真宗を学ぶ・真宗に生きる


文学部3回生

 「靖国」ということを聞くと、何か難しいとか、別に関係ないというように感じる人がほとんだと思うのだが、「靖国」という問題は、私たちのより身近なところから考えなけれぱならない。「靖国」というのは、私たちの信教の自由という人権だけではなく、いろいろな人権を侵害するものである。それは、国家レベルの問題だけではなく、私たちの身近なところでも考えることができる。
 たとえば、私たちは現在、生きている中で、何らかの集団に属している。それは身近なものをいうと家族であり、学校やサークルなどである。もちろん日本という国にもいちおう属していることになっている。私たち人間というものは、おおよそ一人で生きていくことはできないのである。何らかの型で人と人とが関係しながら生きている。つまり、人間は集団を作り、その中で生きていくことになる。
 集団にはたとえどんな集団であろうとも、その集団を統率するためのリーダーが必要となってくる。リーダーはその集団をまとめ、方向性を導き出し、いろいろな問題の判断をしなくてはならない。これらのことをする時、リーダーは、その人間性が問われる。
 ここでいう人間性というのは、その人の持っているあらゆる物事に対する価値基準であり、その人の考えのもととなるもののことをいう。そのもととなるものは、何らかの宗教性を帯ぴている。たとえぱ、それが自分の欲望を満たすことをもとにする自己中心的なものであれば、そのような宗教性にもとづいている。また、それが自己中心的なものではなく、すべての人のためになることをもとにしているのであれぱ、そのような宗教性にもとづいている。
 人間性というのは宗教によって規定されると考えられる。そして、リーダーの人間性が自分の欲望を満たそうとする自己中心的なものである時、リーダーは権力者となり自分の集団を徐々に支配していき、その集団において自由や平等というようなものは、失われる。
 それはまたリーダーの人間性だけの間題ではない。その集団に属する人たちの人間性も問われる。日本人は、昔から上下関係というものを大切にし、下の人は上の人に従うという伝統がある。このような伝統にのっとった時、権力を肯定してしまうことになる。たとえば、この集団では、髪の色を黒にしなくてはいけない、といわれて、ただ単にそれに従うのであれば、その人の人間性というのは、従属的な権力信仰である。このように私たちは、無自覚のうちに権力を肯定していることがある。たとえ、髪の色を黒にするのがイヤでも、「みんながするならしょうがない」というように考えることも同質のことである。特に日本人は、「赤信号みんなでわたれぱ恐くない」というような冗談もあるように、みんながするからいいか、というような考え方がよくある。
 このように、主体性を持たない人たちが権力の餌食になってしまう。そして、そのような集団からは、平等や尊厳というものはうまれてこない。このことは「靖国」に対しても同じ様なことがいえる。  しかし、真宗というのは、そのような権力に従属し、人間の平等や尊厳というものを剥奪するものと相反するものである。真宗は、すべてのものの平等な人格と尊厳性を認めていくものである。真宗に生きていこうとする者は、それと相反する「靖国」と対決していかなくてはならない。それは、たとえ権力から悪とされようが、人から嫌われ弾圧されようが、親鸞がそうであったように、ひるまず貫き通していかなければならない。そのためにも、私たちは自分が何にもとづくのかを考えていかなけれぱならない。
 「靖国」を問うためには、まず自分がきちんとした真宗を主体として生きていくことが大切であろう。そのためにも、これからもきちんとした真宗を学んでいかなけれぱならない。

(当日のプログラムに掲載されていたし。)


プログラムにもどる