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* 『書紀区分論』への誘い(その8) *
前回の最後で作った表に 安本美典氏 による天皇の在位期間・年齢の引き延ばしの有無を追加したのが下の表です。 こうしてみると 「儀鳳暦」 で記された神武から安康までの部分は、ますますなんらかの操作がなされている感じが強まります。 また雄略紀が画期であることも鮮明に感じられますね。 あと一つ、持統天皇の崩御(大宝二年)も追加記入しました。
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さてここでもう一度、森分類の α群 に注目してみましょう。 すると α群 には前後2つのグループがあることに気づきます。 卷第14雄略紀~卷第21用明・崇峻紀の一群と卷第24皇極紀~卷第27天智紀の一群です。 ここでは仮に前者を α1群、後者を α2群 と名づけます。 書紀はまず α群 の 卷第14雄略紀 から記述が開始されたと考えられます。 ではなぜ α群 が連続していないのでしょうか。 何らかの理由で α群 の記述者が記述を続けられなくなり、いったん卷第22推古紀・卷第23舒明紀を他の記述者にまかせ、ふたたび卷第24皇極紀から筆をとったのでしょうか。 そう考えるよりも、むしろ α1群 と α2群 は二人の人物がおのおの分担して並行して記述を開始したと考えたほうが自然です。
α1群 は雄略紀からスタートしました。 それは雄略紀が古代史の一大画期だったからです。 ではなぜ α2群 は皇極紀からスタートしたのでしょうか。 やはり皇極紀が画期だったからです。 すなわち 「乙巳の変」 は皇極紀にあたり、以後の大化の改新から天武朝へ直接連続する時代だったからだと考えられます。 たとえば天武朝の時代から見た雄略以後は前近代、つまり今のわたしたちが江戸時代をみるようなもの、皇極以後は近代史つまり明治以降を見るようなものだったのではないでしょうか。
以下 α1群 の記述者を 記述者α1、α2群 の記述者を 記述者α2 と仮定し、 α1群 と α2群 の特徴をみてみることにします。 一般に、文章にはその記述者の 「書き癖」 というものがあり、たとえば 「よく使用する語彙」 であるとか 「文脈のたてかた」 などに、それぞれクセが出るものです。 森氏の分析によると、やはり 記述者α1 と 記述者α2 には異なったクセがあり、α1群 と α2群 には次のような違いがありました。
| 1. | 他書を引用する場合の 「一本云」 は全巻で21例あるが、それはすべて α1群 に存在する。 |
| 2. | 祖先をさす 「先」 は全巻で13例あるが、これもすべて α1群 に偏在する。 |
| 3. | 「皇祖母」 は全巻で14例あるが、これはすべて α2群 に偏在する。 |
そこで、次のように結論づけられます。
書紀は、まずはじめに α1群 が 記述者α1 によって、α2群 が 記述者α2 によって同時並行的に記述が開始された。 そしてなんらかの理由(たとえば老齢であるとか、政治情勢であるとか)により 記述者α1・記述者α2 は書紀撰述の途中で記述を続けられなくなり、その残りを倭人で正格漢文を学んだ記述者(これも複数である可能性は大いにある)が引き継いだ。
次に、これまで保留してきた 卷第30持統紀 について見てみましょう。 この卷には次のような特徴があります。
| 1. | 倭習が少なく β群 よりもむしろ α群 に近い。 しかし 卷30 には以下のような他に見られない独自の特徴がある。 |
| 2. | 「群臣」 は全部で109例あり α群・β群 の両群に散在するが、卷30には一例もあらわれない。 |
| 3. | 他方、「公卿百寮人」 は全9例すべてが卷30に偏在する。 |
| 4. | 他卷ではたとえば 「大津皇子」・「高市皇子」 とするが、卷30だけは 「皇子」 の位置が前にきて 「皇子大津」・「皇子高市」 と倒錯する。 |
| 5. | 卷30では同列のものを併記する場合、「奉幣于四所伊勢・大倭・住吉・紀伊大神」 のように、その数量を前に置く。 |
さらにその記述者のことを考慮すると次のようなことがいえます。
卷30は持統天皇が崩御してしばらくしてから記述が開始されたと考えられます。 そもそも史書とはそういうもので、最高統治者が存命中にその統治者のことを書くのは、さまざまな理由で困難であるからです。 (これはわたしのカンですが、おそらく卷30の開始は元明朝ころだったのではないでしょうか。)
となると卷30の記述者は正格漢文に通じてはいますが、真っ先に書紀を記述し始めてしかもその完成をみることなく筆をおいた 記述者α1・記述者α2 であると想定するのは難しくなります。 一方、β群 の記述者とも異なる 「正格漢文の技術」 と 「書き癖」 を持っています。
このような理由で森氏は卷30を α群・β群 のどちらにも属さない独立した特徴を持つ卷と位置づけたのです。
最後に、これまでの表に α1・α2 の区別を書き入れておきます。
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さて長々続けてきたこのコーナーもいよいよこれでおしまいです。
書紀はその内容も興味深いものですが、このように書紀そのものを研究することによって解けてくる謎があります。 もしあなたが中高生くらいの若いひとで、このコーナーをご覧になり、「面白い!」 と感じられたなら、これからひとつ研究を始めてみませんか。 大いに期待しています。 わたしはもう無理です、トシなので…。(苦笑)
それにしても先人たちの努力には頭がさがります。 もし彼らの手元にコンピュータがあり、書紀の電子テキストがデータとして利用できていれば、これらの研究ももっと労力が少なくてすんだだろうにと思います。 ただし記述者の 「書き癖」 だとか 「倭習」 を拾い出すといった芸当は機械ではまだまだ無理でしょうね。 とはいえ史料をコンピュータであつかえるデータにしてゆけば、統計的手法を駆使してさらに精緻に、より正確に、もっと迅速に分析が可能になると期待できます。 データ処理という 「作業」 は機械にやらせ、人間はそのあいた労力をより 「分析」 にふりむけるのです。 これからはそうあってほしいとわたしは願っているのですが、それには漢字コードがあまりにもお粗末…あ、いつもの愚痴になってしまいそうなので、このへんでやめておきます。
なお、このコーナーの大部分は 森博達氏 の以下の著書を参考にしました。 興味を抱かれた方には、一読をおすすめしておきます。
『日本書紀の謎を解く』(中公新書1502)
初版発行:1999年10月25日
発行所:中央公論社
本日もご覧いただきありがとうございました。…(NHKの松平アナウンサー風に)<(__)>
(おしまい)