2001年12月19日
真宗と靖国
――
全称文批判――

龍谷大学文学研究科 真宗学専攻 D3 石田智秀


はじめに
第一章 真宗の信仰
 第1項 無我
 第2項 阿弥陀仏
 第3項 親鸞
 第4項 小結
第二章 全称文
 第1項 ○○だ
 第2項 ○○すべきだ
第三章 問題と解決策
 第1項 政教分離
 第2項 追悼
 第3項 A級戦犯
  1. まつる
  2. クニのため
  3. 良いこと
  4. 小結
 第4項 多数は多数に過ぎない。
結語


はじめに

 靖国神社は、他の信仰を持つ者が違和を感じる特定の信条や世界観に基づき、他とは相容れない特定の主張を行い、特定の儀礼形式を行っているという点から見て、一宗教法人であると言える。日本は政教分離の国家である以上、その公的機関が一宗教法人の行う宗教行為の便益をはかること、公的行事が多大な宗教的性格を持つことはともに許されないと考えられる。また、真宗を信仰し、真宗の世界観に立つ者から見れば、靖国神社を礼拝の対象とすることはなじまない。
 以上をふまえ、靖国神社を、「真宗の信仰」と「全称文」という二つの視点から検証する。



第一章 真宗の信仰

第1項 無我

 真宗は仏教の一宗派である。仏教は縁起の法・諸行無常・諸法無我に基づき、「我」、つまりタマシイの実在を否定する。よって「霊魂」の実在を前提とする靖国神社の信仰とは相容れない。

第2項 阿弥陀仏

 真宗では阿弥陀仏による救済を説き、他の救済方法を説かない。つまり真宗の信仰には阿弥陀仏の救済以外の救済はまったく必要がない。靖国神社が重視していると思われる「死後にその人のタマシイをまつり他の多数の人間がそれを礼拝すること」は真宗の信仰から言えば無意味である。

第3項 親鸞

 (私には)真宗の信仰を実践する時にモデルケースとして最適だと思われる真宗の開祖親鸞は、阿弥陀仏の他の仏にすがることも、神道の神にすがることもなかった。決して他の仏や神道の神を軽んじることはなかったが、それは他の仏や神道の神を礼拝したことを意味するものではないと考えられる。
 『現世利益和讃』に展開される他の仏菩薩や神への記述は(他の信仰を持つ立場から見ればいささか牽強付会の感がありそうな記述であるが)、それらが阿弥陀仏の救済を重視し尊敬しているという内容に終始している。他の仏や神道の神の存在を認識したり容認したりすることと、それを礼拝することとは別の行為である。つまり親鸞にとって阿弥陀仏以外の存在への礼拝は無意味であると考えられる。

第4項 小結

 真宗を信仰している立場からすれば、靖国神社に礼拝することは無意味であり、靖国神社に対して阿弥陀仏と同等の尊敬を以て接するのは不可能である。
 自分を阿弥陀仏への信仰に誘引したもの[するもの]、つまり自分以外のすべての存在を善知識と考えおろそかにしないのが真宗の実践の一形態であると思われるのだが、親鸞が自分の直接の善知識である法然を阿弥陀仏と同等の存在として拝んだことがあるとしても、真宗の信仰に入った者が、親鸞にとっての法然と同等の質を靖国神社に認めることはないのではないか。
 真宗の信仰に入り阿弥陀仏への信仰に至るまでの道程で他の存在を拝むことも十分に考えられるのだが、それは仏が私のために注意深く用意された方便であろう。真宗の信仰に入った者がなお方便の礼拝対象を永く礼拝することはないのではないか。



第二章 全称文

 全称文とは、「(すべての)○○は××だ」という文のことであり(※1)、この文は何らかの事実に基づいていなければ意味がないと思われる。
(例↓
「我々は、死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである。」(臓器移植法の改正案[町野案])
「すべての男は消耗品である。」(村上龍のエッセイタイトル)など。)
 何らかの主張にもとづいて、あるいは人集めのための刺激的なものとしてこのような文がものされることもあるが、事実に基づいていなければ、それは主張や意見表明、人寄せ以上の意味を持っていないと考えられる。
 靖国神社をめぐる問題について語るとき、「日本人は○○だ」「日本人は○○すべきだ」という全称文が一部に流行しているように思われる。まず、これらの全称文が事実と合致していないことを指摘する。

第1項 ○○だ

 「日本人は○○だ」と言う場合、その「日本人」が全称や単称ではあり得ない以上、どこからどこまでを意味するのかが問題となる。
 日本の戸籍に登録されている人間がすべて日本人であるのなら、移住してきた外国人もそれに含まれることになるが、そのような全称文を述べる者がそれら「他」の存在を「日本人」に含め、その人たちを考慮してそう述べているとは考えにくい。つまり、その「日本人」は全称ではあり得ない。全称文だと理解するのは端的に誤りである。
 そのような「全称文」に現れる「日本人」は話者の個人的な見解を反映しており、正しく言い直すと「私の考える日本人は○○である」という特称文となる。

