大だよなあ。このアルバムに意味があるとしたら、後年、ジャズテナー吹きの必修項目となった「インヴィテイション」が(たぶん)はじめてテナーサックスのアルバムで取り上げられた、というだけが「意味」なのだ。しかし、コルトレーンはこの曲をバラードとしてとりあげていて、テナー奏者たちが多くとりあげるミディアムナンバーとしての解釈とはぜんぜんちがうけど。でも、めっちゃかっこええ。このリリシズムを見よ。結局このアルバムは「インヴィテイション」一曲のために存在するアルバムだろうね。もし、この当時、プレスティッジからこのアルバムのライナーを頼まれたら、めちゃめちゃ困っただろうな、というようなことを空想したりした(英文ライナーを読むと、執筆者も苦労している感がある)。あー、こういうアルバムがいちばんしんどい。総じてB面のほうがいいので、ジャズ喫茶ではそちらをリクエストするべし。え? CD時代でそんなの関係ねえって? ごもっとも。

「BLUE TRAIN」(BLUE NOTE BLP1577)
JOHN COLTRANE

 正直いうとあまり好きな時期ではないはずだが、なぜかこのアルバムでのコルトレーンは凄い。曲もソロも、数年後の彼を思わせる成熟ぶりである。やはりプレスティッジという安直なレーベルではコルトレーンのこの時点での真価は発揮できなかったということか。青い、というより蒼いジャケットといい、充実したメンバーといい、3管のアレンジの適度な軽さと重さといい、コルトレーン自身の完璧なソロといい、本当に言うことがない名盤である。コルトレーン自身の音色も、プレスティッジの同時期のアルバムに比べても太く、存在感があるように録音されており、これはブルーノートならではのサウンドということだろうか。リー・モーガンもカーティス・フラーもさほど好きではないのだが(とくにフラーはもっちゃりしていて、前ノリで、どうしても好きになれない)、このアルバムでの彼らは最高である。コルトレーンと共演するとそういうことがある。一種の魔力であろう。ファラオ・サンダースなどはその魔力にかかったまま、今にいたっているひとりであって、コルトレーンとともにいる彼は輝いているが、ひとりになったとき、外からの輝きだけでは光れないことを思い知ったはずである。一曲目の「ブルー・トレイン」は、なんのこともないただのブルースだが、それがなぜかぞくぞくするほどかっこいい曲にしあがっている。コルトレーンのソロは、いわゆるシーツ・オブ・サウンド的な細かいフレーズを吹きまくるタイプのものだが、「ソウルトレーン」などに比べても、こっちのほうが音が粒だって聞こえ、すんなり納得がいく。二曲目の「モーメンツ・ノーティス」こそが、一見、ハードバップのファンキーナンバーだが、じつは「ステイブルメイツ」や「リコーダ・ミー」などと同様の微妙にダイアトニックではないコード進行を持った難曲で、それを絶妙のアレンジで、いかにもファンキーな感じに見せかけている。ごきあたりのコルトレーンの音楽的成熟というのはたいへんなものである。ほかの「ロコモーション」(サビつきブルース)、「アイム・オールド・ファッション」(唯一のバラード)、「レイジー・バード」(ラッパが先導するメロディー。じつにかっこいいっす。この曲のフラーのソロはすばらしい。コルトレーンのソロは自信に満ちている)などの曲も言うことなし(だから、B面も聴こう!)。誰にでも推薦できる名盤というのはこういうものをいうのでしょう。パッと聴くだけでかっこいいのだが、じつは聴けば聴くほど深い音楽性を備えている。難解な部分もさらりと聴かせ、しかもパッションもある。アレンジがすばらしいうえ、奔放なソロを殺していない。なにからなにまで「いたれりつくせり」の作品。傑作です。

「THE INNER MAN」(VEE JAY UXP88−JY)
JOHN COLTRANE FEATURING ERIC DOLPHY

 バードランドでのエアチェックをおさめた海賊盤だそうだが、うちにあるのはヴィー・ジェイ盤なので海賊盤と言い切るのはどうなんだろう。アフィニティからもでているらしいがよく知らん。また、全4曲中、「ボディ・アンド・ソウル」をのぞく3曲は「ライヴ・アット・バードランド1962」(チャーリー)に収録されているのだが、それが7枚組「ライヴ・トレイン」にドイツでのノーマン・グランツ・コンサートでの未発表演奏として収録されているのはよくわからん(聴きくらべてみたが、たしかに同じ演奏である)。「ボディ・アンド・ソウル」はアルトの「インパッションド・テナー・マン」に収められているのと同一らしいが、まあディスコグラフィックなことはどうでもいい。この音質の悪いアルバム最大の聞きものはB面のドルフィーであって、ドルフィーの凄さを聴くべきドキュメントだろう。ヴィッレッジ・ヴァンガードの正規盤2枚ではうかがえなかった当時のコルトレーンクインテットにおけるドルフィーの凄まじい演奏を、このアルバムはしのぶことができる貴重なものだった。今となっては、ヴィレッジ・ヴァンガードでの4枚組コンプリートボックスが出ているので、ドルフィーの評価を誤ることもないだろうが、当時は、ドルフィーはコルトレーンカルテットではいまいち……みたいな感じだったのだ。「インプレッションズ」と「ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」しか出ていないころはたしかにそう思われてもしかたないが、今ではドルフィーがコルトレーングループを食い破らんばかりの圧倒的なパフォーマンスを繰り広げていたことは誰もがわかっていることである(はず)。とはいえ、だからといって本作の評価が下がるということはない。ここでのドルフィーは、ヴィレッジ・ヴァンガードや欧州での演奏を凌駕するような勢いのあるぶっ飛んだソロを展開していてすごい。とくに「ミスター・PC」のドルフィーはすごすぎる。最後にコルトレーンがでてきて激烈なソロを展開するが、どう聴いても、ドルフィーのソロによって奪われた演奏の主導権を必死で取り返そうとする感じに聴こえる。やはり、ジャズというのはアル・アンド・ズートのような「協調」よりも、こういった「せめぎ合い」に手に汗握ってしまう私です。つづく「マイルス・モード」(この曲は「ヴィレッジ・ヴァンガード」でもたびたび見せ場を作ってくれた)のコルトレーンの先発ソロとそれに応えるエルヴィンの「店を叩き壊す」ようなドラミングも凄まじいが、そのあとに出てくるドルフィーの、コルトレーンのソロをまったく引き継がない、自分の世界も凄まじい。この演奏をもし目の前で観ていたなら、たぶん失禁していたか、気絶していただろう。マッコイ、ギャリソンもよく(こういうマッコイを聴くと、アリス・コルトレーンがいかに役不足かわかってしまう)、コルトレーン・ファンならずともみんな聴くべき作品。ドルフィーが活躍しないA面も悪くないが(とくに「ボディ・アンド・ソウル」)、やはりB面を聴くべきアルバムでしょう。

