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目次
下線付きはリンクしてます。 序論
第一章 「脳死」 ◇はじめに ◇第一節 「脳死」
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「真宗」は、一般的には「親鸞の教説」や「真宗の教団」として比較的ゆるやかに認識されている。
研究者には、無量寿経、浄土の教法、阿弥陀仏の本願、七祖あるいは善導及び法然によって開説された教法・教派、親鸞によって体験され開説されたところの仏教・成仏をめざす教法、浄土門の真実の教え、根源、伝承、本質、原理、あるいは「いまそこにある真宗」よりも「あるべき本来の真宗」と認識されていることも多いのではないだろうか。
信楽峻麿氏は親鸞における「真宗」ないし「浄土真宗」の語が意味するものを、「(1)無量寿経」、「(2)浄土の教法」、「(3)阿弥陀仏の本願」 、「(4)七祖あるいは善導及び法然によって開説された教法、教派」以上四種に分類し、また、親鸞以降の「真宗」に 「親鸞によって開説された教法とそれに基づく教団を総称」 する意味も存在することを指摘するとともに、金子大栄・大原性実・普賢大円・稲葉選恵・石田充之・土井忠雄各氏の「真宗」理解が(1)−(4)および歴史的真宗など、さまざまであると分析する(氏自身は「真宗」を 「親鸞によって体験され開説されたところの仏教、成仏をめざす教法のことである」 と定義されている)。【※1】
以上、一般的な「真宗」認識と研究者の「真宗」認識との間には差があり、研究者の「真宗」認識がただ一つであるとも言えないようである。それらは「真宗」の信心が超歴史的存在であるにも拘わらず、それをとりまく全てのものが歴史的存在であることにも起因しているのではないだろうか。
また、さまざまに定義することが可能な「真宗」であるが、拙論では、「真宗」を一般的認識のうちの「真宗教団」、つまり歴史介在の余地のある一つの現象としての「真宗」を念頭に置きつつ、親鸞の開示した無謬の超歴史的な真実としての「真宗」と私自身が向き合った時に起こりうる何らかのはたらきかけを含む現象、として定義したい。というのは、私は「真宗教団」内部の人間ではあるが、自身を「浄土の真実」としての真宗の完全な内部からではなく、自分を内側から破壊し得る程の躍動の可能性を真宗に感じながら生きている、というほどの意味でのそれとして認識しているからである。
@現在の時代。その人が生きている、今の時代。A歴史の時代区分の一。世界史的には一般に、資本主義社会と社会主義社会の並立する時代として、第一次大戦後をさすが、日本史では、第二次大戦後をさすことが多い。 (三省堂『大辞林』)
と説明されている。
現代日本では、多くは「現代」を@的に、つまり「現在の時代」として認識してはいるが、Aのように第一次世界大戦以降としては認識しておらず、1945年以前の時代から完全に切れた、1945年8月15日に突然発生して現在まで続いている、現在を含むこの時代の固有名詞であるかのように認識している場合もある。「現代」を「ポストモダン」の時代とする向きもあるが、近代の完成なくして「後近代」たるポストモダンはあり得ないのではないか。
我々の生きる「現在の時代」としての「現代」は、この時代が遠く歴史上の過去の一点・一帯を指し示すようになった時には、「現代」という「字」【※2】を廃され、正しく「諱」【※3】が付されるだろう。
「近代」の文筆家の諸作品・論文にも「現代」という言葉は多く登場しているが【※4】、彼らが「現代日本」と認識していたのは、19世紀末から20世紀半ばにかけての日本であった。現在を生きる我々は、彼らの生きた時代は「近代」であり、我々が生きつつある時代は「現代」であると認識している。彼らが生きた当時の「現在の時代」としての「現代」は、我々にとって過去の「現代」であり、正しい「諱」は「近代」であると認識されている。
また、西欧語には日本語の「近代」に相当する「モダン(modern)」の語はあるが、「現代」に相当する語はないと言われる。一見すると当てはまるように思える「ポストモダン(postmodern)」の語は、1970年代ごろより興隆した、「近代を超える新しいトレンド」【※5】のようなものであり、術語や思想、「理想」的未来像等に過ぎず、いま我々が生きる現在を含むこの時代のことではないと考えられる。
西欧語で用いられる「モダン(modern)」は、それまでの中・近世的な体制を、宗教改革や市民革命・産業革命などの激動を経験する中で脱し、資本主義・民主主義等の価値観を発芽・成長させ、政治・経済・社会それぞれを合理化すべく、一貫して前へ前へと駆り立てられるように努力されて来た、何百年にも亙る期間の総称であり、「現代」は「近代」の中の第一次大戦以降、資本主義と社会主義の併存する状況を指す語である。これを日本に当てはめて考えれば、江戸幕府の封建体制を脱してから現在に至るまでの期間が全て「近代」であることになる。
ではなぜ日本語の「現代」と西欧語のそれとが噛み合わず、日本では1917年以降ではなく1945年以降だけを「現代」と呼ぶのか。私が拙察するに、それは「戦後」の語が日本で「第二次世界大戦後」を意味し、アメリカ合衆国では「内戦後」つまり「南北戦争後」を意味する事実と本質的に同様であると思われる。
西欧の国家にとっても第二次世界大戦は大きな事件であったが、戦勝国の国民にとっては自分たちが今まで歩んで来た「近代化」の道を全否定されるような衝撃としては受け止められず、戦争以前に起こった社会主義国家の誕生の方が、自分たちの歩んで来た資本主義化や民主化、産業化などの「近代化」を否定しかねないものとして認識されており、一方で、日本は明治維新によって幕藩体制という封建主義は脱することが出来たものの、しかし、それで日本の全体が資本主義や民主主義を貫徹すべく動き出したとは決して言えない。本来的に多くの矛盾を抱えていた日本の「近代」は、西欧圏とは一種異なった「近代」を発展させ、完全には実行され得なかった「近代」は、1945年の敗戦で崩れた。その推移は日本にとって未だ貫徹されない「近代」が社会主義国家の誕生によって否定されかねない状況が1917年に始まったことよりも衝撃的であり、「それまで」と「それから」とを、より明確に区別する必要性を感じさせた。だから日本人は敗戦によって「近代」の語とともにそれまでの自身をも捨て、それ以降を「現代」と呼ぶようになったのではないだろうか。
だが敗戦で崩れた「近代」は完全に崩れ去ったわけではないのではないか。1945年以前の日本が完了し得なかった民主主義や人権主義など「近代化」の諸課題は現在の時代に託されているのではないだろうか。「近代化」が完全に実現されているとは言い難い日本やその他の国の現状を鑑みるに、「現代」は「近代」を超えるものではなく、「近代」と併存するものであると考えられる。少なくとも、私はそう捉えた方が「現代」をよりよく理解できるのではないかと考える。
そして、そのような時代に身を置く者として、自分の包含される時代を完全には瞥見し得ないという限界を念頭に置きつつ、論を進めたい。
拙論では、ひとまず以上のように「真宗」と「現代」を定義し、「現代」に特有だと思われるさまざまな問題を「真宗」から解明したいと考え、その中から特に生命の問題、中でも「脳死」と、体細胞に由来するヒトクローン個体の問題について考察していきたい。
私は論理的な理由から「脳死」臓器移植を容認していないつもりであるが、その基底には「脳死」臓器移植に対する素朴な違和感があり、素朴な感情を裏支えするために論理を持ち出すのだと理解している【※6】。
先端科学と先端技術がかつてなかったほどに進んだ現代には、現代に特有な問題がさまざまに存在している。それらに対し真宗的な観点から何らかの方法でこたえようとする場合には、目的とするところが同一であっても、異なる立脚点からは異なる論が展開される。
表面的には互いに相容れないと考えられる対立する論にも、対立点と同時に、恐らく少なからずの共通点が存在するのではないだろうか。ならば同一の情報をもとに同一点を探り出し、どこが相容れないのかをあぶり出し、それを理解した上で対話することが肝心であると思われる。