第2項 ○○すべきだ

 その人が従っている[従おうとしている]個人的な規範を全体に拡大するためには、誰もが認めるような説得力がその規範になければならないのではないだろうか。
 その全称文が特称文であるなら、そこに主張される規範が、そこに至るまでの論理や実証を持たなかったり、提唱者自身の主張を裏付けるために一般的論理や事実から都合の良いところだけを一面的に抽出して根拠にしていたり、個人の思いこみを表面上論理的に主張したものに過ぎなかったりする場合は、他から容易に受け容れられることはないだろう。問題は、それが前提とする論理や事実の信憑性である。
 ‥‥と書きながら好適な事例が思い浮かばない(すみません)。



第三章 問題と解決策

 靖国神社をめぐって問題だと言われているモノを解決しようとする際には、複数の視点や解決策への方向が存在すると思われる。以下にいくつか挙げ、今までに考えられていると思われる解決策を示し、それらの問題点を検討する。

第1項 政教分離

 靖国神社が宗教法人であることから、そこに政府機関などの公人が参拝するのは「政教分離」を定めた憲法に違反する行為であると理解しその問題を解決しようとする際には、主に以下の二つの解決策が提唱されている。

    (1) 靖国神社を宗教法人ではない存在にする。
    (2) 公人の参拝を禁止する。

(1)靖国神社が国家神道・神社神道のどちらであるかはさておき、神道はアニミズム的な信仰をもとにした宗教である(創唱宗教のみが宗教なのではない)。よって宗教法人であるものをそうで「ない」と主張するのは、話者の個人的な見解をもとにした主張に過ぎず、事実を根拠としていない。
(2)宗教法人に納める金品を私費から拠出するようにし、宗教法人に赴く際に公用車を用いないようにし、公人の立場で参拝したのではないことを明確に主張するようにすれば、その「公人」個人が抱く宗教的信条や世界観、信仰を妨げることなく可能であると考えられる。また、8月15日など特定の重要な日には「私人」であることをいくら主張しても微妙な判断が求められると思われる。そのような日にも公人の私的信条を妨げないようにするためにはどうすればいいのか。‥‥これは今後の課題であろう。

第2項 追悼

 Q.クニのために戦った人たちを追悼するための公的機関は必要ではないか。
 A.解決策

    (1) 靖国神社でそれをしよう。
    (2) 別のモノでそれをしよう。

(1)靖国神社は神道つまり一宗教であるから、政教分離の原則から言ってこれは不可能であると思われる。追悼の形式は一人一人の宗教的信条や信仰にまかされるべきであり、特定の形式や特定の宗教のみがそれをになうべきであるとする押しつけは「信教の自由」に抵触すると思われる。
(2)様々な宗教、あるいは無宗教の人も、自分の信条に従って自由に追悼することができるので、こちらのほうが良いと私は考えている。

第3項 A級戦犯

 Q.靖国神社に「まつ」られているA級戦犯の扱いをどうするか。
 A.解決策(1)

    (1) 日本のために戦った人たちなのだから英霊としてまつって当然だ。
    (2) 彼らは戦犯だ。まつらないで当然だ。

 「まつる」「まつらない」の違いはあるが、(1)も(2)も実は「靖国神社にまつられるのは良いことだ」「クニのために戦った人間を靖国神社にまつるのだ」という共通の価値観に依っている。また、指摘するまでもないかもしれないが、「霊魂」や「まつる」というある特定の宗教的信条を前提にしている。

1. まつる

 「まつる」のは特定の宗教的世界観に基づく行為である。これは他の信仰からはそもそも容認されない。だから「どうでもよい」と思う向きもあるかもしれない。しかしこれは個人の信仰の自由を容認しない方向に進み得ることである以上、どうでもよいことではあり得ない。

2. クニのため

 他の国家でもそれは行われているのだが、そのクニのために戦った人だけに対して哀悼の意を表明するのは、真に平和を願う行為であると言えるのだろうか。(私には疑問である。)たとえそれがどちらかから見て「正義」の戦争であったとしても、フランス革命以降に定着した「自由・平等・同朋愛(※2)」だけでは平和が訪れないのではないだろうか。同朋を失った悲しみを乗り越え、戦った相手も同じ悲しみを抱いていることに思いを馳せるべきなのではないか。
 また、「クニのため」とは何か。
 靖国神社には過去の戦争で亡くなったすべての「日本人」が「まつ」られているわけではない。空襲で亡くなった人は「まつ」られていないし、シベリアに抑留されたまま亡くなった人も「まつ」られていない。逆に、内戦の戊辰戦争や西南戦争で「官軍」として戦った人間が「まつ」られていたりする。
 ‥‥? 靖国神社に納められている「霊」がそのために亡くなったと言われる「クニのため」とは一体何なのか。「英霊」とは何か。
 すべての戦没者をわたしは靖国神社にまつるべきだと主張したいわけではない。靖国神社が「まつ」っている「クニのため」に戦った人という存在は、我々が普段漠然と考える「クニのため」とは著しく異なるある特定の価値観から判断された色彩が強いのではないか、「クニのため」が実はそのような意味を担っていないのではないか、という指摘を行っているのである。

