喜島家300余年の先祖たちの生没年 本文へジャンプ


喜島家 先祖  

1609年、島津藩支配により島人の系図、古文書類を没収焼却した。

   次の四回、大島の代官に命じて島人が保存する家系図や諸記録を全て焼却した。
    ● 元禄6年(1693
     ● 元禄10年(1697
    ● 宝永3年(1706
    ● 宝永4年(1707
     喜島家先祖は位牌に記録する知恵で以下を子孫に残した。
   太平洋戦争中戦火から守るために、親族2軒にで分けて安全を期した。
  しかし、分家の方の資料が米軍の執拗な攻撃の下、消失の憂き目にあった。。
  運悪くその方の家は、特攻隊が出撃した喜界空港の近くにあった。
因みに、制空権を奪われていた日本軍の攻撃機は離陸するとすぐ上空で待機中の敵軍に撃墜されたらしい。
当時の日本軍のレーダー(電波探知機は)は誤動作続きだったと聞いている。


 没年 西暦生没年月日  享年  役職・他  名前・戒名 
 寶歴12  16941762 12/14  68  間切横目   宜志園(梅岑玄標居士)
 明和3年丙戌  16961766 12/22  70  宜志園妻  照山智月大姉之位
 安永5年申  17111776  2/26  65  桃春妻   咲顔慧昌大姉
 天明2年壬寅  17091782   9/15  73  與人   桃春(桃薗月螇居士)
 文化3年丙寅  17301806  10/7  76  本與人   桃郷(海岸疎月居士)
 文化3年丙寅  17321806  10/8  74  桃郷妻   思松(月海妙心大姉)
 天保3  17731832  9/18  59  宜志頭妻   泊野呂
 天保8年丁酉  17581837  1/15  79  中間野呂   +
 弘化2年未  17751845    1/1  79  湾間切與人   宜志頭
 明治5年壬申  18431872    7/8  29  横目   禎嘉津
 明治10年丁丑  18111877  9/24  66  桃園妻   思鍋(おみなべ)
 明治11年戌寅  18371878 7/22  41     石カメ
 明治11年戌寅  18101878 8/24  68  横目   桃園
 明治18年酉  18421885 6/15  43  桃山妻   石亀
 明治35年寅  18351902 2/22  67  桃園父   桃山(弟は 宜志徹・謙輔)
 明治36  18791903 2/27  24     きく
 大正4  18661915 9/25  49  桃隆母(千坂家出)   かめまつ(桃春妻)
 大正14年丑  18621925 5/31  64  桃隆父   桃春
 昭和6  19031931 7/7  28  桃隆弟   桃吉
 昭和10  18961935 1/29  39  桃隆妹   なべ
 昭和18  19171943  9/17  26  先代当主・卓一父
  岩助
 昭和22  19391947 2/9  8  卓一姉   憲子
 昭和60  18941985 2/4  91  卓一祖母   千代(桃隆姉)
 平成6  19011994 12/18 93歳   先々代当主  桃隆国際院殿空位空名登龍大居士)


宜志園 戒名 梅岑玄標居士が生まれたのは元禄7年甲戌。

日本:皇紀2354年/中国:清 康熙33年/ベトナム:後黎朝 正和15年
ユリウス暦:1693,1694年/イスラム歴:1105,1106年/ユダヤ歴:5454,5455年

江戸時代第5代将軍
治政下で幕藩体制の安定期であった。
庶民では元禄文学の絶頂期、高田の馬場の決闘の年。

表中黄色部分は村田新八を1862~1864の赦免までお世話をした喜島家のメンバー。
当主は横目・ 桃園、その子横目・禎嘉津は薩摩藩医で『喜界島代官記』にその名を残す。
優秀だったが故に若くして同僚に毒殺されたと伝承されている。

***** あまり咏歌をやらなかった新八の貴重な一首 *****
(坂口徳太郎著 『奄美大島史』1918年刊より)

桃園と 契りを結び 内地喜界 糸引き張りて 末の末まで  ― 村田 新八 ―

註: 内地は「やまと」と読んだらしい

 
先々代 桃隆と先代 岩助そして卓一