「LIVE IN PARIS PART−2」(BYG RECORDS YX−2027)
JOHN COLTRANE

 うちにあるのは東宝レコードから出ているやつで、A面からB面にまたがって「ブルー・ヴァルス」という曲が入っており、あと「インプレッションズ」も収録されているのだが、邦文ライナーによると録音日は1962年10月となっている。「ブルー・ヴァルス」はようするに「アセンション」なので、おそらくこの録音日はまちがいで、たぶん65年頃だろう。ディスコグラフィックな最近の研究についてさっぱり知識がないので、私が知らないだけでたぶんとっくに決着がついていると思われる問題だ。演奏内容も、あきらかに62年のものではなく、非常にアグレッシヴなこの感じは、たぶんアンティーヴでのライヴ(「ブルー・ヴァルス」も演奏している)などと同じ時期のものだろう。いやはや、テーマが終わったあとのエルヴィンのドラムのどつき方(叩き方とはいえない)を聴くだけで、このライヴのテンションの高さがわかる。マッコイのソロはソロの冒頭、いきなりクライマックスを迎え、このあといったいどうなるのか、と思わせる凄まじいもので、それに応えるエルヴィンもキチガイじみたシンバルの連打。いやー、よろしゅおますなあ。マッコイのソロは、最高潮に達したところでギャリソンのベースソロがはじまる。いつもの、スパニッシュギター風のロングソロだ。アルコもまじえて、ひとりで場をさらう。A面のラストまで延々と続くベースソロに、たしかにええけど、そろそろどないかならんか、と客が思ったあたりでやっとドラムが入り、登場するコルトレーンはまさに仁王だ。これまたマッコイ同様、冒頭でいきなり絶頂に達して、そのあとはもうむちゃくちゃ。音楽の法悦、演奏の極楽。カルテットではあるが、実際問題としてエルヴィンとコルトレーンのデュオに等しい。「インプレッションズ」もマッコイ、コルトレーンどちらも凄まじく、最後のエルヴィンとのデュオになるあたりは、「ただごとでない」という感じさえする。たぶんこのときのライヴを生で観ていたら、失禁しているか失神しているか……というのはまえにもどこかで書いたフレーズだが、ぜったいそうなるって。もし、タイムマシンがあったら、この時期のコルトレーンカルテットのライヴに行ってみたい……そんなことを夢想させる傑作。ただし邦文ライナーはクズ。

「LAST PERFORMANCE AT NEW PORT」(FREE FACTORY 063)
JOHN COLTRANE

来日直前のニューポートジャズフェスでの演奏だが、内容は凄まじく、一曲目「マイ・フェイヴァリット・シングス」、コルトレーンがほんとにちょろっとソプラノでテーマを奏でたあと、間髪をいれずに登場して、いきなりギャーギャーガーガーと暴れたおすファラオ・サンダースにはしびれまくり。いやはやほんまにすごい。3曲目「レオ」でのファラオの雄叫びもすごすぎる。録音はかなり悪いが、その録音の悪さを突き抜けるようにして轟く絶叫は、もう感動もの。この曲はコルトレーンのソロも壮絶で、涙なみだ。いやー、このころのファラオのソロを聴くと、もっと練習してもっとギャーギャーいえるようにならねば、と思いますなあ。ちなみに、今日も昼間、いろいろフリークトーンの新技を試してみました。そういうことって、「サックス・アンド・ブラス・マガジン」とかには載っていないんだよなあ……。というわけで、もう一度最初っから全部聴く。いやー、やっぱりいい。ファラオはいい。

「STELLAR REGIONS」(IMPULSE IMPD−169)
JOHN COLTRANE

あまりにかっこいいジャケット。なぜこれがCDなのだ。LPサイズならもっともっとこのかっこよさが伝わったろうに……CDというものはしょうもないもんですなあ。でも、最近はi−podでジャケットをダウンロードとかしたら、もっと小さなサイズで見なければならないわけで、ほとんど今やジャケットの良さとかを味わうことは不可能である。CDはいらない、ネットで音楽は全部ダウンロードできるから、と言ったやつらにはジャケットの良さなんて必要ないんでしょうね。まあ、そんなごたくは、本作の内容のあまりの凄さのまえには消し飛んでしまうようなしょうもない話題である。本作は、なんで未発表だったのかまったくわからない、めちゃめちゃすごい内容で、うーん……「エクスプレッション」よりええんとちゃうの? と思ってしまうほどの、シリアスかつ過激かつかっこいい演奏である。後期コルトレーンに関しては、ファラオ・サンダース目当てで聴いているような私ですら、本作にもしファラオがいたら台無しやんけ、と思いますです、はい。このころのコルトレーンは、中音域から低音部へ降りてくるようなパッセージのときの低音の吹きかたが死ぬほどかっこよくて、もうしびれまくる。もう、この「中音域から低音」に降りるフレーズを聴いてるだけでも、「あー、ぎゃーっ」と叫びたくなるほどのすばらしさなのだ。晩年のコルトレーンに精神性とか神秘性を求めるのは勝手だし、そういうことへの反発からか、晩年のコルトレーンはダメだ、とか、わからん、とか、むずかしすぎる、とか、音楽に宗教を持ち込むな、とか、音を楽しむのが音楽でしょう、とかいろいろいわれのない批判を(とくに昨今)浴びているようだが、コルトレーンのテナーの音を純粋にフォローしてきたファンにとっては、とくに晩年の演奏こそがコルトレーンの真骨頂ともいうべき、リアルで剥き出しのテナーのサウンドが満喫できて、最高なのである。本作は「エルヴィンがいないとダメだよ。ラシッド・アリなんか最低」とか「アリス・コルトレーンのピアノは全然ダメ」みたいに言うやつらに対してのストレートパンチになるだろう。正直、このかっこよさはただごとではないと思うよ。

