|
|
|
| ■森田真照氏■ | |
| 1952年生まれ | |
| 1979年 | 大阪医科大学卒業 大阪医科大学 一般 消化器外科に入局 |
| 1990年 | フランスパリ大学留学 |
| 1991年 | 大阪医科大学外科学講師 |
| 現 在 | 大阪医科大学外科学助教授 |
|
●専門分野は、肝胆膵の外科治療、腹腔鏡下手術。 ●『患者さんによくわかる検査・手術と生活指導』 などの著書や論文多数。
(プログラムから)
| |
現在の移植医療には、脳死患者から行う脳死移植と、生きた人が臓器提供者となる生体移植がある。これまで日本では、脳死移植は11人の方から、生体移植は1000人以上の人に行われている。平成9年に脳死が法律で人の死と決められて、脳死患者からの移植が始まったが、生体移植はそれより以前から行われている。臓器移植の問題から生死を問うというのが、今回のテーマであるが、臓器移植を考える上で脳死の問題と臓器提供の問題は二つに分けて考えるべきである。
私は氏の「臓器移植を考える上で脳死の問題と臓器提供の問題は二つに分けて考えるべきである。」 という意見には、首肯し得ない。なぜなら、「臓器の移植に関する法律」第六条第二項に、はっきりと以下のように示されているからである。
|
法に則って実施される「脳死」判定は、臓器移植を前提としているのであり、現時点でのこのクニでは、生体肝移植などの臓器移植からは「脳死」を切り離して考えることが可能であるとしても、「脳死」から臓器移植を切り離して考えることは不可能なのである。
氏は「脳死」や臓器移植について語っている方なのだから、法を理解していると決めつけてよいと思う。しかし、その理解を曲げてまで何か主張したいことがあるのだろう。そう考えて読み進めることとする。
まず、脳死を人の死と認めるか否かであるが、医学的には脳死から回復することはないとわかっていても、心臓が動いていて身体が温かい内は死とは認められないと思う人も多数いると考えられる。一方、実際にここ2年間に十数名の臓器提供者が出ていることも事実である。少なくともこれらの提供者および親族の方は、脳死を人の死と認めた訳である。しかし、現在も脳死と植物状態を混同されることも多く、脳死のことが万人に正確に理解されているとは言い難いと思われる。いずれにしても、最終的には脳死を人の死と認めるか否かは個人の責任において、それぞれ考えるべきことであろう。
わたしは以下のように考えている。
「臓器の移植に関する法律」の制定・施行により、「脳死」を法により一律で人の「死」としてしまおうとする動きは阻止された。わたしのように、「脳死」を人の「死」や「死亡」と同義であるとは考えない人間の立場が尊重されたわけである。
また、それと同時に、「脳死」を人の死とは認めない立場からの臓器提供への道も、同時に拓かれたのである。
法的な「脳死」判定後に自分や近親者からの臓器の摘出が実施されることを容認した人や、今後容認しようと考えているが一人残らず「脳死」を人の「死」や「死亡」と同義であると考えているかのように考えることは、実は単純な誤解に過ぎない。可及的速やかにそのような誤解から脱していただきたい。そして、もっとしっかり現実を認識していただきたい。
また、以上のような石田の主張は、中島みち『脳死と臓器移植法』文春新書 や、森岡正博の生命学ホームページ や、森岡氏の著書を参考にして形成されたモノである。決して石田のオリジナルな意見ではない。
また、尖端的な「脳死」や臓器移植理解では、このような「脳死≠死」とする考え方が「脳死=死」とする考え方よりも一般的となりつつある。誤解は助長されるべきではない。克服されるべきである。
