| 先々代 喜島 桃隆 と 先代 喜島 岩助 |
喜島 桃隆
私、卓一は中学校3年12月から、この東京世田谷在住、先々代の家で喜島家当主教育を受けた。
上京は初めてでした。
昭和31年の世田谷若林の冬は亜熱帯育ちの私には寒すぎた。
祖母が話していた「東京の寒さは島と違って骨に寒さを感じる」ことを実感することとなった。
12月17日、やっと家に到着した先々代が命じたのは、
「如何に寒くとも炬燵に入る事罷りならん、人間は暖かいと頭が働かない」
ということであった。
そして、「頭の切れない当主などいらんから喜界へ帰れ」と付け加えられた。
先々代の子供たちは掘り炬燵に入っていたが、私だけへの訓示だった。
私は頑なに守った。
炬燵の暖かさに巡り合ったのは大学での学生寮であった。
因みに、国立大学の1か月の寮費100円と驚きだった。
大正13年建造という年代物でもトイレは水洗だった。
たしかに緊張感が薄れた。
これを先々代は「頭が働かない」と表現したのだろうとかなりのタイムラグで悟った。。
世田谷区の若林中学に転校して初めて石炭ストーブ知り、その暖かさが有り難かった。
その冬に早速40cmも積もる冬将軍の洗礼を受けた。
寒さよりも致命的不安に駆られたのは教科書であった。
喜界一中では、全教科(数、英、理、国、社、音楽、保健体育、職業家庭科)の教科書が
半分ほどしか終わっていなかった。
若中は既に教科書を終え、受験問題集の授業をやっていた。
教科書が同じのは3教科で、職業家庭科など一中で使っていたのは「農業用」で、みんなの
「工業用」とはまるで違っていた。
しかし、2か月後には九教科の都立高入学試験に臨まなければならなかった。
3学期学年末試験で数学だけは満点だったのが心の支えだった。
ピタゴラスの定理を知らないで問題を解いてしまい数学教師に呼び出された。
「君はなぜピタゴラスの定理を使わないで問題を解いたの?」と数学教師。
「僕はそんな定理をまだ習っていません」
「えっ」と先生は不思議そうに私を凝視した。
しばらくして、「数学でユニークな発想は大切だ」と褒められ天に昇ってしまった。
ただ、英語、音楽、職業家庭科の点数は初体験の惨憺たる結果にすぐ現実に戻された。
今思えば、お山の大将で怖いもの知らずだった自分が懐かしい。
さて、先々代 喜島 桃隆の話。
御多分に漏れず明治生まれ(明治33年)の気骨のある九州男児であった。
早稲田政経1年生の時、一橋大学3年生の家庭教師をしていた話には驚いた。
サークルはボート部。
日本全権大使松岡洋右に随行しジュネーブで国際連盟を脱退したときの話は勉強になった。
後の初代国連大使の加瀬俊一さんも同じ随行員だった。
加瀬家とは家族ぐるみの付き合いだった。
現在評論家の長男加瀬英明さんは子供の頃から若林の街を知っていた。
桃隆の長男 幸一の媒酌人は加瀬俊一夫妻でした。
結婚式当日、着物姿の加瀬さんの奥様には武家の子女を思わせる風格を感じた。
桃隆は当時の東映大川社長とも親交があった。
桃隆は「外務省嘱託」だった。
外国VIPレセプションに東映有名女優が△△がきた話もあった。
△△は固定された女優ではなく人気により変わったようだ。
東映ではないが山本富士子が外国高官レセプションで接待した時のこと。
「みんな山本富士子は美人だと言うが外国を知らない田舎者には困ったものだ」と私に言った。
ミズーリでの降伏文書調印。右が加瀬俊一氏
先々代は貴島 桃隆の名前で、衆議院議員東京6区から出馬したり、都知事に立候補したが当選
したことはなかった。
趣味はヨーロッパで覚えたゴルフ。英国紳士のゴルフ姿そっくりの出で立ちでやっていた。
もう一つの趣味は江戸前の釣り。
私は先々代から著名な竿師の高級和竿を何本か頂いた。磯の黒鯛竿が多かった。
亡くなる直前まで
「喜界の屋敷と先祖の墓をしっかりよろしく頼む」
と私の手をしっかり握り涙して故郷を忍んだ。
今でも泉下で迫力ある、軽妙洒脱なスピーチをしているような気がする。
喜島 岩助
鹿児島商業時代、柔道でカミソリ技の持ち主と言われたらしい。
私が2歳の時、父は26歳で他界した。
私は父の全てをを写真で知るのみである。
父22歳(1939年/ 昭和14年)
「父親たる者、息子と一献傾けるまでは死ぬなよ」
と私は成人してから一度ならず呟いた。
父を知る人たちから
「優しい人だった」
「几帳面な人だった」
と聞く度に悲しさが倍加した。
『葉隠』で定朝が説く「忍ぶ恋」の父子バージョンだと思っている。
一緒に過ごしたことを覚えていないから「父子愛」はことさらエネルギーを増す。
話ができなかった分、「父子愛」はボルテージがマックスまで上昇する。
中学生になったら心ひそかに父を忍んで柔道を始めた。
喜界には道場がなかったから警察(当時は警察だった)の道場で警官に稽古をつけてもらった。
中3で色帯になり、親友盛江幸男と竹壽吉先生に頼んで職員会議で「畳購入」を諮ってもらった。
職員会議では「畳20枚購入」が当日即決。
一中柔道部創設と相成った。
竹壽吉先生、正本國蔵先生、時岡善一郎先生の黒帯教師たちが優しく指導してくれた。
東京へ来て、世田谷警察署の署長に直接面談し道場での練習許可をもらった。
警察官に稽古をつけに来ていた近くの国士舘大学の猛者たちには太刀打ちできなかった。
高校生では柔道部に所属しながら水道橋の「講道館」通いをした。
ここでは厚木から練習に来ている2m近くの米兵たちに歯が立たなかった。
しかし、その米兵たちを明大柔道部が気の済むように投げ飛ばしていた。
世の中、上には上がいることをいやというほど思い知らされた。
それもこれもすべて亡き父親への恩愛の絆のなせる業であった。

前列左から 故祖母・千代、故姉・憲子、故母・ヒデ
後列左から 私卓一、故父・岩助、ベビーシッター・幸江さん
素封家の次男に生まれて喜島家の婿養子になった父。
長男の誕生を喜び私の着物を喜界島から日本橋三越に特別誂えで注文したらしい。
祖母、母、姉の着ているのもすべてそうだった事を祖母に教えてもらった。
父に一応感謝しなければならないことがある。
私の誕生を祝いあちらこちらに土地を喜島卓一名義で買ってくれたことである。
別のところで触れますが私が成人後確認してみて驚いた。
母の再婚後、誰かが私の姓名と偽造印を使い委任状を作り悉く売却されていた。
その売却の証拠が喜界町役場に残っていた。
悉く喜界一中の校庭になったり、図書館の敷地になったりその他いろいろです。
売却面積や金額の証拠と日付も町役場にあった。
戸籍謄本は喜界町で最古まで。
土地謄本は鹿児島法務局奄美支局でコンピュータ化される前、その前まで取り寄せた。
結局鹿児島法務局奄美支局にある最古の資料まで遡って手に入れました。
有体に言えば、明らかに犯罪行為である。
恨みと憎しみは惟神の道がブレーキを掛けているような気がします。