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* 『書紀区分論』への誘い(その6) *


 今回は暦の伝来と書紀の編纂の過程を時代を追って眺めてみようと思います。


 卑弥呼の時代つまり3世紀の倭人はまだ暦を知りませんでした。

 魏略 三國志 魏書 東夷伝 倭人 裴松之注 より
 其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀

 その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収をはかり年紀となす。

 こののち倭人が自力で暦を発明することはなく、中国で発明された暦が、かなり後の時代になってから倭国にもたらされたのです。


 では、暦が倭国にもたらされたのはいつだったのか。 それを知るには書紀の記述に頼るしかありませんが、残念ながら書紀にははっきりとした記載がありません。 なんとかそれらしい記述があらわれるのは、ずっと時代がくだった欽明天皇の十四年(553年)になります。 ちなみに、欽明天皇は聖徳太子の祖父にあたります。


 日本書紀 卷第十九 天國排開廣庭天皇 欽明天皇

(十四年)


 六月 遣内臣【闕名】 使於百濟 仍賜良馬二匹 同船二隻 弓五十張 箭五十具 勅云 所請軍者 隨王所須 別勅 醫博士 易博士 暦博士等 宜依番上下 今上件色人 正當相代年月 宜付還使 相代 又卜書 暦本 種種藥物 可付送

 六月。 内臣(うちつおみ)【名を闕(か)きたり】を遣わし、百濟に使いせしむ。 よりて良馬二匹・同船二隻・弓五十張・箭五十具を賜う。 勅(みことのり)して云いしく、「請(もう)す所の軍(いくさ)なるは、王(こきし)の須(もち)いん所の隨(まにま)ならん」と。 別に勅して、「醫博士・易博士・暦博士等、宜(よろ)しく番に依(よ)りて上り下るべし。今、上の件の色(しな)の人は、正に相い代(かわ)らん年月に當れり。 宜しく還る使に付して相い代らしむべし。また卜書・暦本・種種の藥物、付送すべし」と。

 「醫博士・易博士・暦博士等が交代の年月になったので、代わりの者をよこすように。 また卜書・暦本・種種の藥物を送るように」 との要請ですね。 これに対し、その翌十五年(554年)に交代要員が到着します。

 日本書紀 卷第十九 天國排開廣庭天皇 欽明天皇

(十五年 二月)


 五經博士王柳貴 代固德馬丁安 僧曇慧等九人 代僧道深等七人 別奉勅 貢易博士施德王道良 
暦博士固德王保孫 醫博士奈率王有陀 採藥師施德潘量豐 固德丁有陀 樂人施德三斤 季德己麻次 季德進奴 對德進陀 皆依請代之


 五經博士の王柳貴(おうりゅうき)を固德馬丁安(ことくめちょうあん)に代う。 僧曇慧(どんえ)等九人を、僧道深(どうじん)等七人に代う。 別に勅を奉じて、易博士施德王道良(せそくおうどうりょう)暦博士固德王保孫(ことくおうほうそん)、醫博士奈率王有(なそちおううりょうだ)、採藥師施德潘量豐(せとくはんりょうぶ)・固德丁有陀(ことくちょううだ)、樂人施德三斤(せとくさんこん)・季德己麻次(きとくこまし)・季德進奴(きとくしんぬ)・對德進陀(たいとくしんだ)を貢る。 皆請(もう)すに依りこれを代う。

  これによりわかることは、欽明天皇の十四年(553年)以前から百濟の暦博士が倭国に来ていたこと、そしてそれは交代制であったことです。 しかし、いつから、どんな暦が使用されていたのでしょうか? 次に暦の記事が見えるのは、推古天皇の十年(602年)になります。

 日本書紀 卷第廿二 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇

(十年)


 冬十月 百濟僧觀勒來之
 仍貢暦本及天文地理書 并遁甲方術之書也 是時 選書生三四人 以俾學習於觀勒矣 陽胡史祖玉陳習暦法 大友村主高聰學天文遁甲 山背臣日立學方術 皆學以成業

 冬十月。 百濟僧の觀勒(かんろく)來る。 よりて暦本および天文地理書、并せて遁甲方術の書を貢るなり。 この時に、書生三四人を選び、以って觀勒に學習せしむ。 陽胡史(やこのふひと)の祖(おや)玉陳(たまふる)暦法を習い、大友村主(おおとものすぐり)高聰(こうそう)は天文遁甲を學び、山背臣(やましろのおみ)日立(ひたて)は方術を學ぶ。 皆學び以って業を成す。

