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虎の巻 角川日本姓氏歴史人物大辞典46 鹿児島県姓氏家系大辞典
大和の世
慶長14年(1609年)薩摩藩が琉球を攻め、奄美は薩摩藩の領土になった。
以後明治4年(1871年)廃藩置県までが大和の世の時代である。
元禄6年(1693年)喜界島に代官所が設置され、代官、附役が藩庁から派遣された。
初めは2年間勤務であったが寛延4年(1751年)から1年交代となり、
宝暦7年(1757年)に再び2年詰めとなり、安政3年(1856年)には4年詰めになった。
代官が置かれるとともに伊砂間切が創設されて6間切となり、與人6人、間切横目6人、
黍横目数十名、田地横目若干名をはじめ、津口横目、竹木横目、締横目、締・唐通事、
見回役がおかれ、與人は1人ずつ交代で代官所に詰める当番與人を務めた。
公文書に與人が現れるのは、宝永4年(1707年)の「喜美治」を初見とし、「真佐知」、
「豊文」、「郡志頭」、「郡志玄」、「宮里」、「武奈美」、「貞平周悦」、「永語」らの名がある。
與人は藩主の慶事に鹿児島に上国しているが、明治2年(1869年)の「長嘉」の上国が
最後となった。
元和7年(1621年)と享保11年(1726年)に検地が行われ、藩は財政建て直しのため
砂糖の増産を命じ、その密売を禁止し、住民は苦渋を強いられた。
18世紀の中ごろには、横目の「納喜」によって農業用水のための池が設置された。
近代への歩み
喜界島の近代は在番所(もと代官所)と與人の制を廃止された。
喜界島支所が置かれ、戸長制度が施行された明治6年(1873年)に始まる。
1879年 大島郡役所喜界島出張所が置かれた
1885年 大島島庁が設置され、長宮島司が島政を担った
1886年 湾方戸長役場、早町方戸長役場が置かれ2分村政行われた
1887年 早町村外16か村戸長に泉禎哉がいた
1908年 島嶼町村制の施行によって1島1村の喜界村が生まれた。
(村長「折田実積)
喜界島の教育の始まり
喜界島には江戸末期から多くの流人が配流され、彼らによって教育や風俗の改善が
行われた。
大久保次右衛門、村田新八はじめ、伊地知季安や、日向佐土原藩士の内田治右衛門、
大浦大輔、羽田祐輔、長崎庄右衛門、有馬新太郎らがおり、滞在中に読み書き算盤
などを島の子供たちに教えた。
その後、師匠屋と呼ばれる塾が盛んになり、明治8年(1875年)郷校が設立され、
1895年小学校施行令の頃から島内児童の中に高等科への進学希望者が増えた。
島内には高等科はなかったが、1897年岩井応美によって私立喜界島学館高等科が
設立され、1902年湾と東の両小学校に高等科が併設されるまで多くの人材を輩出
した。
砂糖自由売買運動大事件
明治6年(1873年)明治政府は黒糖の自由販売を達示した頃から、鹿児島系、大阪系
の商社が島に押し寄せ、島民に7、8割の高利で前貸しし、先物契約の形で黒糖を買い
たたいたため、島民は借金地獄に陥った。
島中は川内出身の田中圭三を中心に有志と称する同盟を結んで広範囲な農民運動を
起こした。
これが、1889年の「喜界島兇徒聚衆事件」と呼ばれる事件で、有志同盟総代泰実明
をはじめ142名全員が鹿児島軽裁判所大島支庁予審判事によって有罪とされたが、
1890年長崎軽罪裁判所の判決で全員無罪となった。
奄美における砂糖自由販売運動の最後の事件であった。
島興しの原動力
明治から大正にかけて島興しの原動力となった人物に浜上謙翆、砂泊兼照がいた。
浜上は有志と共同で大島興業を興し、蒸気船で奄美五島を結ぶ航路を開設し、砂泊は
喜界村会議員、県会議員を務め、海路も陸路と同じ県道としてすることに尽力した。
また、全額県補填方式による離島航路を開拓した文園彰がいた。