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見 本 1

見本1として、図表の含まれていない第9章「炭酸ガス中毒」を掲げておきます。( )内の数字は引用文献番号です。引用文献はこのページには示していません。見本2は第14章「空気塞栓症」です。

9 炭酸ガス中毒

 炭酸ガス(二酸化炭素)は体の中で食物中の炭素が酸化されて生じる物質で,呼吸によって酸素と交換の形で体外に排出されます.この排出が充分でなかった場合等に,体内の炭酸ガスが過剰になって生じるのが炭酸ガス中毒です。

 その症状は重症の意識消失を含む様々なレベルの意識障害,呼吸困難(窒息感あるいは空気が足りない感じ),頻脈,頭痛,めまい,頭がボーッとした感じ,体のほてり,発汗,眼が燃えるような感じ,等があげられています.

 炭酸ガス中毒に罹患する原因としては,炭酸ガスの排出に必要なだけの換気が為されていなかった場合,呼吸ガスにもともと多量の炭酸ガスが混じていた場合などを挙げることができます.
 では炭酸ガス中毒は潜水の現場では具体的にどのような場合に発症するのでしょうか.


〔スクーバ潜水と炭酸ガス中毒〕
 最も一般的なスクーバ潜水でも,炭酸ガス中毒はよく見受けられます.それは充分な換気をしなかった場合です.スクーバ潜水はその定義からして呼吸可能なガスに限りがありますので,余分に呼吸してガスを沢山消費することのないように大抵の学校では教えています.現に初心者の場合,ボンベ内の呼吸ガスの減り方は経験を積んだ人よりもかなり多いのが実状です.そこで,ボンベの中の空気の消費量が少ないのが経験を積んだ上手なダイバーであるという本末転倒の考えを持っている人をよく見かけます.そういう人の呼吸の方法は,呼吸回数を意識的に減らして大きく息を吸った後しばらくそのままの態勢に保ち,それからゆっくり息を吐き出すのです.この呼吸をスキップブリージングといい(1),換気の面からは死腔が少なく効率的なのですが,度が過ぎますと炭酸ガスを充分に排出することができなくなることがあります.結果として,炭酸ガス中毒になるわけです.海上自衛隊の潜水員に尋ねてみますと,スクーバ潜水後に頭痛に悩まされた人がかなりいることが判りました.この頭痛が炭酸ガス中毒なのです.これは初心者よりも経験を積んだダイバーによくみられます ので,注意して下さい.なおこの頭痛は浮上後にかえってひどくなることがあるともいわれています.

 また,呼吸抵抗が大きい潜水呼吸器を使用した場合も,炭酸ガス中毒に罹患することがあります.呼吸抵抗のために充分な呼吸が出来なくて,炭酸ガスの排出が不十分になったために生じるのではないかというわけです.

〔ヘルメット潜水と炭酸ガス中毒〕
 ヘルメット潜水においても炭酸ガスはよくみられます(2).ヘルメット潜水ではスクーバ潜水と異なって,吸入する呼吸ガスがヘルメット内のガス,則ち一部は今呼出したばかりのガスなのですから,当然炭酸ガスが多く含まれていることになります(*末尾注釈参照).吸入ガス中の炭酸ガス濃度が高い場合,容易に炭酸ガスが体内に過剰に蓄積されることが判っています.しかも,ヘルメット潜水は仕事量が大きいのが通常ですので,炭酸ガスの産生そのものも多くなっています.従って,ヘルメット潜水では吸入ガス中の高い炭酸ガス濃度と多い炭酸ガス産生量の二つの面から,炭酸ガス中毒により罹患しやすくなっているのです.私自身米海軍で日本のヘルメットよりも一回りも二回りも大きく重いヘルメットをつけて泥の海の中で訓練を受けているときに,意識が薄れてきて引き上げられた経験があります.

 なお,マスク潜水ではデマンド型のレギュレータを介して呼吸するために,炭酸ガスを吸入することは従来型のヘルメット潜水に比して少ないのですが,それでも作業量が大きくなると炭酸ガス中毒に罹患し得ることが報告されています(4).

 では,これの予防はどうすればよいのでしょうか.炭酸ガスの産生が少ない,則ち楽な潜水作業をすることもひとつの回答ですが,これは実際の潜水作業では意味をなしません.正解は換気を励行するという単純なことです.勿論,ヘルメット潜水では換気を励行することが決められていますが,それ以上に心がけることです.海上自衛隊で飛行機を引き揚げるために沢山のヘルメット潜水を行なったことがあります.重作業であることもあって当初は潜水終了後に頭痛を訴える潜水員が続出したのですが,換気を以前にまして念入りに行ったところ,頭痛を訴える潜水員が非常に少なくなりました(5).