「AT TEMPLE UNIVERSITY 1966」(FREE FACTORY 068)
JOHN COLTRANE

 海賊盤としてはリリースされていたが、今回は正規盤らしい。最初で最後の日本ツアーから帰国したコルトレーン5の演奏をとらえたライヴ。冒頭、あまりにリアルなコルトレーンのテナーの音が響きわたり、おおっ、これはすごい! と感激していたら、しばらくしてマイクの向きなのか、うしろに下がってしまって残念。海賊盤との音質のちがいもたしかめられないが、演奏は完璧に近く、音質もじゅうぶん満足がいく。この時期のコルトレーンの演奏はどれも貴重だ。何度も書いたが、私にとってはアセンション以降のフリー期のコルトレーンこそがもっとも「ぴったりくる」コルトレーンなのだ。本作でも、「ネイマ」を朗々と歌うコルトレーンのどこが「難解」なのかさっぱりわからない。ファラオ・サンダースの咆哮も、プリミティヴでストレートな熱情が伝わってくる。ラシッド・アリも悪くない。自分の好みではないから、とか、自分が理解できないから、という理由でその音楽をおとしめるようなことを言うのはやめてほしい(そんなことは30年もまえに議論が終わっているのかとおもっていたが、いまだに巷にあふれているのはどういうこっちゃ)。一番嫌な言葉は「フリーに走った」というやつで、そうですかフリーというのは走るもんですか。じゃあバップは歩くのか。なんというか、音楽を先入観で聞かずに耳で聴いてほしいです。そのうえで自分の好みでなければ、「好みではない」といえばいいし、自分の理解を超えていると思えば「私はアホやからわからない」と認めればよい。どうして、わからんものを「ダメ」と決めつけるのかなあ。音楽にかぎらず、小説でも映画でも演劇でも絵画でも彫刻でも舞踏でも、自分がわからんものは、相手が悪いのではなく自分が悪いのでは、と謙虚に思い、わかろうとする努力をすべきでは? そうしたうえで、やっぱり好みでなかったとわかったとしても、その経験は得難いもののはずだ。わからんものをわかろうとする努力なんかしている暇はない、だれにでもすぐにわかるようにすべきであって、そうでないのは送り手側の怠慢でしょう、というならば、そういうひとは自分の範囲のものだけ聞いたり見たりして無難に一生を送ればいい。自分がわからん、嫌いだ、というその対象物を、ちゃんとわかって楽しんでいる多くのひとがいる、という事実を考えれば、いきなり「こんなものはダメ」という発言にはならないはずなのに……。少なくともここに収められている演奏は、私には、世俗の憂さとか仕事や人間関係のストレスとか暗いニュース、アホな政治、不景気その他のウザいよしなしごとをすべて忘れさせてくれる痛快な音楽である。

「THE UNISSUED GERMAN CONCERTS」(RLR RECORDINGS RLR 88659)
JOHN COLTRANE QUINTET WITH ERIC DOLPHY

コルトレーンの未発表もの(とくにドルフィーが入ってるもの)については「もうええわ」という感じだった。コルトレーンとドルフィーはそれぞれがあまりに偉大であまりに個性的なので、どちらかに照準を合わせて聴かざるをえないわけで、そんなふたりが合わないのはわかっているし、既発盤はコルトレーンに重点を置いた編集がなされ、その後の完全版とか未発表テイクではドルフィーの凄さが際立ってしまい、逆にコルトレーンの良さが覆い隠される結果になったりする。いずれにしても、いずれのファンにとってもええことはない。だから、コルトレーン〜ドルフィーというと、まあ聴かんでもええんちゃう? 的な気持ちになり、本作もまったく聴くつもりはなかったのだが、あまりに知り合いがたくさん「これは聴かないと」と言うので買ったのである。買って正解。すごい! とくに最初の2曲「インプレッションズ」と「マイ・フェイヴァリット・シングス」におけるコルトレーンの取り憑かれたようなブロウは鬼気せまる。こういうのを聴くと、60年代のジャズというものがいかに洪水のように凄まじいエネルギーとパワーをもってわき目もふらず一心不乱に突き進んでいたかがわかるし、それを受けた70年代のミュージシャンは、なんとかそれを自分なりに受け継ごうと必死になっていたかがわかる。「時代だね」とか「いまどきの音楽じゃないね」などといわずに、虚心に耳を傾ければ、正直言って「ひれ伏すしかない」ようなこういう演奏に対して、立ち向かわねばならなかった70年代以降のジャズの右往左往がにわかに浮き彫りになるような気がする。それは、尊い右往左往なのだ。

