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●上宮記 豆知識

 上宮記逸文としては下記の二つが知られており当サイトでも別ページでUPしています。


    ① 『釋日本紀』 卷十三 述義九 第十七 男大迹天皇 に引く 「上宮記曰 一云…」
    ② 『聖徳太子平氏伝雑勘文』 下ノ三 上宮太子御子孫竝后等事 に引く 「上宮記下巻注云…」


『釋日本紀』 卷十三 述義九 第十七 男大迹天皇 に引く 「上宮記曰 一云…」について


 ① の 『釋日本紀』 卷十三 述義九 第十七 男大迹天皇 に引く 「上宮記曰 一云…」 の逸文は通称 「上宮記曰一云」 とか 「上宮記一云」 などと呼称されています。 ところで当サイトでは省略しましたが 『釋日本紀』 では 『上宮記』 を引用したあとに、文章だけではわかりにくいと考えたためか 男大迹天皇 の系譜を図(系図)にして記しています。 いまそれを簡略化して図示すると次の (系図1) のようになります。

(系図1)
凡牟都和希王 (応神天皇)
若野毛二俣王
大郎子
汗斯王
乎富等大公王 (継体天皇)

 しかし、実はこの 『釋日本紀』 の系図は間違っています。 「上宮記一云」 にしたがって読むと 男大迹天皇 の系譜は次の (系図2) のようになります。

(系図2)
凡牟都和希王 (応神天皇)
若野毛二俣王
大郎子
乎非王
汗斯王
乎富等大公王 (継体天皇)

 『古事記』 では 継体天皇 は 応神天皇 の五世の孫とされています。 また 『日本書紀』 では応神天皇 の五世の孫で 彦主人王 の子と書かれています。 さてどう解釈すべきなのでしょうか。 この系図に続き 『釋日本紀』 には 卜部兼方 の次の文章が続きます。 参考のためにここに収録しておきます。


 兼方案之 継躰天皇之祖考上宮記之外更無所見 仍就彼記注之 母后如古事記者 彦主人王之妹也 

 兼方これを案ずるに、継躰天皇の祖を考うるに上宮記のほか更に所見無し。 すなわち彼の記の注に就(つ)く。 母の后は古事記の如く、彦主人王(ひこうしのみこ)が妹なり。 (獺祭注:古事記に 彦主人王 の名は見えない。 彦主人王 が登場するのは前記のとおり 『日本書紀』 巻第十七 男大迹天皇(繼體天皇)紀 である。)  


 なお、「上宮記一云」 は 凡牟和希(ホムワケ) と記していますが、 応神天皇 なら ホムワケ でなければなりません。 よって 凡牟都和希 に ホムタワケ とルビをふる本もあるのですが、 『都』 を (タ) と読むのは無理だと思います。 そこで当サイトでは漢字表記のままに ホムツワケ としておきました。


 また系譜を 「伊久牟尼利比古大王 生兒伊波都久和希‐兒伊波智和希‐兒伊波己里和氣‐兒麻和加介‐兒阿加波智君‐兒乎波智君…」 と次々にたたみかけるようにつなげて記す形式は、稲荷山古墳出土の鉄剣銘文の 「上祖名意冨比垝‐其子多加利足尼‐其子名弖已加利獲居‐其子名多加披次獲居‐其子名多沙鬼獲居‐其子名半弖比‐其子名加差披余‐其子名乎獲居臣」 を連想させて興味深く思えます。


 ちなみに、「上宮記一云」 は 『上宮記』 の本文ではなく、『上宮記』 が他の史料を引用している部分であるということに留意が必要です。 ではこの 『上宮記』 が引用した 男大迹天皇 の系譜の出典は何かというと、これは不明と言うほかなさそうです。


