仏教の歴史を学ぶ者にとって「靖国を問う」ということは、いかなる問題なのだろうか。問題の前提として、仏教(真宗)ならびにその歴史展開を学ぶことの意味から考えてみなくてはならない。
われわれは、人間が活動し築き上げていく歴史社会のなかに存在している。個人個人を取り巻く情況は異なっていたとしても、人はみな確実に歴史的な存在であり、過去の入間の営みとの連続関係を保ちながら存在しているのであるから、決して過去を過去として切り離して考えることはできない。
そのような歴史的存在であるわれわれが、歴史社会を「世間虚仮」とか、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもて、そらごとたわごと、まことあることなき」として、歴史全体を否定的にとらえる仏教や真宗を歴史のなかで学ぶということは、学ぶわれわれ自身が生きている歴史社会を否定的にとらえうる主体となることが要請される。もし、仏教を扱う場合の必然として生起する課題を担うことなく学べば、ついに歴史を超える契機となるための批判性をもって成立することなく、連続した歴史のなかに埋没し、過去に犯した過ちを幾度となく繰りかえすこととなる。これは、歴史が証明している事実である。
仏教は、人間自身が自己中心的であり、我執的存在であることをふまえずに行動するかぎり、そこにもたらされる歴史社会はいつも真実や進歩をもたないことを教える。人間の自己中心的な欲望をそのまま良しとするものは、もはや仏教ではない。仏教とは必ず徹底した自己否定をともなって歴史社会に生きる人間のうえにあらわれるのである。つまり、常に問題とされるのは仏教を学ぼうとする人間自身の存在そのものであり、その人間がいかなる主体を確立するかによって、そこにあらわれた仏教が真実か否かが問われるのである。
しかし、われわれにとってそのような主体を確立することはとんでもなく困難なことである。ファッションや恋愛、享楽といった自己の欲望を比較的簡単に充たしやすい問題に対しては、鋭いアンテナを持っており、情報収集やその分析になんの抵抗もなく専念することができる。もちろん、常にその欲望がみたされるとはかぎらないが、それでも絶えず新たな欲望をなんとかみたすための努力は惜しまずに行動する。にもかかわらず、これが社会全体の問題となるとどうであろうか! 同じ地球上で報復という名のもとに、兵器による殺人事件が起こっている、にもかかわらず、大多数の人が自分とは関係のない問題として事件が起こる前と変わらない生活を平気で送りつづけている。目に見えなかったり、実感しにくい問題に対しては、白分との関係を全く考えないというような態度が、実は、報復という名の殺人事件の正当化を知らず知らずのうち、強烈に支えることとなっていることには全く意識が向かない。
この、自己の欲望をみたすことと直接つながらないようにみえることへの無関心さが無意識的支持という形となってあらわれ、時の体制にもっとも歓迎される権力無批判な、現状マルゴト肯定主義であることを知らなければならない。これは、まず自らを否定的に問うことを基本とする仏教を学びの対象としていながら、自らの生き方・信仰を問うことなく切り離して考えることと、社会内における自己の存在性を問題にしえないという点で、共にナンセンスである。このような考えの裡には、自分だけは大丈夫だとする自己過信がある。自己に対する問いかけを持たない存在であるかぎり、われわれは欲望に従順でありつづけ、何とかその欲望をみたしていくことぱかりが生きるうえでの中心課題となる。だから、本当にナンセンスの極みでしかないのだ。
このような自己中心的な生き方が、日本では神仏にすがって御利益をたのんで生きる生き方となって現れてくる。この時にいう神仏の仏は明らかに仏の形をした神であり、自己中心的な欲望の否定を原理として持つ仏教での仏とは質的に異なったものである。とすれば、日本の僧侶と呼ぱれている人々が礼拝の対象としているもののほとんどは、仏教的に粉飾された「御神体」としか言いようがないのではないか。
ここにこそ、靖国信仰を支える思想の根本を見出さなくてはならない。靖国信仰に賛成でも反対でもないという立場は、結果的には賛成であり、神道の信仰を無自覚的に受け容れているという事実を認めるべきなのである。自らの欲望を充たす対象としての神を崇拝することで利益を求めるといった、ひたすらに自己中心的なありかたが靖国信仰の基底を為す神道的宗教性の本質なのであり、それはひとかけらの欲望否定の契機も持ち合わせてはいない。自らの意志にもとづき、自覚的な選択により行動を起こしているのではなく、欲望をかなえてくれそうな何か(誰か)の意に添うようにという、常に他の存在によって律せられて行動を起こすのであるから、そこには自己責任発生の根拠が存在しないのである。自らの行動に責任を持たない人間、つまり徹底した反省を促す機軸を持たない人間は自らの存在悪に無自覚なだけではなく、簡単に自己の欲望を絶対化して憚らないので、自己中心的な欲望を否定することとは無縁なのである。
反対に、自己否定の契機を持つということは、自らが責任を持った主体となり判断の機軸を他に置くことなく、自律的主体が誕生することとなるのだ。この、ひるがえり難い自己中心的な欲望を、人間においてひるがえそうとする主体を成立させるものが仏教であるはずなのである。つまり、靖国信仰を支える神道的宗教性とは自己中心的欲望のうえに成立するが故に他律的であり、責任の自覚を生じさせないものであるから、自己中心的欲望を否定するところに成立するが故に自律的であり、主体に責任の自覚を持たせる仏教の宗教性とは全く異質な性格であることを認識しなければならない。
仏教(真宗)やその歴史展開を学ぶということが、否定の根拠を持たない歴史社会のなかに自己否定を根拠とする当該社会批判の基準を持って立つことにより、歴史社会との対時を要請されてくる学問の主体化・信仰主体の成立をもたらすものであるとするならぱ、当然上記のような奔放なる自己中心的情況は否定されるべき対象として射程に入ってくることとなる。よって、われわれは早急に自己の信仰の問題として、もしくは人間的自律を求める問題として靖国問題を問いはじめなければならないのである。
こういった理由だけでも、靖国問題は、現在の日本が抱えているさまざまな問題の根柢を為している問題であると同時に、靖国を支える信仰と同質化してしまっている仏教が本来あるべき信仰を回復するきっかけでもあることがわかる。
よって、仏教史を学ぶ会ではシンポジウム「靖国を問う」での課題として、
の二つを掲げ、参加者各自の問題意識の喚起と深化を呼びかけ、趣旨とする。
最後に、ある仏教徒の提言を紹介して、今、われわれに課せられている課題をともに考えるきっかけとしたい。
「現代の仏教研究は、問うべき主体を放棄して、なお問うているような錯覚をおこしているようにみえるが、それがまじめであるだけに、こっけいさよりも悲しみをおぼえさせる。
自己を問うことを忘れて、客観的な世界・社会にひきずられること、いわば自己喪失が現代の特性であるとすると、仏教へのまよいやつまずきは、現代のつまずきということになるのであろうか。」