「LIVE IN ANTIBES,1965」(ESOLDUN FCD119)
JOHN COLTRANE

 大学を卒業してしばらくしたころに出た一連の海賊盤のシリーズだと思う。アンティーブでのライヴばかりなのだが、なかでもこのコルトレーンのものとカークのものが飛び抜けていた記憶がある。まず、演奏がずば抜けていいうえに音質もいい(ときどきノイズが入ったり聴きづらくなったりするが、この手のものとしては最高の音質といっていい)。なにしろ、時期的には黄金のカルテットとしては最後期、というかほとんど解散直前であって、すでに「アセンション」のあとなのでコルトレーンは半分フリーに突入、それにあおれてエルヴィンも好き放題。もちろんマッコイもギャリソンも凄まじく、全員がずっと自分のソロをしているような、ある意味バラバラのようで、なぜか一体感のある演奏なのだ。まず一曲目がいきなり「ネイマ」というのがすごい。バラードだが、このカルテットのこのときの状態なら、バラードもアップテンポも関係ない。曲順とかどうでもいい。どんなモチーフでも圧倒的にエキサイティングな演奏にしたてあげるだろう。なにしろ前日、この場所で行った演奏は「ライヴ盤至上の愛全曲」なのである。これもフリー的至上の愛ともいうべきすごい演奏だ。本作でも「ブルー・ヴァルス」という曲はようするに「アセンション」と同じテーマである。そのラストのフリーなドラムソロのあと「マイフェイヴァリットシングス」に突入。延々とつづくソプラノの痙攣するようなソロは吹き荒れる砂嵐のようなすごさ。最後にメジャーに転調したらふつうはそのあとテーマに入るのだが、ここを延々ひっぱるというのがコルトレーン4の皆さんおなじみの展開である。しかし、本盤ではこの部分だけでなんと7分ぐらいある。つまりは絶好調ということだろう。ドラムとピアノのバッキングのすばらしさは筆舌につくしがたい。これは、もはや「フリー」だなあ。このときの演奏は最近、DVDも出たが、それを見たら小便ちびる。「インプレッションズ」はベースが主導権を握った感じのトリオではじまるが、ここがめちゃめちゃかっこいいんです。マッコイのピアノが疾走し、これでもかというぐらいに弾きたおすのだが、そのバックでのギャリソンのベースラインは自由奔放だ。このトリオの凄まじさは、「もうコルトレーン出てこんでもええんちゃう」と思ってしまうぐらいで、屋上屋を架すという言葉があるが、毎コーラスがそんな具合で、これでもう頂点までのぼっただろうと思っているとそのつぎのコーラスはそのうえを行く……という具合で、とにかく聴いていて身がよじれ、しんどいことこのうえない。そして、吹きすさぶようなパッションとパワーの嵐のなか、異常なまでに盛りあがったトリオに対して、コルトレーンは8分半ほどしたあたりで、「割って入る」感じでグイッと入ってくる。あとは一気に階段をかけあがる。なにしろ、バンドのポテンシャルは最高潮、客席もおそらく超盛り上がっているなかに登場するわけだから、起承転結の「起」も「承」もいらん。いきなりクライマックスじゃあっ、というわけで、テナーの怒濤の奔流が吹きすさぶ。いやー、これはすごいですねえ。4人全員が阿修羅のごとき演奏である。この集中力と情熱と破壊力はただごとではない。11分半ほどしたあたりでコルトレーンが替え指のフレーズを吹きはじめ、それをプッシュするエルヴィンの凄まじさ。そこから一転してドライヴ感のある展開に抜け出していくあたりのかっこよさをなんと表現すればいいのか。おそらくこのカルテットで到達しえた最高にして至福の状態であろう。ちょえーっ、かっちょええーっ! こういうのを聴くために私はジャズファンなどをやっておるのだ。ラスト、エルヴィンとコルトレーンのデュオになって、むちゃくちゃになっていくあたりはジャズ美にあふれている。そこから、唐突に線香花火が落ちるような呆気なさでこのえげつない16分の演奏は終わるのだ。最後は「アフロ・ブルー」。「マイ・ファイヴァリット・シングス」をやりたおしたあと、1曲挟んで同趣向のこの曲を持ってくるというのはどういうことかなあ、と思ったが、たぶんアンコールなのだろうな。でも、こうして続けて聴いてみると、ざっくり言ってしまうと「マイ・フェイヴァリット……」はインド風、「アフロ・ブルー」はその名のとおりアフロなのでまったく印象がちがう。それにしてもこういう3拍子ではエルヴィンの神技が炸裂しまくるなあ。感動感動。では、間髪を入れず前日の「至上の愛」ライヴバージョンをさっそく聴いてみましょう……。

