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まえがき                               

 最近はわが国でも潜水が非常に盛んになってきました.以前は業務としての潜水が中心であったのに対して,スポーツあるいはレクリエーションとして潜水を楽しむ人が飛躍的に増加してきています.その結果,と決めつけるのは早計かもしれませんが,潜水が気軽に手の届くところにあるような錯覚が生じているように思えてなりません.民間の潜水訓練所では,「泳げなくても簡単に潜れます」という言葉をキャッチフレーズにしているところもあるやにききます.しかし,潜水はそのように安易なものではありません.

 私は海上自衛隊の潜水医官(もぐりの医者とからかう仲間もいますが)として,潜水員の間に混じって船の上や研究部隊で勤務してきました.その間,潜水員から様々な質問を受けましたが,それに対して常に適切なアドバイスができたとは思えないこと,そしてちょっと失礼な言い方ですが,業務として潜水に従事している海上自衛隊の潜水員でも潜水医学の基本的な知識が必ずしも十分ではないことを,潜水員に身近に接しながら痛感してきました.また,大事に至り兼ねない事例も決して少なくありません.

 海の中では自分自身しか頼れるものはありません.困難な場面に直面しても救急車が来てくれるわけではないのです.したがって,潜水を安全に行うためには基本的な潜水医学の知識を身につけることが要求されますが,残念ながらダイバーにとって読みやすく有用なこの種の本はわが国では極めて少ないのが現状です.このようなことから,本書を書くことにしました.

 この本の目的は,まず第一に,指導的立場にあるダイバーの方にやや詳しく潜水医学の系統的な知識を提供することにあります.ですから,本書は医師にとって不要と思える医学の基礎的な事項についても触れるとともに,潜水医学の本格的な成書ではないので微にいり細にわたる記載は避けました.逆に,潜水で注意しなければならないこと,あるいは軽視されたり忘れられていることに重点をおいて,できるだけ実際の潜水の場面に当てはまるように具体的な記述に心がけました.

 第二に,医師の方にとっても潜水医学の体系的な知識が得られるようにつとめました.潜水を楽しむ人の数が飛躍的に増え,再圧タンクが多くの病院に装備されていることと相俟って,潜水とは無縁の医師も潜水に起因する疾病に対処しなければならない機会が増加してきているからです.従って,簡明を心がけましたが,ダイバーにとっては必ずしも必要とは言えない治療に関する事柄などについても,ある程度詳しく述べました.

 潜水は,潜水用装具等のハードウェア,ソフトウェアとしての訓練や作業手順の確立,及び活動の場としての海洋気象の三者にまたがる,規模は小さいのですが典型的な学際分野の活動の一つです.そして,潜水医学に対するそれなりの理解はハードウェア・ソフトウェア双方の向上に大きく関わっています.潜水医学が中身が見えないいわゆるブラックボックスであってはいけません.潜水医学が医師や生理学者だけに理解可能な言葉で語られるのであれば,意義が半減します.潜水装具のメーカー,潜水作業を指揮監督する人あるいはダイバーその人,それに医師の間の垣根を出来るだけ低くして,情報を交換し合い,より効率的より安全な潜水を目指していくのが,理想的な姿です.そのような方向への一助となることも本書も目的の一つです.

 なお,本書では海上自衛隊特有の,というよりも軍事用の潜水についても触れました.一般の民間ダイバーにとっては不用であるかもしれません.しかし,潜水医学は米海軍をはじめとする海軍で発達を遂げ,多くの知識が海軍の潜水から得られたこと,及び私が潜水医学の知識を得た場が海上自衛隊にあることを考えましたならば,若干軍用潜水に触れてもよいのではないかと思いました.その方がこれから先出版されるべき他の潜水医学の書と違った特徴があり,却って有用ではないかと思ったからです.また一部私自身の僅かな経験から判断した記述もありますが,これはあくまでダイバーにとっての有用性を第一の目標としたためでありますので,ご理解願いたいと思います


 本書がダイバーの方,あるいは臨床の最前線にたっている医師に読まれ,安全な潜水に少しでも寄与できましたら,またそれ以外の方の目にも触れて,潜水の限界や可能性についてより正確に広く理解して頂くことに役立つことができましたら,非常に嬉しく思います.