私は、妥協が「消極的」なものとは限らないと考える。お互いの存在を互いに積極的に容認し合い、お互いの立場と選択肢・方法を消極的に容認し合うことによる、現実の問題に対して実際にはたらきかけていくことが可能な「積極的」な妥協というものもあるのではないか、と考えている。その際には、相手方の立場や論理、方法とともに、自分の依って立つそれに対する調査や分析、深い思考が不可欠であると考える。
朝鮮戦争(1950〜53年)当時、飛躍的に進歩した人工呼吸器(=レスピレータ)がアメリカで臨床に導入され(1953年)、呼吸が維持されているため「死亡している」と判断することが躊躇われるものの、心拍以外に生きている証拠がほとんど見られず、かつ「確実に蘇生しない」とされる患者が発生し、従来の三兆候死【※7】では括りきれない新しい「死亡」の概念が浮上することとなった。
当初の「脳死」的な概念は脳の溶融に直結していたが、それは三兆候死を以て死亡を診断し、その後で解剖を行った結果として脳溶融が判明するものであったからだと考えられる。
そのような患者にはおおむね @各反射喪失 A自発呼吸停止 B瞳孔散大 C数日内の心停止 D解剖後の脳溶融 という共通性があったわけだが、仮に@〜Dを満たしていたとしても、そのような患者には心拍停止に至るまで人工呼吸器が接続されたまま、蘇生の可能性を探るために濃厚医療が施され、心拍停止前に人工呼吸器を外されることはなかったと考えられる【※8】。だが脳がアイデンティティの住処であることは当時から様々な医学的研究によって大まかなコンセンサスが得られていたので、医学界はこのような超昏睡状態、脳の溶融や脳の機能停止を人間の死と見倣しても良いのではないかと判断した。それに対しローマ法王ピオ12世は「個々の死の確定は宗教上・倫理上の原則とは関係なく、医学の判断すべき問題である」とし(1957年)【※9】、脳の機能停止による超昏睡を死と見倣す医者の判断を容認、これによって脳が機能を停止すれば死と見倣しても良いのだという図式が緩やかに発生した。
また、「脳死(braindeath)」という言葉が初めて登場したのは1960年代後半である。
以上の展開から、「アイデンティティの住処と考えられる脳の機能が完全に停止した人間は「死亡している」と見倣して差し支えがないのだから、その人の身体から臓器を摘出し、別の、臓器が不全になり余命幾ばくもないと診断された患者に移植すればその患者は助かるのではないか?」という医療の新たな可能性が考慮され出したことから、先進各国では、脳の機能が完全に停止した疑いが濃い人間の心臓を摘出するための、脳の完全で不可逆的な機能停止状態を心拍停止以前に厳密・正確に判断・判定する方法や基準の整備が模索されるようになった。また、それと併せ、そのような医療行為に付随して発生すると考えられる宗教的・道徳的・倫理的な問題を解決するための論理の構築や、心拍を維持し続けている人間から臓器を摘出する(それは死亡を確定づける)行為が殺人罪に問われないで済むための法整備などが試みられ始めた。
先進各国の医学的尖端がそのような関心で満ちあふれていた1967年12月、南アフリカに於いて、黒人ドナーの心臓を白人レシピエントに移植するという方法で、世界初の「脳死」臓器移植が実施された。
この移植を皮切りに、先進各国は独自の「脳死」基準を作り、「脳死」と判定されたドナーからの臓器摘出、レシピエントへの移植に相次いで踏み切った。その流れの中、日本でも1968年8月に初の心臓移植が実施された(札幌医大 和田寿郎教授)。だがこの移植手術は、刑事的には不起訴処分で決着したものの、一人の医師が「日本第一例目」の功を焦り、脳の機能が全く停止しているとは到底言い難い「ドナー」から、移植以外に助かる方法がないとは全く言えない、つまり移植しても病態に画期的な変化が生じる可能性が極めて少なく、移植前に患っていたのと全く同じ症状になり再び心臓が不全状態に陥る恐れの極めて濃厚な「レシピエント」に対して行われた殺人事件として疑惑されるべき「和田移植事件」として社会的に認知されるに至った【※10】。
そのような過程を経つつ、先進各国では「脳死」身体からの心臓移植が一大ブームとなった。しかし、移植手術そのものが成功しても免疫機構が引き起こす拒絶反応のためにレシピエントが死亡するという事態が続発し、ブームは急速に沈静化していった。だが1978年に免疫抑制剤シクロスポリンが臨床的に成功したことから先進各国の心臓移植熱は再び再燃、現在に至っている。しかし各国で「脳死」やその判定をめぐる議論が再燃しつつあり、臓器移植先進国のアメリカでも見直しの機運が高まりつつある。
「脳死は人の死か否か」という問題にコンセンサスを得ることは不可能ではないだろうか。なぜなら、死の定義や受容には、それぞれ個人差があるからである。
コンセンサスは単純な多数決ではないと思われる。新聞社や総理府が実施するアンケート調査では慥かに「脳死」を人の死と認める人が有効回答の過半数を占めているが、それを社会全体の合意と受け取ることは出来ない。
「死」の定義が人によって異なるのは、人がそれを考える際に自覚的と無自覚的とを問わず前提にしている宗教や哲学などの世界観が異なるからであろう。
医師は「死亡」を「判定する」のではなく「診断する」のではないだろうか。また「死亡診断書」を書くことが法的に許されているのは医師だけだが、三兆候死の場合、法的でないものの、診断そのものは比較的容易な場合もある(雪山別荘孤立遭難系の推理小説など)。
「死亡」という医学的・法的な事実は厳然としてそこに存在しているのだが、その人の「死亡」はその人個人に起こるにも拘わらず、その人の「死」は「生」と同様、他者との関係性の中に存在しており、その人が「死亡」したという事実を受容するまで、遺された者にとってその人の「死」は存在しないのと同義だとも言えるのではないだろうか。
「脳死」の問題を扱う諸著作によって、日本では「脳死」の問題が、医療関係者から、宗教関係者を含む一般人に対して開かれるに至った。それは恐らく、扱いが非常に微妙で困難だと思われる「脳死」問題を考えることを、あるいは医療関係者に対する不信感から、あるいは医療関係者だけに押しつけていては申し訳ないという思いからの、自然な帰結であったのではないだろうか。
「脳死」は表面的な字義から「脳が死んでいる状態」と結論づけて良い概念ではない。漢字でも英語(braindeath)でもそのように受け取られがちなのが事実であるが、「脳死」と呼ばれているのは、臓器移植のために、脳が不可逆的に機能を停止したと「判定」された状態のことである。
現行の「臓器移植法」に「脳死」の積極的な規定は存在しない。第六条第二項には「……「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。」とあるが、これは「脳死した者の身体」について定義している文言に過ぎない。だがこの部分を詳読すれば「臓器移植法」が消極的に規定している「脳死」が「その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの」脳の状態のことであるのが解る。つまり、「脳死」は臓器移植を第一の目的として判定され、そこで初めて発生するものなのであり、他の場面では発生し得ないものなのである。
つまり、法的に判定される「脳死」を「死」と呼ぶかどうかはその事実に関わる個々人の判断に任されるべきものなのであろう。
臓器移植のドナーとなるための「脳死」判定が実施されない限り「脳死」にはならない(なれない)。自発呼吸を停止し、瞳孔が散大し、各反射を喪失し、脳が溶融していることが予測され【※11】、数日内に心拍が停止することも予想され、人工呼吸器に接続されている人であっても、人工呼吸器に接続される前に本人が臓器提供と「脳死」判定の両方を容認し「臓器提供意思表示カード」にそれなりの記述をしていないのであれば、そして家族や近親者がそのような判定を行うことに同意しなければ、その人が「脳死」と判定されることはあり得ない。
臓器提供を前提とした判定が実施されなければ「脳死」は起こり得ない。判定なくして存在するのはそれに近接した状態のみである。
以上のような法的「脳死」とは明らかに異なる状態が存在する。「法的脳死判定」によって判定される「脳死」ではなく、移植に関与しない場面で「臨床的脳死診断」によって診断される「脳死」である。