『聖徳太子平氏伝雑勘文』 下ノ三 上宮太子御子孫竝后等事 に引く 「上宮記下巻注云…」について


 こちらは上宮家の系譜で、他にはない人名など見え貴重な史料です。 さて、法大王(=聖徳太子)と 菩支々弥郎女 との間に生まれた子供たちの人数ですが、なにげなく読むと 舂米女王 から 馬屋古女王 まで全部で八人のように見えます。 ところが本文では 合七王也 と、全部で七人であると書いてあります。 いったい一人はどうしたのでしょう。 この秘密は 三枝王(さきくさのみこ) にあるようです。 他の子は単に名を記すのみですが 三枝王 より下の三人の子は 兄・伊等斯古王/弟・麻里古王/次・馬屋古女王 とそれぞれに 「兄」「弟」「次」を冠して、他とはちょっとかわった書き方がされています。 どうやら 三枝王 というのは一人の名前ではなく三つ子の皇子たちという意味で、すなわち 伊等斯古王/麻里古王/馬屋古女王 の三人の総称として書かれているらしいのです。 そうなると 三枝王 を除いて人名を数えると、本文の言うとおり全部で七人の皇子たちということになります。


 もっとも、 『上宮聖徳法王帝説』 では、 三枝王 を一人と数え、全部で八人であるとしています。 対照のため表にしてみると次の通りです。

  (上宮聖徳法王帝説)  (上宮記)
舂米女王 舂米女王
長谷王 己乃斯重王 (長谷部大王)
久波太女王 久波侈女王
波止利女王 波等利女王
三枝王 *****
伊止志古王 伊等斯古王 (三枝王のうちの一人)
麻呂古王 麻里古王 (三枝王のうちの一人)
馬屋古女王 馬屋古女王 (三枝王のうちの一人)
  已上八人   合七王也



 なお、この逸文も 『上宮記』 本文ではなく 『注』 であるということに留意しなければなりません。 しかも当サイトのページでも記述したとおり、この引用のあとに 「但注後人撰」 とあり、法空 がどのような根拠で記したものかはわかりませんが、この 『注』 がもとから 『上宮記』 にあったものではなく、後に別の人が追記したものであると書いてあります。 そうなると 『上宮記』 の本文は今や一文字たりとも残っていないということになります。


他の『上宮記』逸文資料について


 他に 『天寿國曼荼羅繍帳縁起勘点文』 に引用されている上宮家系譜に、前述②『聖徳太子平氏伝雑勘文』 にひく 『上宮記』 の系譜と一致するものがあることが 飯田瑞穂氏 によって指摘されています。 しかし 『天寿國曼荼羅繍帳縁起勘点文』 では 「或書」 として引用されており、この 「或書」 が 『上宮記』 を指すものであるかどうかはさだかでなく、結局 『上宮記』逸文 として確実と考えられるものは上記の二つだけなのだそうです。
 なお、『釋日本紀』 には 『上宮記』 という言葉が他に三箇所確認されています。 以下、参考のためにその部分を挙げておきます。

 釋日本紀 巻第一 開題 より

 問 考讀此書 将以何書備其調度哉

 答 師説 先代舊事本紀・
上宮記・古事記・大倭本紀・假名日本紀是也


 釋日本紀 巻第五 述義一 第一上 國常立尊 より

 或書 問 國常立尊御名 誰人始稱 又若有所據爲號哉

 答 師説 假名日本紀・
上宮記 并諸古書皆有此號 但始稱之人無所見 上古之間無由據勘


 釋日本紀 巻第十六 秘訓一 浮漂 より

 又問 浮漂之義 依古事記可讀クラケナスタタヨヘル事也 而如字被讀如何

 答 師説 如古事記可讀然也 又假名日本紀・大倭本紀・上宮記等意亦同 而先師於溟涬之處被讀此訓 至于浮漂之處如字被讀也 今案 此處者浮漂文也 見古事記等所作也 至溟涬雖無古事記等 自經籍之中新所撰出也 然則倭語之訓不必讀之 仍今彼溟涬之處者ククモリテ
讀之 此浮漂二字クラケナスタユタヒテ可讀


 さて、以上見たように 『上宮記』 そのもの(本文)は今や一文字も現存していないということになります。 もっとも 卜部兼方 や 法空 がそれぞれその著書で引用しているわけですから、 『上宮記』 が鎌倉時代まで伝存していたことはかなり確実であるといえるでしょう。 いつの日にか、どこかの土蔵からひょっこりと 『上宮記』全三巻 が発見される日がくるのかも知れませんね。

 


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