第1部 基調講演  12:45〜13:45
脳死・クローン・輪廻
講師 梶山雄一氏
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シンポジウム(別ファイル)

■梶山雄一氏■

1925年生まれ
1948年京都大学文学部哲学科(仏教学専攻)卒業
1961年京都大学助教授
1971年京都大学教授
1988年佛教大学教授
現 在京都大学名誉教授・国際仏教高等研究所所長


●ウィスコンシン大学、カリフォルニア大学(3回)、
 ウィーン大学、ハーバード大学、ライデン大学など
 仏教学講義のため4カ月ないし1年ずつ出張。

●『輪廻の思想』『「さとり」と「廻向」』
 (共に人文書店)など著書はじめ論文多数。

(プログラムから)


 梶山氏の言葉:引用して斜体  石田の言葉:そのまま

 養老孟司氏は脳死の問題を議論する際に、脳の構造と機能の分離の問題に注意を促している。われわれが脳という対象を考える時に、構造と機能・すなわち脳と心を分けて考えてしまう傾向がある、というのである。わが国では、脳死とは脳の機能死であって「脳幹を含む全脳の不可逆的機能停止である」と定義される。このことは、脳の固有な機能である意識、感覚等と身体各部を統合する機能とが不可逆的に失われたことを意味し、必ずしも脳を構成する個々の細胞やその他の生活機能が全く死んでいることを意味しているわけではない。

 一体、この言葉から何を導き出せば良いのだろう。

 養老猛司の言葉を紹介しながら、梶山氏は、

  1. 我々に「脳と心を分けて考えてしまう傾向」のあることを指摘し、
  2. 「脳死」の脳はその器質が必ずしも損なわれているわけではないことを指摘している。

 内容的に、それは非常に正しい認識であるとわたしには思われる。だが、それならば、「脳死」という言葉のほかに「死」という語を安直に用いるべきではない のではないか?

 梶山氏は、養老猛司の言葉を参照しながら、「脳死」を脳の「機能[死]」であると認識しているわけだが、「脳死」であれ「機能死」であれ、そこに含まれる「死」という言葉は、生物がその現象を停止した状態としての「死」や「死亡」とは異なる意味を持っているということだろう。それは上記に引用した文の最後の部分にある「死んでいる」についても言える。
 であるならば、読者の混乱を避けようとするならば、そこで用いられている「死」という表現は、「機能しない」あるいは「機能していない」という、より限定された意味を持つ表現にとってかえられるべきではないだろうか。

 また、「不可逆的に失われたことを意味し」 という表現があるが、これはまったく正しくないと言える。
 「臓器の移植に関する法律」(平成9年7月16日 法律第104号)第六条第二項には、以下のようにある。

「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。

 微妙な表現であるが、法律には、たしかに「不可逆的に停止するに至ったと 判定された」と書いてある。不可逆的に失われたのと、不可逆的に失われたと 判定された のとは、まったく違うのである。
 なるほど医者は「判定」するだろう。だが医学的な手続きをもって行われるその「判定」は、法的にのみ正しい のである。
 医学的には、さまざまな学説が存在するのが事実であり、「正しい」と言えることなど何もない。あるとしても、それはその学説から見た場合にのみ正しいのである。問題は、その学説がどの範囲まで「真」と認められるのかということではないのか。その範囲を越えた場所で、何を探るべきかではないのか。

 「ラザロ徴候」という未知の出来事を「脊髄反射である」と一刀両断し、それについて以後一切の調査・研究をしないような立場から「脳死」が「判定」されても、そしてその「脳死」が「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定され」た状態だと言われても、わたしは非常に困惑してしまう。そのような困惑させる現状が唯一の事実であるとかすべての大前提であるとか、そういう文脈で語られても個人的には困惑が加速されるだけである。わたしはそんな虚偽報告に啓蒙されない。


 脳死を人の死であると認めるべきか否かについて議論が絶えないのは、理論的にいえば、人々が、死というものを脳の機能の喪失と考えるか、その構造の死(器質死)と理解するかの相違によるといってよい。器質死の立場をとれば、脳死はかならずしも人の全面的な死を意味しないからである。その上、脳死と判定されても、レスピレーターの設置により、人工的に呼吸や体温はしばらくの間は維持される。

 前半部分、はたして、そう言い切れるのでしょうか?