臓器提供については、生体移植と脳死移植は別に考える必要がある。生体移植は、自分の家族が死に面しているのを、自分の臓器を提供することで救命できるとわかった時に、自分の命を投げ出してでも救いたいという愛情から出来るものである。現在、私も息子さんから肝臓を提供された患者さんを診ているが、当然ながら提供した方も、提供された方も大変な決意を要したようである。その患者さんは、今自分が生きているのは息子のおかげと感謝されている。また、生まれつきの病気が、肝臓移植でしか治らない子供さんの親と話す機会があるが、何とか自分の肝臓で治してやりたいとの気持ちがひしひしと伝わるのである。
先ほども言ったように、「臓器提供については、生体移植と脳死移植は別に考える必要がある」 。生体肝移植など生体移植の場合、万一の結果としてドナーが死ぬことがあるとしても、それは極めてまれなケースであり、前提ではない。
それに対し、「脳死」の人から臓器の摘出が行われる場合、そのドナーは確実に死んでしまう。それが前提である。よって、別のモノとして考えられるべきだろう。また、生体肝移植を選択しようとする人間の気持ちと、自分や他者が「脳死」と呼ばれる状態になった時にどうするかを選択した人間の気持ちとを同一のモノとして考えることも、避けなければならないだろう。
繰り返しになるが、生体肝移植と「脳死」とは切り離して考えることができる。だが、森田氏の主張するように、「脳死」と臓器移植とを切り離して考えることは、このクニでは、もはや絶対的に不可能なのである。
一方、脳死移植は、提供される側はいつも他者の死を待つ身となるわけであり、その心境は生体移植の待機患者より一層複雑であると思われる。また、待機リストに載って移植を待っている人は、臓器提供者が現れないと次々に亡くなっていくわけである。私自身もフランスで一年間、移植医療に携わってきたが、移植をしなければ数日以内に死亡したであろう人が、移植を受けて元気に家に帰っていく姿を見たときは感動したし、逆に待機リストの患者さんが亡くなっていく姿も見た。また、脳死になった患者の家族が泣き叫んでいる姿も印象的で、何も冷静に臓器提供を承諾しているわけではなかった。しかし、一般的には自分の臓器が自分の死後も他者の役にたつという喜びは認めていたようだ。このような患者さんの生の声を通して臓器提供の面から生死を考えてみたい。
森田氏のように、臓器不足と「脳死」とを絡めて考える考え方は非常に危険であると私は考える。なぜなら、臓器提供を待つ立場からすれば、より多くの他者が法的に・臨床的に「脳死」と診断され、それに続いて法的に「脳死」と判定される方が都合が良いからである。そして、はっきり言ってしまえば、そのためには一般の人間が公共広告機構のキャンペーンCM等から「脳死」に対するプラスのイメージだけをふくらませ、正確な知識を持たずに臓器提供意思表示カードの「1.」に○をするのが望ましい、かもしれないからである。
CMで、ある人はこう語る。「よくわかんねんだけど、良いことだからやっちゃえってんで‥‥」
よくわからないなら、自分の無知を積極的に認め、その無知を改善するための努力を開始すべきではないのか。
わたしが不思議なのは、「よくわからない」と認めているのに、それを「良い」ことだと信じ、一切疑っていない、疑おうとしていない、という事実である。なぜ「よくわからない」ものが「良い」と「わかった」のか。その基底には単なるイメージ操作しかないのではないか????????