交通事故や脳内出血などによる昏睡状態でICUに運び込まれた患者に対して、担当医は最善の治療を施す【※12】。脳低体温療法を施す医師もいる。そのような懸命に試みられる治療に反応して蘇生する患者、尽力の甲斐なく蘇生せずそのまま心停止に至る患者がいる一方で、そのどちらにも当てはまらず"脳死"状態になってしまう患者も発生する。そのような状態になってしまった患者が「1.」に○をした臓器提供意思表示カードを保持しており、そこに呼ばれた家族がそれを容認した場合には、場面は「脳死」判定に移る。だがその人が「2.」や「3.」に○をしていた場合やカードを持っていなかった場合、家族が承諾しなかった場合には、「脳死」の判定は行われない。行われるのは「臨床的脳死診断」である。
医療現場では、臓器不全が極限まで進んだ状態を「〜死」と呼び、可逆的な不全状態と区別している。例えば肝臓の機能低下がある程度以上に進むとその状態は「肝不全」と呼ばれるが、それが更に進行し完全かつ不可逆的な機能停止に陥ると、それは「肝死」と呼ばれるようになる。そのために患者が死んだ場合は「肝死死」という診断名になることもある。"脳死"によって心拍が停止し人工呼吸器が外され三徴候死による死亡が診断された場合には「脳死死」と診断されてしかるべきであるらしい。
そのような「臨床的脳死診断」の現場で問題になるのは臓器移植ではなく、その患者へのその後の治療をどうするのか、そして患者の近親者へのケアをどのように行うのか、それらの複合した状況である。
具体的には、脳が不可逆的な機能停止状態に陥った結果、現在の医療的観点からは絶対に蘇生しないと考えられる患者に対してICU内で濃厚治療を継続しICUのベッドをその患者に占有させ続け、生還する可能性を携えた他の患者の搬入を拒否し続けるのか、それともその患者を別のベッドに移動させて濃厚治療を緩和させていくのかということであり、患者と近親者との距離を開いたまま保ち続けるのか、接近させるのか、ということである。
臓器移植を前提とした判定による「脳死」とは全く異なる「臨床的脳死診断」とどのように付き合っていくのか、「脳死」だけでなく、それも問題にされてしかるべきであると考えられる。
従来から「脳が機能を停止すると程なく心臓も停止する。身体のホメオスタシスが損なわれる」と言われていたが、これは一部で事実に反している。専門家の研究によると【※13】、1968年から1998年にかけて医学文献に現れた脳死についての記述を徹底的に調査し、医学的なデータの裏付けが取れるものを厳選、脳死判定から心臓停止までにかかった時間を調べた結果、175例の心臓が1週間以上動き続けていた。うち80例が2週間以上、44例が1カ月、7例が半年、年単位の生存も3例あり、うち1例は14年以上である。
長期にわたる全脳機能停止状態では、時間が経つにつれ、肉体の状況はむしろ安定してくる。身体のホメオスタシスは調整され、血流は改善され、栄養吸収が再開され、管理に手がかからなくなり、身体は安定飛行に入る。
これらの事実は、脳が機能を停止しても、身体は統合作用を保ち続ける不思議な潜在力を秘めているということを示していると考えられる。
医療現場はこれだけの「例外」の存在を無視し、脳が機能しなくなると身体の統合が取れなくなる、という説を固持することが困難になりつつある。
「ラザロ徴候」とは、「脳死」と判定あるいは診断された患者が示す、「脊髄反射」では説明しきれない自発運動の総称である【※14】。
1980年代から、専門誌には、「脳死」の人が示す一般人の想像を遙かにこえる「脊髄反射」の例が多数報告されている。
1982年の例では、患者は「脳死」から15時間後に左脚を自分の力で持ち上げ、手足を動かした。両腕は45度まで上がり、両手で祈るような動作をして手のひらを握りしめた。その後、両腕が離れ、身体の横の元の位置に戻った。そのあいだ、両脚はあたかも歩いているような動きを見せた。この動作は4日間自発的に続き、患者の心臓はその後二ヵ月動き続けた。
臓器移植を前提とした「脳死」を判定された患者にもラザロ徴候は起こりうる。専門家はこれを目撃した近親者が衝撃を受けてしまうことを恐れ、この事実を専門の囲いの中に閉じたようで、ラザロ徴候という現象は20年近く一般の知るところとはならなかった。
しかし、「脳死」の患者がそのような動きをすることがあるという情報それ自体を一般市民から隔離してはならないのではないだろうか。
一部の専門家からは、ラザロ徴候は脊髄反射ではなく延髄の関与した動きではないかとの見解が示され、つまり現在の判定基準では不十分である可能性が指摘されている。
「死亡」と「死」、「判定」と「診断」が絡み合っている現状では、「脳死」が「死」であるかどうかのコンセンサス形成は不可能であると考えられる。だが「死」であるかどうかの問題に決着を付けないかたちでの二つの選択が可能となる、「妥協点」とも言うべき「臓器移植法」【※15】が制定・施行されたことにより、判定される「脳死」を人の死であると認め、そこからの移植用臓器提供をしたいと考える者・提供されることを欲する者、人の死とは考えずに、だがない立場から移植用臓器提供をしたいと考える者・提供されることを欲する者、提供したくないと考える者・提供されたくないと考える者、細かく分ければ六通りの思考と実践が許容されるに至っている。
法的な問題はひとまず解決された。しかし私は「臓器移植法」は「ここまでなら良い」という線を引いたものであり、「ここまでやらなければならない」という線を引いたものではないと理解したい。どちらの選択肢も閉ざされるべきではないのではないだろうか。
判定される「脳死」についての見直しの機運が各国で高まりつつあるが、現在では「脳死が人の死かどうかは問題ではない。それに拘わらず、提供すべきと考えるか否かが問題なのである」という方向に微妙にズレつつあるように思われる。
アメリカの緊急医療の現場は、「臓器を提供しないのは悪、提供させるためにはすべての方法を試みる」、という積極的な方向性へと進みつつあり、「臓器の提供を拒むのは「教育」が足りないせいだ」、と理解されているそうである【※16】。
しかしアメリカでは脳死についての世論調査が行われたことがなく、脳死について一般市民がどう考えているかについての研究も、小規模のものしかない。また、今までのアメリカには「全脳の機能停止」=「人間の死」ということが前提にあったのだが、現在では「脳死」を人の死と考えられない感覚をもつ一般人の増加と、全脳ではなく大脳の機能停止を人の死と考えたい専門家の両側から揺さぶられはじめている。
また、世界中で提供臓器は不足している。不足しなければ良いという単純な問題ではないのだが、この現象が移植を待つ人の増加、移植に希望を持ちつつ亡くなる人の増加という現象を生んでいるのも事実であろう。
新たな医療の可能性は新たな悩みを生む。この問題についても真宗の見地から考え、何らかのかたちで応じることが出来れば良いと考える。
一方で、医療費の問題もある。「医学的な「診断」」の項でも触れたが、ICUでの治療は比較的高額であり、また、保険の適用範囲も今後は表面的な問題となると考えられる。これは宗教的な問題からずれる可能性もあるが、しかし現代の宗教は、経済活動にも踏み込んで論じる必要に迫られているということなのかもしれない。
「脳死」の問題は勿論それ以外の場面でも想定され考慮されてしかるべきであるが、この問題を真宗に引き寄せて考えれば、真宗はビハーラとは異なる新たな「看取り」を想定する必要性に迫られることになるだろう。ビハーラで問題になるのは主に死にゆくその人の心であり、その人が死をどのように受容するのかであった。近親者など周囲の人間はそれをサポートする中でその人の死をその人と一緒に受容していくものであったわけである。だが臓器移植とは無関係な場面で発生する"脳死"の周辺では、死にゆくその人の心の中がどうなっているのかを問うこともその回答を得ることもできない。そこで問題になるのは遺される者たちの心である。その人達が拒まないのなら、真宗は積極的に関わるべきであると考える。
アンケートの実施は、石田が棚原氏のホームページ(以下「HP」と記す)「坊さんの小箱」【※17】を訪問したことがきっかけとなった。
石田はもともと「「脳死」臓器移植に対し真宗はどのようなアプローチをすべきなのか」という研究をしていたが、友人から「坊さんの小箱(棚原氏のHP)に各教団・各研究者の「脳死」臓器移植への視点をまとめた文書がある」との紹介を受けて訪問したことが直接の契機となり、管理人の棚原氏とメールのやりとりが開始された。