 「脳死」と判定された脳の中に、その機能を完璧に不可逆的に喪失した脳は一体どのくらいあるのだろうか?

 「脳死」は、外側からしか判定され得ない。その脳が細々と機能し続け、外部にわかる方法で情報伝達ができなくなっているだけであり、外部から受けた刺激、つまり情報のインプットであるとか、脳内での情報のやりとりであるとか、実はそういう活動にいそしんでいるとしても、現在の医療技術では、それがまったく把握できない、というのが事実なのである。
 「今は、意識があるかどうかまったくわからない」をイコールで「まったくない」につなぐことは、わたしにはできない。メスを入れると血圧が上昇し、乳児を近づけると母乳を吹き出す、そのような人間に残存しているのが脊髄反射だけであるとは、わたしには考えられない。そのような人間は、「脳死」の判定の網から漏れて、実は完全に、最後の最期の生を、精一杯に生きている途中 とみて、どうしていけないのか。


 仏教の経典や論書では「寿と媛と識との三法が身を捨てる時、捨てられた身は思覚なき木のようにたおれふす」と身体の死を定義している。しかし、人の生命とは生と死との循環的継続であるという輪廻説を発展させた仏教では、この定義のいう身体の死は必ずしも生命の絶滅を意味するわけではない。  仏教の基本的教義は、人の個体存在とその環境は、物質・感覚・観念・意欲・思惟という五蘊の仮りの集合である、という。五藍のうちの後の四つは「心」といってもよいから、人の個体は「物」と「心」の相互依存関係から成る、といえる。

 この教義は、人の個体の内にも外にも、自立的・不変・恒常な実体は存在しない、という意味を含む。この理論は、インドのバラモン教諸学派の主張する自我(霊魂)の存在を否定した。同時にそれは、人の心は身体のみから派生する、という唯物論者(ローカーヤタ派)をも強く否定した。仏教は終始バラモン教学と唯物論者との両学派と対立していたのである。恒常な実体を否定する仏教は、心も物も、あらゆる事物は、瞬間的に生滅を繰り返しながら継続する流れ(刹那滅相続)である、という理論を発展させた。

 死と生と別なものと考えず、生は死を内包する、という思想は、人は、脳死にせよ、自然死にせよ、この世で死んでも、次々と生まれかわって輪廻を続けるという考えを生んだ。これも仏教の基本的教義である「四つの真理」の理論はこういう。あらゆるものは苦であり、苦にはその原因があり、苦の消滅が存在し、それに至る道がある(四諦:苦・集・滅・道)と。これは二重の意味に理解されている。人は、無我の真理を理解して、苦に沈む人々にたいする慈悲を世々に反復習熟(abhyasa)すれば、やがては苦を滅して、最高の教師である仏陀になることができる。しかし逆に、無我を理解せずに、我執にもとづいて煩悩と悪行を積んでそれに習熟すれば、長く輪廻し続けて解脱することがない、という二重の意味にである。

 サンスクリット語の「サンサーラ」には「輪廻」とも「生死」とも漢訳される。仏教の輪廻説には二種類がある。それは小乗仏教を代表する説一切有部(西紀前成立。以下、有部と略)の業報説と、ダルマキールティ(法称:600-660頃)に始まる仏教論理学派(以下、論理学派と略)の心相続説とである。  有部の業報説では、人がこの世で善・悪の行為を行うと、その報いとして次の世に幸・不幸の身に生まれる、と説く。有部は、個人のこの世での死と次の世での入胎(出産ではない)との間をつなぐ「中有」という存在があって、この中有がすでに前世の業の結果を実現している、という。たとえば、次の世に犬に生まれる者の中有はすでに犬の形をしている。そしで父母の性的結合はただ中有の母胎への進入の機会を与えるものにすぎない、という。