わからないモノをイメージだけで「良い」と決めつけるべきではないのではないか。
氏は「このような患者さんの生の声」 と言うが、それに耳を傾けるだけではなく、正確な情報を共有して欲しい。知識なき共感は何を生むのだろう。非常に不安だ。もちろん、正確な情報を共有した他者が私とは異なる選択肢をえらぶことを、わたしは否定するつもりはない。
臓器移植はまさに生と死に直面した医療であり、私自身真剣に生死を考えてきたのかと深く考えさせられた。大切なことは、個人個人が人の生死を普段からしっかりと考え、臓器移植についても自分の意志をはっきりと表明することができる事であると考える。
そして、もっともっと大切なことは、正確な情報を得ることである。イメージや感情に左右されるのが人間であるが、正確な情報を手にし、然るべき後に思考し、態度表明をすべきではないだろうか。闇雲に意思ばかりを決定したり表明したりすることを偽善の糖衣でくるみ奨励するのは、私は間違っていると考える。
| ■徳永道雄氏■ | |
| 1941年生まれ | |
| 1965年 | 大阪外国語大学英語学科卒業 |
| 1985年 | ハーバード大学 世界宗教研究センター客員研究員 |
| 1987年 | ハーバード大学神学部客員教授 |
| 現 在 | 京都女子大学文学部教授 |
|
●現在、本願寺国際センター翻訳研究員・ 浄土真宗教学研究所聖典編纂医院などをつとめる。 ●『神学の方法をめぐるエッセー・神と「空」』 の訳著書や論文多数。
(プログラムから)
| |
長年の間激しい論争を生んできた脳死・臓器移植の問題は、いわゆる「臓器移植法」の制定によって、多くの課題を残しながらも社会的には一応の決着をみた。この論争から宗教者がそういう問題を考えるのに有効な方法論を学んだとはとても言い難いが、宗教が医科学の領域を侵して論ずることの無意味さを身にしみて知らされたことだけは収穫であったと言えよう。例えば、脳死判定基準に対する異議申し立てなどがそうである。現代の先端医療はなお次々と深刻な問いを投げかけてきており、宗教者がそれを無視するわけにはいかないが、そういう問題を考える時は是非ともこの教訓を生かしたいものである。つまり、こういう問題を論ずるに際して、医学と宗教の間には共通の土俵はなく、またそれを作ることもできないということである。それはまた、眼前の生命をいかに救うかということを主題とする医学に対して、宗教が生命そのものを問題にする役割が課せられているという立場の相違でもある。
徳永氏がおっしゃりたいのは、こういうことだろうか。
共通の土俵がない以上、宗教は、医療関係者が言う「脳死」の定義をそのまま認めるべきだ。
宗教関係者は、医療関係者の主張を全面的に受容し、その上で発言すべきだ。
もしそうなのだとしたら、私は徳永氏の意見に賛同できない。また、徳永氏は大峯氏とまったく同じ誤謬に陥っていると思わざるを得ない。
宗教と医療とは決定的に断絶しているし、まったく異なる領域を扱っている。それは事実だ。だが、それらの前提やそれらが扱う思想や学問、技術がまったく異なっているとしても、その学問や技術を扱っている主体は、どちらも人間である。医療と宗教とは対立する必要がないのではないか。
宗教者は「脳死」についての正確な知識を得ることが出来れば、その知識を自らの礎にすることが可能となり、次いで、その問題に対して、宗教的な立場から聞き、発言することができるのではないか。
医療やその周辺にある技術は、医療関係者でなければ云々することが許されていないような、そのように狭隘なモノではないだろう。その学問的な研究成果や臨床的な事例の数々は、医療の領域に囲い込まれているわけではなく、我々がそれを参照する道は大きく開かれているのではないか。我々は、正確な知識を携え、我々にしかできないやり方で、医療現場の問題について考えればいいのではないか。
極端なことを言えば、医師は技術者である。そして医療研究者は、多くの場合は研究範囲が医療の領域に限られた研究者である。わが身に引き当てて考えれば、視野が狭くなることも時にあるだろうと思える。
我々「医療サービスを受ける側」は、今まで、かくも大事な問題を技術者・研究者である医師に任せきり、結果的に問題の解決を医師に「押しつけ」て済まそうとしていたと言えるのではないか。
教師に教育のすべてを押しつけてはいけないし、僧侶に宗教のすべてを押しつけてもいけない。
同様に、医療に関わる問題のすべてを医師に押しつけるのもアンフェアであろう。