やりとりの中で「脳死」臓器移植について語り合うようになり、当初は二人の「共通見解」的な意見を出すべく努力したのだが、ある程度の一致点は見出せたものの、二人の意見が完全に合致することはなく、むしろ「二人の間でも共通見解は出ない」ということが共通見解となった。そこで「これは一人でも多くの方に聞いた方が良いのかも」という話になり、その時はごく自然な流れで「じゃあアンケート採ってみようか」という話になった。そして事態は、アンケート内容と文面の作成、入力フォーム化(HTML文書化)、公開、宣伝活動へ進むこととなった。
以後、記述回答入力欄の拡大、デフォルトでのチェックボタンの変更(石田友人のチェック → すべて「保留」状態)、「送信」ボタンの拡大化といったマイナ・チェンジはあったものの、設問や選択肢を変更することは一切なかった。
以上のように、アンケートの出発点は個人的な興味の域を出るものではなかった。目的も「一人でも多くの方の意見を聞きたい」という素朴なものであった【※18】。
具体的な数字がどのようになるのかについて当初は何の期待もしていなかった(総理府や大新聞の調査結果と同様の結果になるものと考えていた)のだが、豈にはからんや、一般的な調査結果とは全く異なる結果が出るに至った。
もちろんこの調査には以下「限界」の項で示すような限界がある。しかし実施者が当初から目的としていた「他の本願寺派僧侶の意見を聞く」ということには成功しているのではないかと考えている。
アンケートは、2000年6月28日から同年12月末にかけて、HP「坊さんの小箱」にて、管理人の棚原正智氏と共同で実施した。なお同年8月半ばに開設した石田のHP「個人的研究のページ」【※19】からも直接リンクして実施した。
対象は浄土真宗本願寺派の僧侶のみであり(自己申告)、無作為抽出方式ではなく、インターネット空間に於いてはEメール・電子掲示板・メーリングリストなどの手段を、現実空間においてはポスターやビラ、『本願寺新報』等での告知手段を用いて対象(浄土真宗本願寺派の僧侶)に呼びかけ、HPに来ていただいて回答していただくという方法をとった。
アンケートとは、「対象者に何らかの回答をすることを半ば強制し、しかもあらかじめ設えた選択枝の中から回答を択一させ、争点となる視軸を規定し、そしてアンケートの結果が世論に影響を及ぼしていくという、いたって操作力に優れた一種の武器」【※20】であり、総理府【※21】や大新聞【※22】など公共性の高い機関の実施する調査にさえそのような事態が起こっていることを否定することは出来ない。アンケート調査には実施者の意図が必ず入り込むものであり、このアンケートも例外ではあり得ない。
上記のような限界があるため、記述的な側面を明らかにするという目的を掲げてはいても、このアンケートの分析には常にある程度は規範的な部分が入り込んでしまうことをお許し願いたい。
また、この調査は、浄土真宗本願寺派教団当局や龍谷大学当局とは一切無関係に実施した調査である。よってこの結果を二者の総意的なものとして受け取ることは避けていただきたい。また上記で示したように、すべての浄土真宗本願寺派の僧侶に呼びかけて実施した調査ではなく、いわば有志参加のアンケート調査であることにも十分注意されたい。
また、このアンケートの結果がアンケート対象者を含む母集団全体の共通理解を示しているかのように、あるいは、このアンケート調査によって母集団全体のコンセンサスが成ったかのように捉えるのは避けていただきたい。
クロス集計とその分析を行うことにより、一人一人の回答者の方が「脳死」臓器移植の問題をどのように把握しているのか、どのような見解を以てどのように対処しているのかの実態が、より鮮やかに浮かび上がるのではと考えられる。
問1.「脳死」を人間の死と考えますか。
問2.「脳死」した身体からの臓器移植を容認しますか、容認しませんか。
問3.「脳死」がどういうものか正確に知っていますか。
問1×問2 「死のコンセンサス」形成の不可能性
| 問 1 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 考える | 考えない | 保留 | 計 | ||
| 問2 | 容認する | 12 | 8 | 9 | 29 |
| 容認しない | 5 | 41 | 5 | 51 | |
| 保留 | 3 | 12 | 9 | 24 | |
| 計 | 20 | 61 | 23 | 104 | |
問1で「脳死」を人間の死と考えると答えた方は20人いたが、うち、問2で「脳死」身体からの臓器移植を容認すると答えた方が12人、容認しないと答えた方は5人であった(保留3人)。
対し、問1で「脳死」を人間の死と考えないと答えた方は61人いたが、うち、「脳死」身体からの臓器移植を容認すると答えた方が8人、容認しないと答えた方は41人であった(保留12人)。
この集計結果からは、「脳死」が人間の死であると考えつつ臓器移植を容認しない、つまり臓器移植そのものを容認しないと考えられる方が5人いること、また、「脳死」は人間の死ではないと考えるが、その身体からの臓器(摘出 → )移植を容認される方が7人いるという事実が浮かび上がった。
死体からの臓器移植を容認しない方と、生体からその生体が生き続けるために必要な臓器を摘出することを容認する方とが、一部ではあるが、同じ母集団の中に存在している。同じ本願寺派僧侶の中に鋭く対立する意見が少なからず存在している。
以上から「本願寺派僧侶は「脳死」に関して……のように考えている」という全称文を導きだすことが困難であるという事実が明らかになるのではないだろうか。
また、同様に、本願寺派全体でのコンセンサスを模索すると「真宗では、人間を自己に執着する煩悩の者が仏の慈悲と知恵に出会い、廻心懺悔して真の人間になっていく、と教えられている。真宗の人間観に立てば、臓器提供は各自が縁の中で主体的に決断していくべきことなのです」【※23】というものが得られ、一人一人の思考を捕縛しつくさないでいるためには「コンセンサスの形成は不可能である」というコンセンサスしか得られないという結論も導かれるのではないだろうか。
問3×問2 問3×問1 知識と行動
問1.「脳死」を人間の死と考えますか。
×
問3.「脳死」がどういうものか正確に知っていますか。
| 問 1 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 考える | 考えない | 保留 | 計 | ||
| 問3 | 知っている | 15 | 41 | 12 | 68 |
| 知らない | 2 | 10 | 5 | 17 | |
| 保留 | 3 | 10 | 6 | 19 | |
| 計 | 20 | 61 | 23 | 104 | |
問2.「脳死」した身体からの臓器移植を容認しますか、容認しませんか。
×
問3.「脳死」がどういうものか正確に知っていますか。
| 問 2 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 容認する | 容認しない | 保留 | 計 | ||
| 問3 | 知っている | 19 | 37 | 12 | 68 |
| 知らない | 4 | 8 | 5 | 17 | |
| 保留 | 6 | 6 | 7 | 19 | |
| 計 | 29 | 51 | 24 | 104 | |
問3で「脳死」がどういうものか正確に知っていると答えた方は68人いたが、うち、問1で「脳死」を人間の死と考えると答えた方が15人、考えないと答えた方が41人であった(保留12人)。また、問2で「脳死」身体からの臓器移植を容認すると答えた方が19人、容認しないと答えた方が37人であった(保留12人)。
対し、問3で「脳死」がどういうものか正確に知らないと答えた方は17人いたが、うち、問1で「脳死」を人間の死と考えると答えた方が2人、考えないと答えた方は10人であった(保留5人)。また、問2で「脳死」身体からの臓器移植を容認すると答えた方が4人、容認しないと答えた方は8人であった(保留5人)。
この集計結果からは、「脳死」がどういうものかを正確に知らぬままで「脳死」を人の死であるか否かの意見を表明する方(2+10人)や、「脳死」身体からの臓器移植を容認したり否定したりする方(4+8人)が本願寺派僧侶の一部に存在するという事実が浮かび上がる。