 書紀によればこのとき聖徳太子の弟の久米皇子は、新羅の攻撃から任那を救援するため、二万五千の軍勢をひきいて筑紫に待機していました。 しかし久米皇子は軍陣で病に臥せ、翌年二月に亡くなります。 時代はそのようなときでした。 さて、今引用した記事には 「陽胡史(やこのふひと)の祖(おや)玉陳(たまふる)が暦法を習った」 とありますが、このとき彼が習った暦法はどのようなものだったのでしょうか。


 中国では古くから暦が作成され、その作成方法(これを「暦法」といいます)も時代を経るにつれ精緻なものとなり、新しい理論が確立されるたびに何度か暦法の改定(これを「改暦」といいます)が行われました。
 ところで、さきに引用した欽明天皇十四年は西暦553年、推古天皇の十年は西暦602年と推定されます。 この時期に中国で使用されていた暦は 「元嘉暦(げんかれき)」 という暦でした。 「元嘉暦」 は中国南朝の宋で元嘉二十年につくられ、元嘉二十二年(西暦445年)から使用された暦です。 したがって、「陽胡史(やこのふひと)の祖(おや)玉陳(たまふる)」 が習った暦法は この 「元嘉暦」 であったと考えられるわけです。


 余談ながら「元嘉暦」の暦法は、中国正史のうちの 『宋書(卷十三 志第三 律暦下 元嘉暦法)』 に記されており、その暦元(暦の理論上のスタート時点)はB.C.1,613年の正月中雨水の時刻がの時刻とともに0時0分で一致し、その日の干支甲子であったとして計算を始めます。 また1年(1太陽年)の長さは 365.24671053日 とし、ひと月(1朔望月)の長さは 29.530585106日 としています。 その他の 「元嘉暦」 についての情報は Wikipedia「元嘉暦」 を参照してみてください。
 なお、ここで正月中雨水(しょうがつちゅううすい)、朔(さく)、干支(かんし)、太陽年、朔望月(さくぼうげつ)などという用語が出てきて戸惑われたかもしれません。 そんなあなたには下記のサイトをご紹介しておきます。


 << お薦めサイト >>
     ●国立国会図書館 日本の暦
     ●旧暦のしくみ
     ●こよみのページ


 次にいよいよ書紀成立へむけての記事が登場します。 推古天皇二十八年(620年)の聖徳太子による天皇記・国記の編纂記事です。

 日本書紀 卷第廿二 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇

(廿八年)


 是歳 皇太子 嶋大臣共議之
 録天皇記及國記・臣・連・伴造・國造・百八十部并公民等本記

 この歳。 皇太子(ひつぎのみこ/=聖徳太子・嶋大臣(しまのおおおみ/=蘇我馬子共に議(はか)りて、天皇記および國記、臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・國造(くにのみやつこ)・百八十部(ももやそのとものお)(あわ)せて公民(おおみたから)(ども)の本記(もとつふみ)を録す。

 私見ですが、この天皇記・国記にもし何らかの年月日が記されていたとすると、それは聖徳太子の当時おこなわれていた 「元嘉暦」 によって記されたのではないでしょうか。


 時代は移り、やがて朝廷から蘇我氏勢力の排除をもくろむ中大兄・中臣鎌足らによるいわゆる 「乙巳の変(645年)」 がおこります。 このとき天皇記・国記は、甘樫丘の蘇我邸もろとも焼亡の危機にさらされます。

 日本書紀 卷第廿四 天豐財重日足姫天皇 皇極天皇

(四年 六月)


 己酉 蘇我臣蝦夷等臨誅 悉燒天皇記國記珍寶 船史惠尺即疾取所燒國記而奉獻中大兄


 己酉(つちのととりのひ/十三日。 蘇我臣蝦夷(そがのおみえみし)等、誅さるるに臨み、悉く天皇記・國記・珍寶を燒く。 船史惠尺(ふねのふひとえさか)即ち疾(と)く燒かるる國記を取りて中大兄に獻じ奉る。 

 天皇記・国記はなぜか官におさめられることもなく、蘇我氏が保管していたようです。 どうして国庫におさめられなかったのか? これも謎ですが、しかしこうして国記だけはどうやら中大兄(のちの天智天皇)が手にするところとなりました。 ところがこの後、国記がどうなったのか書紀にはそのことに関する記事がみあたりません。 そしてそのまま時は流れ、天智天皇は崩御し、天皇の子の 大友皇子 と、天皇の弟で大皇弟と呼ばれた 大海人皇子 との抗争いわゆる 「壬申の乱」 が勃発します。 国記はこの戦乱で焼けたのでしょうか? それとも戦火をのがれ後の書紀編纂への資料となったのでしょうか? これも謎ですが、ともあれ国記は今は現存しない佚書となりました。


