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鎌倉幕府時代の鎌倉は鎌倉公方補佐役の上杉氏が関東管領として大きな職位を独占し公方と並ぶ勢力で上杉憲顕以後は上杉氏四流宗家の位置付をし、鎌倉幕府滅亡後の室町幕府では鎌倉に鎌倉府を置いて足利義詮の弟である足利基氏が鎌倉公方として鎌倉に下り東国十ヶ国を支配することになる。
この鎌倉公方の初代足利基氏に上杉憲顕と高師冬の二人が関東管領として着任するが,後に二代目氏満,第三代目満兼,第四代目持氏はいずれも10才〜21才の若年者で足利将軍の血縁者を補佐をする関東管領職には鎌倉幕府以来の重臣である上杉氏が実権を握り関東管領は上杉氏と固定することになる。
室町時代中期には山之内上杉,扇谷上杉,宅間上杉,犬懸上杉の館があった地名を被せた四流が存在し、宅間上杉氏は憲顕(山之内上杉)の兄である重能に始まりるが1349年{貞和五年(北朝暦),正平四年(南朝暦)}に高師直に殺された為に山内上杉家より能憲が養子となり宅間上杉氏を継承する。
後年に公方と管領が対立、上杉氏内部でも権力闘争が激しくなり,その隙間をついて伊勢氏(小田原北条)の勢力が相模に及び鎌倉の主は上杉氏に代わり小田原北条(後北条)の支配下となる。
大永元年(1521)上杉憲方は後北条氏に属し,本領の永谷八郷(現横浜市,港南区)を領としていたが安堵され、天正十六年(1588)北条氏直は宅間治部少輔規富氏の知行地不介入安堵している。同年十八年に豊臣秀吉により後北条は没落。
その後,上杉氏宅間治部少輔規富は徳川家康に仕え徳川旗本傘下で関が原の戦に出陣(上杉景勝には加担せず徳川側に組する)。恩賞として二俣川,上膳部(現膳部町)・下膳部(現四季美台)・今川町の知行を賜る。(写真:一族歴代の墓が保存されているはは貴重な史跡)
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