○反靖国の射程が、靖国信仰の「底辺構造」たる民族宗教性(=神祇信仰)にまで及ばなければならない。
村上重良『慰霊と招魂―靖国の思想―』(岩波新書一九七四年)。○「義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」(軍人勅諭)
- 「靖国の思想は、幕末維新期の激烈な政治抗争の過程で生まれた新しい宗教観念であり、わずか一世紀余の歴史をもつにすぎない。」(一頁)。
- 「幕末維新期の異常な内外の緊張状態のなかで生まれた招魂の思想は、御霊信仰の広大で奥深い民衆的基盤を背景としながらも、日本人の宗教的伝統はもとより、神道の伝統とも異質な観念へと展開し、明治維新直後の神道国教化の過程で固定化した。」(五四頁)。
○国家権力「旧仏教」からの弾圧。⇔親鸞の批判。…史料 「一」 の (6)
貞慶『興福寺奏状』一二○五(元久二)年一○月○信心理解。…史料 「一」 の (1)、 (3)、 (4)(『日本思想大系 一五 鎌倉旧仏教』岩波書店 一九七一年)。 『山門奏上』一二二四(貞応三)年五月一七日
- 「第五背霊神失。念仏之輩永別神明、不論権化実類、不憚宗廟大社。」(三一三頁)。
- 「第九乱国土失。仏法王法猶如身心、互見其安否、宜知彼盛衰。」(三一五頁)。
(『<昭和定本>日蓮聖人遺文』第三巻 一九五四年 二 二六○頁)。
- 「一 一向専修党類、向背神明不当事。
右我朝神国也。以敬神道為国之勤。謹討百神之本、無非諸仏之迩。」
→「真実信心…度衆生心は即ちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。」
※信心とは往生浄土するためだけのものではない。従って親鸞においては往生浄土が最終目的なのではなく、往生浄土は衆生利益を行うためのプロセスに過ぎず、「永生の楽果」を得るためにあるのでは決してない。往生浄土と衆生利益との不可分性。
→現実の歴史的社会での"救い"を強調。
→「如来とひとし」。
→「小慈小悲もなき身にて/有情利益はおもふまじ」(『真宗聖教全書』二 五二七頁)という身でありながらも、「如来の廻向に帰入して/願作仏心をうるひとは/自力の廻向をすてはてゝ/利益有情はきはもなし」(『真宗聖教全書』二 五一八頁)というように、「本願力廻向の信心」に導かれることにより、現実の歴史的社会において衆生を救済する自律的・実践的主体となり得ることができ、またそのような主体として生きようとする。
普賢大円『真宗概論』(百華苑 一九五○年 一九五頁)。…史料 「八」○中世社会及び国家の質を規定している神祇信仰との自覚的決別。…史料 「一」 の (1)
- 「聖道門に於けるが如く、行者の身心の表に顕れる顕益としてではない。それは信心の価値についてのことであつて、衆生は依然として一毫も煩悩を断滅せることなき罪悪生死の凡夫である。故にこれを密益といふのである。」
→『正像末和讃』に曰く、「五濁増のしるしには/この世の道俗ことごとく/外儀は仏教のすがたにて/内心外道を帰敬せり」(『真宗聖教全書』二 五二八頁)、「かなしきかなや道俗の/良時吉日えらばしめ/天神地祇をあがめつ、/卜占祭祀つとめとす」(同上)と。
大江淳誠『教行信証講義録』下巻(永田文昌堂 一九八四年)。
- 「はじめの方に承元の法難が書いてある。だがあれは法然上人の非常なお徳によって日本一州悉く浄土教が盛んになったということ、それがために興福寺の学徒が上訴をしてああいうことになったとなっているのだが、だいたいがこれは法然上人のおてがらを述べられた。法然上人の大きなお徳で、日本に浄土教が盛んになったということをいわれるのです。死罪・流罪のことを書いてあるけれども、それをいうためでないので、法然上人のお手がらをご讃嘆になる。」(一一一〇頁)。
- 「後述の文は承元の法難やら、そんなこと書いてはあるけれども・意味は法然上人の尊いおぼしめしをうけた。承元の法難は何のために書いたか。恩師法然の功績を讃嘆する。(中略)後践の文は、承元の法難もでてはおるけれども、それをいうためではなしい。いかに恩師法然上人のお徳が大きく、浄土宗がおこってきたかということをおっしゃるのです。」(一一二一頁)。
村上速水『教行信証を学ぶ』(永田文昌堂 一九九六年)。
- 「以下は所謂後述の文であって、まず当時の日本仏教の状態ついて聖道の法は廃頽しているが、浄土真宗は末法においていよいよ盛んであるといい、つづいて承元の法難の顛末を記していわれなき迫害に対する義憤を吐露し、後に恩師法然上人に値遇した喜びとその功績を深い感激をもって記し、本典製作の意趣はただ知恩報徳の謝念より出たものであることが述べられている。しかしその中心は法然上人の功績を讃嘆することである…」(二八九〜二九○頁)。
←信心、あるいは親鸞の宗教的立場と現実の歴史的社会との関係を問おうとしない伝統教学では、専修念仏が何故当時の国家権力から弾圧されたのかを理解することができず、ひいては親鸞が現実の歴史的社会においていかなる"地平"をきりひらいたのかを問うことができない。
「俗諦」領域が「近代」天皇制から象徴天皇制に変化しただけである。
○島地黙雷における親鸞への回帰の可能性。
明治初年の廃仏殿釈―神道国教化政策への「抵抗」。…史料 「一一」
