喜界島雑学   −2 −                

                               虎の巻 角川日本姓氏歴史人物大辞典46 鹿児島県姓氏家系大辞典

        源氏と平氏の来島

              口碑によると喜界島には「源為朝」、「僧俊寛」、「平ス資盛」、「平有盛」、「平行盛」が来島している。
              源為朝は保元の乱の後に配流された伊豆大島から琉球に向かう途中、喜界島に上陸して、小野津八幡
              を創祀したことになっている。

              平家追討の密議に加わって流罪となった僧俊寛は喜界島で没した。
              その墓と伝えられるお墓が湾の坊主前(ボウズンメエ)にある。

              壇ノ浦の合戦で敗れた平氏のうち、平資盛は手兵200人と共に、建仁2年(1202年)志戸桶の沖名泊
              に上陸し、佐手久北西の増花田に居城7城を構えた。
              後、「平有盛」と「平行盛」が瀬玉湊に上陸して合流し、3人は奄美大島に渡ったという。
              「平資盛」は喜界島滞在中に島の娘との間に大蛇羅をもうけ、大蛇羅が後に佐手久、志戸桶の村主と
              なり、その子孫は代々「佐手久」、「志戸桶」、「伊実久」、「小野津」の村々を治めたという。

        琉球王の侵攻
             
              康生2年(1456年)琉球の久米島に漂着した朝鮮の梁成らの報告では、当時琉球と戦っている国が
              東に2島あり、池蘚島(喜界島)は琉球が毎年侵攻しても屈服せず、吾時麻島(奄美大島)は帰順して
              15年余という。(李朝実録)
              琉球王第1尚氏王統は沖縄本島の3山を統一し、奄美大島南西の諸島や与論島以南の島々を手中に
              し、永亨12年(1440年頃に奄美大島を手中に入れた。
              文正元(1466年)琉球王尚徳は喜界島からの朝貢が途絶えたと言いがかりをつけ、兵2000人を自ら
              率いて喜界島を襲撃した。喜界島は陥た。
              この喜界島の敗北により「道の島」は完全に琉球王国の支配下におかれた。
              奄美ではこの時代を「那覇世」と呼んでいる。
              琉球王国が特に喜界島の統治に力を入れた理由は、小島にも関らず、

                      1.生産性が高い
                      2.琉球王国の北辺に位置するという地理的重要性

              こういうことで喜界島は琉球の海外貿易のハブ(hub)島の役割を負わされた。
              喜界島は大和や朝鮮を結ぶ絶好の中継基地であった。

         那覇世時代の島政

              琉球は喜界島にも軍隊や役人を派遣して島を統治した。
              派遣されてきた琉球の人々は、喜界島の文化、言語、風俗、習慣に多大なる影響を与えた。
              奄美も琉球の行政区画と同様に間切り制度が導入された。
              喜界島は、「荒木間切」、「志戸桶間切」、「西目間切」、「東間切」、「湾間切」の5間切に区分された。
              各間切に「大親」、「與人」、「目指」、「筆子」、「掟」などの役人が任命された。
              間切の長である大親は琉球王府から派遣されることもあった。
              各間切には豪族の妻や姉妹の中から「ノロ」が任命された。
              「大朝戸」、「塩道」、「志戸桶」、「西目」、「蒲生」にはノロの衣装や神具が保存されている。
              島内のノロは毎年春と秋の2度、湾の御殿鼻(ウドンのハナ)で祭事を行った。
              現在喜界島では、天文23年(中国歴嘉靖33年、1554年8月29日付の
              志戸桶間切、大城(おおぐすく)大屋子(地頭)職に「さわのおきて」が補佐された辞令書、
              永禄12年(中国歴隆慶3年、1569年正月5日付の東間切「阿伝」ノロに、もとのノロの妹
              「えくがたる」が補佐された辞令書の写しが残されている。

         大和の世

              慶長14年(1609年)薩摩藩が琉球を攻め、奄美は薩摩藩の領土になった。
              以後明治4年(1871年)廃藩置県までが大和の世の時代である。
              元禄6年(1693年)喜界島に代官所が設置され、代官、附役が藩庁から派遣された。
              初めは2年間勤務であったが寛延4年(1751年)から1年交代となり、
              宝暦7年(1757年)に再び2年詰めとなり、安政3年(1856年)には4年詰めになった。

              代官が置かれるとともに伊砂間切が創設されて6間切となり、與人6人、間切横目6人、
              黍横目数十名、田地横目若干名をはじめ、津口横目、竹木横目、締横目、締・唐通事、
              見回役がおかれ、與人は1人ずつ交代で代官所に詰める当番與人を務めた。