 他方、論理学派は、人には、一瞬間の意識が必ず次の瞬間の意識を生ずるという質料的因果関係の流れがあって、その心相続は人の身体の死を超えて、次の世の最初の意識に連なる、という。したがって、長い輪廻の間に、無我を理解し、人々にたいする慈悲を反復習熟する人は救済者としての仏陀への道を歩み、逆に、我愛に執着する者はその煩悩を反復習熟して、長い輪廻の迷いを続ける。この心相続は身体とは獨立した、別個の心の流れとして存在する。だから、父母の性的合体とは無関係である。たとえば、同じ両親から生まれた二人の兄弟のうち、一人はスポーツに卓越した才能をもち、他方は文学に卓越した才能をもつということはよく見られる。これは個人の輪廻には両親は直接的な関係をもたないことを示している。両親の精子と卵子という物質から生まれた身体はたまたま中有や心相続のための補助的な共同因であるにすぎない。

 ‥‥‥うーん。「脳死」や臓器移植、クローンにあまりに関係ない仏教教義的な事実を持ってこられて、それですべてを一刀両断することが可能だ、的に振る舞われても、非常に困るのです。


 両親の精子と卵子の結合を前提としない中有や心相続という輪廻の主体は、ある人の一つの体細胞の核(遺伝子を含む)を、女性の遺伝子の核を抜き取った(遺伝子を含まない)子宮の中で成長させて、前者のクローンを複製する過程に、つまり配偶者なしに生まれるクローン人間にそっくりである。

 恐らく、プログラムのこの部分は文章の一部分が脱落している。なぜなら、「女性の遺伝子の核を抜き取った(遺伝子を含まない)子宮」 という表現が意味するモノがまったく不明であり、意味の通らない文章になっているからである。
 しかし、この文章に抜けている言葉が何なのかは、非常によくわかるので、補足する。
 「女性の遺伝子の核を抜き取った(遺伝子を含まない)子宮の中で‥‥」 は、「女性の遺伝子の核を抜き取った(遺伝子を含まない) 卵子に注入し、それを子宮の中で‥‥」 の間違いである。そのように訂正して、論を進めることとする。

 梶山氏は本気でこのように語っているのだろうか。

 仏教的に言えば「五薀仮和合」であるので、「輪廻の主体」 は「たましい」ではない。しかしその「たましい」のように理解されているモノは、それが入っていた個体が活動を停止するまで、その個体の中に存在し続ける。「輪廻の主体」 は、個体が死ぬまで、その個体から出ることはあり得ない。
 対し、人に限らず、体細胞に由来するクローンを製造 (はなはだ語弊のある表現であるが、技術的にはまったくこの表現の通りであり、かつ、ヒトクローンを誕生させようとする技術者の観点からしてもまったくこの表現の通りであり、かつ、わたしが違和感を覚える表現であるから、この表現を用いる) する場合、その体細胞を提供した個体は、その個体の体細胞に由来するクローンが成体となっても、個体として生きる。

 成体の体細胞に由来するヒトクローンを実際に製造(!)した場合に問題になるであろうことの一つであり、そのような事態の到来が予見される現在において問題となっているのは、

  1. クローンとして生まれてきた人間が、まるでオリジナルのコピーのように誤解されることが異様に多く、
  2. 人格や性格その他、人権やその周辺のモノを持っていないかのように誤解されがちであること、そして
  3. クローンとして誕生する人間の人格や人権を容認することが、そのままヒトクローンを製造することを容認するのと同義ででもあるかのように誤解されていること、

 である。

 梶山氏がこの文章から何を言わんとしているのかを推し量ることは非常に困難なのであるが、「そっくりである」 という見解を見るに、氏は、体細胞に由来するヒトクローンを、ヒトではない、もっと奇妙な存在として理解しているのではないか。わたしはそのように疑ってしまう。


 脳死といい、クローン人間といい、いずれも生命を物質と区別しない現代医学の成果であるが、それらと仏教の生命論や輪廻説とをいかに調和させるかは、今後の仏教者に課せられた大きな問題である。仏教は歴史の進展とともに次第に観念論的傾向を強め、心を物から区別してきたからである。

 これは結論と言えない。まるで私の修士論文である。

 梶山氏の結論を受けるわけではないが、私は、現代のさまざまな問題を真宗の立場からどのように解くべきなのかを探ろうとしている。「調和」 させようという意図はない。決定的に異なる部分を明らかにし、共通の部分を明らかにし、後のことはそれから模索しようと考えている。


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