知識や思考法を伝授する人、信仰のそばにいる人、医療行為に携わっている人‥‥。
専門家の領域は専門家の領域として厳然と存在し、専門家はその領域の内部で努力しつづけるべきである。だが、だからと言って、その周辺に山積する困難な価値判断まで専門家に押しつけるのは酷であるし、逆に無責任だろう。
我々は、たとえ「口を出すな!」と言われても、力の限り、医療関係者の苦悩を軽減すべく、「脳死」その他、医療現場で問題になっている問題に関わっていくべきでああろう。わたしはそう考えている。
さて、脳死・臓器移植の論争の際に見られた仏教側からの発言を総括してみると、それが是か非かということを中心にした比較的些末な問題しか論じられておらず、仏教の本質的な考え方からくる点はなかったように思われる。それは仏教では命を「生死」という次元においてとらえるということであって、我々の「生」には必然的に「死」が内包されているという厳粛な事実である。したがって、臓器移植を受けようが受けるまいが、遅かれ早かれ人間が死ぬという事実に変わりはないのである。脳死は仏教でいう死ではないとか、臓器提供は報恩行あるいは菩薩行であるとかいうようなことばかりに議論が集中して、釈尊以来不変のこの視点が欠落していたのではなかろうか。
以上のような論点が問題となるのは、「脳死」に関する正確な情報を得てからである。また、
いったい死は仏教ひいては宗教の中核となるべき問題であって、しかもそれは主体的なつまり自己の問題として捉えるべきものである。死を生の外側に、あるいは生の延長線上において捉えるのではなく、生に内包されたものとして捉えるところに仏教の与える死生観の意義があり、またそれを「今」という時点において超えることをも教えている。それは、これまでの自分が死に、新しい自分に生まれることである。この認識に立てば、肉体の死は第二義的な意味しかもたない。
以上も、
これは自分のいのちを超えた大いなるいのちとの一体化であるといってもよい。科学的知性ではとうてい説明することのできない不可思議ないのちに自分のいのちが同化する、あるいはそれに包まれていることに目覚めることが仏教的覚醒というものである。したがって、自分のいのちをそういう大いなるいのちから切り離した単なる生への執着心を、生命の尊厳と混同してはならない。以上も、同様である。
「自分のいのちをそういう大いなるいのちから切り離した単なる生への執着心を、生命の尊厳と混同してはならない。」 という意見は非常に正しい意見であると私は考える。しかしこの意見は、ドナーになる選択をした人間や、今まさにドナーとなろうとしている人間の近親者にだけではなく、レシピエントになろうという選択をした、あるいはする人間に対しても発されなければならないのではないだろうか。
ドナー候補になることを拒む人間に対し「執着を捨てなさい!」と言う方がいる。わたしが知る限り、その方が、レシピエント候補になろうとする人間に対して「執着を捨てなさい!」と言うのを聞いたことがない。その理由は、両者に同じ言葉で接すると臓器移植は不可能となるからである。
また、「仏教的覚醒」 という言葉は、仏教を選択した人間にしか意味のない言葉である。自分の抱えている宗教性に無自覚であることを「無宗教」と混同している人間が圧倒的に多いこのクニで、この言葉は一体どこまで意味や力を発揮できるのだろう。
真宗研究者としての私の立場をまるで棚に上げた発言をして申し訳ないが、私はそのへんがいまいち解っていない。
仏教が先端医療にかかわる諸問題を論ずる時、それによって自分の生命の実相に目覚める可能性が与えられるか否か、同時にそういう可能性を他者とも分かちあうことができるか否か、が最大にして唯一の基準となるべきものであると思われる。結局、徳永氏は「臓器提供意思表示カード」の何番に○をするのか。しているのか。あるいはカードを持たないのか。どの選択肢を選ぶのか。
あまりに抽象的すぎる結論であり、氏の「肉声」的なものが感じられないのが残念だ。
■早島理氏■ 1946年生まれ 1975年 京都大学大学院博士課程満期退学 1976年 長崎大学教育学部講師 1979年 長崎大学教育学部助教授 1990年 長崎大学教育学部教授 現 在 滋賀医科大学学医学部教授(哲学)
●ドイツ・プーナ大学(1979-1980年)、
カナダ・U.B.C.大学(1985)、
ドイツ・ハンブルグ大学(1992)などで研修。
長崎大学医学部倫理委員会医院(1989-2000)をつとめ、
