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序章

 人は生身の体でどこまで深く潜れるのだろうか?

このような質問を受けることがよくある。とりあえず、今までの実績からは701m、と答えることにしているが、実際はそう単純ではない。

第一に、潜水にはざっと見ただけで、素潜り、スクーバ潜水、送気式潜水(ヘルメット潜水)、飽和潜水などがあり、どのような方法で潜るかによってその値が大きく異なってくるのは当然のことだろう。

また、人が潜る、ということは取りも直さず、人が後遺症もなく安全に大気圧に戻ってくることをも意味する。そのためには、空気のない水の中でどうやって呼吸をするか、水圧や水の冷たさにどう立ち向かうか、緊急時にはどのような対処をすべきか、などを考えておかねばならない。それらは、生理学的な許容レベルの把握、潜るための機材の開発、潜水手順の確立など、ソフトウェア、ハードウェア双方、多岐にわたる。

要するに、潜水とは規模は小さいながらも、典型的な学際分野の活動なのである。言い換えれば、医学や工学その他の分野の知識を総合して行うのが潜水という活動だ。そして当然、多くの人々の長い時間をかけた努力があってこそ、今の姿にまで至っているわけだ。

ところが、どういうわけか我が国には総合的見地から見た潜水の書籍がほとんど認められない。たしかに、レジャー潜水の興隆に伴って、スクーバ潜水に関する本の出版数は以前とは比較にならないほど増えている。素潜りに関する書籍も多い。しかし、それらの記述は現象面を述べたものがほとんどで、潜水のメカニズムや開発過程にまで踏み込んだものは少ない。また、レジャーとは直接の関係がない潜水、具体的には送気式潜水や飽和潜水などについて体系的に書かれた書籍の数はきわめて限られ、しかも学術書の体裁をなしているため、一般の目に触れることは皆無と言ってもよいほどである。

筆者は以前に「潜水医学入門−安全に潜るために」と題して、総合的な見地に留意しながらも主として医学面から潜水を見つめた書籍を出版したが、潜水そのものについては触れるところが少なく、特殊に過ぎる、というご批判をいただいたことがある。たしかに、拙著から潜水そのものをイメージすることは、前もって知識のある方以外には困難である。

そのようなところから、今回は素潜りから飽和潜水さらには大気圧潜水にいたるまで、現在の世界で用いられているほぼすべての潜水について、潜水の方法ごとに複数の角度から記してみることにした。また、安全かつ効率的な潜水を行う上で切り離せない減圧理論等いわゆる潜水医学に関する事項については、独立した章は設けていないものの、関連する場面でわかりやすく説明したつもりである。したがって、本書を読んでいただければ、潜水を専門としない方でも、日本では馴染みの少ない飽和潜水や大気圧潜水を含め、潜水全般について最低限の知識は得られる筈である。もっとも、潜水のより即物的な記述、たとえば潜るに際してどのバルブを開いてどのレバーを押して、といったたぐいについてはいっさい記していないことをあらかじめ申し上げておく。

ところで、本書では歴史的観点からの記述についても意を用いることにした。その理由の一つは単純に面白いからである。水の中に活動の場を拡げていくに際して人々がとった行動を筆者の胸の中にだけ収めておくのは勿体ない、日本のより多くの人々にもその面白さを味わっていただけたら、と考えたからである。現代のいわゆる科学の収穫逓減の時代と異なって、人が目に見える形で新しい世界に様々な形で挑戦して行ったダイナミックな姿を眺めるのは、ある意味で新鮮で印象的だ。そこからは、努力、意志、崇高、知能、冒険、名誉、欲望、打算、軽率、無知、等々、古今変わらぬ人の様々な性向や行為が浮き彫りにされてくる。

また、潜水の世界で日本人がなした業績についても、できうる限り触れることにした。本書を一読されればわかるとおり、本質的な意味で潜水の発展に日本人が寄与したところは寥々たるものであるが、それでもなおその航跡には日本人ならではの捨てがたい趣がある。潜水という小さな分野の活動にも日本人の特性が如実に現れている、と考えるのはうがちすぎであろうか。

なお、用語は潜水の慣例に従っていることをお断りしておく。たとえば、潜水場面における圧力は水深で表すこととし、フィートの単位も併記することとした。1気圧は深度10(33フィート)の圧力差に相当する。また、潜降と加圧、浮上ないし上昇と減圧は基本的には同じことを意味するので、用法に厳密な区別は設けていない。また、医学用語をはじめいくつかの専門用語の使用に際しては能う限り一般にも理解できるように努めたつもりであるが、なお不明の個所もあろうかと思う。それについては、やや詳しい索引を末尾に掲載することで補うこととしたので、ご理解いただきたい。さらに、通例に従って、人名については敬称を全て割愛した。併せてご寛容を願いたい。

とまれ、本書は総合的見地にたった上で現在の潜水全般を概観した書籍であると自負するものであるが、如何せん菲才の個人の能力には限界があり、どこまで所期の目的を達成できたか心許ないのが偽らざるところである。間違いも皆無ではないと思う。その際は、どうかご遠慮なく忌憚のないご意見をお寄せいただきたい。

本書が魅力に満ちた潜水と深い海の世界へのささやかな案内になれば幸甚である。

 では、ひとびとがそれぞれの夢を描いた海の中へどうぞ。