もちろん正確に知らないものについて先入観を持つことはあるし、正確・十分な知識を持たないものに対して何らかの見解を表明することを求められることもある(このアンケート自体がそういうものである)。しかし、漠然としたイメージや先入観と事実とが異なるものである場合は決して少なくないのであるし、正確な知識を持たないままで問題を云々することは、ある種の無責任状態でもあるのではないだろうか。
そのような事態は、自覚したのであれば、一人一人で早急に改善すべきではないかと思われる。
また、正確に知っていると答えた方68人のうち、半数を超える41人の方が「脳死」を人間の死とは考えないでいるという事実が判明したことも、今回のこの調査の特徴であると言える。
問8.宗門は「脳死」や臓器移植の問題について公式見解を出すべきだと思いますか。
×
問9.本願寺当局が「脳死」や臓器移植の問題に関して公式見解を出した場合、真宗の僧侶はそれに従うべきだと思いますか。
| 問 8 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 出すべき | 出さない方が | 保留 | 計 | ||
| 問9 | 従うべき | 6 | 4 | 2 | 12 |
| 従う必要はない | 24 | 35 | 8 | 67 | |
| 保留 | 7 | 4 | 14 | 25 | |
| 計 | 37 | 43 | 24 | 104 | |
問8で「出すべき」を選択し、問9で「従うべき」を選択した方は6人であった。そのうち記述回答を示した方は3人であった。
3人のうちわけは、当局が出した公式見解をそのまま無条件で受容せんとする勢いの意見を示された方が一人、「皆で一人一人考えよう」という公式見解を出すべきであり、それに従うべきだとする意見を示された方が一人、上意下達式の教団構造を問わないままで出される公式見解は本願寺派教団へ僧侶を帰属させるためのものに過ぎないが、しかし、公式見解を出さずに済ませられないほどに「脳死」臓器移植の問題は切迫しているのではないかという苦悩に満ちた意見を示された方が一人であった。また、公式見解は出すべきだが従う必要はないと答えられた方は24人であった。(保留7人)。
出すべきではないが従うべきと答えられた方は4人、出さない方が良いし従う必要もないと答えられた方は35人であった(保留4人)。
母集団の一部である回答者の傾向としては、「保留」を勘案しても、当局は公式見解を出すべきでないと考える方が多く、出しても一人一人の僧侶がそれに従わなくてはならないわけではないとする方が圧倒的という結果となった。つまりこの問題は上意下達で簡単に済ませられる問題ではなく、一人一人の僧侶が自分で考えた上で対処すべき問題であるという意見の方が多かった、ということがわかる。【※24】
お聖教と「脳死」臓器移植
問.お聖教の具体的な記述で「脳死」臓器移植を考える参考になさっているものがありましたら、具体的にお知らせください。
| 1. | 総数 | 24 | |
|---|---|---|---|
| 2-1. | 警句・述懐的 | 非具体 | 6 |
| 具体的 | 17 | ||
| (うち詳細) | 11 | ||
| 2-2-1. | 通仏教的 | 5 | |
| 2-2-2. | 真宗聖教 | 15 | |
| (複数回答) | |||
| 2-2-2-1. | 「某閉眼…」以外 | 10 | |
| 2-2-2-2. | 「某閉眼…」 | 5 | |
| 2-2-2-2-1. | (うち肯定) | 2 | |
| 2-2-2-2-2. | (うち否定) | 3 |
この問いに具体的な記述を以て答えた方は24人、更に具体的な箇所を引用された方は17人であった。
具体的な箇所として最も多くの方の挙げられた箇所は覚如『改邪鈔』の「某閉眼せば賀茂河に入れて魚に与ふべし」であったが、ここを引いた5人のうち、問2で「脳死」身体からの臓器移植を「容認する」を選択した方が2人、「容認しない」を選択した方は3人であった。少し短絡的な分析であるかも知れないが、この事実は「経論釈を拠り処にして態度表明を考えるのには限界がある」という結論に到るに有効ではないだろうか。また、「聖教をたてに自論を押し付けるべきでない」といった警句的な意見を表明される方も少なくなかった【※25】。
その他 具体的な記述回答
問.ご意見・ご感想をお書きください。
意見は非常に多岐に亘っている。記述回答に見られた見解を数で示す(複数に言及した意見あり)。
| コンセンサスに言及する意見 | ************** (14) |
| 生命・生死・科学・人間に関する意見 | ************* |
| 「布施行」か否かに言及する意見 | ********* |
| そういう状況にならないとわからない | ******* |
| 欲望や煩悩に言及する意見 | ******* |
| とまどいを示す意見 | ***** |
| 死の人称問題を見る意見 | **** |
| 現状に対する疑義を表明する意見 | *** |
| 救いに関する意見 | *** |
| 差別的であるとする意見 | ** |
| 実際の体験をもとにした意見 | ** |
| 制度化がもたらすものを危惧する意見 | * |
| 往生を考察する意見 | * |
| 人間の能力に関する意見 | * |
| 議論の必要性に言及する意見 | * |
| その他の意見 | ******* |
うち、真宗独自の教義や仏教的な見地を根拠にした場所や、その周辺から語られた意見は以下である。
「こうした問題は一人一人の自主的研鑚と考え方が有り、それをお互いが認め合うのが、ここを生きる念佛者の素晴らしいところと思います」
「私たち真宗の僧侶は、「お浄土があるから」とか「仏さんになるのだから」と言いながら、人の死に対して意外と冷たく見えるのかなと気付かされました。」
「阿弥陀様から戴いている、かけがえのない大切な命を単に「役に立つ、役に立たない」のみで処理してよいのか本当に難しい問題である。」
「真宗学をしているものがこういうのもおかしいですが、真宗学では解決できないのでは?とも思います。言葉では言い表せない次元でのものではないかとも。ご開山がここにこう書かれてあるからとか、ではなくもしおられたらこう言われただろうという次元かな? とも思います。」
「お釈迦様ならどうおっしゃられるでしょうか。案外自然に任せよと言われるのでは。移植され命頂くも縁ならば、待ちくたびれ命つきるも縁、所詮この世に平等なし、平等を求めるところに不平等が生まれる。生まれ方も千差万別なれば死も又色々。死ぬまであがき苦しみ悩みそれが人間でしょう。縁をいかに自分のものとし精一杯生き抜くが人生か。」
「浄土真宗の役割は、命を量ることではなく、命の尊さを喜ぶところにあると思います。つまり、生きているか死んでいるかを判断したり、人間はどうなったら人間でなくなるかを決めたり、どういう人間は殺しても罪にならないかを考えたりすることは、専門外じゃないでしょうか? 宗派の見解で、人の生き死にを決めるようなことは、してはならないと思います。」
「仏教は我の否定により成立する。我がいのち,我が臓器の思いが我執むきだしではないか。布施の考えも、そんな完全な布施行が凡夫たる我々にできうるだろうか。」
「煩悩まみれの私がいのちを簡単に論じることが出来ようか」
「社会的問題である脳死臓器移植の問題は、仏教とは直接なじまない問題」
「私達は死んだらお浄土で仏にならせていただくのですから、今の身体は単なる入れ物でしかないと考えています。ですので、身体が機能していたとしても、脳が死んでいるということは、すでに浄土に生まれていると考えてよいのではないでしょうか。ただ、頭ではそう思っていても、感情的に納得できないところも正直あります。」
「結局私たちには布施行はできるものではないと思います。」
石田が下線を付した
「私達は死んだらお浄土で仏にならせていただくのですから、今の身体は単なる入れ物でしかないと考えています。ですので、身体が機能していたとしても、脳が死んでいるということは、すでに浄土に生まれていると考えてよいのではないでしょうか。」
という意見にそれが顕著であるように、「このアンケートに回答した本願寺派僧侶の方は…」という限定付きではあるものの、現代を生きる本願寺派僧侶が、科学など、現代を形作るものの影響から皆無では生きられない状況になっているという事実が浮き彫りになったと言えるのではないだろうか。【※26】
