純文学

ねえ

「ねえ」

 深夜のファミリーレストランを二人で出た。アパートはレストランの隣にあるから、川井さんはすぐに階段を三階まで一人で上ってしまうだろうし、俺は俺のアパートまで一人で歩くことになるのだろう、今夜も。
 俺は横を歩く川井さんの左の肩だけを見つめながら、俺のものには一生ならないだろう女性との蜜月を妄想し、その妄想と現実とのギャップを思い、胸を締め付けられていた。そこで川井さんが、
 「ねえ」
 と言いかけて来ただけで俺が言葉を詰めたりしなければ、胸が詰まったその全くのピークに無理に話そうとしさえしなければ、こんなことにはならなかったんじゃないだろうか。いや実際さ、接点なんて全然ないんだから。
 「ねえ」
 長方形でクリーム色のタイルが几帳面にぴっちりと敷き詰められたアパート脇の通路を歩きながら、川井さんは軽い口調で話しかけて来る。でも俺は川井さんを目の前にしながら川井さんの不在を全身で感じてしまった瞬間にいるので、口と目とに微笑みのポーズを作り上げて川井さんの顔を見るのが精一杯だ。そしてその微妙な沈黙がもう一度、川井さんに言わせる。
 「ねえ!」
 俺は努めて緩やかに微笑んで、川井さんの顔を見つめる。川井さんは俺が、
 「何?」
 と言い返してくることだけを求めているので、無言の俺のふがいなさを抗議と受け取ってしまうのか、俺の視線をまるで避けるように下を向いてしまう。話しかけられて辛うじてそっちを見たのにうつむかれて、俺は何が何だか解らなくなって、ただ前を向いて歩き続けることしか出来ない。でも通路の端の柵を越えた時、ステンレスの反射が満月の帯を一瞬のうちに俺に集め、俺はその織り成す怪しい光のリズムに信じられないほど勇気づけられ、いつの間にか積極的に、川井さんと並んでアパートの入り口まで歩いている。
 「何? もう帰るんじゃなかったっけ? もう何んにもないでしょう?」
 川井さんがびっくりした声で言う。びっくりするのはこっちだ、俺は話しかけられたんだ、話しにくいことだったから今まで言わなかったんじゃないのか、何処かで立ち止まって話し始めるのじゃないのか。解らないものを解らないままで放っておくのにももう厭きたんだ、これじゃ呼び付けられていきなり
 「帰って。」
 と言われたも同じだ。中途半端に呼び覚まされた俺の好奇心は一体どこへ遣ればいいのか?
 俺はそこで絶句し、悲しそうな顔の一つでも川井さんに押し付けてそのまま帰ってしまえば良かったのだ。逆に川井さんは川井さんで、無言の抗議をした人間の帰らない理由を、意気地がなくてだらしのない男の他愛のないマスターベーションの一部として解らないままうっちゃってそのまま帰ろうとしてはいけなかったのだ。
 一人で階段を上りかけた川井さんを俺は
 「話しかけといて……」
 と追う。実際俺はどうすればいい? オナニーの途中で電話がかかって来た時のようなやりきれなさと、しかしそれを誰にも言えない悔しさに似た気持ちが胸いっぱいに広がって、俺は一体どうすればいい? 立ち止まるべきかそのまま一緒に階段を上るべきか、服を引っ張るなり後ろから羽交い締めにするなりしてその後の川井さんの動きを封じるべきか。
 結局俺は川井さんと二人でアパートの階段を上った。
 部屋の前で立ち止まって、川井さんが鍵を取り出している、その後ろから声をかける。
 「ねえ」
 「ちょっと待って。カギが見つからない………」
 「真面?」
 嘘だ。動揺した声を出す俺に笑いかけながら鍵をかざす川井さん。川井さんのにっこり笑った顔は本当に可愛い、いや、それ以外の顔が可愛くないというわけじゃなく。俺もつられて笑おうとしたが顔が引きつってうまくいかない。なんで君はこんな危ない状況にいて笑えるの?
 「来る?」
 絶句。構わずノブを回す川井さん。薄暗い部屋の中には
 「ヴーン」
 と、蜂のようにうなる冷蔵庫があるのか。冷蔵庫の中には六条麦茶が入っていて、そしてガラスのコップは二つあるのか。仁志君は一体何処で何をしているのだろう? 俺は今まさに間男になろうとしているのではないのか? 何んで川井さんは俺を促すのだろう?明日は日曜日だ、ってことは明後日まで俺が何処で何をしていたって誰にも迷惑なんか掛からないし、何処で何をしていたってそれは全て俺の責任において行われることであるはずなんだ全てそうなんだ何時だってそうあるべきはずなんだそうだそうなんだそうだったんだ。