3. 良いこと

 靖国神社にまつられるのは、特定の宗教形式で特定の気持を表明されることである。それを良いことと考えるか悪いことと考えるかは、個人のココロに還元されるべき事柄なのではないだろうか。

 そのような宗教的要素を排除すると、「まつる」は「敬う」「重んじる」という言葉に置き換えられる‥かもしれない。仮にそれが真であるとすると、先の(1)(2)は

    (1') 日本のために戦った人たちなのだから追悼すべきだ。
    (2') 彼らは戦犯だ。追悼しないでいるべきだ。

 となる。先に指摘したように「日本のため」が大問題であるがそれはひとまずおく。
 亡くなった方を個人がそれぞれの思いから「追悼」するのは問題がないと思われる。また、個人の信条を別の個人が実力で云々することは憲法違反であると思われる。
 個人的に行う分には(1')(2')ともに問題がない。これを公的機関で行おうとするのが問題なのである。

4. 小結

 A級戦犯の選択した内容とそれに基づく結果を「良いこと」として全肯定することはできない。だが、A級戦犯がこのクニから生み出され、このクニや他のクニに影響を与えた以上、それを知る我々は、彼らの存在を認識しなければならないのではないだろうか。  彼らの行為を無理に容認する必要はない。だが彼らの存在は消し去ることが出来ない。
 彼の戦争にかかわる故人をすべて追悼するという理想的な立場に立つのなら、反省を込めるという意味のみで、弱い部分、否定したい部分を持っている存在として、彼らを、靖国神社ではなく、千鳥が淵の戦没者墓地を拡充するなりして、どの宗教の人も(含「無宗教」)他の宗教をおろそかにしないで済むような追悼の方法を模索して成立した場所に、他の戦没者とともに納め、反省を込めて追悼すべきではないだろうか。
 過去の行為を「誤らない、しかし事後の思想」(加藤典洋)で断罪し尽くすことは出来ない。東京裁判が茶番裁判であった事実を鑑みるに、A級戦犯をのみ悪者にしてそれで終了になるほど、アジア・太平洋戦争におけるこのクニの行為は単純ではないだろう。

第4項 多数は多数に過ぎない。

 人が自身の抱える信条や信仰を自覚してある行為を行うのは、それが著しく反社会的な行為に変じない限り容認されるべきであると考えられる。それが「信条・信仰の自由」や「表現の自由」の真骨頂なのではないだろうか。
 だが、たとえそれが相対多数の個人が抱く信条や信仰であるとしても、多数であることを理由にして、それ以外の少数の個人にその内容を強制して良いものだとは考えにくいのではないか。
 自分以外の個人に対して、自分が理想と考える世界観や信条を延長し、他人をそれで染めきってしまいたいと考える欲望は、多くの人間の心のうちに潜んでいるかもしれない。だが、それを数にまかせて実行してはいけないのではないだろうか。



結語

 以上、多少の逸脱もあったが、「真宗の信仰」と「全称文」という視点から靖国神社を検証した。
 「八百万の神」ではないが、このクニにはさまざまな宗教が入り乱れているのが実状である(今までの論から導き出したことではないが)。そうである以上は、たった一つの宗教のやり方をスタンダードな形式と位置付けようとする努力は放棄されるべきではないか。我々は○○だ、という全称文は容易に成立しない。だが比較的多くの賛同が得られる全称文もあると思われる。それは「我々は多様である」という全称文ではないだろうか。多様である我々は他の信仰の可能性を封殺すべきではない。



※1
【全称】 判断において、主語の全外延について例外なく主張できること。「すべてのSは…である」の意。全称肯定と全称否定の二種がある。
【特称】 判断において、主語のある一部の外延についてのみ主張すること。「あるSは…である」「…なるSが存在する」の類。特称肯定・特称否定の二種がある。
【単称】 判断において、主語が特定の一つの対象のmにを外延とすること。単語区外年を主語とする判断。「東京は日本の首都である」の類。
【外延】 ある概念がとらえる事物ないしその集合。例えば「動物」の外延は人間・犬・猿など。

(すべて三省堂『大辞林』より)


※2
 厳密に訳すると「博愛」つまり「あまねく愛」ではなく、同朋愛、同国愛であり、同じ共同体の中にいる人間に対する愛である。(仏教では愛を「貪愛」つまり否定的なはたらきと見るが、真宗からは慈悲‥‥「聖道の慈悲」と見るのがより正確であるかもしれない。)

<了>


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