村田新八の航路と日付
鹿児島山川湊 から 喜界島湾まで
1862(文久2)6/10 夜 山川湊 白山丸乗船
同6/11〜6/13   山川番書で滞船、風待ち
同6月14日     出帆、風なく舟進まず
同6/15,16      同断
同17日       南風、横帆で硫黄島過ぎる
同18日夜      屋久島一湊着
            此の日、朝 西郷隆盛既に着
同21日       炎暑厳しく上陸。廃寺・本隆寺で休息
            弁指(浦人役)宅に立ち寄る
同28日       東風が吹いたので出帆
同29日       午後2時喜界島が見えた。
            午後5時過ぎから南風になり、舟進まず
同30日       同断
同7月1日      南風で舟進まず
同7月2日      北東風、舟が進み喜界島着。
            湾村代官書役政園宅に仮宿
            政園の親類、流人たちが見舞いに来た

               ↓

            柳友憲宅へ引っ越す
            友憲は無類の釣り好き。
            新八は兄新助に虫糸(テグス)を無心する
            手紙を出している。テグスは現在のハリス

               ↓

            横目喜島桃園宅へ赦免まで生活す
            遠島中の無聊に苦しみ、近所の子たち
            を集めて教育した。
            また、柔術、杖術も教授した。
            喜島宅での生活はときどき行燈や障子に
            和歌を書き、書いては張り替えていた。

            和歌の内容は、無実の罪で流謫されたの
            だから、赦免の命に出たら何時でも帰鹿
            し、国のために尽くそうという意味だった。