現在、滋賀医科大学医学部倫理委員会、
同遺伝子解析研究倫理審査委員会医院。
●「菩薩道の哲学――「大乗荘厳論」を中心として」
(『南都仏教』30)など唯識思想の論文多数。
(プログラムから)
早島氏の言葉:引用して斜体 石田の言葉:そのまま
筆者は滋賀医科大学に所属しているが、MD(医師)ではなく、哲学を担当している。専門はインド仏教学、特に瑜伽行唯識思想の研究である。前任の長崎大学で医学部倫理委員会委員を委託され、現任の滋賀医科大学においても医学部倫理委員会委員、同遺伝子解析研究倫理審査季員会委員である。特に長崎大学倫理委員の時代に脳死・臓器移植問題の検討が始まり・それ以降この視点を中心に、生と死の問題を考察している。はい。
1997年6月17日、いわゆる臓器移植法(臓器の移植に関する法律)が成立し、脳死・臓器移植に関する諸問題は一応解決したかのように受け止められがちであるが、根本問題・課題は脳死臨調以来何らの進展を見ていないと云うべき状況にある。臓器移植法が成立して足かけ5年、現に動いている心臓を取り出しても医師は殺人罪に追い込まれることがなくなり、スムーズな移植の普及が期待されながら、わずか10例前後しか実施されていないという現状が、この問題の難しさを物語っている。今こそ改めて、具合的な医療現場を視野に入れて生と死について問い直すべき時期であろう。その通りだと考えています。
当時も今も脳死・臓器移植については、積極的推進グループと消極的慎重グループの意見が対立している。この問題に関して、長崎大学倫理委員会は、筆者ら慎重派が付加した幾つかの条件付き(臓器提供は本人の明確な意思表示を必要とする、等)で脳死・臓器移植を承認した。その討議の過程で、生命あるいは生と死についての両者の考え方の相違が明確にされた。筆者は概略以下の如くに考えている。
(1)インド風にいえば、生と死とは分離された別なものではなく両者をもって「生命」であると受け止めている。その生命あるものを仏陀は生・老・病・死の思うにまかせない存在であると自問自答したとされている。注意すべきは生老病死全体で人間を見ていることである。この仏陀の教えからは、「生」のみに執着する考え方、他人の生き死にかかわってまでも「長生きしたい」という世俗的欲望を絶対的に肯定する考え方は、導き出されない。
同様に、「五蘊」の総合体として人間存在を理解する仏陀の教えに、人間を部品化し、パーツとしてとらえる考えはふさわしくない。また臓器移植を前提に脳死を「人の死」とすること自体、受け入れがたいものがある。
(2)無常・無我の思想からすれば、生命は誰のものでもない。誰のものでもない生命が不思議にも今ここなる私に届いているのである。その生命を私物化(自分のものと)し、やりとりすることは認めがたいものがある。
(3)「臓器の提供」は捨身を説く(ジャータカ)仏教の慈悲に適うとの意見があるが、これは誤った解釈である。捨身の話はそれが解脱もしくは救済に直結して意味を持つ。「金曜の夜」の若い脳死者を期待する現実は現代版「地獄」以外の何ものでもない。
(4)少数例とは云え、現に脳死による臓器提供者と臓器希望者がいることは事実である。この脳死による臓器移植は「三輪清浄」にして初めて可能と思われるが、それは極めて困難なことである。
(5)脳死臓器の需要供給のアンバランスなど、現実的課題については別に論じる必要がある。早島氏に対して失礼な言い方であり、非常に申し訳ないのだが、私には、早島氏の「脳死」やその周辺に現に山積している問題を見つめる視点は、私のそれとほぼ同一であると考えられている。
■司会 内藤昭文氏■ 1956年生まれ 1979年 龍谷大学仏教学専攻卒業 1986年 龍谷大学大学院修士課程修了 1986年 龍谷大学講師 1989年 教学研究所助手 現 在 教学研究所助教授
●龍谷大学講師・行信教校講師・
中央仏教学院講師などをつとめる。
●『仏弟子に学ぶ』(本願寺出版社)、
『仏伝に聞く仏教』(探究者)の著書や論文多数。
(プログラムから)
実際のシンポジウムでどのようなことが話されたのかについては、近いうちに追加して公表いたします。
‥‥そう言いながら一年が経過しました。どちらさまも何も期待なさらないでください。(>_<。)
このファイルに対するご意見・ご感想・疑問などは、石田宛にメールか掲示板、あるいは直接対面で伝えていただけると、非常にありがたいです。(差し支えがなければ、ご紹介させていただきます。)