 回らない頭を無理にこき使おうとし、たったこれだけでオーバーヒート気味になった俺の前で川井さんは部屋の明かりを点け、靴を脱ぎ、ワンドア冷蔵庫の中から六条麦茶を出し、ガラスのコップ二つと一緒にテーブルに載せる。ああ、良かった、本当に良かった、俺の想像した通りに話が進むということは、これは何んてことはない、ただの夢だったんだなあ。
 ホッとした俺は川井さんの隣になるように座って、麦茶を飲む。しかしそのくつろぎの中を異様に冷たい、食道も胃も壊しそうなくらいに温度の低い液体が体の奥へ落ちて行く。やっぱり夢じゃない。こいつは一体どうしたもんだろう。考えたって、なるようにしかなって行かないさ。俺は考えるのを止めようとする。
 「俺、女の子の部屋に入ったの初めてだ」
 何だか川井さんはとっても嬉しそうに見える。ラジカセのスイッチを入れ、CDをかけ始めている。
 「ねえ」
 わざとかどうか、彼女が今井美樹とハモって言う。
 「何?」
 「やっと答えてくれたね」
 「うん」
 どうしてこんなに素直に答えられるんだろう。やはりどう考えたってここは夢の中なのではないだろうか。夢だからこんなに素直に答えられるんだろう、そもそも俺が川井さんの部屋に入れるわけがないじゃないか。でも川井さんの部屋はやはり夢にも思ったことのない狭さで迫って来る。俺は俺の夢の限界に気付き愕然とする。俺はこういう幸せな夢というのは見たことがなく、今後も見るはずがない。だから何か嬉しいことが身の上に起こってもそれが夢でないことは考え直すまでもなく事実であり、よって今俺が川井さんの部屋にいるということは事実に外ならないことなんだ。
 「さっきどうしたの? わたし、気付かないうちに何か悪いことでもしちゃったかなあって、すごく考え込んじゃった」
 「いや別に、『何が』ってことはなかったんだけど、ちょっとだけ詰まっちゃってね」
 「ちょっと、何?」
 「ちょっと、何んかさ、考えごとに入ってっちゃってて」
 「考えごと?」
 「うん、何んか、不健康な妄想に入り込んでてさ」
 ちょうど入り込んで行ったんだけどね。だからちょっと嘘だな。
 「不健康な妄想?」
 「うん。それよりさ、それより。…さっき川井さん、何言おうとしたの?」
 「えっ?」
 「『ねえ。』って言いかけたじゃない、今も」
 そんなこと、もうどうでもいいんじゃないだろうか。俺はただ場をつなぐためにこんな意味のないことを喋っているんじゃないだろうか。ここにはたった二人の人間しかいないのに、俺の心は交わされている言葉から遊離し、これから起こる可能性が二パーセントもない色々な桃色な情景にすっかり飛んで行ってしまっている。心を置いて行くから後で場の動きについて行けなくなってやっかいな目に遭うんだ。
 「ああ、そうね、そうだね。……わたしね、どうってことないことなんだ、わたし明日ひまなんだ。だから良羽くんはどうかなあって思ったの。ひまだったらまた一緒に遊べるかなあって思ったんだ。ただ、それだけ」
 「なあんだ、そんだけだったんだ」
 「うん。良羽くんは何んでついて来たの?」
 「え?」
 「何んでついて来たの?」
 今井美樹がプリンスのファルセットボイスみたいに高い声で歌っている。川井さんはにこやかに微笑んでいる。やっぱり、綺麗だし、可愛い。夢だ。
 「何んでついて来ちゃったのかねえ」
 そうだよ、それを聞きに来たんだ。だからもう帰らなくてはいけないんだ。でも、だから。
 「多分、このままじゃ、襲うと思うよ」
 何? そんなこと大っぴらに言ってしまっていいんだろうか。この場の雰囲気や交わされている言葉たちから数キロ遊離して、それでも俺は俺に要求されている言葉をきわめて正確に言ってのけた。そして、
 「そうだよねえ」
 現実を見据えた川井さんの言葉が返って来る。

<了>
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