「THE UNSISSUED SEATTLE BROADCAST」(RLR RECORDS RLR88664)
JOHN COLTRANE

音は悪いです。それは最初に言っておきたい。でも、この手のブートとしては、かなりいいほうだと思う。なんといっても、私は「コルトレーングループにおけるファラオ」それを聴きたいだけなのでありまして、本作はそれが聴ける貴重で大事なアルバムなのだ。要するに、インパルスから出ている正規盤「ライヴ・イン・シアトル」(フーチュアリング・ファラオ・サンダース)と同じときの演奏のうち、正規盤に収録されていない曲を集めたものである。音質は、まあ、想像力でおぎなえばいいのだが、全体にファラオの出番が少なく、出てきてもあまり爆発しないで終わってしまうのが若干不満。コルトレーンはさすがにすごいからいいか。1曲目のイントロ、3人のホーンによる部分、ドナルド・ギャレットのバスクラがめちゃめちゃ利いてて、かっこいい。ソプラノサックスかと思ってると、じつはバスクラなのだ。まったく低音に降りてこない異常なバスクラ。蛇がのたうつようにぐねぐねぐねぐねと暴れまくっている。ただしカタルシスがない、かなりラフなプレイなので、たぶん当時の聴衆は「は?」と思ったかも。つづいてファラオが、なんだか遠慮ぎみに出てくるが、だんだんぐじゃぐじゃになるあたりがいいのだが、今ひとつ尻すぼみで短く終わる。これって、もっといい音質で聴いたら、ガンガン吹いてる感じなのかな。正規盤の「ライヴ・イン・シアトル」もじつは音質が全体にもやっとしていまひとつなので、評価が低いのかもしれない。そしてコルトレーンが登場。やっぱりコルトレーンの音はちゃんと通ってるが、マイクの問題なのか、サックス奏者としての楽器コントロールの問題なのか。このコルトレーンのソロはあいかわらず壮絶で最高です。とにかくひたすら吹いて吹いて吹きまくる。へとへとになるが、たぶんその場にいわあせた客は時間をほとんど感じなかっただろう。それぐらいえげつなく、すごい演奏だ。ソロの前半はテナーをリズム楽器のように使って実験的なブロウ、そして後半はモーダルなラインを吹き倒す。すげーっ。後期コルトレーンがダメというひとの気持ちがさっぱりわからん。マッコイが出てくると、さすがに「アセンション」以前の雰囲気が濃厚になり、一気に聴きやすくなる。延々と弾きまくったあと、ギャリソンとドナルド・ギャレットのベースデュオ(アルコと指弾き)になり、そのまま唐突に終わる(長すぎて切られた感じ)。2曲目「アフロ・ブルー」は、これまた管楽器たちの咆哮ではじまる。そこから抜け出した感じでコルトレーンの凄まじいテナーソロになる(ほかの管楽器も後ろで吹いている。だれかがヨーデルみたいに叫んだり、フリークトーンがかぶさってきたりして混沌としているが、コルトレーンは真っ直ぐにブロウしている。ただ、音質が悪くて全部は聞き取れない)。そのあとピアノソロなのかなんなのかよくわからない感じになり、おや? 一旦終了かな、と思うような感じのまま長い長いドラムソロに行き、そこにコルトレーンのソプラノが「アフロ・ブルー」のテーマで入ってくる。そこからは、いわゆるいつものおなじみの「アフロ・ブルー」的演奏になるのか、と思いきや、なんとそのまま終わってしまう。なんじゃこりゃ。これは長い「アフロ・ブルー」の途中からラストに至る展開なのか、それとも、前半は別の曲で、そのあとテーマだけやって終わったのか……まあ、どうでもいいけど。3曲目に「ラッシュライフ」が入っていて、ここだけ昔のコルトレーンに戻って、完璧に美しいバラードを吹いてくれるのもまた楽しいです。エルヴィンのドラムのバッキングも力強く、もし正規録音されていて音質がよかったら、この時期の超名演と呼ばれていたかもしれないほどの圧倒的な演奏……と思っていたら、途中からファラオが登場して、フラッタータンギングのソロでバラードの品格をめちゃくちゃにする。さすがだ、いいぞファラオ! ファラオファンはみんな、この演奏で溜飲を下げましょうぜ。シアトルの聴衆はさぞかしびっくりしたり、腹を立てたりしたことでしょう。うーん、もっと音質がよかったらなあ。この時期のファラオのバラードのベストプレイかもしれなかったのに。ラストは「マイ・フェイヴァリット・シングス」で、これだけ「インコンプリート」の表記があるが、いやいや、「ラッシュライフ」以外全部そうだって。エルヴィンのドラムは神技。手慣れたルーティーンだと思うかもしれないが、コルトレーンのソプラノソロはやっぱりすごいです。なんというか「自在」な感じ。つづいてピアノソロが延々と続き、そのまま終わる。このあとどうなったのかなー。

「SUN SHIP:THE COMPLETE SESSION」(IMPULSE! B0018075−02)
JOHN COLTRANE

 いやー、よく出してくれたなあ。なんで今頃こんなものが出るのかよくわからんが、とにかくうれしい。コルトレーンがマッコイ、ギャリソン、エルヴィンという黄金のカルテットを率いていた最後のスタジオ録音である「サン・シップ」の、コンプリート盤である。「サン・シップ」自体が、コルトレーンが死んだあとに発売されたアルバムであって、それのコンプリート盤を今になって出すというのは不思議といえば不思議。別テイクとスタジオ内のトークなども加えてある。テーマだけとか、途中でやめたようなテイクも入っているので、一見マニア向けっぽいが、そんなことはない。はじめて聴く「サン・シップ」がこの2枚組でもぜんぜん大丈夫。テーマを吹くだけでも、コルトレーンの雄大な音の立ち上がり、神秘性、精神性、それをバックアップするトリオの凄さ……などがひしひしと伝わってくるので、すごく楽しい。このアルバムは正直、あまりにそういうストイックさが凄すぎて、しかも、「トランジション」みたいな、モードの極限でえげつなくかっちょいい、というわけでもなく、かといってフリーに突入してむちゃくちゃやってまっせ、というわけでもなく(タイトル曲の本テイクはちょっとそういうところあるけど)、後期(?)コルトレーン作品としてはそれほど人気はないのかもしれない(これは憶測なので、だれかにきいたり調べたりしたわけではない)が、私はめちゃめちゃ好きなのです。1枚目は「ヴィレッジ・ヴァンガード」の「スピリチュアル」や「インディア」あたりをガーッと押し進めたような路線と申しましょうか。聴いていると、背筋が伸びるっちゅうやつですね。なかでもタイトル曲の「サン・シップ」(この曲だけ、アップテンポで過激)は昔から大々々々好きで、聴くと(古い表現ですが)「きゃーっ、しびれるーっ」という状態になる(オルタネイトテイクのコルトレーンのソロとエルヴィンのバッキングも最高やんけ!)。2枚目の、延々とベースソロが続く「アセント」や、どこがアーメンやねんと言いたくなるような「アーメン」もコルトレーンの凄まじいソロが聴けるし、リズムセクションの煽りも最高であります。別テイクも、本テイクと遜色ないし、内容もまるでちがっているので、聴くしかない。「サン・シップ」のアルバム自体については、このうえのほうに感想があるはずなので、そちらを参照してください。でも、こういうこと、マイルスばっかりじゃなくて、コルトレーンとかドルフィーについてもどんどんやってほしいなあ。ほんまはなんぼでもできるんちゃうの? コンプリート・トランジションとかコンプリート・オムとか。ぜひお願いしますインパルスのえらいひと。