〔炭酸ガス吸収剤〕
 スポーツダイバーには殆ど縁のない話ですが,炭酸ガス吸収剤の問題もあります.ヘリウム酸素ガス等の混合ガスを呼吸する場合,ガスが高価なので吐き出したガスを閉鎖式あるいは半閉鎖式の呼吸回路の中を再循環させてもう一度利用することがよくあります.この場合そのままでは炭酸ガスが回路の中にどんどん溜っていきますので,炭酸ガス吸収装置を回路の中に挿入して炭酸ガスを除去するようになっています.装置の中に装填される炭酸ガス吸収剤は基本的にはナトリウムやカルシウム(リチウムも使われますが高価です)の水酸化物で,
  M(OH)2+CO2→MCO3+H2O
の反応によって,ガスの中の炭酸ガスを取り除きます(Mはカルシウムなどを表します).
この炭酸ガス吸収剤はしかし,湿度や温度によって効果に大きな差がでてきます.特に冷たい所では能力が極端に小さくなりますので,注意が必要です.また,あまり乾燥しすぎるのもよくありません.しかしそれよりも重要なのは,確実に新しい炭酸ガス吸収剤を使用しているか否かです.ひどい場合は吸収剤を入れたパッケージそのものが装填されていない場合があります.そんな馬鹿なことがあるものか,と言われるかも知れませんが,それが現実なのです.米海軍の海中居住計画シーラブVは実験中にダイバーが死亡して中止になりましたが,その原因の一つが炭酸ガス吸収剤の装填忘れでした(6).潜水では,往々にして初歩的な間違いで致命的な事故を起こしますが,これはその一つです.


〔炭酸ガス中毒の影響〕
 炭酸ガス中毒は炭酸ガス中毒そのものの他に別の意味でも重要です.それは炭酸ガス中毒が他の病気を悪くする働きがあるからです(7).その主なものは,(1)減圧症に罹患しやすくする(8),(2)窒素酔いにかかりやすくする(9),(3)酸素中毒に陥りやすくする(10),の三つです.それぞれについては,該当の章で触れておりますのでこれ以上は述べませんが,このようなことは潜水の現場でいつも起こり得ることですので,軽く考えがちな炭酸ガス中毒についても注意を払っておく必要があります.

〔血中炭酸ガス分圧が高いダイバー〕
 最近はあまり話題にならなくなりましたが,よく潜っているダイバーの中には血中の炭酸ガス分圧が高い人,即ちCO2 retainerが沢山いるのではないかということについて触れておきます.それは,米海軍の潜水員の血液ガスを調べたところ,炭酸ガスの値の高い人が民間人の間でよりも高率に認められたということから,言われ始めました(2).これは,息こらえによって炭酸ガス分圧が高くなる状態にしばしば遭遇する潜水員の独特な適応の一つではないかとされたのですが,現在は必ずしも断定はされていません.しかし,炭酸ガスが元々高値な人がいることは確かです.この様な人は,高い炭酸ガス分圧に慣れているので,却って素潜りによる低酸素に陥り易いのではないかとも言われています.詳細は素潜りの章を参照して下さい.

(*注釈)空気中に含まれている炭酸ガスは0.04%弱ですが,呼気中の炭酸ガスは普通の状態で4%,水銀柱で30mmにもなり,重作業の場合は当然それよりも高くなります.一方,通常の動脈血の炭酸ガス分圧は40mmHgですが,潜水が安全に行えるためには,炭酸ガス分圧は70mmHg以下が望ましいとされています.このように僅かの差しかないので,血液ガスの炭酸ガス分圧は絶対に吸入ガスの炭酸ガス分圧より小さくはならないという原則を考えれば,一度吐いたガスをもう一度吸入することの危険性がよく判って頂けると思います.潜水の実用性という点を勘案すれば,あまりに理想に走るのは問題ですが,吸入ガスの炭酸ガスの許容値は10mmHg程度ではないかとする考えもあります(3).しかし,このためには換気量を大幅に増やさなくてはなりません.許容値をもう少し高くすれば換気量を少なくすることができます.結局,この場合も理想と現実の間の兼ねあいになるわけです.