 「壬申の乱」 に勝利した大海人皇子は即位して天武天皇となり、書紀の編纂開始を指示します。

 日本書紀 卷第廿九 天渟中原瀛真人天皇 天武天皇 下

(十年 三月)


 丙戌 天皇御于大極殿 以詔川嶋皇子 忍壁皇子 廣瀨王 竹田王 桑田王 三野王 大錦下上毛野君三千 小錦中忌部連首 小錦下阿曇連稻敷 難波連大形 大山上中臣連大嶋 大山下平群臣子首 令記定帝紀及上古諸事 大嶋 子首 親執筆以録焉


 丙戌(ひのえいぬのひ/=十七日。 天皇、大極殿に御(おわしま)して、詔を以って川嶋皇子(かわしまのみこ)・忍壁皇子(おさかべのみこ)・廣瀨王(ひろせのおおきみ)・竹田王(たけだのおおきみ)・桑田王(くわたのおおきみ)・三野王(みののおおきみ)・大錦下(だいきんげ)上毛野君(うえつけののきみ)三千(みちじ)・小錦中(しょうきんちゅう)忌部連(いんべのむらじ)(おびと)・小錦下(しょうきんげ)阿曇連(あずみのむらじ)稻敷(いなしき)・難波連(なにわのむらじ)大形(おおかた)・大山上(だいせんじょう)中臣連(なかとみのむらじ)大嶋(おおしま)・大山下(だいせんげ)平群臣(へぐりのおみ)子首(こびと)に帝紀および上古諸事を記し定めしむ。 大嶋・子首、親(みずか)ら筆を執り以って録す。

 これが書紀編纂プロジェクトのスタートでした。 当時日本で行われていた暦法は依然として 「元嘉暦」 です。 したがって、書紀の編纂がスタートした時に最初に記述された卷では 「元嘉暦」 がもちいられたと考えられます。 しかし 「元嘉暦」 は、もう旧式の暦法でした。 中国の唐ではその年号で麟徳二年(西暦665年)に新しい暦法による暦が作成され使用されました。 これを 「麟徳暦(りんとくれき)」 といい、日本へは唐の年号で儀鳳年間(西暦676~679)に伝来したため、わが国ではこれを 「儀鳳暦(ぎほうれき)」 とよびならわしています。


 ふたたび余談ながら「儀鳳暦(麟德暦)」の暦法は、同じく中国正史のうち 『舊唐書(卷第三十三 志第十三 暦二 麟德甲子元暦)』 および 『新唐書(卷二十六 志第十六 暦二 麟德暦)』 に記されており、その暦元(暦の理論上のスタート時点)はB.C.269,218年の11月の冬至の時刻がの時刻とともに0時0分で一致し、その日の干支甲子であったとして計算を始めます。 また1年(1太陽年)の長さは 365.24477612日 とし、ひと月(1朔望月)の長さは 29.530597015日 としています。 その他の 「儀鳳暦」 についての情報は Wikipedia「儀鳳暦」 を参照してみてください。


 さて、天武天皇が亡くなると次にその皇后が即位しました。 書紀の最末尾の第三十卷に記されることとなる持統天皇の登場です。 その持統天皇の四年(690年)十一月のこと。

 日本書紀 卷第三十 高天原廣野姫天皇 持統天皇

(四年 十一月)


 甲申 奉勅始行元嘉暦與儀鳳暦


 甲申(きのえさるのひ/=十一日。 勅を奉じ始めて元嘉暦と儀鳳暦を行う。

 ここに古い 「元嘉暦」 を捨てて、新式の 「儀鳳暦」 を採用することになったのです。 しかし一気に切り替えるのではなく、しばらくのあいだは猶予期間として旧式の 「元嘉暦」 と新式の 「儀鳳暦」 を併用することにしたようです。 この間も書紀の編纂は国家事業として継続しています。 その最中に暦が変更されたのです。
 また、以下の記事も書紀編纂に関係しているとみられます。

 日本書紀 卷第三十 高天原廣野姫天皇 持統天皇

(五年)