浄土真宗本願寺派は、親鸞の永遠不変・普遍の真実を教義にいただいている。教義としての「真宗」は何時如何なる場所に於いても「超歴史的な真実」であり、真実の救いは歴史の影響を受けるものではあり得ず、歴史から超越している。
だが教祖親鸞は歴史的な存在であったし、教団も歴史の中に存在している。また、教団の構成員たる僧侶や門徒も歴史的な存在である。つまり、現実の真宗教団は現代という時代から遊離した状態で存在しているわけではない。また、信仰的実存の決断は「永遠の今」に於いて行われるが、その決断は「今この瞬間」を生きるからこそ実存的な「わたし」によって行われるものである。つまり、「真宗」の信心の内容は「超歴史的」性格を持つが、信心という信仰を行う主体としての「わたし」は、実は歴史的な性格を持たずにはいられない存在である。
現代という現実の内部に存在する僧侶や門徒がそのように歴史的な存在である以上、それらは現代という時代の影響を受けずにはいられないし、実際に僧侶は現代の影響下にあり、科学や技術という現代的なものの影響を色濃く受けているという事実が今回のアンケート調査の結果によっても改めて示されることとなった。恐らく、現代に生きている以上、この例外はあり得ないのではないだろうか。
本願寺派僧侶は本願寺派僧侶としての価値観を持ち、同時に個人的で実存的な存在としての価値観を持っている。よって、僧侶はそれらの価値観と著しく異なる科学や技術などを全面的に「是」として受容する態度を取ることは出来ない。だが、それらの影響から完全に離脱した状況ではあり得ない状態で「脳死」臓器移植と関係していることも確実である。現代という現実を今まさに生きている本願寺派僧侶が、現代の困難な現実と向かい合おうと努力し、向かい合っているという事実が、この調査でも明らかとなったと言えるのではないだろうか。
2001年8月6日付日本各紙の報道によると、同月5日付の英国日曜紙サンデー・タイムズ(インターネット版)は、イタリア人不妊治療医のセベリノ・アンティノリ氏が同紙のインタビューに答え、200組の不妊症カップルを対象に11月からヒトクローン個体を産生する計画に実質的に着手すると述べたと報じた。
計画は、無精子症の男性の体細胞を抽出し、さらにそこから核を抽出。それを女性から取り出した卵子に移植して「クローン胚」を作り、刺激を与えて分裂を確認後、女性の子宮に戻すというものである。
ヒトクローンの産生は、それに対する合理的な反対論が提示されない限り、これまでの科学や技術の歴史をひもとくに、事後承諾的に確実に容認されるであろう。
‥‥しかしそれで良いのだろうか。
実現可能か否かが未確定な先端技術が存在し、それを実現したいと望む個人の欲求が存在する多くの場合、我々一般人はそれを個人の自由な判断に任せるという形式でいわば黙認してきた。だが個人の自由な判断に基づく欲求が結果的に個人にのみ還元される場合は稀である。果たしてヒトクローン技術の実践を容認すべきなのだろうか。
「クローン」は「遺伝子が同一である個体の集団」【※27】のことである。よって、クローンには、器官と個体(生物の一個体)が存在することになるが、その中からも特に「体細胞に由来するヒトクローン個体」の産生について考察し【※28】、クローン個体を産生する技術とは全く異なるES細胞の培養や、ヒトゲノム解析、ヒト遺伝子操作の技術などについては、直接的には考察をしない。機会を改めて論じたい。
「科学」は19世紀に開始されたが、当時は研究者個人の好奇心を充足させ満足させることが最大の動機であり、かつ最終の目標でもあった。つまり、現在のように先端の「技術」と密接に結びつくこともなく、外部にそれを運用する積極的な要望が明確に存在するというものでもなかった。ほぼ芸術と同じ扱いの、個人的な財団や貴族など、出資者の満足のために支援され、自己満足のみを目的として自己閉塞していた、それが「科学」であった。
だが現在の尖端科学における研究の多くは、新しい技術と、それを運用しようとする欲求と結びつくことで、外部社会に向かって開けている。そこに働いているのは需要と供給の関係である。そして需要と供給の関係は科学や技術の開発状況に依存する。
つまり、科学に基づく先端技術は個人的な欲求と結びついているのである。
現在の尖端科学における研究の多くは
「使命を発注するエージェントが存在する」
「科学者の側から「請け負い」が「入札」の形で行われる。」
「資金が投下され、研究が始まる。」
「最終評価で、使命が十分に達成された、と判断されればめでたしめでたしとなる。」
「失敗したプロジェクト・リーダーは」「次の「入札」の際には、明らかに不利になるだろう。それは消極的な制裁になるだろう。成功者は「マタイ効果」で、発注者の信用が増し、次々と「請け負い」仕事が入ってくる。」
「個々の研究者は」「研究者のアイデンティティを失うか」「「曲げる」ことになる」。
「プロトタイプの科学の場合とは違って、自分の「好奇心」だけがすべてを決める、という状況にはない」。【※29】
というように、新しい技術と、それを運用しようとする欲求と結びつくことで、外部社会に向かって開けている。そこに働いているのは需要と供給の関係である。その需要と供給は科学や技術の開発状況に依存するものである。
科学と技術、科学と医療行為が密接に務図日突いた局面で問題となるのは、科学者・専門家個人の心であると考えられる。
科学や、より広い意味での科学に含まれる医療に基づく技術を実際に運用する場面では、絶えず価値判断が行われている。
「科学」そのものは決して価値判断を行わない。事実を目の前にしてデータを収集し、記述的に、帰納的に事実を述べるにすぎない。
だが技術と結びついた形式で実際に運用される科学はそれを用いる人間の価値判断に大きく依存する。「科学者は、いかなる科学研究も、最も基礎的な研究であってさえ、研究者はその研究の結果が社会に対して与え得ると推測されるインパクトを考慮する義務があるのだ。」【※30】
科学的な知識に基づく新しい技術は、人間の具体的な欲望と絡まり合って初めて実現される。ヒトクローン個体を産生しようとする新しい技術を実際に用いようとする欲望は、何らかの理由によって不妊症となった人が「それでも自分と遺伝子的なつながりを持った人間を得たい」と考える欲望と、そのような欲求を充足させたいとする技術者の欲望である。また、まったく別の理由で自分あるいは他人の体細胞クローン個体を得ようとする欲望も存在する。
体細胞由来ヒトクローン個体の周辺には、二つの欲望が渦巻く。出生させようとする欲望と、その行為をしたくないと考え、他人に対しても禁止したいと考える「禁止欲」のような欲望である。
もちろんそれらは等しく至って感情的・主観的な素朴な価値観に基づいた欲望であり、それだけでは説得力がない。だからどちらも論理を駆使して自己の欲望を充足させようとするのである。素朴な感情は尊重されるべきだが、「したいからしたいのだ」「させたくないからさせたくないのだ」という言辞はともに何らの説得力を持たない。他から来るのは「同感」「共感」「違和感」「嫌悪感」等の感情だけである。
欲望は、特に他人(含人為的体細胞由来ヒトクローン個体)の存在を目的ではなく自己の欲求を充足する手段として巻き込むような欲望は、可能である限り、それを運用する前に論理的に考察されねばならないと考える。
またその際には個人的な思いを「絶対反対」や「絶対賛成」などの言葉で正当化しようと試みてはならない。それは「真宗の立場からは○○なので全ての人が××しなければならない」と言ってはならないのと同様であると考えられる。論理や考察には及ぶ範囲があるのだから、積極的にそれを踏み越えてはいけない。
また、真宗は人間の行為や欲望を野放しにする契機を本来的に持っていない。それは「善かれ」と思った行為でさえ「聖道の慈悲」と理解する見方を基礎とする点からも明らかである。
「脳死」臓器移植の問題に対しては、以前より、通仏教的な立場や真宗的な立場の研究者の方々によって様々な方法での接近が試みられている。しかしその多くは教典や教義など原理的な立場からの論考を仏教関係者や真宗関係者、一般社会の間に敷衍しようとするものであり、なおかつ同一の出発点から著しく異なった結論が導き出されている論考も少なくない。また、ある箇所での経論釈の解釈が一致したとしても、他の箇所を参照し重視すれば別の箇所を無視せざるを得ないような状況も生じている【※31】。