真宗は「人民ノ宗旨」であり「抵抗力アル者」であるという認識。…史料 「一二」
「祖師官ニ悸テ謫刑ニ処セラレ玉ふ。蓋シ本宗興隆ノ本也」という念仏弾圧理解。…資料 「一三」
→しかしながら、やがて「政」(=政治)と「教」(=宗教)との「裨補」関係と、神道非宗教論を明治政府側に提供し、国家神道を全面的に受容する。…史料 「一〇」、 「一四」、 「一五」
大谷光尊(明如)による大谷光沢(広如)遺訓の「御消息」発布(一八七一年)従軍布教。…史料 「一六」、 「一八」 ⇔ キリスト教者内村鑑三の非戦論。…史料 「一九」 ・ 「二〇」
- 「希くは一流の道俗、上に申すところの相承の正意を決得し、真俗二諦の法義をあやまらず、現生には皇国の忠良となり、罔極の朝恩に酬ひ、来世には西方の往生とげ、永劫の苦難をまぬかるゝ身となられ候やう、和合を本とし自行化他せられ候はば、開山聖人の法流に浴せる所詮此うへはあるまじく候。」(『真宗聖教全書』第五巻 七七七頁)。
大谷光尊(『明如上人伝』臨時法要事務所 一九二七年 八七三頁)。 「後の世は みたのをしへに まかせつゝ いのちをやすく 君にさゝけよ」○真俗二諦から戦時教学へ。…史料「七」
大谷光瑞(鏡如)『大陸に立つ』(有光社 一九三八年)。大谷光照(勝如)「御消息」(一九四二年 九月一五日)。
- 「今日の如き国家有事の重大時機に際して仏教徒たるものは、深くその奉ずる教説に信順し、君国のためにお役に立つことを覚悟すべきである。」(七九頁)。
- 「今回の日支事変に際しても、我々真宗教徒は、飽迄も宗祖親鸞聖人の精神に則り、仏祖の教説に信順して、国恩の万分一に報ぜんことを堅く覚悟すべきである。」(九四頁)。
- 「伏して惟みるに、皇威八紘を掩ひて興亜の大業日に進み、戦果高く揚りて士気益々振ふ。(中略)すでにして我等王法為本仁義為先の宗風を伝承す、平成業成の宗義炳乎として明かに、往生の大事は現前に決定し、現生已に大悲慈懐の中に在り、今日何ぞ生死を論ぜんや。唯無我報恩の念より粉骨砕身皇化翼賛の大義に殉ずべきなり。」(『真宗聖教全書』五(下)七九一〜七九三頁)。
※「戦時教学」の本質的な間題が、そのファナティックな超国家主義的な内容にあるのではなく、またその犯罪性にあるのでもない。現実の歴史的社会に対して従属的な「主体」を生み出すその二元論的信仰形態にこそ、その本質的な問題があるのである。
親鸞の思想総体を「永生の楽果」を求める往生信仰に収斂せしめた蓮如教学(「世間通途」的信仰)の「最高形態」として「戦時教学」が存在するのであり、親鸞から覚如→存覚→蓮如への過程は変質史であっても、蓮如から「戦時教学」への過程は変質史ではなく発展史である。
親鸞の思想総体を往生信仰に収敏=覚如・存覚→蓮如教学→封建教学→真俗二諦→戦時教学→現代真宗学。
「業報に喘ぐもの―大谷尊由氏の所論について。特に水平運動の誤解者へ―」(『西光万吉著作集』第一巻 濤書房 一九七一年 初出は一九二二年)。
- 「因果的必然は私をして水平運動に参加せしめた。「兎の毛、羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの宿業にあらずということなし」と知らねばならぬにもかかわらず、大悲は私になさせてくれた―私にさせてくれた―そこに私の喜ぴがあり、感謝がある。自己の小さな力が、大きな願力に乗せられて法悦境を行く。私にゆるされたる世界、そこに実行が燃え、私をゆるす世界、そこに観照が流れる。(中略)社会改造の基調を卑しむことは人間生活の半分を卑しむことだ。」(三八〜三九頁)。
- 「親鸞はもちろん貴人的反逆者であった。それは悲観的想像に支配されていない。(中略)それはもはや厭離臓土から欣求浄土への思想ではない。欣求浄土から厭離櫨土への還相廻向であり、いわゆる必然の王国より自由の王国への躍進である。」(四二頁)。
※「転向」の間題。例えぱ、「高次的タカマノハラを展開する皇道経済の基礎問題」
大谷尊由「親鸞聖人の正しい見方』(『同朋運動史資料』 I 浄土真宗本願寺派出版部 一九八三年 初出は一九二二年)。
- 「同朋主義だとか平等主義だとかいつた名称は、聖人の思想には余程相応しい文字には相違ないです。併しこんな考へは聖人信仰の中核ではない、信仰の中核より派出したる対人間の思想です、主義と言はんより寧ろ思想と言つて置いた方が適当なんでせう。」(七三二頁)。
- 「つまり、大乗仏教の平等思想は、差別の現在相に平等性の充満せることを認め、差別相に屈執するがいけないと見るのであります。例せば、幾千年来の血族や地域の関係が原因となりて、自然の結果に成り立て居る国家や民族の区別を、一挙して打ち壊そうといふのでなく、また差別屈執の観念からの、国家民族の闘争を是認するのでなく、自然に成り立てる差別は差別として、其の上に人類平等の理想を実現しようといふことになるでせう。(中略)聖人の同朋主義の価値は、之を法悦生活の上に体験せねばならない、社会改造の基調などに引き付けるには、余りに尊と過ぎるのであります。」(七三四頁)。
※天台本学思想、神道、実証主義等。
←仮説:理性的啓蒙では不可能。近代的建造物を底辺で支える地鎮祭。
人間の絶対的尊厳性・平等性を自覚せしめる普遍宗教、そしてその普遍宗教に裏打ちされた自律的かつ実践的主体の確立。
※ここでいう普遍宗教とは世界宗教と同義ではない。