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先ず、ハッキリさせておきたいことがある。
ネット上では「記念石碑」と「墓」とを混同しているサイトがある。
喜界町湾20番地にあるのは「記念石碑」であり「墓」ではない。
monument と tomb や grave は区別してほしい。
村田新八の墓は鹿児島市上竜尾町2-1
「南洲墓地」にあります。
村田家ご子孫方にご迷惑な無責任記事アップは困ります。

西郷隆盛を筆頭に他の48基の志士たちと錦江湾、桜島、城山、市街地
を眺めながら安らかにお休みになっておられます。

文久2年(1862年)、西郷隆盛が島津久光の命により島流し。
徳之島から沖永良部島に流された。村田新八も同罪で喜界島に流された。

二年後の元治元年に、どうしても薩摩藩主は必要な西郷隆盛を赦免。
西郷は鹿児島へ帰る途中、喜界島へ寄って
まだ赦免されていなかった村田新八も連れ帰った。
という記述が散見されますが、実際は「赦免状」が出ています。

「宇留満乃日記(うるまのにっき)」
は山川出港から喜界島に到着するまでの兄宛の手紙である。

「宇留満」同音異字語「宇流麻」
琉球の古名。また、鬱陵島のことも台湾のことともいう。← 広辞苑


「うるま」 
これは村田新八とは関係ない。
沖縄本島中部の市。2005年、石川氏・具志川市など4市町が合併して発足。
達筆な新八の『宇留満之日記』を現行の日本語で読みたい方は
こちらをどうぞ。ただし仮名遣いはオリジナルのままです。
『宇留満之日記』全文 ← クリックしてください。

本土に帰った後は、村田新八は西郷隆盛の懐刀となった。
「禁門の変」(1864)、「戊辰戦争」(1868)などで活躍している。
明治4年、西郷の推挙により幼い睦仁天皇(明治天皇)の教育係、宮内大丞に就任.
この年、条約改正のために全権大使岩倉具視の派遣が決まった
その使節団の一員となり欧米視察に出発した。
視察応募者が多い中、村田新八は早めに決まったようである。
それは家族への手紙で窺がえる。
村田新八の従弟・高橋新吉が編纂した英和辞書、通称「薩摩辞書」という発音が
カタカナ表記であった代物が果たして実用的であったかどうかは泉下の方に聞くしかない。

洋行の団員たちは、洋服を新調や、帽子を買って俄か紳士紳士風を装うのに汲々としていた。
村田新八はと言えば、日本仕立てたの古洋服で平然と構えていたらしい。
「精神気魄が高ければよろしい。衣服の美醜など何であろう」  −村田新八−


★☆★ 

ここに畏れ多くも、志士・村田新八の発想に私見を加えます。

当時の武道、剣術も柔術も稽古着に着替えてから始めた。

(柔道の加納治五郎は村田新八自刃の5年後に生まれた)

しかし、薩摩の剣法「示現流」は違った。

いつどんな状況でも敵と戦えるように平服で稽古をしていた。

「一の太刀を疑わず」とか「二の太刀要らず」

「肉を切らせて骨を断つ」

この精神は即ち、「精神気魄」プライオリティーNo.1で、衣服は二の次であった。

現に、村田新八は京都で新撰組と鉢合わせになったとき、

「肉を切らせて相手の骨を断っている」

つまり、負傷したが敵を倒した。
☆★☆

そんな精神で生きた村田新八のパラドックスが面白い。
確かに、欧米視察の準備では古い仕立服で微動だに動揺しなかった。
それをもって単純に「村田新八、質実剛健なり」と早とちりしてはならない。
運命の明治十年(1877)村田新八は薩摩軍二番隊指揮長になった。
その時の彼の姿たるや、シルクハットにフロックコート。
これも、
「精神気魄が高ければよろしい。衣服の美醜など何であろう」  −村田新八−
なのである。

これぞ、阿川弘之の著作、
『山本五十六』『米内光政』『井上成美』
の海軍提督三部作に連綿と伝わる精神だろう。
"flexible"
日本帝国海軍伝統の柔軟な発想であったようだ。
衣服の「美」に阿ることなく、「醜」に拘泥しない。
先の大戦後、GHQに骨抜きにされた「精神気魄の高揚」はいくら悔いても足りない。

薩摩武士でありながら芸術に造詣が深かった村田新八。
特に美術、音楽の才が花開いたようだ。
米国滞在中買い求めたアコーディオン。
このアコーディオンがいたく気に入り、人生の終着駅城山にも携帯したようだ。
そして、西郷隆盛の落首を確認後切腹したとのこと。
パリ滞在中、時間があればオペラ座に通ったという。
実に涙なくして語れない不世出の惜しい人材であった。
享年42歳。

以下、元勲たちが村田新八をどう評価したかなど記録を追います。
西南戦争終結後、
「彼は大久保利通に亜ぐの傑物なり」勝海舟

「新八が東京におれば、わが党の重きをなすに違いない」 大久保利通

官軍と薩軍の対決は、決して開明派と土着派の対決などという、
単純な図式で割り切れるものではあり得なかった。
西洋をよく知りながら西郷の軍に投じた者もいたのである。江藤淳著『南洲残影
その西郷の軍に投じた者」こそ村田新八である。


結びに村田新八自身の言。
「吾輩一人は、先生西郷を以て深智大略の英雄と信じて疑いもはん。
西郷先生を帝国宰相となし、その抱負を実行させることにこそ、
われらの責任が掛かっているもんと心得もす」