ヒトクローンの問題については、その技術を運用することによって生まれる(産生される)ヒト個体を我々がヒトとして受容することについては、鍋島直樹氏が展開する論のように、お聖教を駆使して仏教的・真宗的な「縁起」の観点から考え、結論づけることが可能であろう【※32】。
しかしその技術を運用しようとする人間の欲求を考えるときには、縁起観だけでは不十分であろう。
それらの事実を踏まえると、現在「医療行為」として実際に行われている「脳死」臓器移植が孕んでいる問題に対する一定水準以上の「回答」にたどり着き、未だ結論を出せずに迷走を続けている現状(現在行われている「脳死」身体からの臓器移植は臓器移植法の成立・施行に伴うものではあるが、なし崩しでの実施を問題の解決と見做すことは不可能であるとわたしは考える)からの質問に宗教や仏教、本願寺派僧侶などが答えるためには、経論釈や教義・教理といった原理的なものを云々する必要性は認めるが、それだけでは状況を打開するに十分ではないのではないだろうか。
以上、生命を扱う現代的な問題から、特に「脳死」の問題と、体細胞由来ヒトクローン個体を産生する技術を運用する際の問題について真宗から応じるための考察をおこなった。
お聖教には真実が記されている。我々人間には真実がはたらきかけている。しかし、その技術を運用しようとする人間の心の問題や欲求の問題、それをとりまく人間が直面する様々な問題を現代に即して思考し、議論し、語り尽くし、事に対峙するためには、お聖教に示されている縁起観や遺体観等からの接近という方法は確実に必要であるが、それだけではなく、真実から我々現代人に対して何が語られているのかを、字義や内容に即しつつ、発展的に理解する(呼びかけに応える、ということであるかもしれない)ことも必要であると考えられる。
生命をめぐる問題にも、「脳死」やヒトクローンの問題以外に、安楽死や尊厳死、胚性幹細胞や体性幹細胞・骨髄細胞などを用いる再生医療、先頃一部終了したヒト遺伝子解析の結果をふまえた医療の問題、今後予想されるデザイナー・ベビーの問題、保険との関係という問題などがある。また、「看取り」に焦点を限定させないビハーラも展開されつつある。
その他にも、現代にはさまざまな課題が山積しているが、ほとんどすべてが「いのち」に関わる問題であると言えるかも知れない。凶悪な少年犯罪や家庭内暴力なども、浅薄な理解であるかも知れないが、おそらく「いのちの軽視」と言える問題ではないかと考えられる。そして、「いのち」は生と死の問題であり、生き方を真摯に考える仏教の課題であり、同時に真宗の問題であると考えられる。
お聖教は、起こってしまったこと・起こしてしまったことを直視する時や、他人と自分との関係性を見つめる時、現代の問題と自分との関係性において自身の内面的欲求や外からもたらされた衝撃によって自身が揺さぶられた時、つまり「真実」としての真宗とともにどのように歩むかを考える時にはたらく「かがみ」であり、そこに自身の現実を照らすべきものであるのではないだろうか。
興味の範囲を日本の外に転じると、アジア仏教は上座部仏教も大乗仏教も、「エンゲージドブディズム」という大きな流れの途上にあるという見解もある。また、キリスト教やイスラムなど、異宗教とのとの対話も一部で進みつつあるし、進められねばならないであろう。流れに乗るだけが選択肢ではないが、そのようにさまざまな方向に転回しつつある現代との「エンゲージ」は、真宗の急務なのではないだろうか。
さまざまな問題に向かう方法が、さまざまな立場から模索されつつあるのが現代という時代であり、それら現代の問題・現代からの問いかけに対して、真宗は積極的に応じようとしなくてはならないのではないだろうか。真摯に学び、いろいろな問題を焦らずに一つ一つ考え、解いていきたいと考えている。
【※1】
信楽峻麿「真宗学研究序説─その性格と方法論について─」龍谷大学論集388 1969年2月
【※2】
実名の代わりに用いる実名以外の名。
【※3】
生存中は用いることが憚られる実名。
【※4】
夏目漱石「現代日本の開化」(1913〔大正2〕年2月刊『社会と自分』所収)など。
石川啄木「時代閉塞の現状」(1910〔明治43〕年8月頃)中の記述など。
戸坂潤『日本イデオロギー論』岩波文庫 所収「現代日本に於ける日本主義・ファシズム・自由主義・思想の批判」「現代日本の思想上の諸問題」「現代日本の思想界と思想家」など。
【※5】
『岩波 哲学・思想事典』岩波書店
【※6】
これはこの問題に対して賛成・反対の主張を明確に打ち出している論者にはある程度以上に共通する傾向なのではないだろうか。
【※7】
◇呼吸停止 → 肺が酸素を摂取できない → 身体全体への酸素供給が絶たれる → 死ぬ
◇心臓停止 → 血液循環(つまりヘモグロビンによる酸素供給)が絶たれる → 死ぬ
◇(瞳孔散大 ← 死ぬ)
【※8】
そのような中で「脳低体温療法」(脳低温療法・低体温療法などとも呼称する)という画期的な治療法が誕生した。
脳低体温療法とは、体温を下げることによって脳を流れる血液の温度を下げ、それにより脳全体の温度を下げるという治療法である。この療法は、血栓などによる血液循環の途絶、つまり酸素欠乏によって機能停止しそうになっている脳に対してはまったく有効でないが、温度の高い血液が急激・多量に流れ込むことによって急激に機能を低下し、不可逆的に機能停止しそうになっている脳に対しては極めて有効な治療法である。
具体的な治療は、冷水を循環させたマットで患者の体をくるみ、それによって体温を低下させるという極めて即物的な方法で行われる(頭部だけを集中的に冷却しても血流の温度が下がらないためほぼ無意味である)。
脳低体温療法にも問題は存在する。血流の温度を低くすればするほど脳機能の回復は促進される傾向にあるが、逆に、内臓は血流の温度を低くすればするほど弱り、様々な感染症に罹患する危険性が増す。脳低体温療法はそれをふまえ、絶妙なバランスを保ちながら実施される。
個人的に気になるのは、この療法をNHKが特集番組として放映した際に紹介された病院の一部が、その後「脳死」臓器移植の指定病院として認可されるようになっていることである。慥かに脳低体温療法は脳外科治療の最先端の一部を形成しているものであるから、そのような病院が「脳死」を判定する能力を持っているとしても不思議はない。
また、当初臓器移植は人工臓器の開発を待つ間の緊急避難的な医療であるとの理解があったが、現在の医療は胚性幹細胞(ES細胞)や体性幹細胞を用いる再生医療の方向へ流れているように感じられる。
現実は進むのが早いということであるが、倫理的・行動的な何らかの方向付けは行われた方が良いと考えられる。
【※9】
小松美彦『死は共鳴する 脳死・臓器移植の深みへ』勁草書房 1996年6月20日 63〜64頁
ならびに
土井健司「隣人愛の美名のもとに 脳死移植に対するキリスト教的視点からの問題提起」『現代思想』青土社 2000年9月号(通巻28巻10号)所収 243頁
【※10】
この問題に関しては立花隆『脳死再論』(中公文庫 1991年 特に298〜318頁)が詳しい。
また、日本での「脳死」臓器移植解禁が他の先進各国から大幅に「遅れる」ことになったことの理由としてこの「和田移植」による医療不信の助長のみを見出すのは間違いではないだろうか。「和田移植」による医療不信は慥かに一般人の態度を硬化させたが、先進各国の中で日本の「脳死」臓器移植解禁が最も遅くなったのは、この国ではそれだけ長い時間をかけて「脳死は人の死か否か?」などの問題が考えられ続けていたという側面も無視できないであろう。それを念頭に置いての、以下のような分析も存在する。
この間の移植ができました時【1999年2月に実施された日本国内第一例目の「脳死」臓器移植と思われる・石田】に和田寿郎さんが「この移植のできなかった今までの三十一年間は無駄になった期間だった」と言ったそうです。しかし、私はそうではないと思います。なぜならその三十一年間で、アメリカ人より日本人がこの技術について深く研究して、道徳とか倫理的な面も深く考えた気がしています。ですから、技術をやっている人にとってこの時間は無意味といっても、道徳と倫理の面を考えると、その時間に価値のあることが出来上がったと私は考えます。なぜなら、アメリカ人よりその三十一年間が、日本人の方が死と生、特に医学テクノロジーと生命倫理との関わりについて、私たちよりも深刻に考察したと思います。」(ウィリアム・ラフレール「脳死と臓器移植をめぐる文化・宗教の比較」 講演 1999年3月26日 【NCC宗教研究所『脳死・臓器移植と日本の宗教者―アメリカの宗教学者の提言をうけて―』ルガール社 1999年7月15日 所収 13頁】