「OFFERING:LIVE AT TEMPLE UNIVERSITY」(IMPULSE B0019632−02)
JOHN COLTRANE

 これが正規盤ということは、フリーファクトリーのやつも海賊盤だったのか。とにかく今回はオリジナルマスター(?)からの音源だというが、大学でのコンサートを放送するためにそこの放送部の学生がテープを回したというだけなので、ちゃんとしたレーベルのエンジニアがいて、ライヴレコーディングをしていたというわけではない(「レオ」は最後がいきなり切れて終わるし)。しかし、録音はそこそこよくて、フリーファクトリーのものよりは聴きやすい(バランスは悪いが、とにかくテナーはすごくよく聴こえる)。ライナーによると、途中でコルトレーンが歌っているというのが「一番大切なこと」らしいが、私にはコルトレーンがラバーのマウスピースを吹いているということのほうが驚きだった。プロがひとりと学生かひとり、計2名の部外者が飛び入り参加するが、どちらも「なんじゃこれ」という感じで、ドキュメントとしては面白いがそれ以上のものではない。また、まだ未成年だったマイケル・ブレッカーも聴きに来ていたらしい。よかったねえ、マイケル、アイドルを生で聴けて。ライナーにはすごい大げさなことがいろいろ書いてあるが、とにかく「クレッセント」と「レオ」におけるファラオ・サンダースの凄まじいソロが聴けるというだけで私は天国極楽ニライカナイなのだが、いやもう最高っすね。ここで、少々場違いではあるが、私が最近心底怒っていることについて、いい機会なので書く。もう亡くなったかたなので申し訳ないとは思うが、やはりファラオについてのこういう発言は見過ごしにできないのだ。先日「アスペクト・イン・ジャズ」という本を買うと、油井正一氏がファラオについて、ぼろかすにこきおろしている。ドン・チェリーの「フェア・イズ・ブルックリン」に対する評価なのだが、ドン・チェリーのことはベタぼめである。しかし、共演者のファラオについて枚数の半分近くを費やして貶めている。長いが引用します。
「世評は反対に、ぼくはファローのよさというのが理解できないのである。初期のレコードをきくと、彼のまともなソロ・ヴォイスは、わが松本英彦にたいへん似ている。正常音域のソロは決して悪くない。いつの頃から、突如テナーの音域をはみだしたフリーク・ノートの乱発に執着するようになり、わが美観からはみ出ることになったのである。
 彼はおそらく知るまいが、その昔イリノイ・ジャケーなるテナー奏者がいた。決してわるいプレイヤーではなかったが、ファローとおなじように、音域をはみだすフリーク・ノートを連発して、それがまた結構うけたためにポシャってしまった。ファローはこれを独創的なサウンドと思っているようだが、いちどジャケーの阿呆な音をきかせてやりたい気持ちがする。ファローが日本の印象を綴った『ジャパン』は、エリントンやブルーベックに及ばぬ耳の悪さを暴露した作品だし(この判別が出来るのは、日本のファンの特権であろう)、先月出た『因果律(KARMA)』は、まるでコルトレーンの法事をやっているような、お線香くさい音楽で、こうも煮詰まってくると、「いちど天台か真言の声明を聴いてごらん。君の10倍はいいから。それでもまだこんな音楽に執着しているようなら見込みないね」と教えてやりたくなる。周囲が変に敬意を表するものだからこの人ますますおかしくなってきた。このアルバムでも彼はお得意のフリーク・ノートを連発するが、そうでない部分の方がずっといいし、ピッコロに持ち替えると、独特の風味がある。今でもまだ30歳前という若さだけに、ぼくは、彼がこのイヤな音を反省してくれる時が来ることに賭ける」
 まず、ファラオの初期は云々という部分だが、彼はコルトレーングループに加わるまえの初リーダー作でもフリークトーンをちゃんと吹いている。また、イリノイ・ジャケーはポシャってしまった云々は、ジャケーはポシャったことは死ぬまで一度もなく、「フェア・イズ・ブルックリン」が録音された66年ころはもうバリバリで傑作を吹き込んでいたはずだ。それに、ジャケーだけでなく、アーネット・コブをはじめ多くのジャズプレイヤーやビッグ・ジェイをはじめとするホンクテナーたちがこぞってフリークトーンを吹いていたわけで、ジャケーだけをここで取り上げるのはジャケーにとっては思わぬ巻き添えというべきである。そして、「ジャパン」という曲がダメというのは、異国のイメージを間違って解釈した面白さ(偉そうに書いておられるが日本人も外国に対してよくやることでもある)をまるで理解できていない。天台や真言の声明云々の部分はもっとも読むのがつらく、こんなに上から目線で忠告(?)できるほどジャズ評論家はえらいのか。ピッコロに独得の風味が……と言ってるが、ファラオのピッコロに音程がほぼない、というのはファラオファンならだいたいわかっているはず。