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見 本 2

見本2として、図表の含まれていない第14章「空気塞栓症」を掲げておきます。( )内の数字は引用文献番号です。引用文献はこのページには示していません。見本1は第9章「炭酸ガス中毒です」です。

14 空気塞栓症

 空気塞栓症は減圧症と並んで減圧に起因する代表的な疾患ですが,減圧症が減圧表を守って潜水すれば重篤な状態にはなりにくいのと異なり,空気塞栓症は減圧表を守っていても,また浅い潜水においても発症し得,しかも往々にして重症に陥りやすいという特徴を有しています.この章では,空気塞栓症の病態,予防等について述べます.

〔空気塞栓の形成〕
最初に,空気塞栓という言葉について説明しておきます.通常の血流の中には空気はそのままの状態では存在しません.空気が血流の中にありますと,その空気が核となって血小板等が周囲に付着した塊(かたまり)が形成されます.その塊が細い動脈に流れて行きますと,そこで空気の塊が栓のような働きをしてそれ以降の血流が塞がれることになります.というところから,空気塞栓という言葉が生まれ,空気塞栓による疾患を空気塞栓症というのです.

では,潜水中に空気塞栓の原因となる空気はどこからどのようにして血流の中に入るのかというと,極めて稀な場合を除いてすべて肺を通してです.

 即ち,肺の中の空気が正常な肺の容積を超えて膨張した場合に,行き先を失った空気が肺胞を破壊して肺胞を覆っている肺毛細血管の中に侵入し,血流の中に入るのです.ですから,潜水において空気塞栓症に罹患する原因は肺圧外傷の項で述べたものと基本的には同じです
 一旦肺毛細血管の中に侵入した空気は肺静脈の中を通って心臓に還流し,今度はそこから全身に栄養や酸素を運んでいる動脈の中に入ることになります.ここが,後で述べる減圧症との大きな相違になります.減圧症では気泡は主として静脈の中に現れます.

〔病態と症状〕
 空気塞栓の元となる気泡は動脈によって全身に運ばれる訳ですから,全身が障害を受けてもいいように思えます.しかし,体の中の主要な血流は網の目のようになっていて,たとえ一本の動脈が閉塞されても側副循環という回り道を通ってその動脈よりも末梢に血液が供給されるようになっています.従って,障害を受けるのは,動脈がある程度細くなるとそこから先は終動脈として他の隣接する細い動脈からの枝分かれを受けなくなっているような構造を有している組織あるいは臓器です.

この様な器官の主なものは脳と心臓です.また,症状の重篤さ等,臨床的な面からも,問題となるのは脳と心臓の塞栓症です.心臓の空気塞栓症というのは,心臓を循環している冠動脈が塞栓によって閉塞され,心筋梗塞と同じ病変が惹き起こされることですが,潜水における実際の報告例は多くはありません.ここでは心臓の空気塞栓症,即ち心筋梗塞類似の疾患が潜水によっても起こり得る,ということを示すにとどめておきます.

 脳の空気塞栓症(以下,空気塞栓症とのみ記します)の症状はいろいろありますが(1),最もよくみられるものが意識障害です.痙攣発作を伴うことも多く,概して重症です.そのほか,重篤なものから軽微なものまで様々な神経障害,例えば筋力低下や知覚障害,頭痛,視力障害,見当識障害等がみられます.つまり,空気塞栓症のみに特有な症状や徴候というものはありません.しかし,症状の経過はやや特異的です.自然に軽快することもあれば,一旦消失した症状が再出現することも稀ではありません.すなわち,症状が流動的であることが多いのです(2,3).また,浮上から発症までの時間も概して短く,ほとんどの例が浮上後5分以内に発症します.逆に言うと,浮上から発症までに時間がかかった例は空気塞栓症ではなさそうだということになります.

〔診断〕
診断は,意識障害などの臨床所見に加えて,発症時の状況(パニックに陥っていたか,急速浮上したか,息を正しく吐いていたか),皮下気腫や胸痛等の肺圧外傷に認められる症状や徴候の有無(しかし明かな肺圧外傷を伴っていない空気塞栓症も少なくありません,というよりその方が多いかもしれません),減圧症に罹患し得るか否かの潜水プロフィール(深度及び滞底時間),浮上から発症までの時間等を参考にして,総合的に行います.しかし,空気塞栓症として確診できる症例ばかりとは限りませんので,この場合は取り敢えず空気塞栓症と暫定的に診断して,再圧治療を行うとよいでしょう.疑わしきは罰すです.米海軍では浮上後に生じた神経障害の内,減圧症としては説明しにくい障害は空気塞栓症として対処するようにしているようです.