【※11】
脳をCTなどでスキャンすることによってそう診断されることさえ可能であるらしい。
【※12】
「脳死」や心臓死を先見し、ごく僅かながらも蘇生の可能性が残されている患者に対して行うべき蘇生のための治療を放棄し、近親者に何も告げぬまま臓器保存のための施術(利尿剤の投与を中止したり腎臓保存のためのカテーテルを挿入したり)を開始する医師も慥かに一部には存在する。しかしそのような医療現場に疑問を感じ、それを非医療従事者に告発する医療関係者が存在する事実を考えるに、そのような行為を医療現場全体の傾向として認識すべきではない。それは和田移植を医療現場全体の傾向として敷衍しようとするのと同様の誤謬であろう。
【※13】
UCLA医科大学のD・A・シューモン 1998年
※これは森岡正博「日本の「脳死」法は世界の最先端」中央公論2000年2月号から引用した情報である。
【※14】
『新約聖書』に語られる、イエスが蘇生させた人物の名前に依った命名であり、1984年、マサチューセッツ総合病院のA・H・ロッパーによる。
ラザロ徴候の典型的な姿は以下である。
人工呼吸器を取り外した4〜8分後、腕と胴体に鳥肌が出現。両腕に小さな震えが見られる。30秒以内に肘が機械的に曲がり、両腕は大きく持ち上げられて胸の前にまで運ばれ、そこで一時的に止まる。さらに腕は胸の上で小刻みな運動を見せる。首や顎のところまで動いたり、胴体から十数センチ持ち上がったりする。指にも不規則な動きが見られる。両腕は硬直しているので、他人がそれを動かすことはできない。肩が動いたり背骨が少し弓なりになる患者もいる。両腕は自発的に動いて、互いに交差したり、手のひらを合わせたりする。そして最後に、両腕は二秒かそこらでベッドの上に戻される。両腕の動きは、あたかも祈っているように見えたり、人工呼吸器のチューブをつかもうとしているように見えたりする。
【※15】
平成9年7月16日 法律第104号
「臓器移植法」の目的は、第一条によると、
「臓器の移植についての基本的理念を定めるとともに、臓器の機能に障害がある者に対し臓器の機能の回復又は付与を目的として行なわれる臓器の移植術(以下単に「移植術」という。)に使用されるための臓器を死体から摘出すること、臓器売買等を禁止すること等につき必要な事項を規定することにより、移植医療の適正な実施に資すること」 である。
【※16】
向井承子『医療の転換点としての脳死臓器移植』現代思想 2002年2月号 所収
【※17】
http://www3.justnet.ne.jp/~tanahara/
【※18】
そのために、選択回答よりも記述回答を採ることを重視した。
【※19】
のち日記など趣味を扱っていたHP「Just a Little Bit of…」に発展的に統合した。
http://www15.u-page.so-net.ne.jp/qb4/chishu/
【※20】
小松美彦『死は共鳴する 脳死・臓器移植の深みへ』勁草書房 1996(P146)
【※21】
総理府(のちの「内閣府」)が実施した「脳死」臓器移植などに関するアンケート調査の結果はインターネット上でも閲覧することができる。
第一回(1998) http://www8.cao.go.jp/survey/h10/zouki-isyoku.html
第二回(2000) http://www8.cao.go.jp/survey/h12/zouki/index.html
【※22】
朝日新聞が実施した調査結果は以下の通りである。
「脳死」を人間の死と 認める、認めない
| 認 | 不認 | 時期 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 53% | 38% | 1996年 9月 | (臓器移植法制定前) |
| 53% | 38% | 1998年 10月 | (臓器移植法制定一年後) |
| 51% | 37% | 1999年 3月 | (第一例目の「脳死」臓器移植実施直後) |
| 52% | 30% | 1999年 5月 | (第二例目の「脳死」臓器移植実施直後) |
なお、朝日新聞の世論調査は、この後「本人の意思表示がない場合でも家族の承諾があれば「脳死」を判定し臓器摘出しても良いとする考え方に賛成ですか反対ですか」という内容でも実施された(1999年10月)。設問者の立場がそれまでの「是か非か」を問う立場から「脳死」臓器移植を「是」とする立場へと変化し、その立場からの問を発する形式に変化したと考えられなくもない。
【※23】
京都新聞2000/11/04 第4面特集記事
本見出:15歳未満でも提供可能 臓器移植法見直し
大見出:慎重論多い各宗教団体
中見出:「本人の承諾なし」に懸念
【※24】
私見であるが、ひとたび公式見解が出されれば、それがどのような内容のものであれ、一人一人の僧侶は何らかのかたちでそれに縛られる結果となるのではないだろうか。また公式見解と一致しない意見は当局という主流に反するものである以上、多かれ少なかれどこかに何らかの形で「異端」的な色彩を帯びざるを得ず、それによって、明確な公式見解が出されていない現在のように自由闊達な意見の表明は不可能となるのではないだろうか。
石田は、公式見解は「単に参照すべき見解」としては存在し得ず、僧侶の一人一人に何らかの影響を与えずにはおかないと考える。だから、当局はやはり公式見解を出さずにいるべきではないかと考える。
なお、石田は『ともに歩む』42号「脳死と臓器移植」(浄土真宗本願寺派・基幹運動本部事務局編集、本願寺出版社発行)1999は、公式見解とは言えないと考えている。
【※25】
石田は、『改邪鈔』の当該箇所は、覚如が葬儀の心得を述べるにあたって引用した親鸞の言葉であるから、そこには当然の事ながら覚如の意図が入り込んでいると考える。また、親鸞がこの言葉をどのような場面、どのような分脈で語ったのかは、覚如のこの引用を見る限りでは全く不明瞭であると言わざるを得ない。よって、そもそも、賛成であれ反対であれ、「脳死」や臓器移植を論じる場面で『改邪鈔』の当該箇所を引くのには無理があるのではないかと考える。
【※26】
「私達は死んだらお浄土で仏にならせていただくのですから」は真宗的な見地からのいけんであると思われるが、それ以降と「今の身体は単なる入れ物でしかないと考えています。ですので、身体が機能していたとしても、脳が死んでいるということは、すでに浄土に生まれていると考えてよいのではないでしょうか」は、どちらかと言うと科学的な価値観から書かれているからである。心身二元論も、人間のアイデンティティの座が脳であるとする見解も、ともに仏教であるよりは科学的な見解であると思われる。
しかし私の科学理解は浅薄である恐れが濃厚である。もう少し理解を深めていきたい。
【※27】
文部科学省[当時は文部省] 「クローン技術による人個体の産生等について」1999年12月21日
http://www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/shisaku/clo00215.htm
【※28】
一卵性双生児も厳密に言えばクローンである(しかし体細胞に由来しているわけではない)。
【※29】
村上陽一郎『文化としての科学/技術』(双書 科学/技術のゆくえ)岩波書店 2001年
【※30】
村上陽一郎 前掲書
【※31】
通仏教的には「眼施」やジャータカの「捨身飼虎」、真宗では覚如『改邪鈔』の「某閉眼せば賀茂河に入れて魚に与ふべし」の解釈においてそれが顕著である。
仏教的見地から
また、「暖(煖)」を重視すれば「脳死」臓器移植は容認不可となるが、「眼施」や『改邪鈔』など他の箇所を重視すれば「暖」に言及する必要性が失われる。そのような場合は、引用される経論釈は、どちらかと言えば「拠り処」としてより「利用すべきもの」として認識されているのかもしれない。
【※32】
鍋島直樹「縁起の生命倫理学──人クローンに関する浄土真宗からの一考察──」(真宗学 第103号 2001年1月 龍谷大学 真宗学会)