「彼がこのイヤな音を反省してくれる時が来ることに賭ける」と書いておられるが、反省することなく我が道を突き進んだファラオはやはりえらい(あたりまえか)。私は「再評価」という言葉が好きではなく、「ボサノバを今こそ再評価すべき」とか「コンガを入れたジャズを再評価しよう」とか「フュージョンを再評価」とかいう文章を読むと、ほかにもっとええ言葉はないのかと思うのだが、ファラオに限って言えば、この偉大なフリークトーンマスターを「再評価」したクラブジャズシーンはすばらしいと思う。油井正一氏は、結局、ファラオやジャケーのようなグルーヴメーカーたちの音楽とテナーのフリークトーンのかっこよさ、みたいなものを理解できなかったのだろうな。なお、同書にはコルトレーンの「ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン」の評も載っているのだが、かなり長い枚数のなか、アリスやラシッド・アリ、ギャリソンについては言及があるのに、あれだけフィーチュアされているファラオについてはただの一言も書かれていないのだ。ひどいなあ。
 というわけで、言いたいことは言ったので、本作の感想に戻る。ラシッド・アリのロングソロは、超オーソドックスで逆に驚く。なんというか、この混沌とした、新しいものを作り出そうというマグマのようにふつふつとわき上がるひとたちが作り上げようとしている音楽のなかで、ものすごく普通すぎて浮いてるように感じるが、そのまっすぐなパワーがきっとこの演奏の原動力になっているのだろう。そして、ソロだけ聴くとそうなのだが、コルトレーンとの対決になると、にわかにアリの良さが際立つ。そのあたりの相性のよさもあるのでしょうね。
 一部で話題になっているコルトレーンの歌は、まあご愛嬌なのだが、ここで行われているフリーでスピリチュアルな演奏にはぴったりで、雰囲気をしっかり盛り上げている。
 そして肝心のコルトレーンの演奏だが、凄いとしか言いようがない。全曲凄い。海賊盤で聴いている演奏であっても、こうやって良い音で聴き直すと、その凄さが再認識できる。「オム」「メディテイションズ」「ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン」「イン・ジャパン」……といった後期コルトレーンは、全体のサウンドが混沌としていて、それがなんともいえぬヘヴィでブラックミュージックな感じがしてたまらんわけだが、コルトレーンのサックスの音がその混沌に埋没してしまって、かつてのようにサックスをガーンと味わうことはできにくかった。そのもやもやを払拭したのが「インターステラー・スペース」で、あれはデュオでありしかもラシッド・アリがあんまりドカドカ叩かないので、コルトレーの晩年の信じられないぐらい凄まじい「音」そのものを体感できるという意味ですばらしいアルバムなのだが、このライヴ盤は、バンドであっても、コルトレーンのテナーとソプラノの「音」を「インターステラー・スペース」なみに堪能できるという稀有なアルバムだ。どの曲もいいけど、なんと「オファリング」はコルトレーンの無伴奏ソロだが、途中からピアノがかすかに聞こえる。ずっと無伴奏ソロにしてくれればよかったのに。そこからソニー・ジョンソン(ギャリソンではない)のベースソロになり、そのまま「マイ・フェイヴァリット・シングス」に突入(「ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン」以来の伝統)。ピアノソロのあとに若いアルトが出てくるが、めちゃ下手です。学生のころの私を見るようです。もう、聴いていてドキドキしてくるレベル。がんばれっ……と声をかけたくなるほどで、コルトレーンのインパルスから出るライヴにこのひとが入っているというのは凄いことだ思う。ドキュメントとして、これもすごく面白い。コルトレーンのソプラノソロは、とにかく慄然とするぐらいえげつない凄まじさで、「セルフレスネス」を軽く凌駕するぐらいの感動的な演奏である。これを聴くだけでも本作の価値はあります(断言)。そのあとすぐにコルトレーンは歌い出すのだが、ライナーにはいろいろ書いてあるけど、私は一種のちょっとした遊び心(真面目に昂揚した結果としての)と思います。ファラオはこの曲でソロをしていないので、ファラオのスクリームが聴けるのは「クレッセント」と「レオ」だけということになるが、まあ飛び道具ですからね。とにかくジャズというのはこういうことがあるのでうかつなことを言ったり書いたりできないなと思った。だって、このアルバムを聴かずに、コルトレーンの晩年のことをああだこうだと書いてた評論家は、たぶんこのアルバムを聴いたら、それらの文章を全面的に書き改めたくなること間違いないからな。コルトレーンを前期後期などと分けることの馬鹿馬鹿しさを本作を聴いて感じてもらいたいです。