 注意すべきことは,診断に時間をかけ過ぎないことです.精密な所見を得ようとして再圧治療の開始が遅れるようなことがあってはなりません.○頁に示した様に浮上直後の意識障害にも様々な疾患が考えられますが,実用的にはまず最初に空気塞栓症を疑ってかかって再圧治療を開始しても,間違っているとは言えないと思います.

〔治療〕
 治療は基本的には再圧治療ですが,これは減圧症に対する治療と一緒にして,再圧治療の章で触れることにします.ただし,次のことを,空気塞栓症に対する再圧治療に関して特に触れておきたいと思います.それは,secondary deterioration (強いて日本語に訳せば治療後の病状の悪化あるいは二次増悪とでもなろうかと思います)のことです(4,5).これは,再圧治療によって症状が一旦よくなった後で,再び前の症状それもしばしば前よりも重篤な症状を呈することがあるということです.この詳細な機序は不明ですが,再圧治療によって一見よくなった場合でも油断できないこと,再圧治療を行った当日は完全に治癒したように見えても出来れば入院した方がよいことの根拠にもなろうかと思います.

 空気塞栓症の再圧治療を行うに当たって最も注意すべきことは気胸を合併しているか否かです.空気塞栓症の発症機序の根本は先に述べましたように,基本的に肺圧外傷と同じですから,空気塞栓症に気胸が合併していることは大いに有り得る事です.気胸を合併している場合は,肺圧外傷の箇所で述べたように,再圧のために加圧してから後の減圧の時に,気胸を形成している胸膜腔の容積が増加して肺を圧排し,逆に肺の容積は少なくなってくることがあります.詳細は肺圧外傷の章を参照して下さい.

 また,空気塞栓症は血液よりもはるかに軽い気泡によって惹き起こされるのですから,気泡がこれ以上脳へ行かないようにと頭を下に下げたり,気泡を心臓内から出さないようにと左側臥位をとったりすることをすすめる向きもありますが,その効果は疑問です.というのは,小さい気泡が血液の激しい流れの中で重力の法則に従って上方に移動していくということは,考えにくいからです.却って脳圧が上昇するかもしれません.最近このことを検証した実験結果が報告されましたが,やはり無意味むしろ悪影響があるということでした(6,7).空気塞栓症に罹患した患者に座位をとらせるのはいけませんが,普通に横たわった状態で気道の確保に注意しておけばよいでしょう.

 補助療法としては,水分の補給(水中活動による利尿の促進や毛細血管障害のため脱水に陥りやすいので),ステロイドやグリセオールの投与等脳圧降下の処置,アスピリンやリドカインの投与等がありますが,これも減圧症に対するのとほぼ同じですので,減圧症の章で触れます.


〔予防〕
 空気塞栓症の予防は,発症機序からも明かなように,まず浮上時に息を確実に吐きゆっくり浮上することです.といっても,これは言うは易く行うは難しで,咄嗟の場合に初心者がこのように浮上するのは容易ではありません.

 急速に浮上するブローアップは空気塞栓症を惹き起こす可能性が強いので,細心の注意を払っておかなければなりません.ヘルメット潜水のみならず,BCやドライスーツを使用して潜るときもブローアップの可能性がないとは言えませんので,それらの器材を用いて潜る人は浮力調節に習熟していなければなりません.

 医学の面からは,肺圧外傷に罹患するおそれがある疾患を有していないことを事前に確認しておくことが重要になってきます.具体的に注意すべき疾患としては肺の各種の疾患が挙げられますが,詳細は潜水適性の章で述べます.

 しかし,健康診断をいくら念入りに行っていても,浮上にどんなに注意しても,空気塞栓症に罹患することがあります.そのような症例を例示しておきます(8).

 症例は健康な若い男子海上自衛官で,潜水員になるための事前の健康診断でも異常は全く指摘されていませんでした.深度8mでその深度の空気を吸った後,普通にゆっくりと息を吐きながら浮上し,浮上の1分後に気分不快と脱力感を訴え,その直後には意識が消失し,瞳孔も散大しました.空気塞栓症と診断して直ちに再圧治療を行い,後遺症を残さず全治しました.

本例は経過等からみて空気塞栓症であることは間違いないと思いますが,この様な例を前もって予防するのは不可能です.この場合はすぐ近くに再圧タンクがあり,医官も待機していましたので事無きを得ましたが,同様の例が海で発生したらどうなるでしょうか.空気塞栓症は浅い海でも起こり得ます.といいうより,浅いところの方が深度差当りの気体の容積の変化の割合が大きいのですから,却って空気塞栓症に罹患しやすいとも言え,潜水を行う時には充分な認識が必要です.