 八月己亥朔辛亥 詔十八氏【大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇】 上進其祖等墓記


 八月(はつき)己亥(つちのとい)の朔(ついたち)辛亥(かのとい)のひに、十八氏【大三輪(おおみわ)・雀部(さざきべ)・石上(いそのかみ)・藤原(ふじわら)・石川(いしかわ)・巨勢(こせ)・膳部(かしわで)・春日(かすが)・上毛野(かみつけの)・大伴(おおとも)・紀伊(きい)・平群(へぐり)・羽田(はた)・阿倍(あべ)・佐伯(さえき)・采女(うねめ)・穗積(ほづみ)・阿曇(あずみ)】に詔して、其の祖等の墓記を上進せしむ。



 「元嘉暦」 と 「儀鳳暦」 の併用は持統天皇在位の間は続き、次の文武天皇元年すなわち 『続日本紀』 の時代から 「元嘉暦」 は完全に廃止され、 「儀鳳暦」 のみが使用されるようになります。 


 文武天皇の次が元明女帝で、彼女は和銅四年(711年)九月に詔により太安万侶に『古事記』編纂を命じました。 安万侶は翌年の和銅五年(712年)正月に『古事記』三巻を献上します。(『古事記/上卷并序」を参照) この間、書紀はまだ成立していません。 書紀編纂プロジェクトは続いていたのです。 


 なお、元明朝の和銅六年(713年)には『風土記』編纂に関係するらしい記述があります。 ついでながら、ここに挙げておきます。

 続日本紀 卷第六 日本根子天津御代豐國成姫天皇 元明天皇 

(和銅六年 五月)


 甲子 畿内七道諸国郡郷名 着好字 其郡内所生 銀・銅・彩色・草・木・禽・獣・魚・虫等物 具録色目 及土地沃塉 山川原野名號所由 又古老相傳旧聞異事 戴于史籍言上


 甲子(きのえねのひ/=二日。 畿内と七道との諸国の郡(こおり)(さと)の名は、好字を着けしむ。 其の郡の内に生(な)れる所の銀(しろがね)(あかがね)彩色(さいしき)(くさ)(き)(とり)(けもの)(うお)(むし)等の物は、具(つぶさ)に色目(しきもく)を録し、及び土地の沃塉(よくせき)、山川(さんせん)原野(げんや)の名號(みょうごう)の所由(しょゆう)、又、古老の相傳する旧聞・異事は、史籍(しせき)に戴(しる)して言上せしむ。



 また、翌年の和銅七年(714年)にも次のような記述があります。

 続日本紀 卷第六 日本根子天津御代豐國成姫天皇 元明天皇 

(和銅七年 二月)


 戊戌 詔從六位上紀朝臣淸人、正八位下三宅臣藤麻呂に 令撰国史


 戊戌(つちのえいぬのひ/=十日。 從六位上紀朝臣淸人・正八位下三宅臣藤麻呂に詔して国史を撰せしむ。



 そして天武朝における編纂事業開始から約40年がすぎた元正天皇の養老四年(720年)、ついに書紀全三十巻・系図一巻が完成します。

 続日本紀 卷第八 日本根子高瑞浄足姫天皇 元正天皇 中

(養老四年 五月)


 先是 一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷 系図一卷


 これより先、一品(いっぽん)舎人親王(とねりしんのう)、勅を奉じ日本紀を修む。 ここに至り、功成りて奏上す。 紀卅卷、系図一卷。



 引用がたくさんになり、長くなってしまいました。
 今回のテーマは暦の伝来と書紀の編纂の過程でしたので、以上を簡単にまとめると次のようになります。


1.倭国での暦の使用の始まりは不明だが、欽明天皇十四年以前からすでに半島から伝わっていた。
2.欽明天皇・推古天皇の記事にみえる暦は中国の 「元嘉暦」 であったと考えられる。
3.天武天皇が書紀編纂プロジェクトをスタートさせたが、その当時はまだ引き続き 「元嘉暦」 が使用されていた。
4.持統天皇から文武天皇へ天皇位が引き継がれたときに暦が 「元嘉暦」 から 「儀鳳暦」 へ切り替えられた。
5.元正天皇の養老四年。 ついに書紀が完成した。


 さて問題は、「書紀編纂作業の真っ最中に、歴史に年月日を記すための基準である 『暦法』 が変更された」 ということです。 このとき、すでに完成していた卷もあったでしょうし、ちょうど執筆中の巻もあったでしょう。 無論、未着手の卷もあったと考えられます。 このような状況で、書紀編纂プロジェクトは混乱しなかったのでしょうか? この困難を執筆者たちはどう解決したのでしょうか?


 それを窺い知ることのできる研究がありますので、次回はそのご紹介といたします。


 (続く)

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