「BOTH DIRECTIONS AT ONCE:THE LOST ALBUM DELUXE EDITION」(IMPULSE! VERVE LEVEL GROUP UCCI9295/6)
JOHN COLTRANE

 世紀の発見だとネットニュースや新聞にまで載る騒ぎだが、たしかに内容はすばらしいと思う。録音もめちゃくちゃ良くて、とくにエルヴィンのドラムが細部まできちんと聞こえるうえ、その迫力までもちゃんと伝わるようなレコーディングはあるようでなかなかないと思う。いやー、エルヴィン凄いわ。コルトレーンの音自体も非常にふくよかで、かつリアルな音に聞こえ、55年まえの演奏とは思えず、目のまえにこのカルテットがいて演奏しているかのようだ。ただ、これがグラミー賞だとかいうのはどうか。すばらしい演奏だが、この時期のコルトレーンカルテットの演奏はどれもすごいので、これがすごく突出しているというわけではない。なぜ、こんな凄い演奏がお蔵入りになったのか理解できない、という意見もあるようだが、まあ、理解できる(これぐらいの演奏はいつでもいくらでもできるよねコルトレーンカルテットなら……ということじゃないでしょうか)。あと、インパルスの倉庫にこのテープがもしあったら、たぶん40年ぐらいまえにとっくに出ていたはずだし、普通に冷静に評価され、こんなお祭り騒ぎにはなっていなかっただろう。1曲目はコルトレーンのソプラノからはじまるモーダルなブルースでめちゃくちゃかっこいい。エルヴィンの神技と合わさるとソプラノがいちだんと際立ちます。最後のほう、ちょっとマイクが外れてオフになるあたりのリアルさもいいっすねー。ピアノソロとギャリソンのアルコソロを挟んで、ふたたびソプラノが飛び出してきてしばらく吹いたあとテーマに戻る。コンポジション的にもええ曲や。この曲が日の目を見ただけでも今回のリリースは良かった。2曲目はギャリソンとエルヴィンの重い重いオスティナートを背景に、コルトレーンかこれまた重いテーマをかなり崩しながら吹く(ほとんどソロをしているような感じ。ライナーノートには「アドリブソロはない」と書いてあるがちょっと誤解を招く書き方か?)。ピアノはいない。しかし、演奏はテナーソロだけですぐにベースのオスティナートになってフェイドアウトする。これはたぶん不完全テイクというかアイデア出しのテイクではないのかな(まあ、全体に「お試し」感のあるセッションではある。ここから磨き上げていくという感じというか……)。有名な「ジョン・コルトレーン・カルテット・プレイズ」に入っているほうのテイクはこの演奏より2年後のスタジオ録音だが、そちらの完成度に比べると、「ちょっとやってみたけどいまいち」感がなきにしもあらずです。たぶんここから磨きあげていって、「カルテット・プレイズ」のバージョンになったのだろう。3曲目はなかなか面白い構成の曲で、演歌みたいなメロのあとにラテンリズムの部分がある。ソプラノによる演奏。コルトレーンの演奏はさすがに激熱だが、それを鼓舞するエルヴィンの凄さよ。マッコイのソロも完璧で、このときのベース、ドラムとの一体感は感動ものだ。ベースソロがあってテーマに。4曲目「ヴィリア」は突然ハードバップに戻った雰囲気で、コルトレーンのテナーの音もややサブトーンぎみにはじまる。ピアノソロのバックあたりから後テーマにかけてエルヴィンが弾けている。5曲目は「インプレッションズ」で、なぜかコルトレーンはこの曲を何回かスタジオで録音している。愛奏曲だったのか、それともこの曲を一種のバンドのウォーミングアップ的に使用していたのか……。とにかくライヴの「インプレッションズ」における演奏よりこちらのほうがソロが新しくてエグい気がする。めちゃくちゃかっこいい。コルトレーンはひとりでテーマ吹いてひとりでソロして終わる。シンプルイズベスト。6曲目は「スローブルース」というタイトルだが、ほんとにテーマのないスローブルース。これがかっこいいのである。ピアノレスでコルトレーンがひたすら複雑でモダンなフレーズを吹きまくる。この時期のコルトレーンフレーズの集大成のような演奏で、なんとも味わい深いし、かっこいいし、すごくためになる(ためになる、というのは嫌な言い方に聞こえるかもしれないが、ほんとそんな感じ)。コルトレーンのソロのあとマッコイが登場してピアノソロになる。途中から倍テンになるが、このピアノソロはコルトレーンのソロとは逆の、非常にスウィングする歌心のあるブルース演奏という感じ。そして、そのあとにふたたび出てくるコルトレーンが暑苦しい世界に引き戻す。かっこいい! いやー、もうめちゃくちゃかっこいいですね。ラスト7曲目はおなじみ(?)「ワン・アップ・ワン・ダウン」で、「ニュー・シング・アット・ニューポート」やハーフノートでのライヴ盤にも入っている曲で私はものすごく好きなのだが、この曲の唯一のスタジオ録音なのかな? ちがう? いやー、いつ聴いてもかっこいい曲だ。過激な、まるでライヴであるかのように爆発的な演奏だ。コルトレーンのソロのところはマッコイ抜き。そのあとエルヴィンとのチェイス(?)(コルトレーンはリフみたいな感じ)を挟んでマッコイ登場。このソロも熱いです。最後のほうなんか鍵盤をバンバン叩いている感じ。そして、またコルトレーンとエルヴィンのチェイスがあって、ベースのかなり長いランニングソロ。どうも構成が手探り状態なのかもしれない。そのあとエルヴィンのロングソロ。そして、テーマ。いやー、満足しました。買ってから、なんやかんやで10回ぐらい聴いたのだが、やっぱりいい。でも、ラヴィ・コルトレーンが言っているように「これは、小手調べのような試験的セッションじゃないかな? 僕にはそう聴こえるね」というのが当たっていると思う。ジョニー・ハートマンとのボーカルアルバムを作る前日に同じヴァン・ゲルダースタジオで、当時いろいろ考えていたアイデアの断片を形にしてみたかったのか? そのへんのところはよくわからないか、このスタジオ録音のあと彼らはニューヨークに戻ってバードランドでライヴをしたらしいが、スタジオで吹きに吹いて(全テイク数を合わせると相当な時間だとおもう)、そのあと車で移動して3ステージとかやったのだろうが、なんというタフなミュージシャンたちだろうと思う。そして、演奏内容がこのクオリティだもんなあ。すごいすごい。そして翌日には天下の名盤を録音してしまうのだから呆れる。
 一応、別テイクも入った二枚組のほうを買ったのでそちらについても簡単に(そもそもこれがはじめてのアルバム化なのだから、一枚組と二枚組がある、ということ自体がおかしいと思うのだが)。こっちは正直、そんなに何度も聴いてない。別テイクを並べただけなので、一枚のアルバムとしての構成は考えられていないわけだから、そう何度も聴けない。でも、やっぱりすごいんです。一曲目は「ヴィリア」のテイク5で、1枚目のほうのテイクはテナーだが、こちらはソプラノ。このソプラノソロは最高です。ピックアップの部分とか、ハイノートを使ったパッセージの見事さとか……。まとまりもよくて、こっちがつOKテイクでよかったんじゃないか……と考えて、そうか、そもそもOKテイクなどというものは存在しないのだと気づいた。2曲目から4曲目までは「インプレッションズ」の別テイクで、たしかに2曲目のファーストテイクはやや手探りな感じではじまるが、演奏が進むにつれ、どーでもいいもんねー、という具合に盛り上がっていく。とくにエルヴィンの思い切りの良さはすごい。3曲目はテイク2だが、これも微妙にテンポが遅くて、そこがまたいいんですねー。エルヴィンもすごいし。コルトレーンも落ち着いていて、クールだが、適度に熱くて、非常にすばらしい演奏だと思います。4曲目はテイク4で、かなりテンポアップしている。その分演奏も白熱しており、コルトレーンに関しては圧倒的なブロウを聞くことができる。どうしてこのテイクを採用しなかったのか、と思うが、1枚目に入っている3テイク目がいちばんエグいからなのか? まあ、こうしてちゃんと全部聴ける現代はありがたいですね。この(一枚目のものも含んで)4テイクにわたる演奏についてどれがよくてどれがあかん……と決めるのはむずかしい話である。正直、どれも短いので、スタジオであってもこの倍ぐらい演奏すればよかったのでは、と思ったりして。5曲目は、1枚目の3曲目に入っていた曲のテイク2。エルヴィンすごい。マッコイのソロもすごいよなー。6曲目はそのテイク5。テーマ部分のアレンジがやや変わっている。このテイクもすごくええ感じだと思う。もうエルヴィン聴いてるだけで幸せである。最後の7曲目は「ワン・アップ・ワン・ダウン」のテイク6。これもいいなー。要するに全部いい。とくにコルトレーンは、置きにいく感じが一切なくて、常になにか新しいことはないかとチャレンジしている感がいい。
 というわけで、はっきり言って、聴くべきアルバムだと思います。個人的には後期コルトレーンと呼ばれるファラオ・サンダースが加わったあたりが一番好きなのだが、このころもすげーと思います。